06 休日の過ごし方
共和国議会議長の誕生逆日の祝宴は、初春の月の十日。
現在は冬の月の末で、実をいえばあと一箇月少々に日程が迫っていた。
ヴィレイアは仕立てが間に合うものかどうか、内心ではらはらしていたようだったが、「あの仕立屋の人、魔法使いらしいよ」とリベルが言うや、「じゃあ大丈夫か」と納得した。
日にちがそれほどないということは即ち、バンクレットがこう言い出したことの所以でもあった。
「出来ればエーデルに帰るのは避けてもらいたい。
探索に出る予定があるならば、きみたちのことだから無事に帰って来てくれるだろうから強いて引き留めはしないけれど、出来れば目の届くところにいてほしい」
「俺たち、長いこと留守にするつもりで呼び出されて来てないんすけど」
エルカが半眼になってそう言ったが、バンクレットは生真面目に続けた。
「もちろん、急ぎの用があるなら戻ってもらって構わないが――」
バンクレットはヴィレイアを見た。
「――もしヘルヴィリーに滞在してくれるのならば、私の屋敷に招くつもりでいたのだが」
「はいっ、残ります!」
ヴィレイアが手を挙げて元気よく宣言し、エルカはリベルに、「どうする?」という目を投げ掛けたが、リベルは溜息を吐いて呟いた。
「……ヴィリー一人を一箇月もヘルヴィリーに放り出したら、次に会うときには無一文になってるかも知れないから」
*◇*◇*
バンクレットの邸宅はヘルヴィリーの中心部の端にあった。
リベルたちは馬車でその邸宅へと連れられた。
ヘルヴィリーは大都会だが、その隅から隅までが中心部のような煌びやかさに満ちているわけではない。
郊外になれば町の佇まいには華やかさよりも朴訥さが染み出してくるし、貧民街も存在している。
バンクレットの邸宅はそんなヘルヴィリーの華やかさからは一歩置き、そしてなお豊かさの中に位置する立地を確保していた。
ささやかな庭園を備えた、黒い石造りの、広々とした二階建ての邸宅。
大小の煙突が屋根の上から突き出しており、細い煙突の一つから、炊事の最中であることを示す煙がたなびいている。
リベルが心底意外に思ったことに、鋳鉄の門をくぐって庭の小径を辿ってみると、その両脇には小さな菜園が広がっていた。
見目ではなく実用性重視で庭園を使っているのは、バンクレットらしいといえばらしいが、とはいえ野菜の世話をしている彼は想像も出来ない。
リベルが驚いたように菜園を見ているのが分かったのか、先を歩くバンクレットが振り返って、苦笑した。
「私の家系は代々軍人だからね。この屋敷は幾世代か前の祖先の褒賞として賜ったものだが、その菜園を作ったのは私の妻だよ」
「奥さん、いたんですか」
目を瞠ったリベルに、バンクレットは肩を竦める。
「三年前に欠けてしまった。今はどこにいるのやら」
「――――」
リベルたちは黙り込んだ。
ヴィレイアが小走りになってバンクレットに並び、何を思ったかぎゅっとその手を握る。
バンクレットはますます苦笑して彼女の手をぽんぽんと叩いて、菜園を見渡した。
「妻の趣味のようなものだったから――必要なものではないんだが、潰すのはどうにも忍びなくてね」
ヴィレイアは躊躇したようだったが、やがてそっと尋ねた。
「――奥さんを見に行ったことは?」
リベルが思わず、「黙れよ」とヴィレイアに合図する。
バンクレットの表情が微かに硬くなった。
「あるよ。彼女が欠けてすぐに、一度だけ。――そのときはある工場にいたが、見るに堪えなくてね」
「――――」
親しい人が欠けたとき、その人が欠けたという事実がその人の思い出に泥を塗る。
自分にとっていかに尊い人であったとしても、欠けたあとにはその人が、ただの部品、ただの道具、共和国が最も潤沢に有する資産として使われるという事実が。
「……ごめんなさい」
ヴィレイアが呟いた。
バンクレットが苦笑する。
「構わない。――だが、ヴィレイア。妻がいない以上は、きみを満足させる食事はここでは出ないと思っていてくれ」
