02 ボーイ・チェイスズ・ガール
当然ながら、軍部出身の共和国議員、エメット・ヴァフェルムの私邸で働く人々は、突然勇者が現れるという事態に慣れているわけではなかった。
将軍に会わせろと騒ぐ勇者二名に対して、実力行使がされなかったのはもはや僥倖といえる。
とはいえ、騒ぎに気づいてバンクレットがその場に急行する頃には、そろそろ衛卒の一団が事態の鎮静化に動こうとしていた。
バンクレットが間に合ったのは、衛卒側にとって誠に幸運なことだった。
というのもリベルもエルカも気が立っていて、実力行使で衛卒側を突破しかねなかったからである。
その場の軍人が上官に騒ぎを報告し、さらにその上官に騒ぎが報告され――といった流れで騒動を耳に入れたバンクレットが、驚愕の表情でその場に現れる。
温厚な彼もさすがに苛立ちと怒りの色を湛えていた。
「きみたち――」
ともかくも、この二人は不審者でも国家転覆を企む輩でも議員に直談判を望む過激派でもないとその場を宥め、バンクレットが二人を連れて玄関ホールに入り、そこの入口からやや横側に奥まった場所にリベルとエルカを立たせた。
すぐそばに窓があり、張り出した窓台に細工の施された玻璃の花瓶が置かれ、房金合歓と香雪蘭、風信子が生けられている。
窓硝子は赤と青、黄色と緑の色付き硝子のモザイクだった。
差し込む陽光がそれぞれの色を吸い込んでいる。
その窓のすぐそばでリベルとエルカに向き直ったバンクレットは、見たことがないほど気分を害しているように見えた。
傷痕の目立つ顔が険悪に顰められている。
「――いいか、大した理由もなく私に恥をかかせたなら、私もきみたちに愛想を尽かせる準備があると知らせなければならなくなるぞ」
「ヴィリーがいなくなった」
リベルが短く言って、バンクレットが金褐色の瞳を見開く。
表情から険が零れ落ち、彼は愕然とした様子で。
「――何があった?」
「起きたらいなくなってた。とにかく追いかけたいんで陸艇を貸してください」
「――――」
バンクレットが瞬きした。
愕然としていた表情が崩れ、ぽかんとした、何を言われたのかを把握しかねたような顔になる。
「……は?」
「だから、」
言い差すリベルを手で制して、バンクレットが額を押さえる。
「待ってくれ。あの子が――ヴィレイアが、いなくなった? 何があったんだ? きみたちが血相を変えているということは、誘拐か何かか? また?」
リベルとエルカは目を見交わした。
リベルはその場の勢いで、とにかく何かの緊急事態をでっち上げてしまおうかとも思ったのだが、ぎりぎりでそれを思い留まった。
他の何でもない、バンクレットに対する信義がそれを留めた。
「――違います。ヴィリーが、自分で、どこかに行ったんです」
バンクレットが呆れた様子で声を大きくし、その声が不明瞭に玄関ホールに響いた。
「まさか、喧嘩の仲裁に私を駆り出すつもりではないだろうね」
エルカが苛々と足踏みした。
リベルは今にも壁を殴りそうだった。
「違う――違います。喧嘩なんかしてない。いきなりいなくなったんですよ、一言もなく。追いかけて事情を訊きたいのが当然でしょう」
「事情――」
そこまで言って、バンクレットが唐突に息を呑んだ。
そして、危惧と懸念とがいっぱいに詰まった瞳で、リベルを見た。
「――昨日は、ヴィレイアと一緒にいたんだね?」
リベルは頷く。
そして、そのときには彼女に変わった様子はなかったのだ、と訴えようとして口を開いたが、その機先を制してバンクレットが、冗談の気配は欠片もなく、尋ねた。
「リベル、きみ、――ヴィレイアに対して特別な感情がある?」
「――――」
さすがにリベルは当惑した。
咄嗟に答えかねた彼の代わりに、エルカが早く話を進めようとしたのか、「はい」と応じる。
エルカのその返答を否定しないリベルに、バンクレットの顔が強張った。
