13 聞く、聴く、容れる
「本当のところ、どういう事情なの?」
――というのが、アガサが尋ねたいことであるらしかった。
組合の三階、普段は資源の換金で使われている部屋のうち一室である。
通り掛かった組合職員に、アーディスが「部屋借りていいか?」と尋ね、職員は何やら別件で取り込み中だったのか朝から忙しげで、「いいよいいよ、お好きにどうぞ」と投げ遣りに返答し、こうしてここを使うことになっている。
改まって全員が席に着いて――という雰囲気でもなく、アガサはテーブルの一つに行儀悪く腰掛け、リベルは椅子に横向きに腰掛けて背凭れに肘を突き、リガーは窓際に、アーディスは扉のそばに、それぞれ壁に凭れて立っている格好だ。
――アガサに重ねて問われて、リベルはきょとんと朱色の瞳を丸くする。
それから苦笑した。
「だから、ヴィリーが言ってたとおりだって」
それでもなおアガサが疑わしそうにしているので、リベルはヴィレイアが既に話した流れをもう一度口に出そうとしたが、それは遮られた。
遮ったアガサはもどかしそうで、リベルは面喰らう。
「アガサ?」
「リベル、あんたね――」
アガサは言い淀み、それから息を吸い込んで、思い切った様子で言葉を続けた。
「最近変よ。何を言うにもヴィレイアの顔色を窺ってる感じがする。
そんなのリベルらしくないわ。何か口裏を合わせるようにでも言われてるの?」
「――――」
リベルは瞬きし、それから苦笑いした。
「……あー……」
心当たりはあった。
バンクレットやヴァフェルムと関わるようになり、《死霊の姫君》の事情を知って、魔法使いと〈言聞き〉の関係を秘匿しなければならない事情があって、更にはヴィレイアの事情も絡まって、最近のリベルには他人には言えないことが増えている。
それが不安で、何かを話すときにはヴィレイアに目顔で確認することが多かったことは自覚していた。
「顔色を窺ってるっていうのとは違うよ」
どう言ったものかと、顔を顰めてしばらく考える。
「なんていうかな、――親父さん……バンクレットさんは軍人だし、俺たちに話してくれたことで、他言無用って言われてることは確かにあるから、そういうことを――なんだろう、口を滑らせるわけにはいかないから。俺よりあいつの方が用心深いから、話していいかどうか、あいつに判断してもらうことが多いだけ」
アガサはいっそう顔を顰めた。
心配そうでいながら不快げなその表情。
「それ――そういうのって、どうなの?」
「どうって?」
本気で当惑してリベルは問い返し、どうにもアガサとの会話の脈絡を追えていない気がして、助けを求めて扉のそばのアーディスに目を向けた。
が、アーディスも、「俺に頼るなよ」と言わんばかりに肩を竦めるのみ。
リベルはがしがしと赤錆色の髪を掻き回して、困り切った目をアガサに向けた。
「――あのさ、心配してくれてありがとう。でも、俺は大丈夫だよ」
アガサはいっそ不服そうだった。
「でも、変なことばっかりじゃない。挙句に法務官まで出て来て。絶対おかしい」
リベルは眉を寄せる。
「おかしいって言われてもな……」
「そんな――そんな、何を喋っていいかとかいちいち考えてるの、リベルらしくないわよ」
リベルは思わず笑い出した。
軽口の語調で返す。
「そんなの、状況によりけりだろ。俺らしいかどうかを状況で判断するなよ」
「リベルはそういう状況には陥らないものでしょ」
「なんだそれ」
リベルは噴き出した。
「どんな振る舞いをするかで判断してくれよ。何か、鉱路の外にいると俺らしくないってか?