「ジョーゼル小父さまがお料理するんですか?」
「私が? まさか。包丁を握るだけで妻に悲鳴を上げさせた男だよ、私は。
――古くからうちにいてくれている家政婦が一人いて、彼女が家を切り盛りしているんだ。彼女は忙しいから、四六時中厨房に張りつかせておくわけにはいかない」
そこまで言ってから、バンクレットがふと三人を振り返った。
「そういえば、きみたちは料理が出来るのかな?」
リベルとエルカが顔を見合わせる。
「俺たちは、野営で作るようなものなら――」
「おまえのメシ、美味かった記憶がある」
「そりゃおまえ、お兄ちゃんが手ずから作ってやったからだよ」
対するヴィレイアは厳粛に首を振った。
「私は、まったく」
バンクレットの邸宅の家政婦はエリジアと名乗った。
彼女は来客を殊の外喜んだが、どうにもバンクレット家の変化のない毎日に飽き飽きしていたことこそが、その喜びの原動力であるようだった。
彼女は豪勢な夕食を出し、親切に風呂を案内し、リベルたち全員に着替えを用意した(リベルとエルカの着替えのために、バンクレットの私服の何着かが丈直しの犠牲になったらしく、事後報告されたバンクレットは衝撃を受けた顔をしていた。なお、ヴィレイアの着替えとして提供されたのは彼の妻のものだったが、これは事前にバンクレットからそうするようにと指示があったらしい)。
来客用の部屋の寝具は全て洗いたてで、日中の日向の匂いを思い切り吸い込んだような香りがしていた。
リベルが風呂を上がって廊下を歩いているときに、開け放しになっていたヴィレイアの客室の扉の向こうに、鏡台の前の椅子に腰掛けるヴィレイアと、そんな彼女の長い白百合色の髪をブラシで梳きつつ、「娘があなたくらいの年頃だったときのことを思い出すわ」としみじみと語っているエリジアが見えた。
ヴィレイアは困惑して居心地が悪そうだったが、それでもされるがままになっていた。
翌朝の早くにバンクレットはヴァフェルム邸に向かって出発し――当然、あそここそが彼の職場である――リベルたちには「自由にお過ごしになってほしい、とのことでした」という、エリジア経由の伝言が残された。
朝食はパンとバターとチーズ、それから紅茶で、リベルからすれば十分過ぎるほどだった。
食堂は厨房と続き間になっていて、これは暖炉を二つの部屋が共有するための設計のようだった。
滑らかに磨き上げられている大きな木のテーブルがどんと鎮座して、ベンチがそのテーブルを挟んでいる。
ベンチは長年、特定の位置に座り続けられたことを物語るように擦り減っており、一つのベンチには誰かが酒をひっくり返したような染みが残っていた。
家長の席――つまりはバンクレットの席だけが、テーブルの短辺に大きな椅子を置いて設えられているが、当然ながら今は誰もそこには座っていない。
朝食を食べた後は何をすればいいのか、ご自由に、と言われても手持ち無沙汰である。
エーデルにいるならば、適当に組合をうろついて次に探索する鉱路の目星をつけたり、我が家に増えつつある家具や小物を見るために市場に足を運ぶのだが。
リベルはまごついてしまったが、ヴィレイアはエリジアに元気よく尋ねた。
「この辺りって、乗合馬車とか走ってます? もしくは辻馬車を捉まえられたり」
「もちろん。長閑ですけれどヘルヴィリーですからね」
リベルはヴィレイアに視線を向けた。
「どっか行くの?」
「だって、せっかくヘルヴィリーにいるのよ」
ヴィレイアはそう言って、途端に顰められたリベルの表情に頬を膨らませた。
「ねえ、そんなに私の浪費が顰蹙を買うなら、お目付け役にあなたも来る? 大都会をお散歩したいだけよ」
「――分かった、俺も行く」
リベルは応じて、小さく息を吐いた。
「欲しいものがあったら買ってやるから」
「もうリボンはもらったよ?」
「建国祭も一緒に回ろうって言ったの、おまえ、忘れてないか? それに、それ以外でも別に……」
ここまで言ってリベルは口籠った。
