17 〈陽輪〉
リベルが、それこそ這うようにして鉱路の外に出たのは、まさに夜が明けようとしている時刻だった。
頭上の黒天鵞絨のような夜空を、水晶を砕いて散らしたかの如き満天の星が覆っている。
東の空が白み、茜色が射して、その空だけが移ろう色合いの玻璃であるかのように透き通り始めていた。
岩魚の道案内と、鉱路の浅い場所に達してそれが尽きたあとには、ベンノたちを引き連れて鉱路を歩いたリベル自身のケルンが奇跡的に残っていたことから、無事に脱出できたのである。
黄金竜はといえば、どうやらこの鉱路には、もっと大きな入口が別の場所に開いているらしい(考えてみれば、そうでなければそもそも、黄金竜は鉱路の中に入れなかったはずだ)。
というわけで、黄金竜の巨躯が入ることが難しくなった坑道の辺りでいったん別れ、別々に出口を目指したのだが、
「……さ――散々すぎる……」
喘ぎながらリベルは呟いた。
――岩魚は、どうやら鉱路の浅い場所では上手く岩に潜れないらしい。
それゆえに、とうとう彼も岩魚を振り払うことが出来たわけだが、そのときの姫君の嘆きようがちょっとした愁嘆場を作り出したため、リベルは目を閉じてそれを耐え忍ぶ羽目になったのである。
更には黄金竜と別れるときの、互いの、「こいつから目を離して大丈夫だろうか」という不信感で、ごっそりと気力を削られた。
徐々に明るくなっていく外の世界に目を細める。
周囲は荒野で、人っ子一人いないが、ここに連れて来られたときに見えたように、視界の果てにどうやら町がある。
砂埃を立てて風が吹き過ぎていく。
リベルはその場に仰向けに倒れ込んで目を閉じ、新鮮な空気を肺の底まで吸い込んだ。
ゆっくりと世界が回る感覚があって、つまりは眩暈がしている。
(は――腹減った……)
鉱路の中では気を張っていて、殆ど感じていなかったが、ともかくも鉱路を脱出して気が抜けると、飢餓感はしくしくと胃を噛む虫のようだ。
――こうして一人になって落ち着いてみると、全てが嘘のようだ。
(そもそも心臓が入れ替えられるなんてあるわけないし。期限の話だって嘘かも知れないし。
第一、黄金竜と〈言聞き〉の関係だって、鵜呑みにするには馬鹿馬鹿しい……)
冷えた早朝の空気で頭を冷やしながらそう考える一方で、だが、と思う直感もある。
(岩魚と口が利けたのは事実なんだよな。じゃなきゃ鉱路から出られたわけもない。
期限の話だって、嘘ついてあいつに何の得があるんだって話だよな。それに――)
単純に、黄金竜の様子に嘘偽りが一切なかった。
頭の中に直接叩き込まれる言葉が、率直に事実を語っているようにしか聞こえなかった。
勿論、真正の竜ともなれば、人間よりも遥かに格上の生き物、その嘘偽りを人間如きが見抜けるのかという疑問はあるが。
(それに――)
小さく呻く。
(――心臓が痛いんだよなぁ……)
そのとき、あの声がした。
――玲瓏たる弦楽の声。
そして、脳裏に直接伝わる言葉。
『――何をしている。時がないのだ。それも忘れたか』
「くそったれ……」
リベルは呟き、目を開けた。
――巨躯が近づく気配など欠片もなかったというのに、いつの間にかそこに、巨大な黄金竜が佇んでいる。
鉱路で見るよりも、明けゆく天穹の下で見る方が、遥かに煌びやかで荘厳に見える姿だった。
陽光の粋を集めたような、柔らかな色合いの黄金の鱗が、あらゆる光を吸い込み、その光を呼吸するかのように輝いている。
悔しいが、どんなに黄金竜に腹を立てていようが、この美しさだけは否定できなかった。
ごろりと地面を転がり、身体を起こす。
リベルは息を吸い込むと、吐き捨てた。
「忘れられるようなら苦労はないよ。
――いいか、おまえの大事な相棒がどこに行ったか、手掛かりらしいものは何もない」
『奴隷がどうのと言っていた。奴隷が何かは知らないが』
「もう遅い。そいつらが使ってる陸艇の影でも見えれば、行く先の方向くらいは分かったかも知れないけどな。――どっちに行ったかも分からない」
