現に戻り
とある家の台所にて。
熱心に手を動かして料理をしている老婦人に、呆れたように声をかける人間が居た。
「お母さん、この茶碗蒸しどうしたの?」
「ええ、そこの硝子工房に差し入れようと思って……」
由紀子という名の女性は、楽しそうに作り上げた茶碗蒸しを盆に載せてラップをかけて、持ち運びできるようにしていた。
だが、それを聞いた彼女の娘は、怪訝そうに首を傾げる。
「少しいったところの硝子工房? だって、そこはもう……」
娘にそう言われて、由紀子は目を軽く見張って、やがて一つ寂しそうに息を吐いた。
言われて気づいたという風でもあり、何故か夢から醒めたような不思議な様でもあった。
「あら、そうだわ。工房は、ご主人が亡くなって閉じたんだったわ」
近所の硝子工房の主人とは、家族ぐるみの付き合いだった。
時折料理のおすそ分けにいくこともあったが、先だって工房主である男性は突然亡くなってしまった。
跡継ぎとなる者が居なかったため、そのまま工房は閉鎖されてしまった。
今、あの家は空き家のままのはずだ。
由紀子はしみじみと溜息を吐くと、頬に手を当てて困惑の表情を浮かべる。
「疲れているのかしら。私ったらつい今までの癖で……」
「霊感とかそういう不思議な感覚とか強かったから、何かに引きずられたんじゃないでしょうね」
まさか、と笑いながらも由紀子は何とも言えない不思議な感覚があった。
とても楽しい夢を見ていたような気がする。
まあ、多分気のせいだろうけれど。
あとは持っていくばかりになった茶碗蒸しを見て、娘が由紀子に問いかける。
「じゃあ、これもらっていっていいかしら?」
「勿論よ。みんなで食べてちょうだいな」
快く頷きながら、老婦人は何故か思うのだった。
理由は分からないし、根拠と呼べるものもないけれど。
いつかまた、あの工房におすそ分けに行く日がくるような気がすると――。
函館市にある、大きな総合病院の一室にて。
彼女はベッドサイドに立ちながら、荷物をまとめながら忘れものがないかを確認していた。
既に私服に着替えてしまって、借りていた寝衣は畳んで枕元に置いてある。
大きな荷物は、昨日までで大体持ち帰ってもらった。
必要な手続きも済ませて、書類も手元にある。
あとは細かいものを返却し、手首のIDバンドを切ってもらうだけだ。
もう一度何か見落としがないかを確認しようとしていた時、足音が聞こえたかと思えば声がかけられた。
「余、準備はもういい?」
「叔母さん」
振り向くと、そこには気さくな笑みを浮かべた叔母が立っていた。
退院するにあたり、手を煩わせて申し訳ないと思いつつ迎えにきてもらったのだ。
父は仕事でどうしても都合を合わせることが難しく、母は……。
「姉さんは、やっぱり来ないって?」
「来ないどころか、私が荷物をまとめて出ていくまで、顔も見たくないから家には戻らないって」
呆れた風に溜息を吐きながら、叔母が問いかけてくる。
それに苦笑しつつ頷きながら、自分に届いたえらくヒステリックなメッセージについて知らせると、叔母は頭を抑えつつ盛大な溜息を吐いた。
「本当に困った人。子供のまま大人になったって感じだわ」
自身の姉である女性に対する叔母の評価はとても辛辣だった。
元々姉妹の関係は良いとは言えないように思えたが、大人になってから冷静に原因を見てみると、実に一方的なものだった。
叔母は何かの折には母を気にしてくれるのだが、それに悪意があると思い込んだ母は、ことあるごとに跳ね付けては叔母を悪者に仕立て上げる。
あまりに続いた拒絶に叔母は呆れてしまい、結果として疎遠となってしまったのだ。
母と居た頃には気づけなかったことだ。あの頃は、母が正しいと信じて疑っていなかったから。
叔母は苦い笑いを浮かべながら、もう一度溜息を吐く。
「どうせ、娘に裏切られた可哀そうな私、って悲劇のヒロインの自分に酔っているんでしょうね」
実に辛口な言葉ではあるが、あまりにその通りすぎて乾いた笑いが出そうになる。
聞いたところによると、母は今まで散々娘の自慢を聞かせていた相手に対して『娘の裏切り』について、物凄い勢いで吹聴して回っているらしい。
顔も見たくないからと家を出て知人宅に滞在しているらしいが、そこでも多分娘への罵詈雑言の嵐なのだろう。
先方にご迷惑をかけていなければいいのだが、と思いながら脳裏に巡るのは、意識を取り戻して数日してからのこと。
状態は一進一退を繰り返し、ICUに入っては出て、を繰り返していたが。
ようやく本当に落ち着いて一般病棟に出ることが出来た直後だった。
『あの場所で事故を起こしたということは。あなた、お祖父ちゃんの家に行ったのでしょう? まったく、余計な真似をするから……』
意識を取り戻して会話が出来るようになった娘に対して、母が口にしたのは安堵でも喜びでもなく、咎めの言葉だった。
確かに実家とは全く離れた場所にあるあそこで事故にあったということは、取りも直さず祖父宅を訪れたことを意味する。
それについては否定しないけれど、他に言うことはないのだろうかと思ってしまう。
全く自分の言葉がおかしいとも悪いとも思っていない様子の母を見て、看護師がしていた噂話を思い出す。
何でも、意識こそ戻ったもののまだ少しも回復したわけでもない娘について、医師に「いつ仕事に戻れますか? 長引くと休職扱いになって無給になるので」と聞いて反応に困らせたとか。
咎めるような父の視線も全く意に介せず、呆れて物も言えない叔母には気付いてすら居らず。
母はこれ見よがしな溜息を吐いた後に、まだ数々の医療機器に繋がれたままの娘へと言い放った。
『職場にも散々ご迷惑をおかけしたのよ。早く退院して復帰しなさい。クビにでもなったらどうするの』
その場にいた他の人間が絶句してしまったのがわかった。
ベッドに横たわる娘は先日まで生死の境を彷徨い、一時は危うい状況にあったのだ。
それが意識を取り戻して喜ぶどころか、仕事をクビになる心配が先に立つとは。
だが、母は全く気に留めた様子がない。
それはそうだ。だって母は『正しい』ことを口にしているだけなのだから。
彼女は横たわったままではあるが、しっかりとした眼差しで母を見据えた。
そして、はっきりと告げた。
『今の職場は、辞めます』
母は目を瞬き、ぽかんとした表情のまま口を開けてしまっている。
父と叔母も驚いた様子でこちらを見ているのが分かる。
三人とも、今彼女が何を口にしたのか理解し切れていない様子だった。
『私は、硝子職人になります』
三つの視線を受け止めながら、彼女は――余ではない『セイ』は、決意をこめた確かな声音で、宣言するように告げた。




