侯爵令嬢アリアレインの棋譜(前)
かつん、と硬質な音が響いた。
アリアレインの白い指が摘み上げた黒い歩兵の駒が、チェスボードの上に下ろされる。アーヴェイルは、ボードの脇に広げられた本と、自陣の白い駒の間で視線を往復させた。慎重な手つきで白い歩兵の駒を取り、1歩前へと進める。
あまり時を置かずにアリアレインが指し、アーヴェイルはボードの脇の本――チェスの棋譜をまとめた書物――に視線をやりながら、書かれているとおりに駒を動かす。
「お嬢様」
更に主従のそれぞれが幾手かをそうやって指したあと、アーヴェイルがアリアレインに声をかけた。
「なあに?」
取り合いの結果として、駒がいくつか減ったチェスボードに視線を注いだまま、アリアレインが応じる。
「これは一体、どのような――?」
チェスの棋譜を、盤上で再現している。それはアーヴェイルにも理解できた。わからないのはその意図だった。正確には、意図そのものはわかっている。チェスの上達を目指している、そのことは間違いないだろう。急にそういったことを始める理由が、アーヴェイルにはわからないのだった。
小さく息をついたアリアレインが、髪をかき上げてアーヴェイルをじっと見つめる。その姿勢のまま、主従は黙って見つめ合っていた。
しばらくして、アリアレインが息を吐きだし、視線を逸らした。
「――勝てないのよ。勝てないだけならまだしも、勝負にもならないの」
4歳年下の女主人には珍しく、不満を隠そうともしない口調だった。
「それは――どなたに、でしょうか?」
そう言えばこの方はひどく負けず嫌いだった、と思い返しながら、アーヴェイルは尋ねる。
「お父様」
無理もない、とアーヴェイルは苦笑したい気分でいる。領内すべてを探したとしても、歳若い女主人の父――つまり、当代のマレス侯爵に勝てる者などそうはいない。年齢や経験の差を鑑みれば勝てなくて当然、勝負にならずとも何ら恥ではないはずなのだ。
だが、アリアレインには、そのことが不満でたまらないらしい。まだ13歳の少女にはいささか過大とも思える日々のあれこれをすべてこなしたあと、床に就く前に残されたいくらかの時間。普段ならばその時間はアリアレインの趣味でもある読書のために充てられていて、だからアーヴェイルも、これまではこの時間、特に呼ばれることはなかった。
だが今日、アーヴェイルは唐突に呼び出された。少々の不審を胸に部屋を訪れたアーヴェイルをテーブルの向かいに座らせて、アリアレインは言ったのだ。
「急に呼び出してごめんなさい。アーヴェイル、あなた、チェスの棋譜は読める?」
「はい、お嬢様。駒の動かし方と棋譜の読み方は、どうにか。本当ならば、定跡も憶えておかなければならないのですが」
あと2年も経たないうちに、アリアレインは王都へと上ることになっている。アーヴェイルはそのアリアレインの、護衛を兼ねた補佐役に指名されていた。そのための研鑽を、いまアーヴェイルは日々積んでいる。チェスもその、補佐役として必要な教養の中に含まれているのだった。
「アーヴェイル」
「はい」
手にした何やら分厚い本のページを繰り、栞を挟んだ箇所でその手を止めて、アリアレインは開いた本をアーヴェイルに手渡した。
「そこに書いてあるとおりに指してもらってもいいかしら?」
有無を言わせない調子のアリアレインに、アーヴェイルははい、と頷いたのだった。それが、つい小半刻ほど前の話である。
※ ※ ※ ※ ※
アリアレインは手を止めていた。盤面も、そしてテーブルの向こうに座るアーヴェイルも、見ようとしていない。ふたたび沈黙が部屋に落ちる。大きく息をついて、アリアレインはその沈黙を破った。
「アーヴェイル」
「はい」
「急に呼び出して悪かったわね。今日はもう――」
「お嬢様」
アリアレインの言葉に被せるように、アーヴェイルが言う。無礼と非難されても仕方のない振る舞いだった。
アリアレインが向けた咎めるような視線を意図的に無視して、アーヴェイルは駒をひとつ動かした。
「――チェック」
アリアレインの視線が、迷うようにアーヴェイルの顔と盤面を往復する。アーヴェイルは黙って、アリアレインの顔を見つめていた。次はあなたの手番です、とでも言うように。
「――いいの?」
「私も定跡は憶えなければいけませんから」
ただ棋譜を諳んじるよりも、実際に手と駒を動かした方が憶えやすい。だからこれは自分のためでもあるのだ、とアーヴェイルは言っている。それは嘘ではなかったが、見え透いた口実ではあった。
「それなら、アーヴェイル」
アリアレインが盤面に手を伸ばし、駒を動かして、自分の王に掛けられていたチェックの利きを切る。自分が選んだ従士の厚意をないがしろにするつもりは、アリアレインにはなかった。
「しばらく、付き合ってもらえる? 今日だけではなくて、この先も」
「はい、もちろん、お嬢様」
それがいつまでなのか、ということを、アーヴェイルは尋ねなかった。
父侯爵と勝負になるまでか、あるいは勝つまでか。どちらにしても、明確な期限を切れるようなものではない、とアーヴェイルは知っているのだった。
第2弾は中巻の表紙絵にちなんだチェスのお話です。
発売日ですし、こういうのもあっていいかなって!




