04 探し物は奥の方
エーデルからアインヴェルまで、陸艇であれば二日半程度の旅程となる。
が、黄金竜である〈陽輪〉の翼は、ものの一日でヴィレイアをアインヴェルに運んだ。
しかも、出発して間もなく訪れた夜には地上に降りて休み、再度出発した朝方に、途中の町に立ち寄って誓約を一件こなした上でのことである。
ヴィレイアは、〈言聞き〉というものにいい思い出がない。
だが一方で、ヴィレイアの誓約を認めた〈言聞き〉が、彼女に悪意を持っていたのではないということも理解している。
夜には翼を休める〈陽輪〉をからかってじゃれ掛かり、朝方には誓約に向かう際に、どことなく面倒そうに振る舞うクロを見ていると、ヴィレイアの生来の陽気な性格も相俟って、〈言聞き〉に対する苦手意識は鳴りを潜めようとしていた。
アインヴェルに到着する前に、クロは一件の誓約をこなした。
誓約を行おうとする人間が、どうやって〈言聞き〉を呼んでいるのか、ヴィレイアは知らない。
だがともかくも、クロには呼ばれたことがわかるらしい。
とある町の手前で降り立った〈陽輪〉が、――そこがアインヴェルではないことは明白だったために――怪訝な顔をするヴィレイアに、『この人間の巣で用があるから、愛し子と行きなさい』と促した。
昨日までのヴィレイアならば、〈言聞き〉と二人にされることに忌避感を抱いただろうが、このときにはもうそれはなかった。
町へ通じる街道を、二人して好き勝手に喋りながら歩く。
何しろ、お互いの言っていることは何一つとしてわからないのだ。
ヴィレイアがとにかくリベルに関する惚気話を披露する一方、クロの方も何やら自慢げに喋り倒していた。
街道には、多くはないが人通りもあり、〈言聞き〉と人間の少女という、一風変わった二人連れに、ぎょっとするような、あるいは訝しげな視線が数多く向けられた。
市門を守る衛卒も、〈言聞き〉をわざわざ咎め立てして足を止めさせることはしなかった。
一方のヴィレイアには訝しげに声を掛けられたが、衛卒の声を察知したらしきクロが、すばやくヴィレイアの腕を掴んでそばに引き寄せると、強いて引き留められることはなかった。
ヴィレイアは息を呑んでいた――クロの、人よりも関節が一つ多い手は大きく、ヴィレイアの二の腕を掴んだとき、指の長さはヴィレイアの腕を一周して余りあるほどだった。
灰色の肌はひんやりと冷たく、微かに湿っていて、感触としては皮膚というより粘膜に近かった。
町に入ったクロは迷うことなく道を進み、〈陽輪〉が降り立てそうな広場を見つけて足を止めた。
そのときには〈陽輪〉は町の上空にいて、優雅に翼をはためかせて降下してきて、広場に降り立つ。
〈言聞き〉も黄金竜も、決して珍しいものではなかったが、そのそばに誰かがいることは稀であるために、クロや〈陽輪〉よりも、むしろヴィレイアの方が周囲からの訝しげな目を向けられた。
このときには、ヴィレイアも朧気に、クロが誓約のために呼ばれているのだとわかっていた。
なので取り敢えず、「お仕事がんばってください」と伝えてみる。
クロは無反応だったが、〈陽輪〉が喉の奥で微かな音を立てると、ヴィレイアに向き直って嬉しそうに頭を上下させてみせた。
誓約に向かう際に、彼はヴィレイアを見て、喉の奥で歌うような声を出しながら、踊るような独特の仕草を見せた。
ヴィレイアがその仕草から意図を拾おうとして、「待っていればいいの?」と尋ねてみる。
〈陽輪〉が『そのとおり』と言ってくれたので、ヴィレイアは了解を示して頷いた。
クロは何度もヴィレイアを振り返りながら雑踏の中に消えていき、〈陽輪〉は広場から飛び立って、クロの頭上にいることを選んだ。
いってらっしゃいとそれを見送り、ヴィレイアは広場から出て、適当な露店で朝食を賄う。
何しろ空きっ腹だった。
そうして食事をして、ついでに予め、陽精と浮揚精、透過視精と影契約を結んでおく。
影兵霊に喰わせる法気が圧迫されるのはいただけないが、いざというときに影契約をうっかり忘れていて、打つ手がなくなるよりはましだと思ったためだった。