「――それを、ヴィレイアに伝えた?」
困惑しながらも、リベルは頷いた。
なぜそんなことを尋ねられるのかはわからなかったが、とにかく早く話を進めたかった。
バンクレットが呻いて、片手で顔を覆った。
エルカが苛々と声を出す。
今にもバンクレットの向こう脛を蹴り上げそうだった。
「親父さん、陸艇を貸してくれるかどうかだけ先に教えてもらえませんか」
「そうです」
リベルは、冗談のつもりは微塵もなく、言い切った。
「貸してもらえないなら駅に行って、適当な陸艇を制圧して盗みます」
バンクレットはぎょっとした様子で顔を上げた。
「待て――待ちなさい。きみが言うと冗談に聞こえない」
「冗談に聞こえたら問題です、俺は本気なんで。
――ヴィリーが朝に出た陸艇に乗ったとしたら、明後日の朝にはエーデルに着く。あいつがエーデルで一切合切に片をつけて出ていったら、二度と追い着けないかも知れない」
バンクレットが息を吸い込んだ。
その場で小さな円を描くように歩き回り始める。
軍靴が床を叩いて硬質な音を立てる。
「ああ、くそ」
彼が呟いた。
バンクレットの直情的な悪態を、リベルは初めて聞いた気がした。
エルカが苛立ちに声を大きくする。
「親父さん、駄目なんすか。これまでだってひょいひょいエーデルまで俺らに会いに来てたでしょう、同じように使わせてくれればいいだけなんですよ」
「黙って」
バンクレットが、珍しくも手厳しくそう言った。
「考えているんだ。黙っていて」
「こっちは急いでる!」
リベルが怒鳴り、その声がうぁん、と玄関ホールに反響する。
歩き回っていた足をぴたりと止めて、バンクレットが声を荒らげた。
「わかっている。
だが私も、あの子を傷つけたくないんだ」
リベルは目を細めて猜疑の表情。
「――何か知ってるんですか」
「私からは何も言えない」
バンクレットは言外に認めた。
後から振り返って、リベルはこのときのバンクレットの勇気に敬意を表したものだ。
――眼前にいる勇者二人は、単純な暴力を振るう能力でいえば、どちらもがバンクレットを凌駕する能力の持ち主なのだ。
その二人を前にして、ともすれば二人がバンクレットを袋叩きにしてでも、知っていることを吐き出させようとしかねない、それだけの事実を知っていることを認めた。
だが、このときのリベルは感心している余裕すらなく、どうすればバンクレットから是の返答を引き出せるのか、それを、胸を掻き毟りたくなるほど必死になって考えていた。
「親父さん――」
「黙って」
バンクレットが撥ねつけるようにそう言って、唐突に襟章の一つを外した。
黄金で象られた花の中央に、煌めく紅玉が象嵌されたもの。
それをかちりと窓台の花瓶のそばに置き、バンクレットがリベルとエルカから視線を外して、口早な小声で言う。
「いいか、これは共和国将校の徽章だ。身分証でもある。
私はこれをついうっかり外してここに置き去りにするが、気づくのは今日の夕方になってからだろう。もしかしたら気づかないかも知れない。
あと、これは独り言だが、駅の東側に、リベルとエルカを乗せたことのある軍部の陸艇が停まっていて、そこには常に操縦者が待機している。彼はこの徽章を見せれば、見せた者を信用して陸艇を出してくれるだろうが、もちろん私はこれを外部の人間に漏らすわけにはいかない」
リベルとエルカは顔を見合わせ、それからバンクレットを見つめた。
バンクレットはやや上の方を見て、それからはたと思いついたように懐中時計を取り出し、時刻を確認した。
「――私は予定がある。もう行かなければならない。きみたちをここから追い出すまで見張っておきたい気持ちは山々だが、きみたちが出ていくまで見ている時間がないのだ。そういうわけで私は、きみたちにきちんとここから出て行くよう、もう迷惑は掛けないよう念押しして、もう行く。
