侯爵家祐筆エリアスの奮闘(後)
「私が、ですか?」
翌日の午前、王都邸の書斎から談話室に呼び出された祐筆エリアス・クルーガルトは、若い女主人にそう尋ねた。
「ええ、あなたです。執政府の農部省に出向いて、そこの書記官の手助けをしてほしいの」
アリアレインが応じる。
「いつからでしょうか」
「明後日の朝から。ひとまずは2週間を目途に」
「――それはまた随分と急な。お屋敷のお仕事は?」
「残っている者で引き取ります。今日明日で当面の問題がない程度に引き継ぎをしておいて」
「私ひとりですか?」
「いいえ。――アーヴェイル」
はい、と答えた従士が、4人の名前が記された書面を机に置く。
ちらりと書面に目を走らせたエリアスが頷いた。
「事情と、それから具体的な内容をお聞かせいただいても?」
もっともな質問ね、とアリアレインが応じ、簡潔に事情を説明した。
王国東部の小領主から、執政府の事務が滞っている、という趣旨の話があったこと。
調べてみたら、実際に事務が滞っていることが判明したこと。
原因は執政府の人手不足と思われること。
解決のための増員の提言を、王太子と諸卿に拒絶されたこと。
「そういうわけだから、わたしたちがどうにかしないといけないの」
なるほど、とエリアスが頷く。
「事情はわかりました。私たちは執政府――このお話だと農部省でしょうか? そこで何を?」
「彼らが作成する指示や報告のための文書があるでしょう? それを手伝ってほしいのよ。
とにかく、多少なりと負荷を軽くしてあげないと、時間の問題だと思うのよね」
迷うような間があった。エリアスは俯き、口許に手をやって何か考えている。
ややあって顔を上げたエリアスが口を開いた。
「なぜ執政府を手伝われようとするのでしょうか、お嬢様?」
あら、とアリアレインが小首を傾げる。
「あと何年かしたら、わたしは王室の一員になるのよ。今はさほど関わりがあるわけではないけれど、執政府の書記官も事務官も、未来のわたしを支えてくれるはずなのよね。いま彼らを助けることは、未来のわたし自身を助けることになると思ってるの」
淀みなく答えるアリアレインに、エリアスの頬が緩む。
「つまりお嬢様、私は――」
「そうよ。未来のわたしを助けるに相応しい人物、ということ。お願いできる?」
小さく笑ったエリアスが頷いた。
「無論です、お嬢様。そうまで言われて断る者は、このお屋敷にはおりませんでしょう」
※ ※ ※ ※ ※
その日とその翌日を、選ばれた面々は仕事の引き継ぎと準備に費やした。
そして翌々日の朝、アリアレインは、4人の部下とアーヴェイルを伴って執政府を訪れた。
「報告を検めて分析し、計画を立てるところまではあなたがたしかできないでしょうが、その先はどうでしょうか」
挨拶を済ませ、アリアレインは前置きなく切り出した。
ほんの少し考えて、書記官――奏任書記官、ラドミール・ハシェックは答える。
「文書の作成をしなくてよくなるのであれば、随分と変わると思います。今はそれが職務の時間の大半を食い潰しておりますから」
小さく笑ったアリアレインが頷く。
「では、この者たちを使ってください。ひとまずはこの部屋に溜まった仕事が片付くまで。その先は……また相談しましょう」
言うだけのことを言い、アリアレインはエリアスに頷いた。
「あとは任せます。あなたのやり方で、書記官の力になって差し上げなさい。アーヴェイル、わたしたちは帰りましょう」
アリアレインとアーヴェイルが退出すると、部屋には4人の文官が残された。
さて、とエリアスがラドミールに向き直る。
「当家名代の指示により、皆様の職務を補佐させていただきます。まずはどなたかに仕事の流れを――と申し上げたいのですが」
ぐるり、と首を廻らせたエリアスが、机の上に積まれた書類の山のところで視線を止めた。
「あれはどのような書類で?」
ああ、と見たくないものを見た目になったラドミールが応じる。
「あちこちから来た、作況と備蓄の量をまとめた報告書です。あれを読み、まとめて、備蓄や放出、移送の計画を立てねばなりません」
なるほど、と頷いたエリアスが、もう一度尋ねる。
「整理をしてしまっても?」
「――もちろん」
ラドミールの答えを聞いて、エリアスは祐筆の見習いと雑役要員として連れてきていた従僕に視線を向ける。
「バルテル、君はウェンデルと組んで、まずそこの書類の整理。ひとまず一部ずつまとめて、綴るための準備を」
「まとめるだけでたっぷり半日はかかりそうですが」
「ああ、だから今やる。頼むよ」
バルテルと呼ばれた祐筆の見習いが、はい、と頷いて事務官に声をかけた。
「場所と道具をお借りしたいのですが」
もちろん、断られるはずがなかった。書類の整理を始めたふたりを横目に、エリアスは再びラドミールに話しかける。
「文書の作成をするために、いくつか実際の文書を拝見したいのです。こちらから出している報告と、それから指示のための文書を、それぞれいくつか」
ラドミールにも無論、断るような理由はない。いくつかの書類が手渡された。
「ラディム、読み込んで、それぞれ共通する部分をあとで教えてくれ。いちから全部考えるのは無理だろうから、鋳型を先に作ってしまおう。あとはそこに流し込めば済む、というようなやつを」
手渡された書類を、更にラディムと呼ばれた若い祐筆に手渡しながら、エリアスが言う。
「承りました」
ラディムが大ぶりの蝋板を取り出し、メモを取る準備をして、手渡された書類を読みはじめる。
そこまでを確かめて、エリアスは改めてラドミールに話しかけた。
「ではハシェック書記官、全体的な仕事の流れから教えていただけますでしょうか」
※ ※ ※ ※ ※
初日の午後から、効果は徐々に表れた。
新たに運び込まれる書類は、ウェンデルが一旦整理してまとめ、日付別に分けられた棚へ置かれる。
書類の『型』をおおよそ把握したラディムがそれを皆に伝え、作るべき文書の形を共有する。
そのまま夕刻を過ぎ、夜更けに差し掛かろうとするあたりで、エリアスはラドミールにまた声をかけた。
「そろそろ今日は店じまいとしませんか? これ以上続けても、疲労が溜まるだけになってしまいます」
ラドミールは考える。身体の底のほうに、抜けきらない疲労がわだかまっていた。溜まる一方の書類の山を放り出して帰る気にもなれず、ずるずると未明まで仕事を続けてしまい、結局帰る機を逸して泊まり込む。そのような生活を、ここしばらくのラドミールは続けている。
たしかに、このマレス侯爵家の文官が言うとおりだ、とラドミールは思った。
――休むべきときに休むのも仕事のうち、か。
新たに運び込まれたよりも多くの量の書類を、ラドミールは今日一日で捌くことができた。
続けていくことができれば、いずれあの書類の山もしかるべきところへ片付けられる。
「――そうですね、仰るとおりかと。みな、今日はもう休もう。多少なりと身体を休めて、また明日続きをやればいい」
自分で部下たちにそう言って、ラドミールは、少しだけ明るい気分になった。
久々に――本当に久々に、仕事にただ追われるだけでなく、先の見通しを立てることができたからだった。
今回の番外編短編集は以上3編です。
1本目と3本目は加筆改稿の雰囲気を、2本目は特典SSの雰囲気を、それぞれ掴んでいただきたく執筆したものです。
お付き合いありがとうございました。また次巻を出す折に、このような短編集をご提供できれば、と思っております。
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