08 鉱路洪水
鉱路洪水:勇者が最も恐れる現象のうち一つ。
いわゆる、「鉱路への感染」である。
いついかなる行為が契機となって発現するものかは全く不明。
感染した者が地上に出てから、およそ三日から十日ののちに「発症」する。
即ち、当該鉱路の生物が、鉱路から地上の感染者のもとへ、原理は不明だが転移するのである。
これが鉱路洪水である。
鉱路への感染、鉱路を発症する病。
沈静化する方法はただ一つ――現れた鉱路生物を、最後の一匹に至るまで死亡ないしは欠落させることである。
ただし、獅鷲等の知能の高い生き物となれば、身を潜めてしまうことも考慮に入れなければならない。
仮に身を潜めた生き物がいれば、その生き物はまたいずれ――十日後か、二十日後か――、感染者のもとに転移する。
残念ながら感染しているか否かは、発症するまでは分からない。
だが、発症してしまえば、感染者の特定は容易い。
この災害においては、第一遭遇者こそが感染者であることに疑いはない。
――――――――――
「なるほど……〈鉱路洪水〉を発生させたから、筆頭のきみが追い出されたわけね……」
リベルは顎を撫でてそう呟く。
フロレアの〈鉱路洪水〉は沈静化されたはずだ。
それを思い出し、またそろそろと寝台に腰掛ける。
ヴィレイアはそれをなぜだか罪悪感を覚えたような瞳で見守った。
――〈鉱路洪水〉は、全ての勇者が恐れる事態だ。
その事象が発生することを恐れるというよりは、自らが感染者となることを恐れる。
自身の隊が感染者となったと分かった瞬間のヴィレイアの気持ちは、とてもではないがリベルの想像に余った。
〈鉱路洪水〉を発生させた勇者隊は、お咎めなしでは済まない。
これは勇者組合も認めるところの、帰責性のない罪、無過失責任だ。
だが一方で、〈鉱路洪水〉を起こした隊が平然とそこにいれば、〈鉱路洪水〉で親しい誰かが欠けた者が、その恨みを晴らそうと決意しかねない。
それを防ぐ意味もあって、予め罰を下しておくのは、組織としても妥当な判断だ。
〈鉱路洪水〉の咎めは、筆頭勇者の追放。
筆頭勇者からすれば、身寄りを失くし、地位を失くして放り出されるわけだから、十分に罰として機能する。
そして残された勇者隊も、筆頭を失って大幅に戦力を削られる。
更にいえば彼らも、とてもではないが同じ町にはいられない――組合には残るにせよ、他の町に本拠地を移すことが普通だ(例を挙げれば、ダイアニの組合に所属している勇者が、エーデルの町を本拠にするようなもの。不便だが、可能は可能。等級も変わらない)。
これも、罰として機能する。
ヴィレイアが特等勇者だったというならば、間違いなく彼女が隊の筆頭勇者だったはずだ。
彼女は項垂れて、頷く。
「そうです……」
「銀行から小切手を振り出す時間もなく追い出されたの? だから金がなかったんだ?」
納得を籠めたリベルの言葉に、しかしヴィレイアはさっと目を逸らした。
「いえ、それはもとから……」
「…………」
さてはこの少女、浪費家と見える。
そう思ったものの口には出さず、リベルは咳払いする。
「なるほどね、事情は分かった」
「――あぁぅ」
ヴィレイアが何か言いたげに顔を上げ、そしてまた顔を伏せた。
リベルは瞬きして、眉を寄せる。
「まだ何かあるの?」
ヴィレイアはしばらく逡巡していたが、やがて、もう何もかもぶちまけてしまえと決意したような息を零して、顔を上げた。
白百合の色の髪を耳に掛け、彼女が息を吸い込み、外套の懐をごそごそと探る。
そして掴み出したものを、ヴィレイアはリベルに向かって差し出した。
「これ――」
リベルは眉を寄せる。
――ヴィレイアの手の中にあるのは、掌ほどの大きさの鱗。
その独特の煌めきから、亜竜のものだと分かる。
亜竜といえば、鉱路で出遭う中ではずば抜けて厄介な相手だが――
その鱗は夜闇の黒色。
「それ?」
首を傾げるリベルに、ヴィレイアは息を吸い込んで、告げた。
「フロレアを離れる寸前に、見つけたんです。私が見つけたとき、〈鉱路洪水〉の発生からは一昼夜経っているはずでしたが、抜けたばかりの状態でした。
――つまり、」
リベルの顔色が変わった。
「――亜竜が一頭、逃げてたかも知れない……のか?」
――――――――――