――今はこういう状況にいるだけだよ」
「そういう状況になってるのがあんたらしくないのよ」
「そう言われても」
リベルは軽く両手を挙げた。
素直な戸惑いが顔に出ていた。
他ならぬ「リベルらしさ」を、他人が連続して口に出すことへの違和感が。
「俺は今の状況に全然不満がないんだ」
「だけど」
アガサがなおも言う。
喰い下がるといった風情のその様子に、リベルは困惑した。
――彼の人生において、誰かが思う性格や人格の、いわゆる型に嵌められようとすることは、馴染みのないことだった。
咄嗟にはそれに気づけないほどに。
アガサが言い募る。
不満げに――不安げに。
「本当にショーズ商会がどこかの鉱路を買おうとしてるにせよ、そんなの、対処するのはそれこそ勇者組合とかの仕事でしょ。なんであんたが首を突っ込もうとしてるのよ。
そんなのに首突っ込むなんて、本当に――らしくない」
リベルは落ち着かなげに脚を組み替えた。
ちらっと窓際のリガーを見ると、リガーはもう壁に凭れてはおらず、注意深くアガサとリベルを見比べていた。
「アガサ」
アーディスが扉のそばからそっと呼んだ。
「あんまりそういうことを言ってやるなよ。リベルだって、まだ十九かそこらだぜ。生活態度が変わることだってあるさ」
「俺はもう二十歳」
リベルが突っ込み、「そりゃすまんね」とアーディスがお道化る。
アガサはむっと口を噤み、眉間に皺を寄せている。
リガーが、努めて空気を軽くしようとした様子で口を挟んだ。
「アガサちゃんはまだ十九だっけか」
ふう、とアガサは息を吐く。
「――そうよ」
リベルはなんだか持て余すような気分でアガサを眺めた。
思えば、エルカとは意見が対立したことはあまりなく、ヴィレイアに関しては――それこそ、ヴィレイアがリベルの前から逃げ出したときなどに――意見の対立じみたものはあったが、それでも彼女を捕まえてしまえば、話し合うことは出来た。
あの余裕のないときでさえ、ヴィレイアは、リベルの言い分を容れる隙間を心に作っていてくれたのだ。
それに比べると、現在のアガサからは、そもそも話し合いにならない――彼女の側にこちらの言い分を聞く気がない――そういった気配があって、それだから落ち着かないような気持ちになっていた。
「あー、あのさ」
リベルは組んでいた脚を解いて、両の踵を落ち着かない気持ちで上下させた。
軽く前屈みになって、膝に肘を置く。
「アガサ、心配してくれてありがとう。
けど、俺は大丈夫だし――」
リベルは眉を寄せて少し考え、ややあって、ここまでは話しても大丈夫だろうという線引きを己の中で済ませた。
「――それに、実を言うと、その……鉱路の買収の話だけじゃないんだ、俺があれこれしてるのは――その理由は」
アガサが改めてリベルに目を向けたが、リベルにはどうにも、その大きな紫色の猫目の中に、相互理解の前兆を見つけることが出来なかった。
アガサの瞳の中には、リベルが新たな事実を告げることを歓迎する色――少なくともそれが、リベルが彼女に対して胸襟を開いている証拠になり、そのことを是とする色は見受けられなかった。
ただひたすらに、リベルが何を言おうともそれに反論してみせるというような、依怙地なまでの光があった。
が、それは気のせいかも知れなかった。
リベルはゆっくりと言った。
「その……ラディス傭兵団って聞いたことある?」
アガサが眉を寄せる。
「……あんたが行方不明になったときに関わってた、あの?」
「そう」
リベルは頷いて、手持ち無沙汰に両手の指を軽く組んだ。
「ショーズ商会が使ってる傭兵団。
――なんだけど、実際は違うんだよ。実際は……」
リベルは眉を寄せる。
記憶から感情を排するために、彼は一呼吸を置いた。
「……実際は、奴隷同然――らしい。誘拐されてきたり、身内から売られたり、そういう人が――無理に使われてる、らしい。ショーズ商会がなくなれば、そういう人たちを助けられる」
アガサは戸惑った様子で目を細めた。
「何それ、つまり……どういうこと?
