15 混沌
エルカがくぐもった声を上げて、影兵霊を振り払おうとして暴れ始めた。
恐ろしいことに、素手にも関わらず、実際に影兵霊の二人の頸を折るようにして、エルカは二人を雲散霧消させることに成功した。
だが、一度抑えてしまえば、あとは影兵霊の物量に敵うはずがない。
そう思いつつも、ヴィレイアは思わず、「警戒しろ」と影兵霊に命令を下していた。
彼女の心臓は早鐘を打っている。
ぜぇぜぇと息を弾ませ、一歩下がったリベルを一瞥して、ヴィレイアは覚えず責めるように言っていた。
「潰されたかと思ったわ」
「あんまり俺を舐めるなよ」
リベルが息を整えながら応じて、エルカから目を離さないまま、後退ってひしゃげた獅鷲の死骸まで下がった。
彼がそこから〈氷王牢〉を引っ張り出そうとするのを見て、ヴィレイアが指先で影兵霊に合図する。
途端、獅鷲の真下からするすると影兵霊が現れ、いとも容易く獅鷲の死骸を持ち上げた。
地響きを立ててその死骸をそばに放り出してから、影兵霊が恭しく〈氷王牢〉を拾い上げ、リベルに差し出す。
リベルは顔を引き攣らせつつ(何しろ、影兵霊の見た目はなんとも言えず不気味である)、「ありがとう」と呟き、〈氷王牢〉を受け取った。
リベルは再び、なお暴れ狂うエルカに近付くと、彼が取り落とした〈氷王牢〉の鞘に剣を収め、再びそれを腰に提げ、そしてエルカのそばに膝を突いた。
ヴィレイアを見上げ、金髪の少女に向かって顎をしゃくる。
「おまえ、あの子を捕まえといて」
「ご心配なく、手配済みです」
ヴィレイアが言下に応じる。
実際に、端から抵抗の気概すらもないだろう少女を影兵霊が包囲しているのを見て取ってから、リベルはエルカに視線を戻した。
「――エルカ、聞いて」
「このくそやろう」
エルカが罵った。
本心からの、魂を振り絞るような罵倒だった。
「そんなこと出来るわけねぇだろ、この恩知らず!」
リベルは一瞬、打擲に耐えるような顔をしてそれを聞いた。
それから、息を落ち着かせるような間をとって、続けた。
「――ごめん。俺だけ逃げてごめん。――おまえが要らないって言うなら、俺だって何もしないよ」
囁くように。
「俺にとって傭兵団はつらい場所だったけど、自分がつらかったから他人だってつらいだろうって言うのは傲慢だもんな。
――だけど、エルカ、俺と一緒にいたときは、おまえはつらそうだった。
今も、おまえがちょっとでもつらいなら、」
エルカの獣じみた絶叫に、ヴィレイアが一歩下がった。
リベルはいっそ嘆願するように続けている。
「――なら、助けさせてくれ、おまえに救われた俺のために」
息を吸い込み、震える声で。
「おまえが、俺なんかは再出発に値しないって思うなら、俺はもう一回、黙って消えるよ」
「リベル!」
エルカが怒鳴った。
「俺がおまえを許すことと、ここでおまえの話を聞くことは、違う!!」
「分かってる」
首肯して、必死の表情で、リベルはエルカの肩を掴む。
「――そう言ってくれるってことは、俺には許される可能性がまだあるんだな?」
リベルが、ちらりとヴィレイアを見上げた。
ヴィレイアの、不安に顰められる眉を見た。
「俺が何をしようとしてるかは、ヴィリー、分かるな?」
昨日――いや、もう一昨日か。軽く触れたことだ。
「まあ」
ヴィレイアが呟いて、胸元の時精時計を右手で触りながら、ちらっと金髪の少女を振り返る。
金髪の少女は、ヴィレイアの百倍ほどには不安げに身を縮めていた。
その姿が、ヴィレイアが左手に引っ提げる〈焔王牙〉の揺らめく明かりに照らし出されている。
「後に出来ない? あの子をジョーゼル小父さまに引き渡さなきゃ」
「出来ないな。――俺の話を聞くだけで発動する禁則契約だぞ」
エルカは今も、影兵霊に全力で抵抗している。
更に三人の影兵霊が、脚や頸をへし折られて雲散霧消した。
それを見て、ヴィレイアが顔を顰める。
「エルカをここから連れて行くには、今やるしかないな」
ヴィレイアは片頬を膨らませ、言葉を探すような風情を見せてから、諦めたようにぷくっと息を抜いた。