〈鉱路洪水〉において、仮に身を潜めた生き物がいれば、その生き物はまたいずれ、感染者のもとに転移する。
――――――――――
もちろん、亜竜は竜の眷属の筆頭だ。
つまり二百年前から死とは隔絶されている。
ゆえに、亜竜を真の意味でその場から退けようとすれば、ただ命を奪うだけでは事足りず、その全身を切り刻む必要があるのだ。
――〈鉱路洪水〉が起こったばかりの町において、その重大事を失念する者がいるとは考え難いが――
「亜竜がいたのに見逃したのか!」
「分かりません――」
「はあ!?」
「亜竜が全力で暴れてたなら、あの〈鉱路洪水〉はまだ鎮圧できていなかったと思います。
でも、亜竜が途中で飽きて町を離れてたら――」
「気づかなかったのか!」
「一フィート先は鉱路生物の見本市、みたいな状況だったんですもん! 建物も崩れていくし、悲鳴はすごいし、ものすごい騒ぎだったので吼えても気づかなったと思います――いくら亜竜が大きいとはいえ、あの騒ぎの中ではいると分かったかどうか――」
「亜竜なら見た人くらいいただろ!」
「見た人がいたとすればみんな欠けました!」
ヴィレイアが怒鳴るように言って、リベルも言葉を呑み込む。
――確かに、そうだ。
リベル自身は〈鉱路洪水〉に遭遇したことは――幸いにも――まだないが、確かに鉱路生物が溢れ返っている中では視界の確保は難しく、加えて亜竜を目撃した者がいれば、悉くが命を落とすこととなっただろう。
鉱路最強と名高いのが亜竜だ。
そして狩りの結果に満足した亜竜が、〈鉱路洪水〉の鎮圧前に、混乱を後目にその場を離れてしまえば――
リベルは息を吸い込んで、堪らず怒鳴った。
「この馬鹿! なんでそれを早く言わない!!」
「言ったんです! 組合の人に! でも相手にされなくて……」
「隊に戻りたいがための嘘だと思われたのか……」
「たぶん……」
リベルは意味もなく立ったり座ったりを繰り返し、ヴィレイアを殴りたいのを必死に堪えていた。
「感染したのは、おまえの隊の誰だったの!?」
とうとう「おまえ」呼ばわりになった。
感染したのはおまえじゃないだろうな、という目でリベルに凄まれ、ヴィレイアがじゃっかん仰け反る。
この場合、感染者は即ち――いつ爆発するか分からない爆弾も同然だ。
「分かりません――本当に分からないんです! みんなで固まっているときに発症したから……」
「おまえ、この町中を危険に晒してた自覚、ある!?」
「あ――あります……」
「どうせ、感染したのは自分じゃないと高を括ってたんだろ!」
「でも……」
「それで考えてたのは金儲けのことか! 見上げたものだな!」
罵る言葉が止まらないリベルに、ヴィレイアも耐えかねたのか立ち上がった。
「違います! お金が必要だったのは、なんとかして隊のみんなに会いに行って、みんなは〈鉱路洪水〉は片が付いていると思っているだろうから、警告しなきゃと思ったからです!」
「組合に入るより、そのままフロレアに引き返す方が安くついただろ!」
そう叫んでから、リベルは言葉を呑み込んだ。
「――違うな。ごめん。
おまえの仲間は、もうフロレアにはいないのか」
正確には、「とてもいられなかっただろう」だ。
つまりヴィレイアは、ある程度の数の町を行き来する旅費を稼ごうとしていたわけだ。
「私の仲間は、フロレアからは――少なくとも一度は出て行ったでしょうし――」
ヴィレイアが、吐き捨てるように呟いた。
「――それに、あなたが思うほど、私の組合加入にはお金がかからないんです」
「はい?」
尋ね返したリベルだったが、ヴィレイアは言葉をつけ加えようとはしなかった。
リベルはその場をうろうろと歩き回る。
「〈鉱路洪水〉から何日?」
ヴィレイアは、首から提げた時精時計を一瞥した。
「十一日です。――〈フィード〉は毎日見ていました。まだ、〈鉱路洪水〉が再発したという知らせはありません」
「おまえ、なんでフロレアを離れる振りをして組合を誤魔化して、そのあとこっそり隊の仲間に合流しに行かなかったわけ? 職員は信じなくても、仲間ならさすがに信じてくれただろ」
呆れた口調のリベルに、ヴィレイアはぐっと言葉に詰まってから。
「……最初は――もう知ったことかと思って」
リベルは耳を疑った。
「――はっ?」
「みんな……結局みんなは一緒にいられるのに、私――一人になる私には、目配せひとつも寄越さないで、酷いと思って。それに……どうせ……」
