侯爵令嬢アリアレインの棋譜(後)
その翌日から、主従それぞれの生活に、新たな日課が加わった。
王太子の婚約者としての教育、あるいはその護衛役としての鍛錬、そういったものを全て終えて、床に就く前のひととき。アーヴェイルはアリアレインの部屋を訪れて、決められたテーブルの、決められた椅子に腰を下ろす。
テーブルにはチェスボードが置かれ、駒が並べられている。そしてチェスボードの脇には栞を挟んだ棋譜が、サイドテーブルには飲み物が置かれているのが常だった。
棋譜を取り上げ、栞の挟まれたページを読み込んで、頭の中で駒を動かす。おおよその流れを把握する頃、部屋着にストールを羽織ったアリアレインが顔を見せる。
「アーヴェイル、準備は?」
「いつでも、お嬢様」
そのようなやり取りを合図にふたりは棋譜を並べ、白と黒を――先手と後手を入れ換えて、同じことをもう一度繰り返す。変化のある定跡ならばその変化についても同じように棋譜を並べて再現していく。憶えるべきものは同じであっても、手を動かし、動いた駒と局面を実際に目で見ることができるのは、定跡の把握には有用だった。
するべきことは概ね決まっているから、ふたりはあまり言葉を交わさない。定跡の意図に疑問を感じたとき、アリアレインの方から声をかける程度だった。
「この場面、こう受けたらどうなるのかしら」
「この局面で攻め続けるのは、少し無理がありそうに思えるのだけれど」
そういう疑問への、アーヴェイルの返答も概ね決まっている。
「ではお嬢様、少し指してみましょう」
言いながら、紙とペンを用意して、アリアレインの疑問のその先を指し、記録してゆく。あっさりと行き詰まることもあれば、うまく先が見通せない、という結論になることもある。名の知れた名手ならばともかく、まだ定跡を憶えようというような段階の指し手ふたりでは、先を読み切れないこともしばしばなのだ。
それでもともかく指して確かめ、結果を記録する。それが主従の決まりごとになった。記録された結果は、折り畳まれて元の棋譜のページの間に挟まれる。
アリアレインと父侯爵は時折対局を繰り返していた。
対局が行われた日は、アリアレインが憶えている限りでその棋譜が再現され、どこから敗勢が濃くなっていったのかが詳しく検討された。敗着がはっきりとわかることもあれば、よくわからないうちに形勢が悪くなっていた、ということもある。それでも、どのあたりから形勢が傾いたのかはなんとなく理解できるものだ。
表面上は普段と変わらない様子であっても、そんな日の棋譜の検討はいつもよりも長くなる。
やはり負けず嫌いなのだなと、口には出さずとも、アーヴェイルは思っていた。
実質的には休息の時間を削っているアーヴェイルにしてみれば、辛い部分がなかったわけではない。ただ、それでも、ひとつひとつ手を指しながら、何事かを真剣に考えているアリアレインを手伝う時間は、アーヴェイルにとって、楽しみのひとつでもあった。
「今日はこのあたりかしら」
「はい」
「明日もよろしく頼むわね」
「はい」
「ありがとう、アーヴェイル。おやすみなさい」
「おやすみなさい、お嬢様」
棋譜の検討を終えるとき、主従は決まってそんな会話を交わしている。そのようにしてふたりは、越えるにはあまりにも高い壁を、どうにかして越えようと努力を続けていた。
※ ※ ※ ※ ※
棋譜の再現を始めてから二月ほどが経ったある日のこと。
「ねえアーヴェイル、聞いてくれる?」
アーヴェイルが決められた時間に部屋に入るなり、待ち構えていたアリアレインが勢い込んで言った。
「ええ、もちろん。――お嬢様、今日はいったい、どうされたのですか?」
いささか意外な気分で、アーヴェイルが頷き、問い返す。
普段ならアリアレインはアーヴェイルを待つことはない。アーヴェイルが先に席に着いて待ち、部屋着にストールを羽織ったアリアレインは、アーヴェイルをいくらか待たせてから現れるのが常だった。
「しばらく前に検討した定跡の形になったのよ、今日」
単刀直入、どころか前提をいくつか置き去りにした返答だった。
ああ今日は閣下と対局したのか、と思いながら、アーヴェイルははい、と頷く。
「それでね、ええと――これ。この変化を試したの」
アリアレインが棋譜の本を開いてページを繰り、目的のページに挟まれた紙を開きなおして机に置く。その声は、普段よりも随分と弾んだ調子だった。
「そうしたら、お父様が少し考えて――ああ、これね。ここから、わたしたちが読み切れなかった先を、お父様と指したのよ。負けてしまったけれど、棋譜は憶えてきたわ、必死で。部屋に戻ってすぐ書いたから」
「はい」
定跡に変化を加えて、新しい手を指させた。その経緯と結果を、アリアレインは憶えている。
「ねえ、また一緒に考えてもらえる? わたしたちのやってきたことは、間違ってなかったのよ」
「はい、喜んで、お嬢様」
負けはした。それでも大きな進歩が、そこにはある。勝負にすらならなかった二月前とは違うのだ。
――この分ならば、きっと。
いつの日か。否、そう遠くない未来に。
アーヴェイルは確信している。お嬢様のはじめての勝利の日が来ることを。
主従のチェス回、今回で〆でございます。
お付き合いありがとうございました。
よろしければ、中巻も手に取ってやってくださいませ。
また、完結巻となる下巻は冬に刊行予定です。コミカライズ企画ともども、どうかお楽しみに!
https://www.es-luna.jp/bookdetail/53aria2_luna.php




