37 おかえり日常
「なんか変わった感じ、ある?」
「いや、全くない」
「そんなもんかぁ。まあ、試しに死んでみるか、とはいかないもんなぁ」
夕食をつつきながらの会話である。
ここにいるのはリベルとエルカ、ヴィレイアの三人だけで、バンクレットはいない――当初の予定どおり、いったん陸艇に戻っているのだ。
リベルに関して、〈陽輪〉から壮絶な衝撃を齎す事実が告げられ、しばらくは四人ともが身動ぎも儘ならないほど驚いた。
とはいえ驚きとは去るものであって、バンクレットが真っ先にしたことは、他の三人への口止めだった。
寿命が限られた〈言聞き〉と、リベルの偶発的な天命契約と解釈できる言動が重なって、奇跡的に上手く運んだ今回のことだ。
心臓を病むことを予見しており、そしておめおめと死ぬわけにはいかないという決意を固めた〈言聞き〉と、リベルの偶発的な天命契約と解釈できる言動が重なったがゆえの、千載一遇の出来事。
そもそも、〈言聞き〉の誓約は、竜の生死を縛ることは出来ない。
竜が死を失ってから、欠落に関しては誓約の範囲に入ったというだけのことであり、ゆえに今回のリベルの天命契約も、「リベルが死を手に入れる」ことではなく、「リベルは〈言聞き〉と心臓を入れ替える」ことのみを定めたものだったのだ。
目的がなんであれ、死を定める誓約は有り得ない――竜の死を運ぶことの出来る存在は死霊のみ、〈言聞き〉さえも例外ではない。
逆に、 そうでなければ事の成否を、あれほど〈陽輪〉が危ぶんだはずがない。
だが、リベルの身に起きたことだけが広まってしまえば、
「――下手をすれば、“〈言聞き〉狩り”が始まりかねない」
というわけである。
無論、黄金竜がいるからにはそれが上手くいくはずもないが、黄金竜の当然の抵抗の結果として、欠け人が増えていくのは忍びないのだ。
バンクレットがそれを危ぶむほど、欠落は全ての竜が忌避することだ。
そしてリベルもはたと気づいたが、
「欠落税……」
そう、欠落が有り得ないのであれば、市民を塗炭の苦しみで喘がせている欠落税は、その根拠を失う。
それだけをとっても、〈言聞き〉目掛けて人々が大挙して暴挙に出ることを憂慮するには十分な根拠だ。
くわえて、
「私はこれを、ヴァフェルムさまにも秘匿しなければならない」
と、バンクレットは苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「ヴァフェルムさまは慎重で、聡明な方だ。滅多なことはないだろうが、それでも万が一、この話が権力者に広まるのはまずい」
権力を使った〈言聞き〉狩りが始まりかねないためだ。
むしろそうなったときの方が、世相は悲惨を呈するだろう。
欠落税をものともしない、あるいは欠落税を免除されている特権階級であっても、欠落が忌避すべき終末であることには変わりないのだ。
「そもそも再現性がない話だ、隠匿して何が悪いということでもない……」
自分に言い聞かせるようにそう呟くバンクレットが、ヴィレイアの頭を撫でている。
ヴィレイアはぽかんとした、御伽噺の幻獣が目の前に現れたかのような瞳でリベルを見つめていた。
「俺ら、内緒にしていくことが増えますね」
エルカが辛うじて悪戯っぽく揶揄するようにそう言って、バンクレットは真顔で頷いたものである。
「全くだ。きみがいい子で良かった」
二十歳近くなって「いい子」呼ばわりされたエルカは閉口していたが、それはともかく。
――バンクレットは衝撃を遣り過ごし、この部屋で作成していた未完成の報告書を束にして、動揺が去り切っていなかったのか数枚をはらはらと落とし、そのことに慌てながらも陸艇に引き揚げた。
一方の〈言聞き〉と黄金竜だが、〈言聞き〉はまだ何か言いたいことがある様子でリベルの周りをうろうろしていたが、これをリベルが本気で嫌がったため、〈陽輪〉に宥められて去っていった。