とはいえ、ここでただ己の不運を嘆いているだけでは、リベルは遅かれ早かれ欠けることになる。
何しろ空腹感は飢餓にまで突き抜け、そろそろ感覚が失せそうなのだ。
「けど、とにかく、人がいるところに行かないと」
立ち上がり、膝から砂埃を払って、リベルは遠目に見える町を見据えた。
「どっちにしろ、何か食わなきゃ遅かれ早かれ俺は欠ける。
運が良ければ、おまえの相棒を連れてる連中が、〈言聞き〉にどのくらいの値がつくものなのか、近くの町で何か訊いてるかも知れない」
『その町に、心臓を癒せる法術師はいるか』
黄金竜が、気が急いた様子でそう言った。
質問というよりもむしろ、淡い期待のような声音だった。
「知らないよ」
リベルは尖った声で返した。
「金ぴかトカゲ、おまえには分からないんだろうけどな、問題は山積みなんだ。
――仮に、おまえが〈言聞き〉から目を離すなんて馬鹿なことしないで、〈言聞き〉を確保できてたとすれば、取り敢えず俺はエーデルに戻れば良かった――けど、そのための金がない。ヴィリーに俺がどこにいるか知らせようにも、〈フィード〉に情報を流してもらうための金もないし、俺は字が書けないから手紙も出せない。
現実はもっと悪い。〈言聞き〉がどこにいるのかっていうことから突き止めないといけない。で、〈言聞き〉を確保したところで、さっき言った問題全部を片付けないといけない。しかも十二日間で!」
『――――』
黄金竜は、しばらく黙っていた。
二人の間を風が吹き抜けていき、ややあって、彼――あるいは彼女――は言った。
『移動に関しては、この際やむを得ない、私がおまえを運んでやれるとは思うけれど』
「エーデルがどっちの方向か教えてくれ」
皮肉たっぷりにそう言って、しかしリベルは首を振った。
「いや、エーデルに戻って、その間に〈言聞き〉がもっと遠くに運ばれる方が問題か――でもヘルヴィリーまで戻れば、バンクレットさんが助けてくれる……」
そう呟きながらも、頭が回らなくなっていることを感じて、リベルは溜息を吐いた。
「……町まで行けば、取り敢えずここがどこかは分かる」
そして、嫌々ながら黄金竜を見上げる。
朝陽に長く影を落とし、黄金竜は一つの美しい彫刻のようにそこに立っている。
「――っていうわけで、金ぴかトカゲ。不本意だけど、悪いとも思うけど、運んで」
『致し方もないが』
黄金竜は溜息のような音を立てて、それから言った。
『先刻も言ったが、トカゲ呼ばわりは不愉快だ』
「ああ、そう。考えるよ」
リベルは苛々と顔を擦って、黄金竜が左前肢を彼に向かって伸べるのを不安げに見守った。
黄金竜の脚は小さな鱗に覆われて煌めき、形としては鳥に似ている。
二本ずつ指が向かい合っているものだ。
その指からは鋭い鉤爪が突き出して、鉤爪は真珠の色合いで煌めいている。
指一本が優に二フィート以上あり、それが迫ってくる様には言いようのない迫力がある。
黄金竜が、頓着なくリベルの胴体をがっきと掴もうとした。
思わず後退ったリベルと、そのことに苛立ったらしき黄金竜との間で三十秒間の議論があり、その議論の末、平和的に、黄金竜の指の内側――謂わば掌に当たる位置にリベルが腰掛け、彼が自力で黄金竜の足にしがみつくという方法が採られることが決定した。
黄金竜の足は、かなり関節が柔らかく動くものであるらしい。
リベルが黄金竜の足にしがみつき、それを確認した黄金竜が、後肢だけで立ち上がり、翼を広げる。
微かに金色を帯びた象牙色の皮膜が風を孕む。
大きな翼が羽搏けば、孕んだ空気が弾丸のような大きな音を立てるものだ。
だがそれもなく、全く無音で、ただふわりと翼が上下して、あっという間に身体が宙に浮いた。
「おお……」
リベルは思わず声を上げる。
みるみる小さくなる地面、足が地面を離れるとき特有の、腹が浮き上がるような不安。
そしてそれ以上に、新鮮な高所の風が頬を打ち、髪を嬲る高揚感。
凄まじい速度で景色が後ろに流れていく。
