侯爵令嬢アリアレインの休息(後)
「フェリクスが庭で支度を整えてくれる、というお話ですので、お嬢様」
食事を済ませたあとで、アーヴェイルは、アリアレインに提案した。
「お好きな本を一冊二冊、お選びください。
たまにはお庭で読書など、なさってはいかがでしょうか」
「庭で本を?」
少し考え、んん、と小さく呻くような声を出して身体を伸ばしたアリアレインが、髪をまとめていた髪飾りを引き抜く。
いつもならばそれは夕方、仕事を終えたときの所作だった。
「――そうね、悪くないわね。何にしようかしら」
「どのみち午後はお休みです。ごゆっくりお選びください」
「ええ、そうするわ。
――あ、そうだ、アーヴェイル」
「はい」
「今日はほら、四分の一ケーキを焼く日じゃない?」
小麦粉と砂糖、バター、ミルクをちょうど同じ量――四分の一ずつ使って焼き上げる四分の一ケーキは、単純なレシピでありながら、生地に混ぜるもので見た目も味も様々に変わる。この屋敷では定番の焼き菓子で、アリアレインの好む菓子でもあった。
「ええ」
アーヴェイルの顔に、付き合いの長い者にしかわからない程度の微笑が浮かぶ。
小柄な女主人が何を言いたいのか、理解できてしまったのだった。
「お茶と一緒に、幾切れか持ってくるように、お願いしてもらってもいいかしら?」
「勿論です、お嬢様」
「それとね、アーヴェイル」
「はい」
「あなたも一冊か二冊、選んで。
付き合いなさい」
「――はい」
※ ※ ※ ※ ※
暑くもなく寒くもなく、時折風が吹いて庭木の枝やコスモスの花を揺らす、穏やかな秋の午後だった。
遠くかすかに街の喧騒が聞こえる中、秋分を過ぎて柔らかくなった日差しが、王都邸の庭を照らしている。
王都邸の敷地の西側に位置する庭の一画には、小さなテーブルがひとつと、くつろいで座ることのできる椅子がふたつ置かれ、テーブルにはこれも小さなケーキスタンドが乗せられていた。
ケーキスタンドに乗るのは無論、アリアレインの所望の品――四分の一ケーキだ。
生地にクルミを練り込んだもの、ドライフルーツを練り込んだもの、上に柑橘を切って乗せ、一緒に焼いたもの。それぞれ幾切れかが供されている。
椅子に座っているのは、アリアレインとアーヴェイルの主従ふたり。
アリアレインは、手に入れたまま読まずに置いていた古い時代の叙事詩を。
アーヴェイルは、これも古い時代を扱った史書を。
それぞれが選んだ本を手にして、ゆったりと、と言うにはいささか崩れた姿勢ではあったが、静かに読んでいる。
お互いに言葉はない。何を話すでもなく、ただ一緒に庭の小さなテーブルについて、それぞれが別の本のページを繰り、時折ティーカップやケーキに手を伸ばしているだけだ。
1刻ばかりもそのようにしていただろうか。
ぱらら、という音がアーヴェイルの耳に入った。
テーブルの向こう側で、アリアレインの手から、手にしていた本が落ちようとしている。
素早く、しかし音を立てずに立ち上がったアーヴェイルが、地面に落ちようとしていた本を、危ういところで掴んだ。
ひとつ息をついて静かに本を閉じ、テーブルの上に置く。そうしておいてからアーヴェイルは、通りがかった侍女を手で招いた。
気付いて近寄ってきた侍女に向けて口の前で人差し指を立て、アーヴェイルは小声で言う。
「薄手の毛布を一枚、お嬢様に」
ちらりとアリアレインに視線を送った侍女が、微笑んで頷いた。
一旦その場を離れ、すぐに毛布を持って戻った侍女に、アーヴェイルは目礼する。
侍女も会釈をして立ち去った。
椅子の上で静かに寝息を立てるアリアレインに、アーヴェイルはそっと毛布を掛ける。
それでも、アリアレインが目を覚ます気配はなかった。
――やはりお疲れだったのだろう。
半日でもお休みいただいたのは正解だったのかもしれない、とアーヴェイルは思う。
そのまま、アーヴェイルは元の椅子に戻り、小柄な女主人の寝顔をなるべく視界に入れないように努力しながら、もう一度本を開いた。
もう半刻ほどが過ぎた頃、ちいさな声とともに、アリアレインが身じろぎした。
読んでいた本を閉じて、アーヴェイルはアリアレインに視線を向ける。
「わたし、寝て――?」
寝起きの、どこか焦点が定まらない目で幾度かまばたきしながらアーヴェイルを見て、半ば独り言のようにアリアレインが呟く。
「――毛布、ありがとう」
すこし意識がはっきりとしたのだろう、アーヴェイルが答える前に、アリアレインが礼を言う。
ふと何かに気付いたように、アリアレインがアーヴェイルから視線を逸らした。
「ねえ、アーヴェイル」
「はい」
「――見たのね?」
アーヴェイルとは反対側に視線を向けたまま、珍しく責めるような口調だった。
「少しだけ」
寝顔のことを言っているのだろう、というのは、訊かずとも理解できた。
毛布を掛けるという気遣いをしてしまった以上は、見ておりません、とも言えず、アーヴェイルは正直に答える。
「忘れて」
そうは言っても、普段のアリアレインからはなかなか考えられないような、無防備に過ぎる寝顔だった。
忘れようとして忘れられるものではない。
「――はい」
思い出したその半瞬が、ためらうような間になった。
「忘れなさい」
ほんの少しだけ強い口調で、アリアレインが言葉を重ねる。
「はい」
今度は即座に応じたアーヴェイルは、向こうを向いたままのアリアレインの耳が、ほんのりと赤くなっていることに気付いていた。
心の中で付け加える。
――私の心の中だけにしまっておきます、お嬢様。
この世界の重量単位に「ポンド」がないのでパウンドケーキはありません。ないんですが、似たようなものは誰かが作ってるんだろうな、って思ってます。
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