エルカもヴィレイアもほっとした様子でそれを見送り、間もなくして、〈言聞き〉を首の付け根に座らせた〈陽輪〉が、優雅な翼を大きく広げ、中庭から藍色に暮れた空に飛び立っていくのが見えた。
遠ざかっていく黄金竜の姿は、町中の光を受けて一際大きな明星のようでもあったが、リベルからすれば、やっと黄金竜から離れられた安堵と解放感が大きく、それに見惚れるどころではなかった。
そして夕食が運ばれてきて、今に至っている。
夕食を運んできた女中たちは、手慣れた様子で、中庭とこの部屋を区切る仮の間仕切りを設置してから去っていき、間仕切りとはいっても分厚い布幕を壁代わりに張っただけのそれを見て、ヴィレイアは何やらしみじみと、「南の方の町って感じだねぇ」と呟いていた。
布幕は鮮やかな金糸雀色で、目に優しくも眩しい色合い。
もうすっかり日は暮れ切り、部屋の中も暗い。
カンテラの明かりが柔らかく闇を払っている。
赤ワインで蕩けるほど柔らかく煮込まれた肉をつつきながら、ヴィレイアはリベルを眩しそうに見ている。
「――でも、そっかぁ、リベル、どうなることかと思ったけど、良かったねぇ」
「ぜんぜん実感ないよ」
困惑ぎみで喜び切れないリベルに、ヴィレイアがどことなく寂しそうに微笑む。
「いいなぁ……」
そして、リベルが困惑していることを察したのか、わざとらしく話題を変えた。
「そういえば、リベル、ヒノワってあの黄金竜の名前?」
「名前っていう概念はないらしい。あいつ、〈言聞き〉と離れてるときは、さっきの比じゃなく口が悪かったんだよ。で、金ぴかトカゲだの何だの呼んでたら、別のを考えろって言われて、〈陽輪〉って呼ぶことにした」
「なるほど」
リベルとしては、〈陽輪〉の言動が気になっていた。
ヴィレイアを見た〈言聞き〉と〈陽輪〉の言動は妙だった。
エルカもそれを気にしているようではあったが、そちらに水を向けようとすると、ヴィレイアはするりと話題を変えてしまう。
そのうちにリベルも諦めざるを得なくなった。
贅沢に用意された夕餉を食べ切る頃には、リベルは再び眠気に襲われ、ヴィレイアも眠そうに欠伸を連発していた。
エルカはかなり心配そうに彼女を見ている。
「ヴィリーも碌に寝てなかったもんな……」
早く寝た方がいいよ、と勧めるエルカに、ヴィレイアは眠たげながらも猛然と、「やだ!」と。
「なんでだよ……」
当惑するエルカに、ヴィレイアは力を籠めて言っている。
「さっき聞いたんだけど、このホテル、すっごく大きなお風呂があるんだって! 使わないなんてもったいないでしょ!」
「明日でいいだろ……」
「やだ」
「じゃあ好きにしたらいいけど、メメットさんだっけ、あの人について来てもらえよ。おまえ、眠くて風呂場ですっ転ぶんじゃないか」
リベルも憂慮の表情である。
ヴィレイアが殆ど眠っていなかったということもあり、心配してもらえたことが嬉しいのと、彼女に無理をさせて申し訳ない気持ちが鬩ぎ合う。
「ヴィリー、一回部屋に戻って、横になって。それでちょっと仮眠してから、風呂なり何なり行けばいいだろ」
「リベルまでそんなこと言う……」
「だって俺がついて行くわけにいかないから……」
ヴィレイアとエルカが同時に噴き出した。
とはいえ、リベルが全霊で心配していることが伝わったのか、ヴィレイアは膨れ面ながらも、「明日にする……」と言い置いて部屋に戻っていった。
が、部屋に戻る前に、彼女がはにかみながらリベルの手をぎゅっと握り、「無事でいてくれて本当にありがとう」と囁いたがために、リベルは心臓の形が変わるのではないかと思うほどどきまぎすることとなった。
エルカは、「おまえももう寝ろ」と言いつつ、甲斐甲斐しくリベルを上掛けでくるんでやりながら(どうにも照れ臭く、リベルは「いいから」と何度か言ったが、エルカは聞き容れなかった)、ぼそっと呟いた。