――いいね?」
リベルは息を吸い込んだ。
エルカがバンクレットに向かって何か言おうとするのを肘で遮り、頷く。
「はい」
「いい子だ。――では」
そう言って、軍帽の鍔に折り目正しく手を遣ってから、バンクレットが踵を返して玄関ホールの奥へ向かって歩き出す。
その後ろ姿を見届けることもなく、リベルは窓台に置き去られた徽章を掴み取った。
兄貴分の腕に手を掛けて急かす。
「行くぞ」
エルカはバンクレットの後ろ姿を見ていた。
その表情がどことなく不安そうで、リベルは眉を寄せる。
「どうした」
「いや――」
言いつつ、エルカは切り替えるように頭を振る。
とはいえ声音には危惧が滲んでいた。
「こんなのがばれたら、親父さんがやばいことにならないのか、訊いておきたかったんだけど」
「――――」
リベルは虚を突かれた。
その考えが彼には全く浮かんでいなかった。
そのリベルの表情を見て、エルカが微かに顔を顰める。
しかし彼は、もう迷いなくリベルの腕を引いた。
「いや、親父さんは大人だから何とかするだろ。――行くぞ。
マジでおまえ、ここまで事を大きくしといてまた振られたら、腹抱えて笑ってやるからな」
リベルはバンクレットの徽章を握り締める。
「――まずは、あいつが見つかるかどうかだ」
ヘルヴィリーの町は、深夜から早朝にかけて大量の欠け人が動員され、昨夜のことが嘘のように、通りの概ねのところから塵が一掃されていた。
とはいえそれも完全ではなく、まだ風に吹かれて寄せられてくる、油紙や何かの包装紙など、ちらほらと昨日の名残がある。
仮設の舞台もまだ撤去され切ってはおらず、建設組合の人々が忙しく立ち働いていた。
露店は昨夜のうちに、店主が引き上げると同時に撤去されていたらしい。
文字通りのお祭り騒ぎの名残で、正午にあって既に疲弊したようなヘルヴィリーの町を足早に進み、乗合馬車か辻馬車を探しつつ、リベルとエルカは慌ただしい打ち合わせをした。
「ヘルヴィリーに残るのは俺の方がいい。万が一ヴィリーが姉ちゃんのところに行ってるとしたら、さすがに一回は顔を見てる俺の方が見つけやすいだろ」
「そうしよう。俺がエーデルに行って、あいつがいなかったらそのままフロレアに行く。陸艇に乗るときに徽章は見せて、そのあとおまえに渡しておく――さすがにずっと俺が持ってるわけにはいかないから。だから、駅まで一緒に来て」
「おう。ヴィリーを見つけたらどうやって知らせる?」
「俺がヴィリーを見つけて、ちゃんと話せたら、あいつに頼んで親父さんの近くにいる法術師――それこそリエラとか――に、伝言を頼む。だからエルカ、親父さんには居所を知らせておいてくれ」
「わかった」
「おまえが見つけたら――そうだな、勇者組合に頼んで〈フィード〉に載せてもらってくれ。見ておく」
そう言いつつ、懐から小切手を取り出し、白紙の小切手を何枚か綴りから千切ってエルカに手渡すリベル。
「好きな金額書いて、いいように使って」
「さすがに――」
エルカが難色を示したが、リベルは小切手をエルカに押しつけた。
「いいから。おまえが変なことに使ったりしないのは知ってる。金はないよりあった方が物事が簡単に進む。第一、俺の金だろ。
俺は、今は金よりヴィリーが欲しい」
「――――」
気を呑まれた様子でエルカが小切手を受け取る。
そのとき、客室を空にして所在無げに走る辻馬車を見つけて、リベルは片手を挙げた。
御者が二人のそばで手綱を絞って馬を停める。
リベルは運賃にしてはかなり高額の小切手を切った。
「駅まで。急いで」
御者は小切手の金額をちらりと見て、目を疑った様子でもう一度見て、嬉しそうにぱあっと満面の笑みを浮かべると、縁なし帽子を脱いでリベルに挨拶し、意気揚々と頷いた。
駅の東側に、確かにリベルも見覚えのある陸艇が停泊していた。