あんた、あのとき〈言聞き〉を抱え込んでた連中から、話を聞くか何かしたってこと?」
リベルは言葉に迷ったものの、すぐに頷いた。
「――そういうこと」
「何それ」
アガサは平坦に呟いた。
本気で拍子抜けしたようだった。
「じゃあ、あんた――ねえ、ちょっと待ってよ。
赤の他人のために、法務官に突き出されるような事態にまでなったってこと?」
リベルはアガサの目を見た。
どうにも話が通じていないらしいと思ったのだ。
「アガサ、あの人たちはめちゃくちゃ酷い目に遭ってるんだ。あのとき――クロ……〈言聞き〉を連れてた人たちは、今はヴァフェルムさま――親父さんの上官が保護してるから、まだマシだろうけど。
今も酷い目に遭ってる人たちがいるんだよ」
「それ、あんたが法務官に捕まる理由にはならないでしょ?」
アガサが呟いた。
彼女が溜息を吐いた。
リベルは曖昧に肩を竦める。
確かに、ラディスがリベルの古巣であると、リベルと因縁のある集団であると知らなければ、そう思っても無理ないかも知れなかった。
「けど、俺は無事でいられる」
リベルは呟く。
彼に後ろ盾があることは確かだったから、語調には確信が籠もった。
「俺は無事でいられる――だから、その人たちを助けられる。
だったら、その人たちを助けるのはいいことだ。だろ?」
首を傾げてみせる。
リベルが朱色の瞳で見つめた先で、アガサは心底うんざりしたように溜息を吐いた。
「……あのねぇ、リベル。
そういう立場にいる人には、その人なりの責任ってものがあるのよ」
「――――」
リベルは無言で瞬きした。
彼の顔貌から表情という表情が削げ落ちて、リベルはまじまじとアガサを見ていた。
彼の様子が変わったことに気づき、アガサは面喰らったように瞬きする。
「リベル?」
リベルはゆっくりと息を吸い込んだ。
心臓が嫌な音を立てて鼓動を激しくしていたが、まだ冷静だった。
「――責任?」
呟く。
「どういう責任? まともなメシも食えなくなる責任ってなに?
何かあったら――悪いことをしてなくても、何かあったらそれだけで、欠けるほど痛めつけられる責任ってなに?」
アガサはまた、大きな猫目を瞬かせた。
そして、訝しそうに応じる。
「そりゃ……だって、リベル。みんな、何かしらの仕事をして生きてるのよ。お金を稼がないと生きていけないのは普通のことでしょ。
仕事をしないなら、そういうところまで行き着くのは当然のことよ。
じゃないと、真面目に働いてる人たちが馬鹿みたいでしょ」
「仕事がなかったら?」
リベルは低い声で尋ねた。
「仕事がなくて、どこからも要らないって言われて、何も持ってなかったら?
だったら物扱いされてもいいって?」
息を吸い込む。
「十歳かそこらで売られた子供に、何の責任があるって?」
アガサは眉を寄せた。
「それは、親が――」
「親を選んで生まれることが出来るのか。それは知らなかった」
痛烈な皮肉を込めてリベルは言って、そして今まで一度もなかったことに、使命感に駆られて口を開いた――彼の生みの親を庇うような、彼らが真面目でなかったという謗りを許してはならないというような、そんな使命感に。
「怠惰な人間だけが仕事に困るわけじゃない。
第一、稼ぎのある親のところに生まれるのなんて偶然じゃないか。その偶然を笠に着て他を見下すなんて、恥を知るべきだ」
アガサは真剣に困惑していた。
テーブルからぴょんと飛び降り、激しく瞬きしながら言う。
「リベル、どうしたの? その――どんな話を聞いたか知らないけど、肩入れし過ぎじゃない?」
「アガサ、教えてくれ。
そういう――誰かが商品として扱われることを許すくらいの責任ってなんだ?」
椅子に座ったままのリベルが見上げた先で、アガサは表情いっぱいに当惑を浮かべている。
「だから、それは――、だって、気をつけていれば――真面目にやっていれば、そんなことには――普通、巻き込まれないでしょ?」
「――気をつけていれば?」
リベルは呟く。
およそ危険なほど、一気に頭に血が昇っていた。
「――親が優しい顔して手を引いて連れてってくれた先で、殴り倒されて奴隷紛いの扱いを受けることを、十歳にもならない子供に予期してろってか?」
「リベル?」
アガサがぽかんとして彼を呼ぶ。
アーディスが何かを察した様子で制止しようとしたが、そのときにはリベルも立ち上がっていた。
立ち上がるリベルの顔に視線を当てたまま、アガサはきょとんとしている。
「リベル――どんな話を聞いたの?