「ヴィリーって、おまえの言うことはよく聞くよな」
リベルは一頻り咽てから、辛うじて呟いた。
「――いや、あいつの金遣いをどうにか出来たことはないんだけど」
「あれはもう、なんか、確固たる意志を持った散財だよな」
笑ってそう言って、エルカがリベルの頭をくしゃくしゃと撫でる。
「じゃあおやすみ、リベル。俺の弟」
リベルは目を細めた。
「おやすみ、お兄ちゃん」
*◇*◇*
翌朝、夜明け前にリベルは目を覚ました。
微睡みの中を泳ぐようにしばらくうとうとした後で、身体を伸ばして目を開ける。
信じられないほど気分が良かった。
昨日は意識するどころではなかったが、ヴィレイアが「一番いいホテル」と言っていただけのことはある、寝具はまさに滑らかな雲の触り心地だった。
起き上がり、寝癖のついた髪を掻き回す。
そこでまたもう一度伸びをして、見慣れない天井を見上げつつ、〈言聞き〉の心臓を巡る騒動がともかくも落着したことを改めて噛み締める。
自分が、二百年ぶりの「死を得られる竜」になったという自覚はまるでなかったが、一方で強烈に自覚したのは、
(ヴィリー……)
大きく息を吸い込んで、リベルは額に手を当てた。
考え出した途端に、明らかに顔が熱くなったのを感じる。
――これまで生きることで精一杯、人生から人付き合いという人付き合いを排斥してきたリベルである。
自覚した感情が余りにも不慣れで、ヴィレイアによって自分の人格に、決して消えない痕がつけられたようにすら感じる。
そして同時に、空恐ろしくすらあった。
――自覚してしまった。
ならば、求めてしまう。
ただでさえ、もう十分以上に、リベルに対して何もかもを与えたヴィレイアに、この上さらに――彼女にとって最も大きなものだろう、心を求めてしまう。
彼女の心にリベルの場所を、特別な笑みを、二人だけの間で見せる顔を、常ながら寄り添って歩く権利を、――求めてしまう。
そして応じてもらえないことが恐ろしい。
もっとヴィレイアに近い場所に立ちたい気持ちはあるが、それを拒絶されるくらいならば、何も告げずに今のままの関係を維持した方がいいとすら思うほど。
だがそうやって足踏みしている間に、ヴィレイアが彼女にとっての特別な人を見つけてしまったら嫌だとも思う。
儘ならない。
何より怖いのは、ヴィレイアが傷つくことだ。
――リベルの気持ちを知って、ヴィレイアが困惑するのを見たくない。
ヴィレイアの側に同じ気持ちがなくて、訪れようもなくて、そしてそのときに、優しい彼女がリベルに報いられないことで傷つくことが怖い。
じっと座っていられず、リベルは立ちあがった。
中庭に向かう間仕切りの布は、外で吹き渡る風を受けて内側に膨らんでいる。
まだ日が昇っていない――布地の鮮やかな金糸雀色ですら褪せて見える暗さ。
だがその暗さの底に明るさがあって、間もなく夜明けが訪れると告げる、そのささやかな明るさがリベルには嬉しかった。
間仕切りの布に歩み寄り、昨夜の女中たちがどうやってこの布を固定していたかを思い出し、床の金具を探り当てる。
金具を弄ると布地が外れた。
ばさり、と布地が大きくはためく。
リベルはするりと布地をくぐって、まだ暗い中庭に、素足のまま踏み出した。
――夜明け前の風は、しかし然程冷たくはなかった。
もう春が訪れている。
芝生がさやさやと風に歌い、中庭に吹き込む空気は微かに高い音を立てている。
リベルは柱廊と中庭の境目に腰掛け、装飾の施された柱に頭の左側を預けるようにして凭れ掛かった。
空はまだ暗い群青で、間もなく消えゆく星が、白くちらちらと輝いている。
それを見上げながら、リベルはぼんやりと考え込んだ。
(――ぶっちゃけ、ヴィリーって俺のことどう思ってるんだ……?)