陸艇は、地面ではなく高所を行くから移動手段として重宝されるけれど、あくまでも重い船体を風に運ばせているだけだから、実をいえば速度は然程でもない。
ゆえにリベルがこのとき感じた加速は、彼の人生初となるものだった。
手が滑りそうになって、慌ててリベルは黄金竜の足にしがみつき直す。
小さな鱗が掌にちくちくと刺さったが、気にしていられない。
振り落とされずにいるのがやっとだが――それにしても。
(すげぇ……)
目を見開いて高所からの景色を見渡すリベルに、腹の奥で弦を弾くような声を立て、黄金竜が言う。
『落ち着いてくれ。頼むから、私の愛し子の心臓を乱暴に扱わないでくれ』
「――っ、さっきも言ったけどっ! 俺の心拍を監視しないでくれ!」
吹き巻く風の中で、リベルは怒鳴るように返答する。
嵐のような息を溜息として吐き出して、黄金竜がぼやく。
『おまえに気を遣って、こちらは赤子のような速度で飛んでいるのだ。
この上どう気を遣えばおまえが心臓を丁寧に扱えるのか、私には分からない』
意地でも声には出さなかったが、リベルは驚いた。
――黄金竜が風を切って進む速度は、まるでひたすら前へ前へと落下しているかのようなものだ。
ところがこれが、黄金竜にとっては散歩よりもゆっくりとした速度であるとは。
黙り込んだリベルに、黄金竜はうんざりした声で尋ねた。
『ところで私をなんと呼ぶのだ』
リベルは息を吸い込み、咳き込み、少し考えた。
空からは真新しい朝陽の光が降り注いでいる。
金色の、まさに黄金竜の鱗のような、清潔で温かな色合いの光。
「そうだな……」
そのときふと、ハイリの鉱路から脱出した直後の、ヴィレイアとのやり取りを思い出した。
――『おお、日輪よ』
――『日輪って?』
――『お日さまのこと』
強風から顔を背けつつ、リベルは叫ぶようにして言った。
「――〈陽輪〉。〈陽輪〉って呼ぶ」
ぶーん、と、黄金竜の腹の中から柔らかな音が響いてきた。
どうやら満足したようだった。
*◇*◇*
「――信じられない」
アガサがぽかんとして呟き、それが一体何に対する慨嘆なのか、ヴィレイアは咄嗟には測りかねた。
――初春の月二十二日の夜である。
ヘルヴィリーの、議事堂近くの一等地のホテル、その最上階の続き部屋を何部屋か、バンクレットは押さえている。
普段であれば、大きな窓から一望できる首都の夜景にうっとり見惚れるだろうところ、今はヴィレイアもそれどころではない。
ヴィレイアとエルカ、メメット隊、ウェイン隊、そして先程ヘルヴィリーに着いたばかりのアーディス隊が、一つのスイートに集まっていた。
如何にも上品なレースのクロスの掛かったテーブルを勇者が囲んでいる様は、恐らく奇妙に映るだろうが、本人たちはそれどころではない。
今は、初対面となるアーディス隊とメメット隊が互いに自己紹介を終え、リベルの状況を共有し終えたところだった。
それに伴ってアーディスたちの、「ヴィレイアは本当の特等だったわけだ」という驚きもあっただろうが、今はそれは表出しない、ささやかな感情となっていた。
銀髪を刈り上げた偉丈夫、アーディスはよろよろと椅子に座り込み、筋骨隆々の大男、ラティは、限界まで瞳を見開いている。
ひょろりとした身体つき、褐色の髪を後ろに撫で上げたリガーは、糸目を今は瞠って、「マジ?」と、声も出ない様子でエルカに向かって尋ねていた。
そしてアガサは、紫色の猫目を見開いて、冒頭の一言を吐いたところである。
「リベルが? あのリベルが、何をどうしたらそんな目に遭うの?」
「まあ、それは確かに」
と、これはアーディス。
ひっきりなしに掌で顔を拭いつつ、茫然と呟く。
「〈氷王牢〉を分捕られたことも驚きだが、あいつなら丸腰でも、多勢に無勢でもなんとかなるはずだ」
「その場に居合わせた奴が言うには、どうやらその場に別の子がいて、その子が人質みたいになったって話――だったよな?」
と、ウェインがエルカに確認する。
エルカは短く頷いた。
「へえええ?」
と、アガサはどこか疑うような声を出す。