衛卒が数名、その見張り番としてついており、接近してくる若者二人に警戒を露わにしたが、徽章を見せられると不審そうにしながらも引き下がった。
陸艇の入口が開けられ、乗り込むと操縦者が二人を迎える。
リベルから徽章を見せられると、彼は鷹揚に微笑んだ。
「ああ、閣下がよく仰っている、『頼りになる勇者の協力者』だね」
そう言われた途端、リベルの臓腑が妙な具合に捻じれた。
バンクレットがどんな顔で、エルカやリベルのことをこの男性に話していたのかをありありと想像した――そして、彼の厚意をこうして利用していることへの、覚えずにはいられない罪悪感があった。
だが、それ以上に、リベルは人生からヴィレイアを失いたくなかった。
「そうです」
言いつつ、操縦者には見えないように背中越しに、エルカに徽章を手渡す。
エルカも素知らぬ顔でそれを受け取って、握り込んだ。
「俺をエーデルまで、お願いできますか?」
「構わないよ。バンクレット閣下のご都合だろう?」
信頼しきった様子で首を傾げられ、リベルは息を吸い込んだ。
さすがというべきか、エルカは顔色ひとつ変えていなかったが、付き合いの長いリベルは、彼の冷静そのものの表情の下に、動揺と罪悪感があることを見て取っていた。
そして、鏡映しで自分も同じ顔をしているだろうことはわかっていた。
しかし、リベルは頷いた。
「はい」
エルカがリベルの肩を叩いて、足を引いた。
「じゃあ、首尾を知らせろよ」
リベルは頷き返した。
「うん。そっちもな」
*◇*◇*
エーデルまでの二日間は、リベルにとっては拷問に等しかった。
天候が荒れないことをひらすら祈り、ヴィレイアがどうか手の届く場所にいますようと祈り、彼女が思いもかけない方向へ進んでいるのではないかという疑心暗鬼で碌に眠れなかった。
食事は陸艇に保存されている携行食で賄われたが、食事が出てこなかったとしてもリベルは気づかなかっただろう。
ヴィレイアとのやり取りを事細かに思い出しては、どこかに齟齬がなかったか、どこかで彼女を傷つけていなかったかをひたすら考える。
そして時折、リベルばかりがヴィレイアのことを考えて思い遣っていることが不公平だとすら思ったが、その思考はたちまちのうちに掻き消えるのが常だった。
寄せる気持ちの天秤が狂っていれば、天秤が傾いている側が、ひたすらにもう一方の皿を重くしようとして、あれこれと気持ちを差し入れてしまうのは無理からぬことだとわかっていた。
リベルがエーデルに到着したのは、春の月八日の午前中のことだった。
駅に陸艇を降ろした操縦者は、待機するべきか帰還するべきか、当然のようにリベルに指示を求めた。
リベルがバンクレットの依頼で行動していると信じ切っているのだ。
そのことに後ろめたさはあれど、リベルは考えることもなく待機を頼んでいた。
万が一、ここからさらにどこかへ向かわねばならなくなったとき、乗合陸艇を待つような間抜けなことはしたくなかった。
そして、ここからが正念場だった。
駅で手持ち無沙汰そうに佇む係員に、今朝着いたヘルヴィリーからの陸艇の到着時刻を尋ねる。
係員は欠伸を押し殺しつつ、七時くらいでしたね、と応じた。
リベルは礼もそこそこに走り出した。
〈フィード〉を見ると、これから出発する陸艇は全て、午後の離陸を予定しているようだった。
駅を見渡すと、準備を整えている勇者組合の陸艇はあるが、ヴィレイアが暢気に探索に行くとは思えず、さらにいえば彼女は――階級上は――四等勇者で、単独での探索は不可能だ。
一気に心臓が高鳴り、眩暈すら覚えながら、リベルは駅から走り出た。
もう見慣れたエーデルの雑踏を前にして、リベルは深呼吸する。
慎重に考えた――ヴィレイアの立場になって考えようとした。
たとえば、リベルが誰かから――親しくしていた誰かから逃げ出して、大急ぎで生活の基盤を撤去しようとするならば、まず、何をする?