そうしてから元いた広場に戻り、手持ち無沙汰に待っていること半時間程度で、クロと〈陽輪〉が戻って来た。
クロはヴィレイアに駆け寄って、言葉が通じなくともわかる嬉しそうな仕草で彼女に何度も会釈してみせる。
ヴィレイアは困惑したが、そのとき彼女のそばに降り立った〈陽輪〉が、そっと言った。
『愛し子はきみの無事に気を配っている』
ヴィレイアは面喰らった。
「彼が、リベルのことを好きだからですか?」
クロがリベルを見る度に嬉しそうに抱き着こうとしているのを、彼女は見ている。
そのため、リベルが心を配るヴィレイアの無事にも気を遣っているのだろうかと思ったのだ。
〈陽輪〉は黙り込んで、答えなかった。
そして、その日の夕暮れ前には、ヴィレイアはアインヴェルに運ばれていた。
ヴィレイアがこの町に来るのは二度目であり、決してこの町に詳しいとはいえない。
だが、
「――まあ、なんとかなるでしょ」
そう独り言ち、彼女が朗らかに〈陽輪〉に礼を述べて彼の前肢からぴょんと飛び降りたのは、アインヴェルに通じる街道から、少し逸れた原野でのことだった。
春を迎え、初夏を待ち構える原野の植物が、青々と生い茂っている。
風が吹くと草が一斉にそよぎ、耳の底を撫でるような、ざあっという音が鳴る。
既に日は暮れかけており、ヴィレイアはじゃっかん慌て始めた。
市門が閉まってしまう。
市門が閉ざされたところで、ヴィレイアが本気で画策すれば町に入り込めないことはないだろうが、衛卒に顔を覚えられるのは避けたかった。
ただでさえ、ヴィレイアには自分の容姿が目立つ自覚がある。
(リベルももう少し自覚すればいいのに)
脈絡なくそんなことを考えた。
客観的に見ても、リベルの顔立ちは整っているが、本人にはまるでその自覚もなければ、そのことに頓着する様子もない。
ヴィレイアは探索に赴くときのように素早く髪を纏め上げ、荷物の中から若草色のストールを取り出し、フードを被り込むような格好で、髪と顔を隠すようにして身に着けた。
特徴的な髪色を隠すだけで、ヴィレイアが他人に与える印象はがらりと変わる。
それから急いて街道に向かおうとする。
が、〈陽輪〉が彼女を呼び止めた。
「はい?」
振り返ると、〈陽輪〉は前肢に顔を伏せており、一拍を置いて、ずい、とヴィレイアの方へその顔を近づけた。
黄金竜の巨大な牙が接近する形になり、ヴィレイアは覚えず一歩後退ったが、すぐに〈陽輪〉の口からぽろりと煌めく欠片が落とされたのを見て取って、危うい動きでそれをキャッチした。
小さな鱗である。
たった今引き抜かれたばかりのような、微かな温かさの残る黄金の鱗。
清潔な金色の中に、微かに虹色の光が射して見える色合い。
ああ、とヴィレイアは声を出す。
「もしかして、これ、あなたに声が届いたりするんですか」
亜竜の鱗から仕立てた指輪の恩恵が頭にあったからこその推測であり、それを聞いた〈陽輪〉の腹の奥から、ぶーんと音が響いてきた。
『そのとおり。きみはリベルと違って察しがいい』
ヴィレイアはむっとした。
「リベルにだって、頭が回っていないときくらいあります」
黄金竜の頭上で、尖塔の形に合わされた大きな翼が、しゃらんと音を立てて微かに動く。
どうやら人でいうところの、肩を竦めるような動作が為されたらしい。
夕闇が迫る中にあって、黄金竜の造形は神秘的な煌めきと美しさを湛え、芸術的なものすら感じさせていた。
『そうか。――用が出来れば呼びなさい。迎えに行く』
ヴィレイアは掌の上で黄金の鱗をひっくり返し、それから〈陽輪〉に目を戻して、にっこりと微笑んで会釈した。
内心で、確かにリベルが話していたよりも、〈陽輪〉の対応が親切で丁寧であることは訝しんでいたが、頓着する気はなかった。
そもそも黄金竜や〈言聞き〉の思惑を、完全に理解できるはずがないのだ。
(――それに、私が期限の日に欠けるってことは、〈言聞き〉が決めていることだし。その日までは、私に何かあったら困るってことかもね)