「あのリベルが、見ず知らずの他人を気にするかしら」
「あー、確かに、あいつ、割と冷たいとこが……」
「覚えてるか? 『あのときはありがとう!』事件。なんか昔、あいつに助けられたっていう人が抱き着いてきたときに、すんげぇ無表情でひらっと身を躱したやつ」
「覚えてる。ちょっと気まずそうではあったよな」
アーディス隊が現実逃避ぎみに思い出話をする一方、「えっ」と声を上げるメメット隊の面々。
ウェイン隊の面々も、「そうか?」というように首を傾げている。
「リベルくん、ねえ、優しそうな子だったじゃない?」
「俺らが見たのは、あいつが亜竜を欠けさせた後でぶっ倒れたところだけだけどな、母さん」
「ともかくもヴィリーを連れて来てくれたんだから、優しい子であることは疑ってなかったんだけど」
「ヴィリー、良くしてもらってるんだよね?」
ケルクからの念押しに、ヴィレイアが力なく頷く。
一方ウェイン隊も、どことなく小声で。
「めちゃくちゃいい奴だったよな? 思い出の美化かな?」
「いえ、そういえばちょっと狂気じみてるところもあったわね」
「けど、まあ、彼がいなきゃ――」
「――僕らは全員欠けてたし」
「オーリンのことも気にしてくれてましたしね」
ディドルの言葉に、ウェインが左耳の金の輪を弾いて、肩を竦める。
アーディスがウェインを見て、こちらも肩を竦めた。
「まあ、あんたたちと会ったときは、こっちも久しぶりにあいつと一緒に探索したんだけど、普段より心に余裕がある感じではあったな」
「そう、ですね……。なんというか、僕たちといたときよりも、伸び伸びと振る舞っている感じ、ではありましたね……」
ラティがおずおずとそう言って、アガサが鼻から息を抜く。
「そうかしら」
「拗ねるなよ、アガサちゃん」
「拗ねてないわよ!
――それに、なんでこんなに立派なホテルに連れて来られるわけ?」
アガサがメメット隊を見て、ウェイン隊を見て、それからヴィレイアとエルカを見た。
「駅まで私たちを迎えに来てたの、軍人でしょ? 早とちりして逃げそうになったわよ、こっちは」
「ああ、まあ、なんでリベルの捜索に軍が乗り出してるのかは、俺たちもすごく気になってはいる……」
と、ウェイン。
エルカとヴィレイアが、同時に首を振った。
「それは今はどうでもいい」
「軍部にたまたま顔見知りの小父さまがいるだけよ」
アーディスは蟀谷を掻いて、顔を顰めてヴィレイアとエルカを眺めた。
「――なあ、いつぞやの、あのハイリの鉱路に入りたいってリベルが言い出したの、その『小父さま』とやらの道楽か?
今回のことも、軍人があいつに無茶言ったせいだったとしたら、さすがに俺も気分が悪いぞ」
「違う。それに、たとえそうだったとしてもどうでもいい。軍人があいつの行方を捜してくれてるってことの方が遥かに重要だ」
エルカが返して、ヴィレイアもこくりと頷く。
「そのうち、あちこちの〈フィード〉にリベルの情報が撒かれるはずだから。見つけたら保護してっていう」
「犯罪者と間違われて、あいつがぼこぼこにされなかったらいいけど」
アーディスが憂慮の表情で呟く一方、ラティが神妙に。
「殴り返したリベルが、本物の犯罪者にならないか、ということの方が、心配です……」
そのとき、控えめなノックの音がした。
弾かれたようにエルカとヴィレイアが立ち上がり、エルカが扉まで走って引き開ける。
てっきりそこにバンクレットがいると思ったのか、「親父さん!」と叫んだ彼が、半拍を置いて、「――きみか」と言い直した。
ヴィレイアが扉まで走って行き、「リエラ」と声を上げた。
「リエラ、小父さまからの伝言?」
リエラ――かつては治癒精を盗んだ法術師。
彼女が廊下に立って、硬い表情でこくりと頷いた。
彼女にリベルの状況が知らされたのは昨夜だが、やはりそれから碌に眠れていないのか、眉の高さで切り揃えられた淡い金色の前髪の下、大きな薄紫色の目には隈が出来ている。
エルカがリエラの手首を掴んで、スイートの中に引き込んだ。