これはさすがに断言できるが、好意はある。
そうでなければ、日頃からああも甘えてこないだろう。
命を預け合っての鉱路探索の間も、普段のように和気藹々と出来ていることもその証左だ。
加えて今回の件でも、眠れなくなるほど心配してくれたのだ。
これで好意がないと言われると、好意の定義を考え直す必要に迫られてしまう。
だが一方、その好意の種類には全く自信がなかった。
相棒に対する親愛の念でしかないとなれば、ヴィレイアの相棒としてのリベルは嬉しい一方、彼女に恋する男としてはがっくりきてしまう。
さらに、ここへきて気に掛かるのは、ヴィレイアが事あるごとに見せる素振りだった。
――最初に出会ったときから、ヴィレイアは「短い間だけ、よろしく」と言っていた。
今日に至るまでそれが撤回されることはなく、まるで彼女がリベルの人生から早いうちに消えてしまいたいというように振る舞うことさえある。
(昨日も……)
亜竜の鱗の指輪、リベルとヴィレイアが出会ったときに作ったあの指輪すら、要らないと切って捨てられた。
リベルがあの指輪を失くしたことに罪悪感を抱かないように気配りしただけかも知れないが、リベルとしては落ち込んでしまう。
なんだかな、と物思いに沈んで、明けていく空の色の移り変わりを眺める。
中庭の形に切り取られた四角い空が、群青色から薄青色へ、そして白に近い薄桃色へと変わっていく。
辺りはしんと静まり返っているが、町が静かなのか、それともここが町の喧騒も届かないほどホテルの奥まった場所にあるのかは、リベルにはわからない。
夜明け前から立ち働いている人もいるはずのホテルだが、不思議なほど人声が聞こえない。
ただ微かに、炊事の温かい匂いが漂い始めていた。
そのとき、背後で勢いよく扉が開いた。
ばんっ! と、壁にぶつかって跳ねるほどの勢いで開かれた扉に、リベルはぎょっとして振り返る。
そしてそこに、肩で息をしているエルカを見つけて膝立ちになった。
「エルカ? 何が――」
何があった? と尋ねる前に、エルカはへなへなと扉の前で崩れ落ちていた。
「エルカ?」
慌てて立ち上がり、部屋の中に戻る。
彼がエルカに駆け寄るのと、エルカが自力で立ち上がるのが同時だった。
「どうした? 何かあったのか?」
切羽詰まって尋ねるリベルに首を振って、エルカは片手で顔を拭い、胸の底から息を吐いた。
「……あー、良かった……」
「…………?」
首を傾げるリベルの肩に額を乗せて、エルカはしみじみと呟く。
「――おまえが無事に戻って来たのが夢だったっていう夢を見たんだよ。ちゃんといてくれて良かったよ」
リベルは息を吸い込み、それから兄貴分をしっかりと抱き締めた。
「ありがとう、エルカ。俺は大丈夫だよ」
そのあと、まだ夜も明け切らぬうちから、リベルとエルカはホテルをうろついた。
確かに贅を尽くした内装であり、二人ははたと、「そういえば、ここの風呂はでかいんだっけ」と思いつく。
しかしながら二人が二人して、他人に裸体を見られるわけにはいかない焼き印を負っていることがあって躊躇していると、朝の忙しい時間だろうに女中が足を止めて二人に声を掛けてくれる。
見知らぬ他人にびびるリベルがエルカの背中に隠れる一方、エルカが、「ここの風呂ってめちゃくちゃでかいって聞いたんですが」と水を向けると、女中はたおやかに微笑んだ。
朝の早い時間帯であることも、激務であろうことも、一切感じさせない完璧な微笑だった。
「はい、大浴場がございます」
お使いになりますか? と首を傾げられ、エルカは思案顔。
「あんまり、他の人に見られたくないんですけど」
女中は事も無げに、「では、貸し切りといたしまして」と話を進める。