「あなたの覚悟がいいなら、そのように」
「覚悟?」
リベルはにやっと笑った。
「そんなものは弱者の胸にあるものだ。――強者には常に自由がある」
いつものようにそう言って、リベルは心配そうにするヴィレイアに掌を見せる。
「――心袋の限界を超えて魔法を使う魔法使いのそばにはいない方がいいって、それくらいのことはおまえも知ってるだろ、ヴィリー。離れてろ」
「多分、そうしない方がいいかな」
ヴィレイアが嘆息して、言った。
すかさず反論しようとするリベルに掌を見せて、言い聞かせるように続ける。
「なんでかって言うと、心袋が破裂したら人間は欠けちゃうものだから。
ついでに、私は欠け人になったあなたを地上に連れて行く気はないから。
それで、悔しいけど今の私には、あなたが欠けないように守ってあげることは出来ないけど、それが出来る人を後ろから脅しつけることは出来るのよ」
ヴィレイアは二人のそばに〈焔王牙〉を突き刺して手を離すと、振り返り、天然の大広間の入口付近でぺたんと座り込んでいる、金髪の少女に歩み寄った。
歩み寄るにつれて、少女があからさまに怯えた様子を見せる。
そばに蠢く影兵霊よりも、ヴィレイアに怯えていることが明白に分かる、視線の泳ぎ方、肩の震え方。
ヴィレイアは彼女のそばに片膝を突いた。
千人に一人の法術師の薄紫の瞳を、万人に一人の法術師の濃緑の瞳が覗き込んだ。
「――どうもはじめまして。
私はヴィレイアよ、治癒精を盗んだ法術師さん」
万人に一人の法術師がそう言った。
「あなたのお名前は?」
千人に一人の法術師の、震える唇が応じた。
「リエラ……」
「リエラ、どうも」
ヴィレイアは衒いなく言って、手を差し伸べてリエラを立たせた。
そうして並び立つと、リエラよりはヴィレイアの方が少しばかり背が低い。
しかし今は、リエラの膝が笑っているために、それは目立たなかった。
「リエラ、私はあなたを脅しに来たのよ」
ヴィレイアがにっこりと微笑んだ。
「今日という日は、治癒精の力を扱えるのはあなただけなの。
――あなたがそばにいて、リベルに何かあったら、あなたが生きてこの鉱路を出ることはないわ」
ヴィレイアとリエラの遣り取りを、はっきりと聞き取っていたわけではなかったが、どちらにせよリベルがすべきことは決まっていた。
彼はエルカの肩を掴んで、きっぱりと告げた。
――この上ない確信を籠めて。
「よし、エルカ。俺が今のところは無事だっていう事実に基づいて言うんだが、」
朱色の瞳でエルカの薄青い瞳を見つめて、リベルは首を傾げた。
「――話を聞いてくれ。大丈夫だから」
その口調。
懇願と、緊張と、絶対的な確信――エルカが頷くまでは、断じてこの場が終わることはないという確信の籠もった口調。
傭兵団の中で、日々が彼に残していく棘を呑み込もうとしていたときには、断じて聞くことがなかった語調。
その声音が、エルカの中の、存在するとも知らなかった何かの箱をこじ開けたようだった。
箱の蝶番は錆びついていて、こじ開けられるだけで軋んで胸が痛む。
そしてその中には、一度たりともエルカが触れたことのない、手垢のついていないまっさらな感情、すなわち自由への憧憬と期待が詰まっている。
「――自由?」
エルカは囁く。
その声が抑えようもなく震える。
「今にも欠けそうな奴の尻を蹴っ飛ばすんじゃなくて、もういいから寝てろよって言えるような自由があんの?」
あるわけがないと馬鹿にする一方で、その自由があればどれほど救われるだろうという、切実なまでの憧れ、眩しくて直視できない何かに向けるような畏怖が、堪えようもなく声に滲む。
影兵霊が、ぞろり、と、エルカから離れた。
拘束を解かれてなお、エルカはその場から動かない。
切れ長の瞳に水の膜が張ったような具合になって、そしてぽろりと滴が頬に落ちた。
「……もし、マジで、俺にも手が届くそんな自由があるんなら、」
エルカは鼻を啜る。
