冬の日の点描(1)
その日、王都には雪が降った。
王都の冬は寒くはあっても、雪はさほど多くはない。ひと冬に一度積もるかどうか、という程度のものだ。そして積もったにせよ、それはせいぜい指1本分か2本分かに過ぎず、半日と経たずに消えてしまう。
遥か遠くに見える竜骨山脈の峰々は冬のたびに真っ白に染まっても、王都に降る雪はいささか珍しいものなのだ。
数日前からひどく冷え込んだ王都に降ったみぞれは、夜半前から雪に変わった。雪の勢いはそう激しいものではなかったが、止む気配を見せないままに夜が明ける。夜明けとともに動き出した王都に、雪は降り続けている。
※ ※ ※ ※ ※
「雪はどうでしたか? 庭の様子は」
マレス侯爵家王都邸の廊下。
雪まみれになって屋敷の中へ戻ってきた庭師のフェリクスを、執事のスチュアートが呼び止めた。
「いやいや、参りました」
フェリクスが応じる。
「庭木に積もった雪は、落とせるだけ落としました。しかしこの分だとまた積もりそうです。午後にもう一度、ですね」
「それはそれは」
スチュアートが苦笑いで答えた。まだまだ現役ではあっても、歳を取った身には寒さが堪える。孫のような歳の庭師の熱心さは、己の老いを思い出させるものでもあった。
「王都でもここまでの雪は、なかなか珍しい。街路の雪かきはされているようですが」
「衛士たちもひと苦労でしょうね、これでは」
話題を変えた執事に、庭師が頷いて同意する。思い出したように帽子を取ると、そこには雪がついていた。屋内とはいえ、廊下はしんと冷えている。
「庭木にはいくらか、枝が折れたものもあります。止んだら手入れをしなければ」
「日が暮れる前に雪が止むことを祈りましょう。また夜通し降ったならば、今日どころの騒ぎではなくなりますからな」
雪の勢いは徐々に弱まってはいるものの、また冷え込んで勢いが増したならば、庭木などどうなってしまうかわからない。とは言え、人の身にできることは祈ることと被害を小さくすべく努力することだけで、雪そのものをどうにかする手段などありはしない。
やれやれと首を振ったあとで頷きかわしたふたりは、廊下で別れた。
フェリクスは、湯を沸かしているというキッチンへ。
スチュアートは、来客の予定だったとある子爵の使者が待つ応接室へ。
王都には珍しい雪の日も、王都邸の使用人たちは忙しく働いている。
※ ※ ※ ※ ※
「市中の様子はどうだ?」
王宮の談話室。王太子エイリークは、内務卿を呼び、王都の状況について報告を受けている。内務省で王都の衛士たちを束ねる立場ゆえのことだった。
「は、衛士を動員して、主な街路の除雪を行っております。ただ、全ての街路までとはなかなか」
細々とした路地まですべてを、というのは、たしかに無理な話ではあった。だからこのような場合は、主な街路を除雪し、そこだけは支障なく馬車を通せるようにするのが通例だ。
「軍は必要ないか」
「は。ひとまずは問題ないかと。積もった雪も、幾日かすれば溶けましょう」
「そうか。ならばよい。何かあれば、衛士隊から報告が上がるようにしておいてくれ」
「御意にございます、殿下」
柔和な笑みを絶やさないまま、内務卿が応じる。
「諸卿には、危急の用件のない限り、今日は登城に及ばないと伝えておけ。何をするにもこの雪ではな」
「殿下のお心遣い、まことに感服いたしました」
言いながら、内務卿が深く一礼する。王太子の判断は、たしかに妥当なところと言えた。
定例で開かれる会議にせよ、各省から持ち込まれる様々な案件にせよ、討議をするために集まること自体がひと苦労、というような有様なのだ。執政府でさえまともに動いているかどうか怪しい。内務省の、王都の治安を担当する部署では書記官や事務官が泊まり込んでいるものの、他の省はせいぜいが開店休業、郊外から通う書記官や事務官は執政府に辿り着けない者も出ていることだろう。
そのような有様で、まともな仕事など期待できようはずもない。
下がってよい、と王太子が手を振り、内務卿はもう一度礼をして退出した。
ひとりになった王太子は、しばし黙考して席を立った。私室へと長い廊下を歩き、行き合った侍従のひとりを呼び止める。
「はい、殿下、いかがなさいましたか?」
「陛下のお部屋に控えている者に伝えておいてくれ。今日は殊更に寒い。お部屋が冷えぬよう、気をつけてくれ、と」
かしこまりました、と侍従が一礼する。それを確かめて、王太子は私室へと戻った。