エルカが目を丸くし、「さすがに、そこまでは」と遠慮を見せると、彼女は微笑んだ。
「将軍閣下から、お二人の居心地が少しでも良くなるよう尽力せよと仰せつかっております」
そうして案内された大浴場は、さすがに男女は別になっているが、女性が使う側もそう造りは変わらないらしく、これはヴィレイアもはしゃぐだろうと思えるものだった。
広々とした洗い場と、花籠を捧げ持つ精緻な妖精の像が囲む、広々とした浴槽。
湯船には白い花びらが浮かぶ。
ホテルの四階に作られた圧巻の浴場で、天窓から朝陽が射し込み始めていた。
備えつけられている石鹸は花の香りがする。
「はー、すげぇね」
そう言いつつも、エルカは首を捻っていた。
「ただの洗い場にこんだけのものを用意するとか、金持ちの考えることはわかんねぇな」
「だな」
そう言いながらもリベルは、ヘルヴィリーで災難に襲われてからこちら、散々な目に遭ってきた身体を洗い清めて、無駄と思えるほどに広い浴槽で温かい湯に身体を伸ばして寛ぐことが、大変気分のよいものだということは、異論の余地なく認めた。
着替えとして、清潔な綿の肌着と絹のシャツ、柔らかいズボンが提供されたが、聞くにこれはバンクレットが既に買い上げているものらしかった。
お好きにお使いくださいと添えられたメモをリベルが読み上げ、「親父さんって金持ちなんだよな」と、改めて言い合って入浴を終えることとなった。
ホテル一階の大きな食堂で朝食の支度が整えられており、案内された先には既にウェイン隊の面々がいた。
温かみのある飴色の寄木細工を基調とした部屋、銀の覆いを被せられた食事の支度が整っているのは、真っ白いレースのクロスを掛けられたテーブル。
それが幾つも並び、椅子はそれぞれ背凭れの高い立派な調度。
リベルがいた部屋から見えていた中庭とはまた別の、整えられた庭園がよく見える大きな窓が開いており、そこから噴水と、噴水に集まっている小鳥たちが見えていた。
隅には酒を提供するための洒落たカウンターがあり、並ぶ酒の瓶をウェインとギー・レス、ベイ・レスが興味津々に見つめている。
リベルに気づき、ディドルが嬉しそうに手を挙げる。
「リベルさん! 元気になったんですね!」
リベルははにかみながら微笑んで、彼の気質があって駆け寄って抱き締めることこそしなかったものの、殆どそれに近い、親しみ深い態度で彼らに歩み寄った。
改めて頭を下げる。
「――本当にありがとう。何もかも」
「だから、いいって。何か礼をしたいっていうならさ、リベル、軍人に口利き出来るなら、あの中の酒をどれか貰って帰りたいんだが」
ウェインが嬉々としてカウンターの奥を示し、メイが舌打ちして彼の足の甲を踏む。
痛いっ! とウェインが涙目になったところで、アーディス隊が顔を出した。
リガーが眠たげに欠伸を連発しており、しかしリベルを見つけて嬉しそうに満面の笑みを浮かべてくれる。
ラティも控えめながらも満面の笑みで小さく手を振った。
アガサがぱっと顔を輝かせて駆け寄ってきたが、リベルは思わず後退った。
その反応は予想していたのか、アガサが、はぁ、と溜息を漏らす。
「あんたってほんと変わらないわね」
「ごめん……」
続いてバンクレットが当然の顔で姿を見せ、リベルがそこにいることを見て取って、憂慮の表情で彼に歩み寄ってくる。
「気分は?」だの、「無理をしていない?」だのと矢継ぎ早に尋ねられ、リベルは苦笑。
「大丈夫、大丈夫だって、親父さん」
その頃にリエラとメメット隊が起きてきて、リエラはほっとした顔でリベルに走り寄ってきた。
「どっちを向いても勇者さんたちばっかりで、もう怖くて」
と囁くリエラに、リベルは半笑い。
「……俺も勇者だけどね」
「あ、そうでした」