薄青い目の中で、彼の瞳孔が縮んだのがリベルには見えた。
――恐怖のためだ。この後に彼を襲うだろう苦痛への恐怖。
震える声で、エルカは囁いた。
「ちょっとは欲しがってもいいもんかね」
〈言聞き〉たちの神秘の瞳が、この瞬間、彼らへの誓約に対する違背を見た。
そして彼らの、この世で最も厳正かつ犯し難い、禁反言の法則が冷徹に働いた。
――〈言聞き〉の誓約には二つの種類がある。
天命契約と禁則契約。
天命契約に背くことは出来ない。
ゆえに、その誓約に罰はない。
対して、禁則契約に背いた場合の罰は、巷で言うところの、「人生全てが焼き尽くされる苦痛」。
ヴィレイアはその瞬間、思わず目を逸らせていた。
〈言聞き〉の、感情のない瞳がエルカの違背を見つけたことは明らかであり、その瞬間にエルカを襲う、言語を絶する苦痛を――より正確に言うならば、その苦痛を受けるエルカの表情や叫び声を――恐れた。
だが、悲鳴は上がらなかった。
ヴィレイアは目を上げ、半信半疑であったことを――一人の魔法使いが、〈言聞き〉への誓約に違背した罰として顕れるはずの事象を、己の心袋に仕舞い込む光景を――目の当たりにした。
*◇*◇*
七歳の男の子に向かって、「なれるとしたら法術師と魔法使い、どっちがいい?」と尋ねれば、返ってくる答えは間違いなく、「法術師」だ。
理由もおおよそ「かっこいいから」だろう。
精霊法術の行使には、仰々しい儀式もあれば、精霊が引き起こす華々しい事象もある。
一方魔法には、そういった派手さがない。
――通常ならば。
今、リベルが魔法を使っていること、その稀代の大きさと強靭さを誇る心袋に、エルカを襲う事象を詰め込んでいることは明白だった。
エルカの、予想していた最悪の事態が訪れないことに見開かれた目を見れば分かる。
エルカが何か言おうとした。
ヴィレイアが地面に突き刺したままになっている〈焔王牙〉の揺らめく明かりの中で、それが見えた。
だが、それよりも早く――ものの数秒で、リベルの驚異的な大きさを誇る心袋が限界を迎えた。
リベルにとっては生涯二度目となる、心袋が張り裂けんばかりになる、あの感覚――
辛うじて、リベルは周囲に向かって、「離れろ」と告げようとした。
だがその余裕ももはやなかった。
――心袋に詰め込まれた事象は、胃袋が食べ物を消化するかの如くに消化され、変容する。
何に変容するのか、それは余りに捉えどころのないものであるため、長きに亘って、ただ「混沌」と言い表されてきた。
魔法使いが、己の限度を超えて魔法を使おうとしない理由。
それは一に、心袋が限界を迎え、溜め込んだ混沌を吐き出すとき、周囲に甚大な被害が出るため。
そして二に、混沌を吐き出す際に、魔法使い自身も無事では済まないためだ。
リベルは痛みと眩暈、そして急激に上がった体温のために、周囲の様子を何一つ把握することは出来なかった――自分自身が〈言聞き〉の誓約に背いたときと同様に。
だがそのとき、リベルが抑え損ねた混沌が溢れ出し、辺りを一変させていたのだ。
地面が急速に柔らかくなった。泥に変じたというのとも違う、ただ地面が沈み込んでいく感覚。
そして、唐突に上下の概念がひっくり返った――そのように感じられる一瞬。
その一瞬が終わってみれば、頭上から蔦が垂れ下がっていたはずが、いつの間にか、この天然の大広間が、その蔦から垂れ下がっているような格好になっている。
名状し難い、筆舌に尽くし難い現象、そしてそれゆえに「混沌」と呼ばれる現象が、続いて辺り一面の空気をモザイク模様を描く虹色に光らせ――
「リエラ!」
ヴィレイアが怒鳴った。
影兵霊が次々に消え失せていくことが感じられ、ヴィレイアは堪らず影兵霊に待機を命じていた。
「何してるの! リベルに何かあったら、生きてここから出さないって言ったでしょう!!」
通常の魔法使いが限界を迎えて混沌を吐き出すとき、その混沌は、一塊の岩石をヘドロに変える程度のものであることが多い。
これほどの規模の混沌を吐き出しているのであれば、――リベルの心袋が、文字通りの破裂寸前であることは想像に難くない。