(――銀行……)
仮にヴィレイアが、二日前の朝九時に出た陸艇に乗っていたならば、ヘルヴィリーで銀行の手続きをしている時間はなかったはずだ。
彼女が夜明け前に訪れても、銀行は開いていない。
リベルであれば、銀行から預金をまるごと引き出そうとすれば、銀行組合の職員による引き留めが発生して時間を喰うが、ヴィレイアはそうではあるまい。
今の時刻は十時過ぎ。
銀行はもう開いていて、ヴィレイアが朝一番で手続きをしたならもうそれは済んでいる。
ならば次は、
(――組合)
組合に向かって、脱退の手続きをした可能性が高い。
もちろん脱退はせずに次のどこかの町に向かって、また別の勇者組合に加入する可能性もあるが、怠惰であっても意外と生真面目で几帳面な一面のあるヴィレイアのことだから、脱退の手続きを取る可能性は高いと思った。
即座にリベルは走り出し、雑踏の中で数人にぶつかって上の空で謝りながら、勇者組合に向かった。
息せき切って組合の中に駆け込み、食堂を兼ねる一階を見渡す。
――ヴィレイアの姿はない。
ちらりと〈フィード〉を一瞥したが、エルカからの、「こっちでヴィリーが見つかった」という伝言もなかった。
リベルは組合の窓口に向かおうとして、全ての窓口が何かしらの用事で塞がっていることを見て取った。
苛立ちが発作的に込み上げてきて、窓口に来ている中で最も緊急度が低そうな、ただただ職員を相手に管を巻いている様子の中年の男に歩み寄って、彼の首根っこを掴んで後ろに半ば放り投げるようにする。
「――ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
そうして窓口を覗き込むリベルにも、荒事に慣れ切っている勇者組合の職員は眉ひとつ動かさない。
微かに面白そうに片眉を上げたのみで、「なにかな?」と首を傾げる。
放り出された男が、束の間茫然としたあと、猛然とリベルに突っ掛かってきた。
「この餓鬼! 俺が話してただろうが!」
リベルは冷ややかに振り返った。
「うるさいんだけど」
男が絶句する。
そのまま掴み掛かってこようとしたので、足払いを掛けて転ばせた上、脇腹に蹴りを見舞っておく。
男は白目を剥いて転がった。
鮮やかなリベルの手並みに、おぉ、と周囲で声が上がったが、リベルは聞いていなかった。
面白がる様子の組合職員に、窓口越しに向き直って尋ねる。
「組合員の、ヴィレイア――俺の相棒なんだけど、脱退の手続きしてたりしますか?」
職員は首を傾げる。
「いつ頃の話かな?」
「今日だと思う」
職員が軽く後ろを振り返り、「今日の分の脱退者の名簿出してー」と呼びかける。
それに応じて、まだ十代だろう少年が、あくせくと書類の山を掻き分けて整理し始めた。
職員はリベルに向き直り、揶揄うように眉を上げる。
「相棒なら、どこで何してるか知っておるだろうに」
「振られそうになってるとこだ」
「なんだなんだ、揉め事か? 恨まれちゃ敵わん、場合によっちゃあ何も言えんぞ」
「俺は四等だ。あいつがいないと鉱路に入れない。黙って消えようとしているあいつが不義理だ。それでも駄目か?」
うむ、と、職員は唇を突き出して考え込む顔。
顎を撫でて、唸るように。
「――なら、仕方ないといえば仕方ないか。ちなみになんで逃げられた?」
リベルはカウンターを殴りそうになった。
「俺があいつに惚れたからだよ。早くしてくれ!」
「そういうことね。了解了解。ああ、あと、無理強いは駄目だぞ」
リベルはカウンターを殴った。
ごっ、と響いた洒落にならない音に、職員がじゃっかん真顔になる。
「早くして!」
職員が、書類を整理している少年を振り返る。
「あったか?」
「名簿はあります。名前、なんでしたっけ?」
「ヴィレイア!」
リベルが怒鳴り、そのとき別の職員が、奥まった場所のデスクから顔を上げた。
四十絡みの、髭面の職員だった。
「ヴィレイア?」
少年が暢気に名簿を眺め、「ありませんねぇ」と言う。
「少なくとも、今日に脱退したってことはないですね」
一方、顔を上げた職員が立ち上がって、床にも積まれた書類を避けつつ、こちらへ歩いてきている。
その顔に、リベルはなんとなく見覚えがあった――少し考えて思い当たった。
ハイリの鉱路へ出発する前、鉱路の情報を得るためにバンクレットと組合を訪れたとき、ヴィレイアに砂糖菓子を渡していた職員だ。
リベルがさらに記憶を探っていれば、リベルとヴィレイアが初めてエーデルの勇者組合において資源の換金を行った際に対応したのも彼であり、そのときも彼がヴィレイアに菓子の包みを渡していたことを思い出していたはずである。
「ヴィレイアって、あのお嬢ちゃんに何かあったの」
髭面の職員が、リベルの対応をしている職員の真横までやって来て、身を乗り出してリベルを窺って尋ねた。
リベルは二重の意味で苛立った。
ここでこうして時間を取られることにも苛立ち、また――全くお門違いだとわかってはいても――ヴィレイアに自分以外の男が関心を寄せていることが不愉快だった。
「――あいつに何か用ですか」
結果として、警戒心満点でそう応じたリベルに、職員は憂い顔を見せる。
「いや、名前が聞こえたから。あの子には滅多なことはないだろうけど、何かあったのかと思って」
「この若造、振られそうなんだとよ」
もう一人の職員が半笑いで言った。
「惚れて――なんだ、告白でもしたのか?
