冬の日の点描(3)
その日、王都には雪が降った。
王都の冬は寒くはあっても、雪はさほど多くはない。ひと冬に一度積もるかどうか、という程度のものだ。そして積もったにせよ、それはせいぜい指1本分か2本分かに過ぎず、半日と経たずに消えてしまう。
遥か遠くに見える竜骨山脈の峰々は冬のたびに真っ白に染まっても、王都に降る雪はいささか珍しいものなのだ。
数日前からひどく冷え込んだ王都に降ったみぞれは、夜半前から雪に変わった。雪の勢いはそう激しいものではなかったが、止む気配を見せないままに夜が明ける。夜明けとともに動き出した王都に、雪は降り続けている。
※ ※ ※ ※ ※
「雪はどうでしたか? 庭の様子は」
アリアレイン記念王都修道院と名を変えた、旧マレス侯爵家王都邸の廊下。修道院の掌記となったスチュアート・スティーブンスは、庭師のフェリクスを呼び止めた。
言ってしまってから、以前も同じようなことを言ったな、と思い返す。
「参りました……おや?」
答えたフェリクスも首を傾げる。
「前の大雪のときにも、こういうお話をしましたね、スティーブンス様」
「ええ、ええ、たしかに」
あの大雪からいくつか歳を取ったスチュアートが、笑いながら頷いた。
「していることは前の大雪とそう変わりありません。今回は折れる枝はなさそう、というくらいで。あとはまあ、早めに止んでくれることを祈りながら、都度雪を落としていくくらいですね」
「街も以前の大雪よりは、平静を保っている様子ではあります」
スチュアートの言葉に、フェリクスも笑顔で頷く。
「そういえば、前回の大雪の折には――」
「ええ」
スチュアートが、どこか遠くを見る目になった。ふたりして、同じ人物のことを考えている。
「お元気にしていらっしゃるでしょうか」
「お元気でしょう。先日も、文が来たではないですか」
「そうでした。初子様が、と」
「ようやく、という感もありますが」
「そういえば掌記殿、曾孫様がたしか」
「ええ、おかげさまで先日」
フェリクスにとって、スチュアートの曾孫の話はもう幾度も聞いたものではある。だが、お互い、めでたい話は何度してもよいものだし、何度聞いてもよいものだと思っているのだった。
「あら、お珍しい取り合わせ」
老いて柔らかい、だが張りのある声が、ふたりの会話の切れ間に滑り込む。
「ああ、これは、ヴァレリア様」
退位し、今や修道院に暮らす一修道女となった元大司教のヴァレリアは、しかし、以前と変わらない尊敬を集めている。
「何をお話ししていらしたのかしら?」
変わったのはむしろヴァレリア自身の態度だった。以前の重々しさが消え、身軽になったようにさえ思える。
「ふたりして昔話を。ヴァレリア様も、よろしければ、ご一緒にいかがですか? 談話室をひとつ開けましょう。そこで少し、思い出話というのも悪くないでしょう」
「ええ、ええ、こういう日にはそういうお話も、趣があってよいものです」
頷いたヴァレリアの先に立ってスチュアートが歩きだし、フェリクスがその後に続いた。
※ ※ ※ ※ ※
「クラウディア、寒くはないか。冷えはしないか」
「はい、私もお子も」
いささか心配そうに尋ねた若い国王エイリークに、王妃クラウディアは落ち着いた様子で応じた。
大きな暖炉に火が焚かれ、十分に暖められた王の私室。ごくわずかな侍従や侍女とともに、王の一家はひとときの団欒を楽しんでいる。
雪はまだ止んではいないが、王として為すべきことはなかった。おおよそのことは妃の父、内大臣ルドヴィーコ・フォスカールに任せてしまって差し支えなかったし、王自身にもさきの大雪の経験と記憶がある。その経験に照らす限り、大きな混乱が生じるおそれはないと言ってよい。
現に、雪で通常生じうる以上の混乱の報告は、どこからも上がってきていなかった。
「内大臣には、手間をかけさせてしまっているな」
呟いた王に、王妃はゆるゆると首を振った。
「確かに手間かもしれませんが、父は苦にしていないかと。少々忙しいくらいが、ちょうどよいのです」
「――そういうものか」
「そういうものです」
そうか、と王が頷く。少々楽しげな表情だった。
「おかげで、随分と楽をさせてもらっている。前の大雪のときは――」
言葉を切った王が首を振る。何もわからず、何をすればよいかも定かでないまま、全てを自分で決めなければならかなったときのことを思い出しているのだった。
「もうずいぶんと昔のことのように思えますけれど」
「実際、もうだいぶ前のことだろう。あれは確か、父上が倒れられたすぐ後だった」
王とクラウディアが知り合う前。
王太子だったエイリークの隣にいたのは別の令嬢で、その令嬢は追放された末に国内を混乱に陥れ、今では元の領地を別の国として盛り立てている。