リエラにはどうも、エルカに怯えている節がある。
このときもやはり、彼女は顔を引き攣らせたが、強いて抵抗はしなかった。
とはいえ、テーブルを囲む勇者たちを見ると、怯えた様子でヴィレイアの陰に隠れる。
なんだなんだとばかりに、勇者たちが立ち上がり始める。
リガーが、あっと声を上げた。
「おっと、きみ――こないだハイリから戻ってきたときのお出迎え係さんじゃないか」
リベルたちがハイリからダイアニへ戻ったとき、そこにバンクレットが遣わせたリエラがいた。
リエラはそのときに顔を見られているが、まさか覚えられているとは思わなかったのか、微かな驚きに睫毛を上げてリガーを凝視する。
ヴィレイアが、苛立ちを滲ませてリエラの腕を引いた。
「小父さまは何て?」
この日の日中時点で、バンクレットの麾下およびバンクレット本人は、相当に容赦なくローリーを締め上げていた。
そして同時に、各所の〈フィード〉にリベルの捜索を依頼する文書を掲載するよう働きかけることもしていた。
だが、わざわざその途中経過をヴィレイアたちに報告するほど暇ではなく、この時点ではヴィレイアもエルカも、ヴァフェルムに目通りしたとき以上の情報はなかった。
リエラはこくっと頷いて、ヴィレイアに目を戻した。
「リベルさんを――連れて行った人たちの本拠地が分かったの。南の方の町だって。
リベルさんがどこに連れて行かれたのかは分からないんだけど、」
「まあ、あの野郎も知らないだろうしな」
エルカがぼそりと呟き、その口調の刺々しさに、リエラが身を竦ませる。
「そ――それで、バンクレットさまが、本拠から離れた場所で活動するのは避けるはずだから、とにかくそこに行こうと仰ってて――」
「今からだよね?」
ヴィレイアが言った。
腰の右側に吊った〈焔王牙〉をぎゅっと握って、念押しするように繰り返す。
「今からだよね?」
「うん」
リエラが頷く。
「バンクレットさまが陸艇でご準備されているから――」
エルカが部屋の中を振り返った。
「休んでるとこ悪いけど、行くよ」
軍人の他に陸艇に乗り込んだのは、勇者たちと、そして意外なことにリエラだった。
陸艇の前で彼らを待っており、彼らを慌ただしく手招きして共に陸艇の中に足を踏み入れたバンクレットに、エルカが手振りでリエラを示しながら、「一緒に?」と尋ねる。
「リエラは加護持ちじゃないから、鉱路には入れないよ」
「知っている。ヴァフェルムさまからも、くれぐれも彼女を鉱路には入れるなとお達しだ」
声を潜めてそう応じてから、バンクレットは通常どおりの声で。
「リエラは伝令の役だから。――鉱路の中のヴィレイアが透過視精を差し向けたところで、並の法術師では伝言を聞けないかも知れないが、リエラなら可能だ」
リガー、メイ、ディドル、ケルクが、一斉にリエラを見た。
リエラが仄かに赤くなって頷く一方、法術師の面々――揃いも揃って一等勇者――が、次々に頷いていく。
「確かに、あんた凄そうだな」
「リベルくんのお友だちって、何なの? 本人は亜竜単独討伐できちゃって、お仲間は影兵霊と契約してたり、超人揃いなの?」
「今はそれはどうでもいい」
バンクレットが言って、アガサがぼそりと、「――お友だちに軍人も加わったみたいですし?」と、警戒するように彼を眺めつつ呟く。
それは聞こえなかった様子で、バンクレットは言った。
「離陸するよ。適当に座りなさい」
勇者組合が保有しているものとは比べ物にならない、それこそホテルの一室と言っても通りそうなほどに広々として、寛げる空間として設計された陸艇の客室である。
このときばかりは控えめな歓声を上げて、勇者たちが革張りの豪華な座席に散っていき、ディドルとアーヴェイは好奇心を抑えられない様子で、窓際の椅子に張りついた。
陸艇には乗り慣れているとはいえ、勇者組合の陸艇には窓がないことが多いのである。
ヴィレイアとエルカも適当に腰を下ろそうとしたところで、バンクレットが二人の肩を押し、更に奥の、仕切壁の向こうへ促す。
「――何か内緒話っすか?」