そんなことを思いながら、ヴィレイアは朗らかに告げた。
「ありがとうございます、〈陽輪〉さん」
そして踵を返し、ヴィレイアはストールを押さえながら、街道を目指して駆け出した。
ヴィレイアは、市門が閉まるぎりぎりの時間になってアインヴェルに駆け込むことになった。
これが彼女だけであれば、さぞかし衛卒に顔を覚えられる結果になっていただろうが、幸いにもというべきか、各々が背中に籠を背負った四人家族と、かっちりとした身形をした小男と、明らかに男装とわかる少年の格好をした少女が一緒であったために、衛卒は一纏めにして全員に怒鳴り散らすことになった。
「日が暮れるのもわからんのか!」
四人家族のうちの、まだ十代前半と見える兄妹が、不安そうに父親と母親に身を寄せる。
両親が庇うように彼らに腕を回すのを見て、ヴィレイアは微笑ましさよりも先に胸を刺されたような痛みを感じたが、その感情を見ないようにするのは慣れていた。
小男が倍の勢いで衛卒に怒鳴り返している。
「数分待つことも出来んのか、このたわけ!」
男装の少女は、明らかに気まずそうに顔を伏せている。
身形からして、どこかの富豪に仕えている女中だろう。
よしんば、主人の都合で一人で使いに出されて、女の一人旅は危険だからという理由で男装しているのだと思われた。
ここで足止めされるのは御免こうむりたいとその顔に書いてあって、小男と衛卒が怒鳴り合っているうちに、そうっと足を引いて町の中へ消えようとしている。
女であることが露見して、衛卒の暇潰しの相手に見繕われるのは願い下げだという顔でもあった。
ヴィレイアも全く同感で、ちらりと町の中に目を向けると、あたかも自分を迎えに来た知り合いを見つけたような顔を作って、勢いよく走り始めた。
連れが町の中にいるのだとさえ思わせれば、衛卒もうるさいことは言ってこないと承知していたのである。
光晶の街灯が点る道路を歩きつつ、ヴィレイアはふむと一考する。
(出来れば、早くリベルのところに戻りたいんだよね……)
ヴィレイアの人生には期限がある。
リベルのためになることだから彼のそばを離れているだけであって、本当ならば一日たりとも彼と距離を取りたくはなかった。
(なんなら、もう会いたいもの)
リベルには中毒性がある、と思う。
恥ずかしくて本人にはとても言えないが、彼のそばにいると途方もなく安心して居心地が良く、離れ難くて、離れてしまえば戻りたくなる。
そんな中毒性が。
(だから、様子見とか面倒なことはしないで、さくっと盗みに入ってさくっと出たいというか……)
そもそも、手順を踏むことに対して面倒だという感想がそもそも湧かないリベルと違って、極度の面倒臭がりのヴィレイアである。
自分の実力を弁えていることもあって、考えは短絡的になりがちだったが、
(いちばん嫌なのは、結局ここには定款が備え付けられてなくて、ヘルヴィリーとかにまた向かわなきゃならない場合なのよね……)
定款を手に入れないわけにはいかない。
リベルとエルカの自由のみならず、今も凄絶な暴力の只中に置かれている傭兵団の人々の自由も懸かっているのだ。
ヘルヴィリーの拠点にならば、まず間違いなく定款の写しは備えられているだろう。
しかし、
(さすがに小父さまのお膝元で盗みをするのはねぇ)
ぶらぶらと歩くヴィレイアのそばを、二頭立ての馬車が走り抜けていく。
酒場が軒を連ねる区画に入っており、街灯のみならず店から漏れ出す明かりで、辺りは視界に困らないほど明るい。
アインヴェルはエーデルとは違い、商人組合の力が強い町だ。
飲んでいる人々も、殆どがどこかの商会に勤めている人々と見受けられた。
かっちりとした服装の襟を緩めていても、まだ夜の早い時間とあって出来上がってはおらず、勇者が酒場で騒ぐようなどんちゃん騒ぎにはなっていない。
慎ましく、穏やかに酒を酌み交わす人々。