身分に相応しく豪奢に整えられた続き部屋の、その応接室で、椅子に深々と身体を沈め、王太子は庭園に降る雪を眺めている。侍従は下がらせた。茶を淹れてくれた侍女も、呼ぶまでは外で控えるように、と伝えている。
諸卿は来ない。定例の会議も今日は行われない。謁見の予定も、すべて取りやめとなった。普段ならば寸刻ごとに詰められるはずの予定の一切が、降り積もる雪に覆われて消え去っている。
それは王太子にとってしばらくぶりの、無為の時間だった。
※ ※ ※ ※ ※
「……予定通りに?」
ノール伯爵令嬢クラウディア・フォスカールは、その報せを持ってきた侍女に尋ね返した。
「はい、お嬢様、たしかに予定通りに、と」
侍女の返答に、クラウディアはそっとため息をつきながら頷いた。
「わかりました。では、お使いの方に、予定通りに伺います、とお伝えして。それから、その方には何か温かいものを」
「はい、お嬢様にお知らせをお持ちする間に、お茶をお出ししています」
「そう、ありがとう」
丁寧に一礼して部屋を出ていく侍女を見送り、もうひとりの侍女に声をかける。
「聞いた通りよ。午後からお出かけ。信じられないわ、こんなお天気なのに」
「準備をしてしまうと、なかなか中止と思い切るのは難しゅうございましょう」
年かさの侍女は、宥めるような口調だった。
ちょっとしたお茶会とはいえ、それを開くための準備はちょっとしたものでは済まない。茶菓を整え、振る舞う料理を準備し、テーブルに飾る花を用意し、使用人たちの予定まで調整して、開催に漕ぎつける。雪が降ったから、とそれを中止や延期と決めるのは、それなり以上の胆力が必要なものだ。
クラウディアにも、それは無論、わからない理屈ではない。とはいえ、雪の中へ出ていかなければいけない現実が見えてしまうと、愚痴のひとつも言いたくはなる。
「呼ばれてしまったら、お断りというのも角が立つものね」
「さようでございますね」
「従者や御者も、暖かい格好をするように伝えておいて。あとはわたしの上着ね。選ぶのを手伝ってもらっていいかしら?」
「小物と合わせて、でございますね?」
「ええ、小物と合わせて」
かしこまりました、と侍女が一礼する。
――お父様がまた心配しそう。
そう考えて、クラウディアは出て行こうとする侍女を呼び止めた。
「もうひとつ、いいかしら?」
「はい、お嬢様」
「お母様に、午後から予定通りお茶会に出かけます、とお伝えしておいて」
「閣下には?」
「お父様にはまだいいわ。お母様から伝えてくださると思うから」
「かしこまりました、お嬢様」
※ ※ ※ ※ ※
「この天気だぞ? クラウディアも先方も、本気なのか?」
妻から娘の外出予定を聞かされたノール伯爵ルドヴィーコ・フォスカールは顔をしかめた。
「私も、少々無理をしているのでは、と思いますけれどもね、旦那様」
話を持ち込んだノール伯爵夫人、ベアトリーチェは柔らかく笑っている。
「無理に応えて差し上げれば、繋がりはより強くなるというものでしょう?」
「それはまあ……たしかに、そうなのだがな」
理屈は解る、だが、というのが、ルドヴィーコの本音だった。
「これだけ冷えるのだ。風邪でもひいたらどうする」
「温かくしていきます、と言っていましたわ」
「それはそうだろうが、この天気だぞ?」
「ええ。旦那様、ですから、あなたに贈っていただいたストールを羽織って、と」
ぐ、とルドヴィーコの喉が奇妙な音を立てた。
確かにストールを贈った。娘と妻に。寒い日の外出のときにでも、と言って。
「こういうときのために、でございますわよね?」
「まあ……そう、だな……」
まさにそのとおりで、だが、やはり心配なことに変わりはない。
ルドヴィーコが最終的に首を縦に振るには、もう少し時間が必要そうだった。
○あとがき
下巻発売記念SSの第1話です。
以前、雪の日にTwitterで呟いた「こんな雪の日に登場人物たちは何をしているだろう」という小ネタを膨らませてみました。
全3話で、第1話と第2話は前日譚(時系列的には書籍版上巻番外編の後くらい、web版の本編が始まる前)、第3話は後日談(書籍版下巻の終章前あたり、web版だと最終話前あたりのお話)になります。
○新作のおしらせ
新作「異国令嬢ユーラリアの日記」を連載中です。
本作「アリアレイン」とはいささか趣きの違う作品ですが、よろしければ是非。
https://ncode.syosetu.com/n4463lg/