それって本当のことなの? 確認はしたの?」
リベルは息を吸い込んだ。
「――確認?」
心臓が激しく打っており、頭が激情にがんがんと痛んだ。
――取りも直さず、これは失望だ。
失望があるということは、信頼していたということだ。
三年間は共にいたアガサに親しんでいたということだ。
彼女と決定的に相反する部分が露わになって、動揺したということだ。
そしてその動揺を押し殺し、丁寧に話して理解を得ようと出来るほど、リベルに刻まれた傷は浅くはなかった。
ヴィレイアに救い出されて、もう痛むことも少なくなった傷ではあったが、それでも深い傷だった。
人生を変えた傷だった。
――その傷を、彼自身の不注意や怠惰のゆえだとするような不名誉には、全力で抗わねばならなかった。
「確認……?」
「だって、」
アガサの表情は真剣だった。
リベルの先走った思い込みを危ぶんでいるような、そんな色さえあった。
いっそ気遣わしげですらあった。
リベルを守らなければと意気込んでいるようでさえ。
「だって、そういうところにいた人たちなんでしょ。
――どこまで本当か、わからないじゃない」
リベルは息を止め、その息を吐き出した。
アガサから向けられる思い遣りや気遣いが、むしろ汚泥のようにすら思えた。
振り払わねばならないもの、彼を貶めるもの、――そういったものに。
ゆっくりと息を吸って、彼は吐き出すように言った。
「――俺だよ」
「は?」
アガサが眉を寄せる。
リベルの胸が引き攣れたように痛んだが、それがどんな感情の所以かは彼自身にもわからなかった。
彼は繰り返した。
「俺だよ」
アガサがゆっくりと瞬きする。
リガーが窓際で凍りついていた。
アーディスもさすがに目を瞠り、言葉もない様子だ。
リベルは慎重に息を吸い込む。
声が震えないようにするために、ありったけの自制心が必要だった。
「俺だ。俺に起こったことだ。
俺もラディス傭兵団にいたんだ」
アガサが目を瞠り、両手で口許を覆う。
彼女の目が、リベルの全身を折り返すように眺める。
「……嘘でしょ……」
「ああ、」
リベルは唇だけで微笑んだ。
「なるほどね。
俺が――俺も、そういうところにいた人間だから、信じられないか?」
アガサの顔貌に混乱と、笑おうとして笑えない、半端な表情が拡がる。
どんな表情を見せればいいか、わからないといったような。
「え……」
戸惑ったように瞬いて、彼女は呟いた。
「え、どういうこと――嘘だってこと?」
その言葉が、その言葉に込められた言外の意識が、リベルの視界を完全に変えた。
一歩も動かず、瞬きもせず、しかしリベルが見ているのは、もはや仲間のアガサではなかった。
無意識にではあれ、リベルの皮肉を笑い飛ばせる冗談だと思った――つまるところが、リベルがこれまで話したことを、彼自身が冗談に出来る程度の話なのだと思い込んでいる、軽んじている、その意識の隔絶がくっきりと目に見えるようだった。
(――俺も……)
リベルも言葉足らずではあった、それは自覚していた。
理解を得ようとするには圧倒的に言葉が足りていなかった。
だがそれ以上に、アガサに話を聞いて理解する気が全くなかった。
「――――」
その瞬間、全く衝動的に、リベルはシャツに手を掛けていた。
シャツと肌着を一纏めにして、勢いよく脱ぐ。
そして背中をアガサに見せた。
――一度たりとも彼らに見せたことのない背中。
ラディス傭兵団の焼き印がある背中。
「ほら」