勇者が飲んでいる店のそばを一人で通ろうものならば、まず間違いなく、「姉ちゃん、一緒にどう!」という声が掛かるが、ここではそれもない。
勇者が飲んでいる店のそばには、まず間違いなく酔い潰れた勇者が転がっているものだが、それもない。
(治安はいいのよね)
皮肉に微笑む表情をストールで隠し、ヴィレイアはいっそう足を速めて、ショーズ商会のアインヴェル拠点があったはずの場所へ向かった。
火事の痕も、今では殆どわからない。
火が回った建物は取り壊されて撤去され、今は簡素な小屋が立ち並び、その奥で、新たな拠点のための基礎工事が始まっている。
日が落ちて作業は止められているが、建設組合の旗が掲げられ、夜風にはたはたと靡いているのは朧げに見えた。
とはいえ、建設組合の人々も、今は帰宅している時間だ――光晶の明かりがあっても、夜間の作業は危険に過ぎる。
ヴィレイアは少し離れたところで、さも靴紐が解けたかのように足を止めて屈み込み、そんなショーズ商会の拠点を上目遣いに眺めた。
周囲には仮設の柵が張り巡らされ、その門には、見張りが数人立っている。
もしやあれはラディス傭兵団の人々ではあるまいな、と考え、ヴィレイアは暗澹たる気持ちになった。
最初にこの拠点をバンクレットと共に強襲したときに、ヴィレイア自身が傭兵団の人々の、少なくない数の人々を欠けさせたことをまたも思い出したからである。
あのときに欠けた中に、リベルの知人がいたかも知れないのだ。
(今ならあんなことはしない)
少なくともあのときは、リベルのことで頭がいっぱいになっていた――彼と同じ境遇だと、考えればわかったはずの人々にまで頭が回っていなかった。
そして何より、これは口が裂けてもリベルには言えないが、あのときのヴィレイアにとっては、人生は期限つきの享楽でしかなかった。
ヴィレイア自身も、予後決定によって他人に欠落を決められていて――ゆえに、自分が倫理の外側にいるような、そんな一種の特権意識があったのだ。
フロレアで発生した〈鉱路洪水〉の討ち漏らしがいることをわかっていて、一度はそれを隠匿しようとしたように。
それが変わったのは、いつだろう――契機の一つはあのとき、リベルとエルカが再会したときだ。
あのときの、リベルの切実な献身と贖罪の姿勢を見たことだ。
――リベルは度し難いほど優しい人だ。
そもそも初対面のときからして、放り出せば事足りたはずのヴィレイアに付き添ってフロレアに足を向けてくれた。
彼自身が過酷な状況にいたにも関わらず、為人もよくは知らない誰かのために本気で尽力することも出来る。
ハイリの鉱路でオーリンを庇おうとしたことも、自分自身の心臓が懸かっていてさえ、古巣の人々に怪我をさせまいとしたことも、そのいい例だ。
そういうリベルを心の中に容れたから、本気で彼を助けようと思ったから、ヴィレイアの考え方も徐々に変わった。
「――――」
ヴィレイアは息を吸い込み、今は不要であるそれらの思考を打ち切った。
ただ、リベルのことを考えたために、よりいっそう彼に会いたくなっていた。
苦笑して、ヴィレイアは足許に向かって呟く。
「……ねえ、あの人たちの気を引いて」
それに了承を示すのは、彼女の最も古い友人であり忠実な精霊、影兵霊だ。
街灯の明かりに落ちるヴィレイアの影がさざめき、直後にそのさざめきが消え、代わってショーズ商会の拠点の方で、驚いたような声が上がる。
「――なんだ?」
「どうした?」
「今、何か動いたような……」
「猫か犬だろ」
「いや、そういう小さいのじゃなかった」
どよめくその声に、ヴィレイアはほっとする。
――どうやらラディス傭兵団ではない。
あの傭兵団にいたリベルやエルカのことを考え合わせると、彼らならば、素早く静かに対処しそうなものである。
(もう大して隠したいものは置いてないから、適当な人間を雇ってるってところかしら)
そんなことを考えつつ、ヴィレイアは素早く立ち上がる。
「あの人たちがこっちを見ないようにして」
囁く。
見張りたちの方で、また声が上がった。