言葉をどう着地させればいいのか分からなかったからだが、エルカが元気よく口を挟んでくれたために、必要以上に戸惑わずに済んだ。
「俺も途中まで一緒に行く」
リベルは兄貴分に向き直り、懇願した。
「なあ、エルカ。ここ、軍人の家だからな。頼むからまともな時間に戻って来てくれよ」
*◇*◇*
幸いにも、乗合馬車はすぐ捉まえることが出来た。
四頭立ての乗合馬車には、その屋根の上にも座席が設けられており、馬車の後部の小さな螺旋階段からそちらへ昇ることが出来る。
ヴィレイアが躊躇いなく階段を登ったために、リベルもエルカもそれに続いた。
馬車がヘルヴィリーの中心に向かい、イリズ河に架かる大きな橋を渡り始める。
橋の上には多くの馬車が走り、陸舟が進み、街灯が並ぶ橋の両端には徒歩の人々がそぞろ歩いている。
この乗合馬車の御者は、すれ違う馬車やこちらを追い越す馬車の御者で知り合いを見つけると、帽子を取って親しげに挨拶していた。
敷石の上で回る車輪の音、陸舟の中で時おり不傷石が爆ぜる音、人々の話し声。
それらは目が回るほどの密度であり、ここが大都会だと思い知らせてくるかのようだ。
そんな周囲を見渡していたヴィレイアが、ふと思いついたように、何気ない仕草で指を振った。
「――契約、影、透過視精」
りん、と精神で聞く鈴の音が響いたあと、ヴィレイアは両手を器の形にした。
その掌の上で、銀色の光で出来た小魚が空中から躍り上がる。
ヴィレイアは精霊の影に囁いた。
「リエラ、今日は暇だったりする? もし暇だったら一緒にお茶しようよ」
光の小魚がヴィレイアの掌の上から姿を消す。
そして、馬車が橋の中ほどに差し掛かる頃になって戻ってきた。
ヴィレイアが、術者にしか聞き取れない精霊の声を聞いて、ふんふんと頷く。
そして、「リエラはなんだって?」と尋ねたリベルを見上げて、微笑んだ。
河の上を飛ぶ鳥が陽光を遮って、ちょうどヴィレイアの顔の上に影を落とした。
「リエラも一緒にお茶しようか」
リベルは瞬きした。
なぜか真っ先に、ヴィレイアは自分と二人きりになることを避けたのではないか、という考えが頭を過った。
だがすぐにその考えは消え去って、リベルは頷いた。
「うん」
行く手には、ヘルヴィリーの商店街区の象徴、二百フィートの高さを誇る対の鐘楼と、その鐘楼の間に架け渡された橋が見えている。
リベルは懐かしい思いで遠目に見えるそこを眺めた。
――ほんの数箇月前、ヴィレイアはまさにあの橋の上で、リベルの幸運の勇者になると宣言した。
そしてその言葉通りに、彼の幸運の勇者になってくれたのだ。
エルカがヘルヴィリーの中心部に、浮かれた様子で消えていくとほぼ入れ替わるようにして、暖かそうな外套と襟巻、手袋を身に着けたリエラが走って来た。
ヴァフェルムの邸宅から走ってきたのだろう、すっかり息を切らせて、横腹を痛そうにしている。
頬も真っ赤で、リエラを見つけた合図にヴィレイアが爪先立って手を振ると、そちらに気を取られて人混みの中で何人かにぶつかり、ぺこぺこと頭を下げていた。
リエラがやっとのことでそばに辿り着くと、ヴィレイアは若干呆れたように言った。
「そんなに急がなくても、私もリベルも急いでないよ」
「ひ――人を待たせるのが苦手で」
と、息も絶え絶えなリエラ。
ヴィレイアが苦笑しながら、走ったせいで歪んだリエラの襟巻を直してやる。
その様子を見ながら、リベルはなんとなく二人の間の空気を見積もっていた。
――ヴィレイアは、日常の場面においては、どちらかといえば子供っぽい振る舞いが目立つ少女だが、リエラと一緒にいると、どことなく年上の風格を覗かせるような、目下の人間に接しているような、そういう雰囲気を感じることがある。
尤も、実際にはリエラの方が年上のはずだが。
一方リエラの方も、ヴィレイアには親しく接しているが、その親しさの奥に、警戒未満の一線を引いた気配が見え隠れするときがある。
ヴィレイアもリエラも共に、稀代の法術師だ。