「昨日言いそびれてた。今回のこと、ほんとにありがとう」
「いえ、私はそんなに、何もしてないようなもので……」
恐縮する風を見せるリエラ。
エルカがぼそっと、「鉱路の中のヴィリーと連絡とってくれてたじゃん」と言ったが、それを聞いてますます肩を窄める。
リエラはエルカのことを苦手にしている。
彼女は悩んだ末にバンクレットに張りついておく戦法に切り替えたらしく、バンクレットが苦笑いを浮かべていた。
バール隊が慌てた風情で起きてきて、ほぼ全員が揃ったが、ヴィレイアがいない。
リベルは半ば立ち上がりつつ、
「あいつの部屋どこ? 様子を見て来る」
と言ったが、メメット隊がそれを制した。
「大丈夫、大丈夫、あの子は朝に弱いから」
「昼まで寝てるんじゃないか」
「まあ、しばらくまともに眠ってなかったしねぇ」
「変に起こすと機嫌が悪くなるしね」
いかにもヴィレイアのことをよくわかっているというような――そして実際に、一緒にいた時間は彼らの方が長いのだ――その語調に、リベルは大人げなくもむっとしたが、「寝かしておいてやろうぜ」とエルカも言ったことから、再び椅子に腰を落ち着けた。
朝食の時間は概ね和やかに過ぎたが、バール隊はじゃっかん呆れているようだった。
昨日までが余程身の置き場がなかったのだろうが、豹変してあれこれ彼らに気を遣う勇者たちに、「だったら最初から疑うなよ……」と言いたげである。
とはいえ、エルカたちからすれば、リベルが失踪した上に唯一の手掛かりが訳のわからないことを言い出したとあれば、疑念あまって冷遇したのも無理ないことではあった。
リベルは、ようやく落ち着いて頭が回るようになったこともあり、向かい側で朝食を摂るバンクレットに、身を乗り出すようにして尋ねた。
「俺たちって、一回ヘルヴィリーに戻るよね? ここからどのくらい掛かるの?」
バンクレットは首を傾げる。
「そうだな……。天候にもよるが、真っ直ぐに向かえば二日程度かな。どうして?」
「いや、あの……」
リベルは赤面。
「……建国祭を、ヴィリーと一緒に回ろうって言ってて……」
建国祭は、春の月五日に催される大きな祝祭だ。
今日は初春の月三十日。然程日はない。
エルカがにやにやしてリベルを見遣る一方、バンクレットは不意に、危ぶむような目をリベルに向けた。
何かを案じるような、愁うような瞳――
「――親父さん?」
きょとんとしてリベルが首を傾げると、はっとしたようにバンクレットは瞬きし、取り繕うような微笑を浮かべた。
「――建国祭ね。いいんじゃないかな。ヘルヴィリーのものは盛大だし――花火も上がる。露店もたくさん出る。きみたちが迷子にならないかどうかだけが心配だ」
リベルは怪訝なものを覚えたものの、大都会の祭りとあればバンクレットが心配することは枚挙に暇がないだろうとも思った。
それこそ迷子、喧嘩沙汰。
ゆえに拘泥することはなく、尋ねた。
「今日、出発?」
「いや、明日かな。――間に合うから大丈夫だよ」
バンクレットが肩を竦める。
「一個中隊が動いたからね。後始末に少しばかり時間も掛かる。彼らの休養も必要だし、きみをすぐに長距離の移動に連れ出すのも心配だし、――勇者隊の皆さんへの謝礼も考えなければならないし、彼らをどうやって送り届けるのかも考えなければ」
リベルは少し考えた。
少なくとも、彼のために動いた勇者隊は四つ。
彼自身の隊を含めれば五つ。
そこに軍人も動いたとあっては――
「――迷惑かけて、ごめんなさい」
「迷惑ではないよ。それに、軍隊がきみのために動くのは、きみの権利のうちだから」
悪戯っぽく微笑み、声を低めてそう言って、バンクレットが伸びをする。
――そのとき、騒々しい足音が響いた。