「あのときは――そう、あの大雪のとき、久々に『何もしない時間』というのを、持った気がする」
空気が重くなりかけたその部屋で、王の足に、かすかな重みがかかった。まだ誕生日を迎えない小さな王子が、足につかまって立っている。王の口許に、かすかな笑みが浮かんだ。抱き上げようと近づくクラウディアを、よい、と手振りで押し留める。
「いろいろと変わったものだ、クラウディア」
「はい、陛下」
「だが余は、後悔していない」
失ったものがあり、得たものがあり、そして繰り返すものがある。
エイリークは己の選択を、後悔していなかった。
※ ※ ※ ※ ※
同じ日。王都から遠く離れたマレス、侯爵公邸の庭の一隅。
侯爵令嬢アリアレインは、椅子に腰かけて長子ヘルツシュタールを見守っている。おぼつかない足取りで走り、転び、立ち上がってまた走る。いったい何が楽しいのか、ヘルツシュタールは息が切れるほど笑い続けていた。
「随分と、大きくなられた」
隣の椅子に座り、同じように我が子を見守っていた夫のアーヴェイルが呟く。
庭木や花壇が整えられた侯爵公邸の庭の中で、この一画だけはある種殺風景なままにされている。ただ芝生だけが敷かれ、それも少々丈が長すぎるままに置かれていた。もちろんそれは、理由のないことではない。ヘルツシュタールが歩き、走り、転んだとしても、危険のないように。芝生はいつも柔らかく小さな身体を受け止めていて、ヘルツシュタールはこの庭で怪我をしたことがない。
「ほんとうに。ついこの間、生まれてきたばかりのような気がするのに」
アリアレインにとって幼子とともに過ごす日々は慌ただしく、あっという間に過ぎていくような気がしている。腕の中にすっぽりと収まっていた赤子は、いつの間にか庭を駆け回る子供に育っていた。無論そこにはアリアレイン自身と、夫であるアーヴェイルと、周囲の侍女や従者たちの努力と気遣いがあってこそ、ではある。それでもやはり、子供と過ごす日々は早い。そうアリアレインは思っている。
冬の風が吹き抜けて、アリアレインは肩から羽織った厚手のストールを合わせなおした。手が少し冷えたかもしれない、と思った途端、膝に揃えた手の上に、夫の右手が被さった。
「冷えますか、アリア様?」
「ええ、少しだけ。――そういえば、旦那様」
「はい?」
「前にもこうして、庭で手を温めてもらったわね。ちょうど今くらいの時期じゃなかった?」
束の間記憶を探ったアーヴェイルが、苦笑とともにアリアレインに視線を向ける。
「あのときは、アリア様、私の首に手を」
「……そうだったかしら?」
「あの冷たい感触は、今でもよく憶えておりますよ」
とぼけたように視線を逸らしたアリアレインを、夫の声が追い討った。
「今はそうでもないでしょう? ここでは、雪は降らないもの」
「それは確かに――」
言いかけたアーヴェイルが、するりと手を離す。同時にアリアレインも手を引き、そして差し出した。息を切らせながら駆けてきたヘルツシュタールを、父と母の手が受け止める。
またひとしきり楽しげに笑った幼子が、ふたりの手を振りほどくように、ふたたび走り出した。
「彼は」
その後ろ姿を見送ったアリアレインが呟く。
「雪の降る庭で遊ぶことはないのね」
「ええ、アリア様、おそらくは。しかし、」
アリアレインの左手を取ったアーヴェイルが立ち上がる。アリアレインは椅子に座ったまま、夫の顔を見上げた。
「別の場所で、別の好ましい思い出を作るでしょう」
頷いたアリアレインは、左手の上に右手を重ねる。両手を優しく掴み直したアーヴェイルの手が、小柄なアリアレインの身体を引き起こした。
「わたしたちのように?」
「私たちのように」
短い問いに短く答えたアーヴェイルが、アリアレインの腰を引き寄せた。間近から深い緑の瞳で見つめられて、アリアレインは目を閉じる。唇に、優しく、柔らかいものが触れた。
第3話。
本編の連載開始からおおよそ1年半。長らくのお付き合いを、ありがとうございました。
書籍版は完結巻となる下巻が昨日刊行され、本作「侯爵令嬢アリアレインの追放」は書籍版も含めて完結となります。
ここまでお付き合いくださった皆様に、心からの感謝を。本当に本当に、ありがとうございました。
書籍版はweb版本編の3倍超のボリュームとなっておりますので、web版で物足りなかった方は書籍版も是非お試しください。
また、実は新作の連載を始めております。
よろしければそちらも是非お目通しください。
「異国令嬢ユーラリアの日記」
https://ncode.syosetu.com/n4463lg/