「あっ、ほら、また何か動いた」
「なんだあれ。馬でも脱走したか?」
恐らく、見張りといっても形だけ、実際に危険なことは何もなく、むしろ退屈なのだろう。
面白いほど影兵霊に釘付けになった彼らが、「あれが何か、賭けてみようぜ」と言い出すのを後目に、ヴィレイアは拠点を囲む柵の、門から離れた箇所に駆け寄っている。
手を掛けて揺らしてみる――細い丸太を組んだ柵は、頑丈とはいえないが、ヴィレイアが体重を掛けて壊れるような代物でもない。
また、有難いことに高さはヴィレイアの胸ほどまでしかなかった。
良かった、と内心で独り言ち、ヴィレイアは素早く柵に足を掛けて攀じ登った。
影兵霊が気を引いているとはいえ、見張りがふと横に視線を遣れば見つかることは必定であり、内心ではさすがに焦っていた。
とはいえ――
(まあ、勇者ですから)
鉱路の中で、リベルはとにかく過剰なまでにヴィレイアを心配するが、ヴィレイアも伊達に勇者はやっていない。
この程度ならばお手の物である。
とはいえ、高いところから飛び降りるときにリベルが抱き留めてくれるのは好きなので、彼の心配を押し留める気は全くないが。
無事に柵の内側に飛び降り、柵に隠れるように屈み込んでから、ヴィレイアは軽く手を振った。
「程々にして引き揚げろ」という影兵霊への合図である。
中腰のまま、そうっと柵から離れ、また物陰でしゃがみ込む。
落ち着いて紹介の拠点を見渡した。
簡単な――その場凌ぎの造りの小屋が立ち並び、ものによっては扉の上に数字を記した板が打ち付けられている。
今はどこにも灯が入っていない。
街灯の明かりも届きづらく、暗がりで視界が利き難い。
が、窓があって、かつ扉の上に数字が振られている小屋は、恐らく会議室として利用されているのだろうと当たりをつけた。
誰かを呼び集めるときに、「一番の小屋で」と言えば事足りるのならば便利だろう。
一方、数字が振られており、かつ窓のない――あるいは明かり取り程度の小さな窓しかない――小屋。
これらが恐らくは書類や商品の保管庫だ。
燃え尽きただろう、元々この拠点に備えられていた定款の写しの代わりに、既に別の写しが商会本部から送り届けられていれば、そういった小屋の一つにあるだろうと思われた。
無人に見えても人がいないとは限らない。
ただし、辺りは当然ながら静まり返っており、酒場の喧騒も遠く微かに聞こえるだけだった。
風が吹く度に、奥の建設組合の旗がはたはたと靡く音がする。
ヴィレイアはどきどきしつつ息を憚り、予想もしない方向から見咎められていないかと気を揉んでいたが、一方で見咎められたところで切り抜ける自信はあった。
恐怖や緊張というよりも、程よい緊張と高揚といった方が正しい心持ちである。
ヴィレイアは小屋の陰まで進んでから、ゆっくりと用心深く立ち上がった。
足音を忍ばせて小屋と小屋の間を進み、ヴィレイアは最も番号が若い、そうした保管庫と思しき小屋を見つけた。
扉に駆け寄り、掌を当ててみる。
透過視精に命じて簡単に探らせてみると、扉の鍵の造りは極めて単純なようだった。
わざわざ拠点が仮設のままになっている場所を狙った甲斐がある。
(まあ、ショーズ商会から何かを盗んだら酷い目に遭うし、普通は盗みになんか入らないもんね)
したりと頷きつつ、ヴィレイアは左手を軽く振った。
その仕草が命令になって、浮揚精の影が、よいしょとばかりに扉の鍵を外す。
魔法使いと違って器用なことは出来ないが、この程度ならば法術師にも問題ない。
――尤も、扉に大穴を開けてよいのであれば、それこそ熱精に爆発を起こさせれば事足りるが。
ヴィレイアはそっと扉を押して、暗い小屋の中に滑り込む。
扉を閉め、そこで数秒じっとしていたのは、ないとは思うが中で誰かが待ち構えていると非常に困るからである。
物音ひとつしないことを確認し、ヴィレイアは影兵霊に指で合図。
察した影兵霊が、古代のマントで明かり取りの窓を覆うような格好を取った。
それを確認してから、ヴィレイアは陽精の影を呼び出す。