それゆえに通じ合うところがあるらしく仲が良いように見えて、実のところは、リエラこそヴィレイアの尋常ならざる面を強く意識できる唯一の人間なのではないか、とも思える。
リエラが呼吸を落ち着かせながらリベルを見た。
赤らんだ頬に笑窪が浮かぶ。
「――お久しぶり……っていうほどでもないですね、リベルさん」
「……こないだ会ったね」
そう言いつつも、リベルはそっと目を逸らした。
然程顔を合わせていたわけでもないリエラに対しては、どうしても人見知りを発揮してしまう。
リエラは周囲を見渡した。
薄紫色の瞳がきょろきょろと動く。
「エルカさんは……?」
「あ、別行動なの」
ヴィレイアが答えると、リエラはほっとしたようだった。
三人は人混みの中で連れ立って、ささやかなお茶会を開ける店へと向かった。
首都の人混みではぐれてしまえば二度と会えまいと、リベルは無意識にヴィレイアの手を握っており、ヴィレイアはリエラの手を握っていた。
人混みの中であっても、リベルとヴィレイアの格好は浮いていた。
二人ともが鉱路産の武器をぶら下げた、いかにも勇者といった格好なのだから然もあらん。
中にはけしからんとばかりに顔を顰める人もいて、ダイアニやエーデルといった、勇者組合の力が強い町でなければ、勇者がいかに鼻つまみ者であるのかをリベルに思い出させてくれる。
主要道を離れ、分岐した道に入ると、道行く人もいくらか少なくなった。
そこでリエラが、不思議そうな瞳をヴィレイアとリベルに向ける。
「また、何かの御用で呼ばれたの?」
「そうなの」
ヴィレイアが答えて、間近に迫った共和国議会の議長の誕生逆日の祝宴に出るよう要請されたことを話す。
リエラは目を見開いた。
「じゃあ、それまではヘルヴィリーにいるの?」
「そうだよ。会えるね」
「それは嬉しい。――当日はお客さまとして出るの? いいな、私は使用人側よ」
「そうなの? ――この人、自分を警護の人間にしてくれって言い出して、ジョーゼル小父さまを危うく窒息させるくらい爆笑させたのよ」
ヴィレイアがリベルを示してそう言って、リベルは彼女の右斜め後ろで意識してゆっくり歩きながら、「うるせえな」と顔を顰めてみせる。
リエラは返答に困った様子でリベルを見てから、曖昧に笑った。
「それは……ええっと」
「いいよ、何も言わなくて」
三人は適当な喫茶店に入り、リベルが紅茶を啜る間に、ヴィレイアとリエラは林檎のパイを食べ、湯気の立つ珈琲に温められたクリームを入れて飲んだ。
三人は、隣り合って座るリベルとヴィレイア、ヴィレイアと向き合う位置にリエラという位置関係で座ったが、相も変わらず左手でカップを扱う癖のあるリベルに、彼の左側にいるヴィレイアは苦笑していた。
その後は商店街区に足を向けたが、リベルが驚くほど、陳列窓から見える各店の商品に少女たちは興味を示した。
陳列窓の向こうで人形に着せ掛けられている外套に見惚れ、並べられている靴をまじまじと観察し、帽子屋の前から動かない。
「……気に入ったんなら買おうか?」
リベルがそっとヴィレイアに囁くと、ヴィレイアはぶんぶん首を振った。
「違う違う、綺麗だなと思って眺めるのと、欲しいなと思うのはまた別だから」
「……そういうもんなの?」
リベルは本心から困惑したが、少女たちに付き合って買いもしない装身具を眺めた時間で、彼はすこぶる疲労した。
――帰宅後、リベルからその話を聞いたバンクレットは、身形を緩めないうちから大いに笑った。
「それは心中察しよう。私も妻と出歩いたときには、ただ棒立ちになっている時間がひたすら長かった」
七日後には再びヴァフェルムの邸宅に呼ばれたが、それは衣裳の仮縫いのためだった。
今度こそ服を脱げと言われるのではないかとリベルとエルカは戦々恐々としたが、肌着を身に着けておくことは許され、二人はほっと額を拭うこととなった。
「――なんか、私が行きますって言ったせいで、ごめんね」
ヴィレイアは申し訳なさそうにそう囁いてきて、リベルは「いいよ」と首を振る。