リベルは言って、また素早く肌着とシャツを身に着ける。
衣服で瞬間、隠れた視界が開けてみると、アガサは目を見開き、戦慄に凍りついている。
「焼けた鉄を押し付けられるんだ。
すげぇ痛いぞ。肉が焦げる音がするし、臭い。
そのあと熱も出る。喉が渇くけど水をくれるような親切な人間は周りにいない。
逃げようとすると骨を折られる。それも痛い。
――俺は十歳にもなってなかったぞ」
乱暴にシャツを脱いだせいで乱れた髪を掻き回す。
「で、そのあとは商品の扱いを受ける。もっと酷い目にも遭った。
――アガサ、俺に、俺があんな目に遭った責任があったっていうなら、どういう責任だったのか教えてくれ」
アガサは凍りついていたが、辛うじて息を吸い込むと、細い声で応じた。
「そんな――そんな、あんたの人生全部を知ってるわけじゃないんだから、答えられるわけないでしょ」
「俺の人生全部を知ってるわけじゃないのに、責任があったことは疑わないんだな?」
「――リベルは違う」
アガサは発作的に言った。
言葉が溢れたようだった。
「あんたは違う――だって、あんたは逃げられたんでしょ?
だったら他の人もそう出来るはずで――」
「俺が逃げられたのは、」
リベルは言下に断言した。
声が荒らぐのを自覚したがどうしようもなかった。
「俺が逃げられたのは、俺が卑怯者のクズだったからだ。
俺より立派な人はあそこで自分より弱い人間を庇ってた。
――確かにあそこで苦しんでる人間は、人間の屑かも知れないが、それでも人間であることに疑いはない」
「――そんなに怒らないでよ!」
アガサが叫んだ。
悲鳴じみた声だった。
「確かに――ごめんなさい、配慮のない言い方だったけど、でもリベル、あんた、今は幸せなんでしょ? もう済んだことなんでしょ?
だったらそんなに怒らないでよ!」
リベルは息を引いた。
「――済んだことにはならないんだよ。俺の人生の一部があいつらに傷つけられたことは取り返しがつかないんだよ。
――それに、俺が今どうやって過ごしてるとか、幸せかどうかとか、そういうことじゃない」
押し殺した声はとうとう震えそうになったが、それを堪えて押し出す。
「あいつらは屑だ。泣いてる子供を見て手を叩いて喜んでるような屑だ。
――だけどあいつらが屑じゃなかったとしても、あんな暴力は間違ってる。
受ける人間が善人か悪人か、真面目な人間か怠惰な人間か、そういう問題じゃない――今の状況が間違ってる」
大きく息を吸い込み、一瞬間ぎゅっと目を瞑ってから、リベルは改めてアガサを見た。
「――おまえさ、散々、俺らしいだのなんだの言ってたけど、おまえは全く俺のことをわかってないだろ。
なのに勝手なこと言うなよ。言うに事欠いて、――真面目にやっていれば、とか、気をつけていれば、とか……挙句になんだよ、俺が冗談でこんなことを言い出すようにでも聞こえたのか」
はあ、と溜息を吐いて、リベルは朱色の瞳で最後にアガサを一瞥した。
「――時間の無駄だった。
おまえに説明しなきゃいけない事情なんて、本来なら何もなかったんだ。
心配を掛けたから礼を言いに来た俺が馬鹿だった。
――二度と俺に話し掛けたりしないでくれ」
アガサが細く息を吸い込む、何かを言おうとする、それはもう一顧だにせず、リベルは振り返った。
リガーに向かって「ごめん」と身振りで示し、まだ戦慄した様子でリベルを凝視する彼に苦笑する。
彼らに恥を晒した自覚はあったが、まだそこに対して感情は動いていなかった。