「ああ、起きたみたいだな」
アーヴェイがぼそっと呟いたそのとき、息せき切って食堂にヴィレイアが飛び込んできた。
寝起きそのままに駆け出したきたことがわかる、寝癖がついたままの髪、化粧着の上にガウンだけを羽織った格好。
男性陣が一斉に目を逸らす。
リベルは思わず咽そうになり、堪えて、怒気に近いものを覚えながら大慌てで立ち上がった。
メメットが呆れた様子で首を振り、ロイとケルクが溜息を吐く一方、アーヴェイはテーブルを叩いて笑っている。
リベルが駆け寄ると同時に、ヴィレイアも顔を輝かせてリベルに向かって飛び込んできた。
リベルは夜明け前の煩悶を忘れ、全く楽天的な推測に傾きそうになったが、ぐっと堪える。
ともかくもヴィレイアの肩をがしっと捉まえ、軽く腰を折って目を合わせた。
「ヴィリー、あのな――」
「リベル、良かった!」
ヴィレイアが嬉しそうに叫び、リベルは自分が何を言おうとしていたのかを忘れてしまった。
目を瞠って、「え?」と返す。
「何が……?」
「あなたが見つかったのが夢だったらどうしようとか、夜の間に何かあったらどうしようとか、いっぱい考えちゃった」
ヴィレイアが気まずそうに頬を赤らめ、照れた様子でそんなことを言う。
リベルは自分を落ち着かせるために息を吸い込んだ。
「心配してくれてありがとう。ヴィリー、それはめちゃくちゃ有難いんだけど、おまえ、人前に出る格好じゃない」
「――――」
ヴィレイアが半口を開けて硬直し、はたと我に返った様子で瞬く。
そして、みるみるうちに耳まで赤くなった。
彼女がへなへなとその場に頽れたタイミングで、「もう」と呟きつつ、ナプキンで口を拭ったメメットが立ち上がる。
「あんたは本当に手が掛かるわね。ほら、立って。行くよ。どうせあんたのことだから、このホテルのお風呂に入りたいって言うんでしょ。この贅沢好きめ。身支度ついでに入っちゃいなさい」
ヴィレイアを助け起こしながら、メメットがきびきびと言う。
ヴィレイアは彼女に縋りつくような格好。
「朝ごはん……」
「ロイー、ヴィリーの分を取っておいてあげてー」
「了解ー」
メメットとロイのやり取りがあり、メメットが、「はい、これでいいでしょ」とヴィレイアを引っ張っていく。
そうしながら最後にリベルを振り返り、彼女は驚嘆した様子で呟いた。
「――にしても、あんた、身嗜みには気を遣うのに、よっぽどこの男の子のこと大事なんだね。無事なのが夢だったらどうしようって思うくらい心配なんだ?」
リベルは赤くなった。
ヴィレイアが息を吸い込み、「そんなんじゃないから!」と、きんきんと叫びながら、廊下を連行されていく。
「どう見ても、リベルくんの方があんたの何倍もしっかりしてると思うけどねー、強いし。
ほんと、会えて良かったわね」
「だから違うっ! 違うって、メメット!」
「こら、恩人でしょ。恩知らずなこと言わないの」
「恩人だけど! そんな言い方したらリベルが誤解するでしょ!」
ぽかんと二人を見送って、リベルは無意識のうちに頭を掻いていた。
――初めて見たときは、ヴィレイアと彼女の隊の間には、〈鉱路洪水〉直後で強張った雰囲気があった。
だが、あれは非常時だったからだ。
〈鉱路洪水〉という、一生に一度出遭うか出遭わないかという例外の事態の中だったからだ。
本来であればこれほど気心の知れた、仲のいい隊だったのか、と、それを突きつけられたような気分だった。
そして同時に、ふと、リベルとダイアニに向かったときに、ヴィレイアもまた、リベルとアーディスたちの間の空気に何か思うところはあったのだろうか、と、そんなことを考えた。
〈言聞き〉は死を定められないということは、1章02、2章07で明言してあります。




