ノール伯爵ルドヴィーコの憂鬱(後)
「淹れてくれたら下がっていいわ。すこし旦那様とお喋りを楽しみたいの」
ワゴンに茶器ひと揃えとトルテの皿を乗せて談話室に入ってきた侍女に、ベアトリーチェが言う。
侍女がポットに湯を注ぐと、爽やかな香りが立ちのぼった。みずみずしくすっきりとした、花のような香りが、部屋全体に広がっていく。
「ブラムクールかね」
香りを嗅いで茶葉の産地を口にしたルドヴィーコに、ベアトリーチェは微笑んで頷いた。
「さすが旦那様」
霧の深い山中の村を産地とする茶葉は、その高原の風を思わせる爽やかな香りとすっきりした飲み味が特徴だ。焼き菓子に合わせて楽しむそれは、ルドヴィーコの好みの葉のひとつだった。
茶をカップに注いだ侍女が、一礼して下がる。
運ばれてきたトルテの皿を、ベアトリーチェが取り上げて、どうぞ、とルドヴィーコの前に置き、フォークを添えた。本来そのようなことは――給仕のようなことは、ベアトリーチェのような立場の女性がすることではない。だが、もう20年以上、ベアトリーチェはずっとこうだった。他人に対しては通例どおりの態度を貫くのに、ルドヴィーコに対する態度は、結婚の、否、婚約の前からずっと変わらない。
使用人たちは皆、もうそういうものなのだと了解している。
「評判のお店で買ってこさせたものなのです。絶品だといいますから、旦那様にも召し上がっていただきたくて」
「うん、ありがとう」
ベアトリーチェにそのような態度を取られて断れるルドヴィーコではない。フォークを手に取り、トルテを小さく切って口に運ぶ。さくりとして口の中でほぐれる生地の食感にバターとヘイゼルナッツの香り、そして赤スグリの酸味の取り合わせが絶妙だった。
「ああ、これはよい。これは素晴らしいね、ベアトリーチェ」
トルテの味もさることながら、茶との取り合わせも申し分ない。この類の菓子を密かに好むルドヴィーコにとっては、まさに絶品と言えた。
「お口に合ったようで、何よりですわ」
はにかむように笑うベアトリーチェの表情は、婚約の前から変わらない。
知り合ってから20年以上、ルドヴィーコもベアトリーチェも、その分だけ歳を取った。美貌も体形もほとんど変わるところがない妻とは対照的に、自分はいささか肥えてしまったし、老けてしまったものだと思っている。だが、妻の笑顔を見るたびに浮き立つ自分の心は変わるところがない。
「何をお悩みでいらっしゃいますの?」
感傷に浸っていたルドヴィーコは、妻のその一言で現実に引き戻された。
あまりの落差に咽せそうになり、危ういところで紅茶を飲み下して呼吸を整える。
「――君も聞いているだろう、クラウディアのことだ」
あら、とベアトリーチェが応じる。
「クラウディアのことなら、お悩みになるようなお話ではございませんわ」
「クラウディアのことならばな。――むしろあの侯爵令嬢と侯爵家の話かもしれん」
「王太子殿下のお決めになられたことですもの」
妻の言葉に、ルドヴィーコの表情が曇った。
「そうは言うがな、ベアトリーチェ」
婚約解消に追放。たしかにそれは、王太子が決めたことではある。
だが、その原因の少なくとも半分は、クラウディアに――ふたりの娘にあるのだ。すべて王太子殿下のお決めになられたこと、自分たちの関わるところではございません、そのように言い切って済ませられるような話であるはずがなかった。
だからこそルドヴィーコは、マレス侯爵に、つまりは王太子の元婚約者の父に、どう詫びればよいのかと思い悩んでいる。
「殿下のお相手になるのは、それはまあ、よいとしても、だ。あの御令嬢のお父上のことを考えるとな、儂はそう心穏やかではおれんのだ」
「殿下とお近づきになれたのも、見初められたのも、旦那様がしっかりと学ばせてくれたからこそではありませんか。クラウディアは――あの子は、あの子のやり方で殿下をお支えしようとしているのです」
そんなことはわかっている、と言い返しそうになって、ルドヴィーコは口をつぐんだ。
クラウディアなりのやり方。そうなのかもしれない。だがそれにしても、とルドヴィーコは思う。
「――マレス侯爵だぞ? 儂もいくつか借りがあるお方だ。それをこのような」
「存じておりますわ。でも、殿下がお決めになって、あの子もその殿下をお支えすることにしたのです。言ってしまえば、それだけのことでしょう。なぜそのようなことで、お悩みになるのですか?」