扉に足を向け、アーディスの腕に躊躇いがちに触れて、リベルは囁いた。
「――付き合わせてごめん、アーディス。俺とエルカが――こないだの礼で、タダ働きするっていう話は生きてるから、いつでも呼んでくれ。
ただそのときは、あいつはいない方が嬉しいかな」
アガサを頭を傾ける動きで示してそう言って、リベルは苦労しながら微笑んだ。
「……初めて会ったときの俺が世間知らずだったのも、納得だろ?」
アーディスは息を吸い込み、リベルの腕を掴んだ。
彼の青い目に、理解が怒濤のように閃いていた。
――初めて会ったときのリベルの世間知らず振りに対する理解、リベルが異様に人見知りをすることに対する理解、リベルがこれまで、決して背中を見せなかったことに対する理解。
リベルの、生き残ることに特化した、卓越した技量に対する理解。
しかしその全てを呑み込んで、アーディスが吃りながら尋ねたのは別のことだった。
「お――おまえ、火傷、まだ痛むのか」
「――――!」
リベルは目を丸くし、それからにっこりと笑った。
「――もう大丈夫だよ、アーディス。ありがとう」
軽くアーディスの手を叩き、腕を掴んだ指を離させる。
そして扉を開けて、リベルは廊下に足を踏み出した。
「――リベル!」
最後にアガサの声が聞こえたが、リベルは振り向きもせず扉を蹴って閉め、大きく伸びをしてから、足早に廊下を歩き出した。
*◇*◇*
一階の食堂に下りてみると、ひたすら委縮しているラティを相手に、なんとか話題を会話一往復以上はもたせようと、ヴィレイアが奮闘している最中だった。
リエラが合流している――エルカの隣にちょこんと彼女が腰掛けており、エルカはヴィレイアのこともラティのことも放って、くどくどとリエラに何かを言い聞かせている様子だった。
こんなところで無防備にうろうろするな、というようなことを言っているらしく、リエラはしゅんとしている。
が、戻って来たリベルの足音に、最初に気づいたのはエルカだった。
彼が振り返り、一拍を置いてラティが、そしてヴィレイアとリエラがリベルに気づく。
「よう!」
エルカが片手を挙げて合図し、直後に眉を顰めた。
リベルの表情から、何かがあったことを察したらしい。
が、触れていいものかどうか、咄嗟にはわかりかねた様子でエルカが口籠る。
ラティはぱちくりと瞬きしていた。
当然ながら、彼はアーディスたちがリベルと共に戻って来ると思っていたのだ。
リベル一人だけが戻って来たことに戸惑っている。
「……リベル、アーディスさんたちは……?」
彼がおどおどと言い差したが、リベルは首を振っただけで答えず、ヴィレイアたちのそばに行き着いて足を止めた。
そのまま、手を伸ばしてヴィレイアの二の腕を掴み、彼女を立ち上がらせる。
ヴィレイアも、探るようにリベルを見ていた。
どうしたの? と言わんばかりに首を傾げ、促されるまま抵抗なく立ち上がったヴィレイアを、リベルは無言のまま抱き締めた。
当然ながら、リベルは食堂中から注目を浴びている。
かてて加えて、これまで女性の影すらなかったリベルのこと、周囲からどよめきじみた声が上がり、冷やかすような口笛が吹き鳴らされる。
普段ならば真っ赤になっていただろうが、リベルは今はそれを気にしていられなかった。
ヴィレイアの背中に手を回して、彼女の肩口に顔を伏せ、深呼吸する。
――温かいヴィレイアの香りを吸い込み、リベルの背中に回された彼女の手の感触を、リベルを周囲の視線から守ろうとするかのように頭に置かれた指の感触を、目を閉じてじっと感じる。