エルカが訝しげに尋ねると、バンクレットは首を振った。
「眠っていないだろう。顔色が悪い。奥で休んでいなさい」
エルカは瞬きした。
「いや、寝られないから」
「眠っておきなさい。麾下にもいつも言っているが、休むべきときに休んでいないと、いざというときに身体が動かない」
「それは分かってるけど――」
「心配なのは分かる」
仕切壁の向こうの、個室めいた座席にエルカとヴィレイアを座らせて、バンクレットは言った。
ちょうどそのとき、身体の下で不傷石の爆音がして、陸艇が浮き上がる。
「特に、きみがリベルと一緒にいるのは奇跡のようなものだから。分かっている。
でも、だからこそ、眠っておきなさい」
そこまで言って、バンクレットは不器用に微笑んだ。
手を伸ばしてヴィレイアの白百合色の頭を撫でながら。
「……私が子守歌でも唄ってあげようか。妻ほど上手くはないが」
気持ちを和ませようとするバンクレットの親切を感じ取って、エルカは口許だけで微笑み、目を擦った。
「……子供はいないんじゃなかったっけ、おっさん」
「甥――妻の妹の子供に会いに行ったときに聞いてね」
「じゃあ、おっさんは歌えないんじゃん」
エルカが呟き、ヴィレイアが思わずといったように微かに笑う。
バンクレットがヴィレイアを見て、その胸元に下がる、「九五〇」の数字が白く浮かぶ青い時精時計を見て、真摯に言った。
「――一日も早く、リベルをきみたちのそばに戻すために、出来ることは全てする。約束する」
ヴィレイアが唇を噛んで、頷いた。
両手で時精時計を包み込んで、まるでその数字を隠すようにする。
「……はい」
エルカが鼻を鳴らして、脈絡なく呟いた。
「――甥っ子って、やっぱ、可愛い?」
ヴィレイアが大きな双眸を瞬かせてエルカを見る。
「可愛いね」
バンクレットは首肯して、そして鷹に似たその顔貌に、おずおずと微笑を浮かべた。
「そして、きみもリベルも、私にとってはもう甥っ子のようなものだから」
エルカは片手で目許を覆った。
「……俺たち、実の親に売り飛ばされてるから」
ヴィレイアが俯き、そんな彼女をちらりと見てから、バンクレットが頷く。
「うん」
エルカはくぐもったような声で呟く。
「赤の他人がこんなにいっぱい、あいつのために動いてくれるなんて――びっくりだよ」
バンクレットは数秒、言葉を考えるような間を置いた。
そして、確信を籠めて言った。
「これまで受け取り損ねた愛情を受け取る権利が、きみたちにはあるからね」
「リベルが――」
エルカの声が詰まった。
嗚咽じみた声ではあったが涙は出ていなかった。
「――リベルに何かあったらどうしよう。
あいつ、弱いから――」
「大丈夫」
バンクレットは囁いた。
「大丈夫だ」
「俺――」
エルカが息を吸い込む。
声が震える。
「俺、あいつが元気にしてないと、やっていけない」
「――――」
「会ったときから、ガキの頃から、俺、あいつが笑ってくれるの好きで――あいつが笑ってくれてるから、なんとかやってこられたんだ」
「大丈夫だ」
バンクレットが力を籠めて言った。
「私は、きみが幸せそうにしてくれているのが好きだ。
――そのためにも、リベルは全力で取り返す」
身を乗り出して、バンクレットはエルカの頭に掌を置いた。
「だから、少し眠っておきなさい」
*◇*◇*
町からまだ距離があるところで、リベルは乱暴に黄金竜――〈陽輪〉の足を叩いて、彼――あるいは彼女――の気を引き、声を張り上げた。
「〈陽輪〉! 下ろして!」
大声を出すと、頭がぐるりと回るような感覚に襲われた。
いよいよ深刻に血が足りていない。
何かを食べる必要がある。
身体の末端から力が抜けていくようで、ここまでの飛翔中、手が滑って転落しそうになったことも数知れず。
不満そうな声を立てつつ、〈陽輪〉が翼の動きを止め、ゆっくりと螺旋を描いて旋回し、高度を下げて地面に降り立つ。