ルドヴィーコには、この大事を「そのようなこと」と言い切れる妻が、理解できなかった。
娘が娘のやりようで、この国の次の王を支える。それはよい。むしろ喜ばしい。
だがその一方で立場を失った者がいる。並び立つもののない才媛。王国の柱石、マレス侯爵の娘。
「君は、知っていたのか?」
つい責めるような口調になる。
「ええ。すべてではありませんが、噂は聞こえてきますもの」
微笑んで応じたベアトリーチェに、ルドヴィーコは返す言葉を失った。
「――止めようとは、思わなかったのか、ベアトリーチェ」
努力して、どうにかその言葉だけを押し出す。
「あら」
妻が微笑みを大きくして、首を傾げた。
「旦那様の口からそのようなお言葉を聞こうとは思いませんでしたわ」
「何を――」
言っているのだ、と継ごうとした言葉は、口から出なかった。
す、と手を伸ばしたベアトリーチェが、白く細い指で、ルドヴィーコの口許に触れている。
そのままつまみ取ったトルテの欠片を自分の口へと運び、ふふ、と笑う。
「な」
「お口の周りが汚れておりましてよ?」
そういう話じゃないだろう、と言い返す前に、ルドヴィーコはハンカチを取り出して口許を拭った。
「そういう――」
「旦那様」
愉しげな笑顔のまま、ベアトリーチェは続ける。
「私の周りが私を止めて、もし私がそれに従っていたら」
ふたたびルドヴィーコの言葉が止まる。
「私は、旦那様と一緒になることなど、できていませんでしたわ」
たしかにそれは事実だった。
先々代と先代、2代にわたる放漫の末に家産を傾かせかけた伯爵家の嫡男。取り立てて見目がよいわけでもなければ、勇武に優れるでも、話術に長けているでもなかった。ただ必死で働き、領民たちに領主の不始末の余波が降りかからぬようにと、それだけを考えていた。それが、若い頃の――ベアトリーチェと知り合った頃のルドヴィーコだった。
そのような自分のどこに惚れ込んだのか、ふとしたことから知り合ったベアトリーチェは、周囲の反対を振り切り、己の実家を説得し、しまいにはルドヴィーコ自身を押し切って婚約してくれた。
あまつさえ、実家の――とある子爵家の抱えていた事業のひとつを持参金がわりに、ベアトリーチェはフォスカール家へと嫁いできたのだった。
以来、フォスカール家の当主夫妻の仲が冷えたことはない。時たま意見を異にすることはあっても、どちらからともなくまたもとのように仲睦まじい夫婦に戻ってゆく。もうそんな関係を、知り合ってから20年以上、ふたりは保ち続けている。
「――そう、だな」
ため息をひとつこぼして、ルドヴィーコは頷いた。
以前ルドヴィーコは、なぜ自分と、とベアトリーチェに尋ねたことがある。
「為すべきことのために、あなたは必死でいらっしゃいました。私は、そんなあなたを支えたいと思ったのです」
ベアトリーチェの気持ちを、ルドヴィーコは完全に理解できたわけではない。だが、そうやって支えてくれる、支えようとしてくれるベアトリーチェを、ルドヴィーコは大切にしたいと思っている。ふたりの間に生まれた美しい娘、クラウディアもまた。
――クラウディアが支えると決めた相手が、殿下だった、ということか。
そうであれば、自分はクラウディアを止めることなどできない。容姿と同じように、クラウディアは多分、美しい妻の――ベアトリーチェの気性を受け継いでいるのだ。
小心な自分はきっと、これから幾度も後悔することになるのだろう。なぜあのときクラウディアを止められなかったのか、もう少し何かできることはなかったのか、と。
――それでも。
どんなことになろうとも、自分が大切にすべき相手は決まっている。
娘と、妻と、娘の婚約者となった王太子。もしかしたらその先に生まれてくるかもしれない孫。
マレス侯爵と、そしてその娘と敵対することになるかもしれない未来は、自分にとってあまりにも大きな壁だった。考えるだけで憂鬱になるほどの。
憂鬱な気分は晴れない。この先もきっと、晴れることはないだろう。だが、どうにかそれに立ち向かおうという気力だけは、保つことができそうだった。
美人の奥さんは押しかけ婚だったことが判明しました。
僕も初めて知りました。なんてことだ。
不憫おぢ、けしからんですね!
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