――ヘルヴィリーのあの橋の上で、救われる気もなかった、救われるなどとは思ったこともなかったリベルの話を辛抱強く聞き出して、彼の幸運の勇者になると宣言してくれた少女の熱を。
リベル自身の才覚で彼を贖わせ、救ってみせた、リベルはもう誰のものにもならないと断言してくれた彼女の温かさを。
摩耗した心が、ヴィレイアに触れたところから修復されていく気がしていた。
守られている、大切にされている、ここに自分の絶対的な味方がいると感じて、途方もなく安心できる。
しばらくリベルの腕の中で大人しくしていたヴィレイアだったが、やがてそっと呼ばわった。
「――……リベル?」
リベルはゆっくりとヴィレイアから離れた。
先程の一連の応酬が、思っていた以上に堪えたらしいと自覚して、苦笑する。
「――なに?」
「私に出来ることある?」
ヴィレイアは真剣な語調で尋ねた。
リベルに何かがあったことは察しており、その上で、リベルの上にかかる雲を晴らそうと懸命な様子だった。
リベルは微笑んだ。
「そばにいてくれればいい」
ヴィレイアは不安そうだったが、すぐにリベルの左手をぎゅっと握り締めた。
リベルは空いている右手で目を擦る。
「……話、終わった。
聞く価値もない話だった。待たせてごめん」
「――――」
ヴィレイアはいっそう不安そうに可憐な眉を寄せた。
――実を言えばヴィレイアは、かなりの確率で、アガサがリベルに恋慕を告げるのではないかと予想していた。
そしてそうなれば、優しいリベルのことだから、無碍には出来ずに困り切るだろうと。
だがどうやら違ったらしい、と察する。
(リベルは――)
望んだものであれ、望んでいないものであれ、
(人の気持ちを、「聞く価値もない」とは言わないだろうから……)
ともかくも、リベルの手を握る指に力を籠める。
リベルが疲れているように見えて、彼の杖になりたいと思った。
エルカも、気懸かりそうにリベルをじっと見つめている。
当惑しているラティに、「じゃ」と手を振ったリベルが、「もう行こう」と合図すると立ち上がり、エルカは彼の肩を軽く叩いた。
「大丈夫じゃなさそうだけど、嫌なことでも言われたか?」
リベルは曖昧な、微かな笑みを浮かべた。
肯定とも否定とも取れるその表情に、エルカは肩を竦める。
「嫌なことなら忘れろ。どうでもいいことなら気にするな」
リベルが閃くように笑う。
「そうする」と呟いて、ヴィレイアの手を引く。
――このときリエラは、他の二人ほどにはリベルを見つめておらず、かつ、いっぱいいっぱいになったリベルよりも、このときばかりは視界が広かった。
ゆえに、最初に気づいた。
「――あっ」
驚きというより恐怖に近い声を上げたリエラを、エルカが訝しげに振り返る。
「どうしたの。――……?」
そしてリエラの視線を追い、――彼も硬直した。
リベルとヴィレイアが、そっくり同じ仕草でエルカを見て、首を傾げ、エルカの視線を追って食堂の入口に視線を振り向ける。
そして、異口同音に呻いた。
「――げ」
食堂には、異質なざわめきが拡がりつつある。
敵意とはいわないまでも警戒心の籠もった、詮索するような種類のざわめきが。
「……やっべぇ」
エルカが呟き、片手で口許を拭う。
「俺たち、怒られるようなことしたかな?」
――食堂の入口に、山鳩色の軍服を身に纏った、ジョーゼル・バンクレットが立ち、ぐるりと食堂を見渡していた。