「――――」
戦慄するリベル。
亜竜は、一頭で勇者隊を幾つも壊滅させる超特級の危険生物だ。
それが野放しになる危険を承知していながら、一時の腹立ちでそれを無視したとなると――
(じ――人格がやべぇ……)
顔を強張らせるリベルの方は見ず、ヴィレイアは湿っぽい口調で続ける。
「分かってるんです……私にみんな怒ってるだろうって……。でも、あのときは頭が真っ白で……」
すん、と鼻を啜って、ヴィレイアは続ける。
「でも、陸艇に乗って、最初にポスワルナに行ったんですけど――」
ヴィレイアの肩が震える。
「部屋を借りて、これでやっと落ち着けると思ったのに、落ち着けないんですもん。気づけばぐるぐる歩き回ってて、みんなのことを考えてる――それで、」
ぎゅ、と、鳩尾に垂れる時精時計を握り締める。
「やっぱりこのままだと後悔するだろうなって。少なくとも毎日〈フィード〉を見て、心臓が止まりそうな思いをするんだろうなって。それで、みんなを捜して、エーデルに。でもそこでお金がなくなって……」
どんどん声が小さくなるヴィレイア。
リベルは息を吸い込んだ。
――彼が出会った中で最も勇気があった人、彼の人生を救った恩人のことを思い出した。
彼を外套の下に庇ってくれた物乞いの老人。
襤褸を纏い、痩せさらばえ、若者の拳一つで倒れる脆弱な身体つき。
しかし彼には自由があった。
己の信条に従う強さと、暴力によっては決して精神を折られない強さがあった。
その強さこそが自由の所以だった。
――追われたリベルを庇った自由。
――彼に教えられた自由は放蕩ではなく、不羈の精神だった。
他人に侵害されず、他人を侵害しない、独立と解放の精神。
そしてその精神を以て、切実に助けが必要だったリベルを救った。
『坊主が偉くなりゃ、この老い耄れが偉くなったも同然だわな。だろ?』
そう言って呵々と笑った彼の声。
――そして同時に、思い出す。
陸艇の中で抱えた膝。
常にその膝が触れ合うほど近くにいた同い年の少年。
冷えた瞳で、今後を全て諦めて、――最後に交わした言葉すら覚えていない、好機が巡ってきたときリベルは一人だった。
だから連れて逃げられなかった――いや、一緒にいたとして、連れて逃げる余裕があったかどうか。
それでも常に記憶の底に腐った楔のように打ち込まれている。
――あいつの代わりに、助けられたら。
リベルは素早く算段する。
「――分かった。ポスワルナにもエーデルにもいないんだな。他に心当たりは?」
ヴィレイアは力なく答えた。
「もしかしたら――本当にもしかしたらですけど、フロレアに戻っているかもしれません。
あのとき、かなりの建物が崩れたので、私の仲間なら復興の手伝いをしてるかも……」
「石を投げられるかも知れないのに、か?」
ヴィレイアは顔を上げた。
「そういう人たちなんです」
リベルは右手で顔を押さえた。
「――よし、分かった」
ヴィレイアが瞬きする。
「はい?」
「はい? じゃないだろ。さっさとフロレアに行くぞ」
ヴィレイアはますます目を見開く。
「いえ、だから、私はお金がなくて……」
「本当に馬鹿だな」
リベルは悪態をついた。
「そのくらいは俺が出す。
――ほら、さっさと行くぞ。換金なんて後回しだ」
ヴィレイアはいっそう目を丸くした。
「今にも亜竜が出現するかも知れないのに、一緒に、ですか? ――私にお金だけ渡すんじゃなくて?」
「ああもう」
リベルは足踏みした。
「助けてやるって言ってんだよ、早く行くぞ」
*◇*◇*
「おまえがさっさと俺に事情を打ち明けてさえいれば、もっと早く動けたんだ」
リベルの小言じみた悪態を駅で聞き、〈焔王牙〉を抱えたヴィレイアは身を竦める。
周囲にも何かの用事で陸艇を待っているらしき勇者はいて、彼らは一様に、業物と分かる〈氷王牢〉と〈焔王牙〉をじろじろと見て、いきおいその持ち主である二人のことも、まじまじと観察していた。
身を竦めたヴィレイアは、しかしすぐにしょんぼりと呟く。
その様子は、とてもではないが元特等勇者とは思えない。
特等勇者とは即ち、勇者の中でも百人に一人の伝説的逸材のはずなのだ。
「でも、初対面でこんなことを打ち明けられるかどうかなんて分からなかったじゃない?