陽光を思わせる金色の光が小屋の中に満ち、ヴィレイアは眩しさに目を細め、右手で目許を庇いつつ、小屋の中を見渡した。
(定款なんて基礎の基礎、番号の若い倉庫に放り込むと思うんだけど――)
小屋の中には木箱が無数に積まれていた。
「――――」
ヴィレイアは瞬間、固まった。
それから理解した。
「……なるほど?」
思わず呟いてしまう。
――つまり、ここは仮設の書庫。
いずれきちんとした拠点建物が完成すれば、ここにあるものを運び込まねばならない。
書類というものは、日頃から参照するものもあれば、ただ置いておくもの――滅多なことでは触らないもの――もあり。
(……定款なんて、まあ、見ないか)
定款の下には、更に細かな規則や細則が定められているものだ。
常日頃から参照されるとすればそちらだ。
日頃見ない書類を、わざわざ梱包を解いて書棚に並べるだろうか――否。
すぐに運び出せるよう、箱詰めにしたまま保管するに決まっている。
つまり、定款があるとすれば、
「こ……この中のどれかの中……」
更に悪ければ、他の小屋。
ヴィレイアはその場に崩れ落ちそうになった。
ここへきて、事態は時間との闘いとなったのだった。
*◇*◇*
ヴィレイアは朝陽に目を細め、とぼとぼと道を歩いている。
頭からストールを被り込み、胸元で荷物を抱え、時おり片手で目を擦る。
見るからに悄然とした足取り、まだ低い太陽の光を背中に浴びて、足許に長く落ちる影を追いかけるように進み、その歩調のままとぼとぼと、開いたばかりの市門を通った。
そのまま、早朝でまだ人気のない街道をしばらく進み、町から遠ざかったところで、街道から逸れて原野に踏み込む。
溜息混じりに懐から黄金の鱗を取り出し、ヴィレイアは元気のない仕草でその鱗に唇を触れさせた。
足を止めて待つこと数分。
上空に黄金竜の巨躯の影が差し、やがて綿毛のように軽い仕草で、〈陽輪〉の巨大な体躯がヴィレイアの眼前に着地した。
翼が巻き起こす風に周囲の草花が一斉にそよぎ、ヴィレイアが頭から被り込む若草色のストールが肩に落ちる。
白百合色の髪が解けてふわりと靡く様は、一幅の絵画としてもおかしくはなかったが。
地響きひとつ立てずに降り立った〈陽輪〉が、微かに首を傾げるような仕草を見せる。
それもそのはず、これまで一貫して愛想よく、どちらかといえば黄金竜を前にしてはしゃいでいたヴィレイアが、生気のないどんよりとした目をしていれば然もあらん。
どうかしたか、と言わんばかりに琥珀色の大きな双眸を瞬かせる〈陽輪〉を前に、ヴィレイアはわっと叫び出した。
「……もうやだ」
『…………?』
「もうやだ! なんなの、夜じゅう箱を開けては閉めて開けては閉めて、元の箱がしっかり閉じられてるから開けるのも大変だし、そのあと元のように閉めるのも大変だし!」
『…………』
「途中から、どの箱が開けてなくてどの箱を開けてるのかわかんなくなるし、元あった場所に戻さなきゃって思ってたらもう足の踏み場もないし、開けても開けてもわけわかんない書類ばっかりだし!」
ぺたんとその場に座り込み、わあんとばかりに声を張り上げるヴィレイア。
「なんで探してるものに限って一番下にあるのよ! しかも最後、どっちから開けようかなって思った箱のうち、後に回した方にあるのはどうして!!」
そこまで思いの丈をぶちまけて、ようやくヴィレイアは我に返った。
我に返り、〈陽輪〉がなんともいえない瞳で自分を見ていることに気づき、普段ならば〈陽輪〉が地面に降り立つと同時にいそいそと黄金竜から滑り降りているはずのクロでさえ、〈陽輪〉の首の付け根の上で微動だにしていないことを認識した。
こほん、と咳払いし、ヴィレイアはすっと端整な仕草で立ち上がった。
ぱんぱん、と衣服を払い、いささか遅きに失した感はあったが、淑やかににこやかに微笑む。
「――〈陽輪〉さん、クロさん、ありがとうございます」
荷物の中からいそいそと一冊の冊子を取り出してみせ、ヴィレイアはにっこりと微笑んだ。