リベルの顔を見ることすら、既に難しくなっていた。
辺りには文字通りの混沌が渦を巻いている。
地面は霞の感覚となり、モザイク模様に光る空気のあちこちから、顔貌のない、なぜそれがそうであるのかすら分からない、形のない不気味な笑顔のみが覗いている。
かと思えば周囲には白い霧が渦を巻き始め、その霧のそこここが、ぱっと青く発火していく。
発火しているはずなのに、周囲の空気が凍りついて、鮮やかに煌めきながら乱舞していく。
海鳴りのような音が聞こえていた。
だが懸命に耳を澄ませば、ヴィレイアには、リベルの呼吸の音――危機感を覚えるほどに切迫した喘鳴が聞こえてくる。
そしてエルカの、繰り返しリベルの名前を呼ぶ声が、まるで水晶玉の中で反響しているように不明瞭ながらも聞こえていた。
リエラは混乱と恐怖に目を瞠り、まさにそのとき、獅鷲の死骸が巨大な、青く輝く泡玉に変じるのを見ていた――
――そしてぎゅっと目を瞑り、両手を固く組み合わせる。
祈るようにその手を額に寄せて、囁く。
「――治癒精……!!」
そのとき、混沌の陰に隠れて誰の目にも触れなかったが、リベルは喀血していた。
咳き込むと同時に泡の混じった血液が目の前に広がり、彼は自分が地面に倒れていることを悟ったが、身体の感覚がまるでなかった。
全身を回る血液に、鋭利な棘を仕込まれたかのようで、心臓が動く度に耐え難いほど全身が痛んでいた。
痛みの根源は心臓の隣、神秘の臓器である心袋だ。
心袋が破れたのではないかと思うほどの痛みに、無意識のうちに彼の両手が胸を掻き毟る。
そして眩暈――背骨と翼骨が氷に挿げ替えられたのではないかと訝るほどの悪寒。
急激に上昇する体温に寒気がする一方、額に玉の汗が浮く。
前後の状況があやふやになる。
彼はあの日、十四歳のあの日に戻っていた、己の誓約を破り、追われた日に戻っていた。
――あの日の、冬の白い日差し。
弱い日差しに淡く落ちていた建物の影。
走らなくては、と強く思うのに一向に動かない、重い両脚。霞が掛かったような頭の中。
発熱に燃えるようだった目の奥。
背筋が震える悪寒。
歩く度に混沌を振り撒くことになり、通った先々で建物の窓硝子が奇妙な鳥に姿を変えていったこと。
あの乞食の老人の顔が見えた――垢まみれで大らかに笑った顔。
熱に浮かされ、足許も覚束ないリベルを外套の下に庇い、追手を相手に平然と惚けてみせた、あの顔。
そのまま衰弱して欠けようとしたリベルに、水と食べ物を恵み、頭を撫でてくれたあの大きな掌――饐えたような臭いと、やっと言葉を取り戻したリベルがうわ言のように「恩返しに来るから」と呟くと返された、あの言葉。
『要らん要らん。ただ、儂がいなきゃあおまえさんは欠けてたってこたあ、おまえさんがこれからやること成すこと、そいつあ全部儂の責任でもあるわけだわな。――善人になってくれよ。
上手い具合に坊主が生き延びて、坊主が偉くなりゃ、この老い耄れが偉くなったも同然だわな。だろ?』
――そのとき、ぱっ、と輝く、桃色がかった白い光が見えた。
頭が麻痺していたが、それでもその光が、治癒精との契約を示す光であることは分かった。
――〈鉱路洪水〉。夜闇の色の巨大な亜竜。肩に牙が喰い込んだ痛み――それを癒したものと同じ光。
――『今度は私が、あなたの幸運の勇者になってあげる』
(――ヴィリー……?)
白い光が身体の内側に入り込み、痛みを和らげていく。
熱を持った箇所には氷を当て、悪寒には湯たんぽを当てるような、穏やかな癒しの感触。
リベルは無意識のうちに、その光に向かって手を伸ばしていた。
誰かの手が指先に触れた。
だが、違和感がある。
知らない誰かの手だ、そう思った。
指を引いたそのとき、別の誰かの手が触れた。
最近になってよく知るようになった指の感触。
辿っていけばその親指に、彼と揃いの指輪の硬さがある。
(――……ああ……)
今度こそ安堵して、リベルは目を閉じた。