そしたら逃げられて、慌てて追っかけてる最中らしいぜ」
髭面の職員が、ぱちくりと目を瞬く。
そして、何かの理由で納得したように頷いた。
「ああ、そりゃあ、言えねぇよなあ……」
「は?」
胡乱げに目を眇めるリベルに何度も頷いて、職員はなぜか涙ぐんでいる。
「あのお嬢ちゃん、あんたのこと大事なんだろうな」
「は?」
大事なら逃げたりするわけがあるか、と、リベルは頭に血が昇るのを感じたが、リベルの険悪な反応は見ず、髭面の職員はくるりと踵を返している。
彼が懐から大きな手巾を取り出して、なかなかに迫力のある音を立てて洟をかんだ。
リベルは舌打ちして窓口を離れた。
焦燥のあまり、ずきずきと頭が痛む。
(脱退はしてない、じゃあ、そもそもエーデルには来てない……?)
そうなれば、リベルは二日間を無駄にしたことになる。
それを思うと恐怖にきゅっと胃が縮み、リベルはホールから駆け出して、組合の食堂に駆け込んだ。
ヴィレイアはとにかく目立つ。
珍しい髪色に、勇者としては多くない女性。
そして何より、人目を惹く容貌。
「――あのっ」
目についた勇者に、リベルは勢い込んで話し掛けた。
普段ならば考えられないことだ――そして、〈言聞き〉の心臓のために追い詰められていたときでさえ、リベルからは人見知りの癖が抜けなかった。
だというのに今は、リベルは全く躊躇わなかった。
話し掛けられた勇者はぽかんとしたあと、「ああ」と呟く。
「あの柄の悪そうなちんぴらと、白い髪の美人と組んでる奴か……」
「そう、そうです」
リベルは頷く。
「その、白い髪の美人、今日見かけませんでした?」
相手はぼりぼりと頬を掻く。
どうだかなあ、と呟いて、連れを振り返る風情を見せた。
連れは安物の煙草を吹かしつつ、面白そうにリベルを見ている。
彼が息を吸い込むと、煙草の先端が赤く輝いた。
灰皿は用意されておらず、煙草の灰はぽろぽろとテーブルに落ちていた。
「なあ、いつもこの赤毛と一緒にいる美人、見掛けたか?」
「いんや?」
紫煙とともに吐き出された返答があり、「だとよ」と肩を竦める勇者。
リベルはよろめいて一歩下がった。
「あ――ありがとう」
手あたり次第に声を掛け、五人目に当たった勇者が答えた。
「――見たぞ」
リベルは息を止める。
頂点に達する焦りと期待に目が眩む。
「ど――どこに――」
言葉に詰まるリベルに、勇者は顎を撫で、小首を傾げつつ。
「ああ、そうか、いや、別に違和感はなかったんだが、おまえがこうやって血相変えてるってことは、おまえら、解散したってわけじゃなかったんだな」
「はい? あの、どういうこと?」
焦燥と疑問符を顔いっぱいに浮かべたリベルを見て、勇者は気まずそうに肩を竦め、頭を掻く。
「見たのは〈フィード〉の前。おまえの――あの美人、のべつまくなしに他の連中に声掛けまくって、一緒に探索に行く相手を捜してたぞ」
「――――」
リベルは卒倒しそうになった。
――リベルはまるで思いつきもしなかったが、言われてみれば。
一度鉱路に降りて、実際に探索をこなし、終わったあとに――これは博打になるが――、その鉱路に降り立つ別の組合の陸艇に乗り込んでしまえば、駅を経由せずに他の町に行くことが出来る。
冷血で知られる勇者組合も、鉱路から脱出したばかりの勇者を、自組合の人間ではないからといって乗艇を断りはしない。