地面に降り立つ際の衝撃をリベルは覚悟して歯を食いしばっていたが――舌を噛んでは堪ったものではないからだ――、黄金竜の巨躯は、まるで花びら一つのように軽やかに、綿毛のように音もなく地面に降り立った。
後肢のみで地面に降りてから、ゆっくりと前肢を地面に着き、リベルが身軽にそこから飛び降りて地面に立つのを琥珀の瞳で見守りつつ、〈陽輪〉は苛立たしげに言った。
その腹の底から、速いリズムで弦を弾くような音が響いている。
『なんだ、どうしたのだ』
「どうしたのだ、じゃねえよ」
リベルは〈陽輪〉を睨み上げた。
渇いた喉に苦労して唾を飲み込み、彼は吐き捨てるように。
「おまえがいると目立つだろうが。ただでさえ余所者だから変な目で見られるだろうし、おまえがいるせいで事態がややこしくなったらどうするんだよ」
『愛し子と共に二つ虫の巣を訪れたとき、私のために騒ぎになったことはない』
「それはおまえが〈言聞き〉といたからだよ。逆ならいいよ、黄金竜がいなくて〈言聞き〉がいるなら。でも、〈言聞き〉がいない黄金竜だけが立ってたら、どんな馬鹿でも騒ぐだろうが」
『愛し子を捜しに来たのだ。私がいる方が自然だ』
「じゃあおまえ、その図体で町まで行って、町の人たちに話し掛けて来いよ。一言も話せずに全員が逃げて行く方に賭けるよ、俺は」
ただでさえ、黄金竜と言葉が通じるなどというのは尋常の事態ではない。
息を吸い込み、リベルは言葉を続ける。
空腹の余りに胃が痛み、いよいよ頭がぼんやりしていた。
「俺が〈言聞き〉を見なかったか訊いて――それで、何ていうか、その話に信憑性を持たせなきゃいけなくなったときに、おまえに出て来てもらう方がいいはずだ」
自分の人見知りはこの際、直面するまでは、棚に上げておく。
『――なるほど』
〈陽輪〉は唸るように同意した。
『ではそうしよう。――賭け、が何かは知らないが』
「よし。――じゃあ、万が一、俺が呼んだら来て」
〈陽輪〉は、優美な首の先の、まろやかな形の頭を傾けた。
人間であれば、腕を組んでいたかも知れない。
『愛し子の心臓のために一言添えておくと、おまえの頭蓋の中身を然程疑うわけではないのだが、――どうやって私を呼ぶつもりだ?』
「――――」
リベルは微かに口を開けた。
咄嗟に頭の中に出てきた策は、「ヴィリーに頼むから」だったが、
(いや、俺はそもそもヴィリーに会うために頑張ってるわけで)
頭が回らず、リベルは蟀谷を押さえる。
「それは……」
『やはりおまえの頭蓋には、雲か霞が詰まっているらしい』
いっそ感心したような声音でそう言って、〈陽輪〉は唐突に前肢に顔を伏せた。
リベルが怪訝に立ち竦むこと数秒で、顔を上げた〈陽輪〉が、その巨きな顔貌をぬっとリベルに突きつけてくる。
「わっ」
思わず仰け反るリベル、その彼を馬鹿にしたように鼻を鳴らして、〈陽輪〉は牙の間から何かを落とした。
きらりと煌めいたそれを、危ういところでリベルがキャッチする。
「――鱗?」
黄金竜の鱗、その、ごく小さな一枚である。
リベルの掌よりも一回りほど小さい。
陽光の粋を集めたような柔らかで繊細な色合い、黄金の色彩の中に、微かに雪白や虹色の光が照り映えている。
厚みがあり、見た目よりも重く感じるそれを、リベルは掌の上で矯めつ眇めつする。
そんな彼を、救いようのない馬鹿者を見る目で見下ろしながら、〈陽輪〉は言った。
『持っていろ。私に言葉が届く』
「――ああ……」
リベルも得心した。
――勇者必携の亜竜の鱗を加工した指輪。
あれは持ち主の意思を、同じ亜竜の鱗から創り出した指輪に伝えるものだ。
ならば、黄金竜の鱗が、それと同じことを――それどころか上位互換となることを、可能にしないはずがない。
リベルは用心深く鱗の縁の鋭さを確かめてから、それをポケットに入れた。
「ありがとう」
『構わない』
さらりと応えられたので、なんとなくかちんときて、リベルは言い添える。
「元はといえばおまえのせいなんだけどな」
黄金竜は、理知的な瞳でリベルを見た。
『無事に愛し子を取り戻せたら、おまえはそうは言わなくなるよ』