「お蔭様でちゃんと、探し物は見つかりました」
〈陽輪〉が加減した速度で飛翔していることもあり、風精と契約さえすれば、ヴィレイアからすれば向かい風に苦戦することは一切なかった。
ゆえに、風精の影である、薄青い小さな子供の姿が天真爛漫に自分の周囲を飛び回っているのに時おり微笑みつつ、〈陽輪〉の前肢の上で寛ぎ、手に入れたショーズ商会の定款を熟読する。
内容は頭に入れつつも上の空で、やはり早くリベルに会いたいなと考える。
ふと文字から目を離し、〈陽輪〉と懸命に肩を並べようとするかのように飛ぶ渡り鳥の群れを見て、こんな景色も新鮮だなと微笑んで、リベルに話してあげようと覚え込む。
そして、晩春の月十六日の早朝、ヴィレイアは無事にエーデルへ戻った。
さすがに身体が強張り、慣れない環境で文字を追ったからか、弱い頭痛があったが、どうでも良かった。
町中の広場にそっと着地した〈陽輪〉に、元気に礼を述べてぴょんと地面に飛び降り、もう一度ぺこりと頭を下げてから、意気揚々と走り出す。
クロはどうやらリベルに会いたいのか、それとも他に理由があるのか、〈陽輪〉の首の付け根から滑り降りていて、すぐにどこかに飛んで行く様子はなかった。
リベルと暮らす借家へ走りつつ、ヴィレイアは笑み崩れるのを堪えられなかった。
(リベル、まだ寝てるかな、いや、夜が明けたらすぐ起きる人だもんね、起きてるか)
そんなことを考えて、早く会いたい一心で借家に駆け戻る。
亜竜の指輪で帰ったことを知らせようかとも思ったが、驚かせたくてやめておく。
集合住宅に駆け込み、吹き抜けの階段を駆け上がると、待ち切れない思いでばんっと扉を開けた。
「ただいまっ!」
が、威勢よく宣言したヴィレイアを迎えたのは、しんとした静寂だけだった。
「…………?」
ぽかん、とヴィレイアは瞬く。
鉤型のソファ、そばのローテーブル、二人用の食事用のテーブル、お気に入りの鏡台に、奥の寝台。
壁にはリベルが仕立ててくれたヴィレイアの衣裳が掛かっていて、今はぴっちりとカーテンが閉ざされている出窓には香水の瓶が並べられている。
いつもの見慣れた内装に、肝心のリベルがいない。
「へ……?」
思わずそんな声が出てしまう。
「あ――朝ごはんかな……?」
取り繕うように呟いたが、嫌な予感があった。
――寝台に、眠っていたような形跡がないのだ。
リベルは基本的に、寝具を整える習慣を持たない。
起き出した後に簡単に寝具を整えるのはヴィレイアの役目で、そして今の寝台の様子を見てみるに、最後にヴィレイアが整えたままになっているようなのだ。
(リベル、あれから家に戻ってないの? いや、ソファで寝てたのかも知れないけど、――どこにいるの?)
エルカの家に泊まってでもいるのだろうか、と、おろおろと狼狽しながら考え、視線を走らせたヴィレイアはそのとき、食事用のテーブルの上に、どうやら手紙らしきものが載っているのを発見した。
「――――?」
眉を寄せ、そちらに歩み寄って、手紙を取り上げる。
紙片が手の中でかさりと音を立てた。
「手紙だ」
確認するように呟く。
リベルもエルカも文字が書けないから、これはリエラの代筆だろうか。
そこには。
『ちょっとダイアニまで行って来ます。
入れ違いでこっちが戻るのが早いか、待たせるとしてもちょっとだと思う――とのことです』
そう記されていた。
「……は?」
ヴィレイアは呟く。
直後に文字の意味が頭に落ちてきて、ヴィレイアは叫んだ。
「はああああ!?」
会いたくて会いたくて帰って来たというのに、一方の恋人はこれである。
まるで片想いで泣けてくる。
ちょうどそのとき空腹に腹が鳴って、リベルがここにいれば一緒に朝食に出来たはずなのに、と思うと、切なさがいっそう募った。
「なんで……」
思い浮かべたくもないのに、勝手に浮かんでくるのはアーディス隊の紅一点の顔。
ないとは思うが、まさか彼女に会いに行ったのかとまで疑う。
正直、さすがに、むかついた。