鉱路を経由することは、ヴィレイアがリベルの執念を正確に推し測っていたとすれば、何より確実な追跡を撒く手段として思いついただろうことだった。
さすがのリベルも、駅を見張ることは出来ても鉱路は見張れない。
仮にリベルがバンクレットを頼ったとしても、軍であっても駅を制圧することは出来ても鉱路は制圧できないのだ。
軍部は勇者組合の領域を侵せない。
そして何よりリベルが舌を巻いたのは、これはヴィレイア以外には出来ない手段だということ。
リベルであっても、この手段は躊躇う――同行を申し出たからには探索をこなさなければならないが、三等や四等の勇者を引き連れて、無事に生還できるかどうかが賭けになるためだ。
だが、ヴィレイアは違う。
彼女には影兵霊がいて、そして透過視精で、他の法術師と比較しても度外れた広範囲の索敵を可能にしている。
甲種の鉱路でもない限り、生還は楽勝、加えていえば探索の道程の手綱を握ることも出来るのだ。
リベルは眩暈を堪え、「いつ――」と声を絞り出した。
「いつ頃ですか、それ……」
「そんなに時間は経ってないぞ。一時間くらいかな?」
リベルは苛立ちに叫びそうになった。
礼もそこそこに走り出すと、背後から彼の「頑張れよー」という声が掛かる。
リベルは〈フィード〉に駆け寄る。
〈フィード〉担当の法術師に声を掛け、縺れる舌で尋ねる。
「この一時間で出た、鉱路行きの陸艇はありますか」
法術師の女性は眉を上下させ、〈フィード〉から剥がしたものなのだろう、目の前に散らばる紙片をぱらぱらと手に取る。
「ないわね」
「じゃあ、いちばん早い鉱路行きの陸艇は――」
女性は溜息を吐く。
自分で見なよ、とばかりに〈フィード〉を指差しつつ、応じた。
「あと十五分で出発。歩いてたら間に合わないわね。乗るなら走りなさい」
「――――!」
リベルは自分への罵声を口の中で漏らした。
――駅に、確かに、勇者組合の陸艇があった。
あの陸艇は、もう離陸の準備を整え始めているように見えていた――
もしかしたら、リベルはヴィレイアのすぐそばを通っていたのかも知れない。
「あああくそっ!」
叫んで身を翻す。
そのとき、リベルはこちらへ向かって走って来た人影と正面衝突しそうになった。
舌打ちして相手を押し退けようとする。
が、相手はぎゅっとリベルの腕を握ってきた。
「――――?」
怪訝に思って、ようやくきちんと相手を見る。
――既視感があった。
リベルは大きく息を呑んだ。
勇者組合には不似合いな、菫色の天鵞絨で仕立てられたフードつきのケープ。
フードの縁には見事なレースが縫い付けられ、そのレースもまた菫色に染められた絹糸だった。
そのフードを目深に被り込んだ女性が、リベルの腕を取って見上げてきている。
年の頃は二十歳か、それより少し上か。
間違いなく初対面だが、リベルの既視感は彼女の容貌に起因していた。
――フードで隠され、人目にはつかないが、こうして接近してみればわかる、眉の辺りで切り揃えられた前髪。その、白百合の色合い。
大きな扁桃型の双眸、その緑青の色彩。
形の整った小さな鼻。
虹彩の色合いを除けば、全てがヴィレイアにそっくりな。
初めて会ったとき、ヴィレイアが白い外套のフードの下からリベルを見上げたときを彷彿とさせる、この角度。
全て相俟って、電撃のような既視感が走り、そしてリベルは目が回るような強烈な認識を覚えていた。
――彼女がヴィレイアの姉だ。
それが、どうしてだかヘルヴィリーではなく、ここにいるのだ。