そんな二人のそばでは、仕立屋の手の上で僅かに浮かんだ複数の棒針が、驚異的な速度で動いて正確無比にレース編みを行っていた。
「俺たち、結構無理言ってません?」
エルカが珍しく遠慮した様子でそう言ったが、仕立屋はにっこりと微笑んだ。
「とんでもない。こちらは玄人ですからね。お任せください」
*◇*◇*
バンクレット邸でのもてなしは、予想以上に心地よかった。
ヴァフェルムの邸宅で受けるほど過剰に豪勢でなく、それでいて真心が籠もっているからそう思うのだろう。
リベル自身が戸惑うほどに、彼はあっさりバンクレット邸での起居に馴染んだ。
起きて、着替えて、食堂に向かう。
エーデルで生活の一部を共有してきたからか、客人の三人ともが大体において同じ時間に起き出してくる。
とはいえ大抵、リベルはエルカに続いて食堂に到着し、それからややあって、日によっては寝癖がついたままのヴィレイアがやって来るのだが。
ヴィレイアがやって来ると、エリジアが朝食を運んでくる。
その後は日によって、周囲をただ散策したり、あるいはヘルヴィリーの中心部に出かけたりと、のんびりと過ごす。
夕食は大抵、バンクレットの帰宅後、つまりは夜遅くになってから摂ることになる。
バンクレットが帰宅すると、リベルたち客人はなんとなく玄関まで出迎えに行き、「おかえりなさい」と声を掛ける。
バンクレットはこれがお気に召したようで、出迎えがあるとあからさまに笑み崩れるのを堪えていると分かる顰め面をし、出迎えがなければ悲しそうに眉尻を下げた。
暖炉で火がはぜ、ぱちぱちと暖かい音を立て、湯気の立つ食事が並ぶ冬の食卓に、リベルは何度か――おぼろげな、もうとうに忘れたと思っていた記憶の断片が刺激されるのを感じた。
具体的な事柄は何一つとして思い出せなかったものの、この食卓の空気や匂いが、昔に感じていたものと似通っていることを、頭のどこか奥の方が感じ取ったのかも知れない。
生家について、リベルが覚えていることは少ない。
そのどれもが、リベルが売り飛ばされる直前の、殺気立った雰囲気の記憶だった。
だがどうやら、彼の生家にも平和な時期はあったらしい――この懐かしいような感覚が本当に記憶であったとすれば。
リベルが生家に覚えている感情は、苦い、痛い、恨むような気持ちばかりのはずだった。
だが今になって、ふと――顔も忘れた――父母のことを思い出そうとしたときに、自分の感情が全く波立たないことに、リベルは気づいた。
それは取りも直さず、リベルが、かつて自分を生き地獄のような環境に売り飛ばした父母を、許す必要すらもなくなったことの証左だった。
リベルは今、自分が大きな思い遣りや親切の中で守られていることを分かっている。
これまでの人生の痛みを呑み下すことに成功した。
もっと恵まれていたはずの人生を羨む気持ちはもはやなく、彼は今この人生こそが、望み得る最上のものに近いとすら思っている――その満足がある。
それゆえに。
リベルが心底ほっとしたことに、エルカはふらりと出掛けることはあったものの、常識的な時間に戻って来て、帰宅するバンクレットを出迎えた。
あるいはそれも、エルカがこの生活に居心地の良さを感じていることの証かも知れなかったが。
バンクレットは年代物の酒をエルカのために開けて彼を喜ばせ、バンクレット自身は三人の勇者から鉱路での冒険譚を聞き、目を瞠ったり息を呑んだりと、聞き手としては上等の部類に入ることを示した。
彼は鉱路生物との遭遇の経験はないらしく、「二十フィートくらいの燃える虎」だの、「岩山かと思うような巨人」だの、「岩の中を泳ぐ岩魚」だの、「氷点下の洞穴を瞬く間に灼熱地獄に変貌させる亜竜の炎」だの、「地下に広がる海」、「底の見えない谷から生えてる柱を飛んで向こう岸に渡る」だのといった話を聞いて感嘆に首を振り、「想像も出来ない」と述懐した。