私、あなたのことを四等勇者だと思ってたんですよ」
「それはマジでお互い様だよ……」
敬語と同時に、ヴィレイアに対しては人見知りも投げ捨てたリベルは、昼下がりのうだるような暑さの中で顔を拭った。
――フロレアを経由する陸艇は、午後四時に出航予定。
陸艇に乗り込み、さっさと窓際の席を確保したリベルは、目論見どおりヴィレイアが自分の隣に座って、知らない誰かと隣り合って空路を辿るのを避けられて、ほっと息を吐いた。
とはいえヴィレイアとも話すことがあるわけではないので、ただ無言で、しかめ面で分厚い硝子の丸窓の向こうを眺める。
夏の根気強い陽光が、じりじりと窓の外を照らしている。
そうしているうちに、生来が多弁な性質なのだろうヴィレイアが、隣でそわそわし始めた。
癖なのか、暇潰しなのか、小さく鼻唄を歌ってさえいる。とはいえ楽しそうではなかった。
リベルは溜息を吐いてそちらを向いたが、選ぶ話題は完全に間違えた。
「――おまえがいたなら、そんなに被害も出なかったんじゃねえの」
何が、とは言うまでもなく、彼女が遭遇した〈鉱路洪水〉だ。
ヴィレイアの可憐な面差しがさっと翳り、彼女は自分の膝に乗せた〈焔王牙〉をじっと見下ろした。
「いえ、私は動けませんでした」
リベルは目を見開く。
「へ?」
――〈鉱路洪水〉が起こったとしても、その場に特等勇者がいれば、それを希望とした者は多かったはずだ。
更に言えば特等勇者ならば、他に比べて守れる範囲も広かったに違いない。
だが、ぎゅっと唇を噛んだヴィレイアは、席の三分の一ほどが埋まった周囲をゆっくりと見渡して、こちらに注意を向けている者がいないことを確認した上で、囁くような小声で続けた。
「だってそうでしょう――鉱路では、全ての勇者が自分の生命を守ります。
それなのにあのときは――周り中が私に助けを求めてたの」
「そりゃあ――」
そこに、強いと分かり切っている特等がいれば。
そう言い差したリベルだったが、ヴィレイアは殆ど激烈ささえ感じさせる囁き声で言い切っていた。
「私の才覚は私のものです。誰かからの恩恵ではなくて、お返ししないといけないものでもない。
――あのときは、周りの人みんなが私を見ていて……衛卒もです」
小さく息を吸い込み、それより更に小さな声で。
「動けませんでした」
「――――」
「誰かの命を預けられるなんて、そんなの……。私は――私は、そんなものを背負う志があって、勇者になったんじゃないのよ」
リベルは鼻白んで顎を撫でた。
「じゃあおまえ、首尾よく仲間に会えたとして、警告できればそれで満足か」
「――会えれば、ですけどね」
ヴィレイアは猫のような仕草で顔をこすった。
「ほんとに、どこにいるのか……」
「まあ、会えるって」
リベルは気負いなく言って、ヴィレイアの懐疑的な視線にぶつかった。
「どうしてです?」
「どうしてって――」
リベルは自分の右手の親指の付け根をつついてみせる。
「おまえは先天の加護持ちだろう。運はいいに決まってる」
「運がいいなら、そもそも感染なんてしなかったと思いますけど」
周囲を慮り、声をひそめて抗議するヴィレイアに、リベルは肩を竦める。
「不幸中の幸いも、強運の一種なんじゃねえの」
ヴィレイアは首を振った。
「加護なんて嘘っぱち」と、やさぐれたように呟く声が聞こえてきたが、リベルはもう彼女の方を見なかった。
陸艇の下部から、不傷石が爆発する轟音が轟いた。
船体が大きく震え、そして浮き上がる――どこかで、陸艇に乗り慣れていなかったらしき乗客の誰かが、座席の上から滑って転倒する、鈍い音が聞こえてきた。
夏の陽光が真っ直ぐに分厚い硝子窓を照らし、それを不透明な白さに輝かせる。
やがて陸艇はゆっくりと旋回し、針路を東へとって、大空を滑空し始めた。