リベルは普段全く酒を飲まないため、エルカに嗾けられて(「おい、こんなに上等な酒なんて二度と飲めないかも知れないぞ」)年代物の酒を舐めたが、苦さと喉を焼く酒精の香りに噎せ返り、兄貴分を呆れ果てさせることとなった。
また彼は、エルカとヴィレイアが過去に二人だけで臨んだ鉱路探索において、「いや、実は二人してケルンを作るのすっかり忘れてて、危うく遭難しかけて」だの、「可愛い女の顔した鉱路生物に危うくついて行きそうになって、ヴィリーに本気で怒られた」だの、「ついて来てると思ったヴィリーが振り返ったらいなくて」「だってエルカの足が速いから置いて行かれて」だのといった話を今になって聞き、「聞いてないぞ!」と怒号を上げることになった。
「そうやって怒られるから言わなかったんだよ……」
ヴィレイアは断じて酒は飲まなかったが(曰く、「酒癖が悪いの」)、楽しくなってくると鼻唄を歌い、それどころか実際に歌詞をつけて歌い出すこともあり、聞いたことのない歌ながら、リベルは素直に歌声を褒めた。
「おまえの故郷の歌?」
「えー、それは忘れちゃった」
他愛のないことも話した――例えば加護の話。
リベルとヴィレイア、エルカ、バンクレットの中では、先天の加護を持っているのがヴィレイアとエルカ、人工の加護を持っているのがリベル、加護を持たないのがバンクレットだ。
リベルとバンクレットが、「先天の加護を持ってるってどんな感じ?」とあとの二人に尋ね、ヴィレイアとエルカは、「物心ついたときから何となく分かる」、「高いところからジャンプするときに自信満々でいられる感じ」と説明し、リベルとバンクレットに首を捻らせた。
一方リベルは人工の加護について尋ねられると、「理論的にはこれで運が良くなるはずって言われて納得してるだけ」とあっけらかんと話し、バンクレットに「夢がない」と言わしめた。
他にも、リベルとヴィレイアが以前の勇者隊での鉱路探索について話すこともあった。
リベルは初めての評価会議の前に吐くほど緊張した話をしてエルカを笑わせ、ヴィレイアはいかに自分がメメットたち――リベルも初めて知ったのだが、ヴィレイアは元いた隊の面々を、「メメット、ロイ、ケルク、アーヴェイ」と呼んだ――に頼り切っていたのかを、いささかのばつの悪さもなく公表し、さすがに閉口したリベルは思わず苦言を呈していた。
「おまえさ、さすがにもうちょっと努力ってものを」
「やだ、面倒だもの」
言い放ったヴィレイアに、リベルは天を仰ぎ、エルカは爆笑し、バンクレットは苦笑して手を伸ばし、慈しむように彼女の髪を撫でた。
バンクレットは子宝には恵まれなかったようで、ふとしたときにヴィレイアを見て、「娘がいたらこんな感じかな」と呟いていることがあった。
リベルは思わず、
「ヴィリーを養子になんて言い出さないでくださいね」
と予防線を張り、バンクレットとエルカを大いに笑わせた。
ヴィレイアは真面目くさって、「ジョーゼル小父さまになら貰われてもいいかも知れない」と言い出し、リベルを慌てさせた。
そんなことを言い出すのだからお察し、バンクレットは酒には弱くはなかったが、酒が入るとあからさまに陽気になる性質だった。
一度などはわざとらしい鹿爪らしさで手を叩き、「ほら、きみたちは盛装して社交の場に出るんだから」などと言って、暖炉の前で三人の勇者にダンスを仕込もうとしたほどだった。
リベルが意外に思ったことに、ヴィレイアはバンクレット相手に一通り器用に踊ってみせた(最後には軽くよろめいたが)。
一方のリベルとエルカは言わずもがな、盛大にすっころんでヴィレイアとバンクレット、傍から見ていたエリジアを、息も出来ないほど爆笑させた。
「いつもあんなに軽々と、不可能なことはないみたいに動いてるのに、なんでなの」
と、ヴィレイアは笑い過ぎて涙の滲んだ目を拭いながらそう言った。
――そうやって毎日が過ぎていく。
リベルにとってその毎日は、後から振り返ってみれば、蜂蜜に似た印象を持つ日々だった。
甘くて、ゆっくりと流れていき、何かに溶けて甘みを残し、時間が経って凝固したとしても、舌に載せてみれば甘い。
起きて、着替えて、食堂に向かう。
三人の客人が揃って運ばれてくる朝食。
エリジアに会釈して礼を言う。
のんびりとした朝食。
温かい飲み物を飲みながら窓の外を見て天気を窺う。
晴れていれば、どこかに散策に出かける――ヘルヴィリーの中心部、あるいはこの周囲を。
雪がちらつく日には庭先に出て、遊ぶヴィレイアを見守る。
冷たい雨が降っていれば、三人で暖炉の前で寝そべり、信じられないほど怠惰に一日を過ごす。
昼寝をすることもあり、暖炉の熱を受け続けた頭はうだったように熱くなる。
一箇月の間に、二度ほどリエラが顔を出した。
ヴィレイアとリエラは、まるで世間話のように法術の話をするが、リベルとエルカにはちんぷんかんぷんで、ぽかんとするリベルと眠そうにするエルカに、「すみませんでした」と唇を押さえたリエラが笑った。
屋敷にいれば、夕方頃にエリジアが軽食を出してくれる。
バンクレットの帰宅までのつなぎにと。
日が暮れる頃に、気が向けばヴィレイアが風呂を使う。
夜が深まる頃に、馬車が屋敷の前に停まる気配――蹄鉄の音、車輪が回転する音、馬が鼻を鳴らす音。
鋳鉄の門が開き、また閉められるとほぼ同時に馬車は走り去っていき、その音を合図にしたように、リベルたちは玄関に顔を出す。
扉が開いて、軍服と冷えた夜気を纏ったバンクレットが戻ってくる。
「おかえりなさい」と声を掛けると、彼は笑み崩れるのを堪えて顰め面をし、軍服を脱ぐためにいったん部屋に戻る。
たまに鼻唄が聞こえてくる。
そしてゆったりとした部屋着に身形を直したバンクレットが食堂に戻る頃には、エリジアが夕食の支度を整えており、四人は他愛もない話をしながら夕食を摂る。
さながら、本物の家族団欒のように。
夕食のあとには様々な会話、笑い話や冒険譚、思い出話。
日によって酒が空けられる。
あるいは暖炉の前でリベルとエルカが尻餅をつき、バンクレットとヴィレイアが息苦しいほどに笑っている。
まるで独り立ちした子供たちが、一時的に生家に立ち寄っているかのような、気の置けない寛いだ空気で。
リベルはそれをおかしく思うが、居心地が良いことを否定はしない。
彼はその空気を呼吸することを楽しんでいる。
リベルが、冬の平和な食卓に、忘れ切ったと思っていた生家のおぼろげな記憶を刺激されたように、ヴィレイアにも何か思い出すことがあったのかも知れない。
夜半にふと、リベルが水を飲もうと起き出して食堂に入ろうとしたとき、熾火になった暖炉の前で座り込むヴィレイアとバンクレットが見えたことがあった。
声はくぐもってよく聞こえなかったが、二人で何かを話し、ヴィレイアは啜り泣いているようで、バンクレットがそんな彼女の背中を撫でていた。
リベルは静かに、二人に自分の存在を気づかせないままに部屋に戻り、それからはまんじりともせずに寝台の上に横たわって、落ち着かない気分でそのことを考え続けていた。
とはいえ翌朝には、あれは何かの見間違いか、あるいは夢だったかとリベルが疑うほど、ヴィレイアはいつもどおり、元気よく朗らかな様子を見せていたのだが。
エリジアは暇を見つけてヴィレイアに料理を仕込もうとしたようだが、ヴィレイアは一秒と経たずに逃走した。
ある夜の夕食のときにそれを聞いて、バンクレットは呆れた眼差しを、ヴィレイアではなくエリジアに向けた。
「彼女はきみの娘ではなくて、お客さまなんだよ、リジー」
リベルは左隣にいるヴィレイアに目を遣った。
木の深椀に盛られた夕食のシチューをつつきながら、ヴィレイアは「ですよね」というしたり顔。
リベルは水を飲もうとして、いつもの癖で左手でカップを取った。
それから左隣にいるヴィレイアを意識して、そのカップを置き、テーブルの上で滑らせる。
そして、改めて右手でカップを持ち上げた。
*◇*◇*
*◇*◇*
私はあなたと出会って変わった。
否応なく、たくさん変わった。
それはあなたもそうじゃないかな。
気づいてないかな……




