54.消えない恐怖
第六階層を進む幸隆と桃李の五人は何度かの戦闘を終えた後だが、出会った魔物のその全てが大醜鬼であり、豚鬼との遭遇を未だに果たしていなかった。
しかしそれが功を奏したのか、幾度かの戦闘が桃李たちから余計な緊張を取り除き、万全な状態での戦闘が望めそうだった。
六階層の魔物は基本的にどのダンジョンであろうと強い。
六階層の踏破を成し遂げ、七階層での活動を確固たるものにできれば、中級探索者と呼ばれ始めるようになる。
探索者として一目置かれる存在になるということだ。
それだけに、登竜門ともなる六階層の難度は当然高いものになるし、六階層を踏破できる人間も限られてくる。
それに登録一か月程度の探索者が挑もうとしているのだから、ギルドから有望株と呼ばれるのも納得と言う話だ。
大醜鬼との戦闘だって、敵の数が一体だけならスキルを温存させてなお余裕を保ち、二体であろうと苦戦はない。
三体となるとそうはいかないが、スキルを解禁すれば戦況はまた桃李たちに大きく傾き、終わってみれば危うげのない結果であった。
この調子なら、桃李たちであれば豚鬼であろうと問題はないだろうと幸隆は考えた。
杏曰く、イレギュラー下の豚鬼の強さは一回り以上違い、普段のものとはその狂暴性が段違いとのこと。
あれと比較しないでいいのなら、桃李たちには問題はない。
精神面を除けば。
「重い足音が聞こえる。この感じは豚鬼だな」
自分の記憶に新しい豚鬼の気配に幸隆が反応。
それを桃李たちに伝える。
「ありがとうございます。みんな、準備は良い?リベンジマッチだ。これを越えて僕らは中級探索者へと至る」
静かな声で、しっかりとした意志を乗せて、リーダーに相応しい風格を崩すことなく、桃李は己の役割を全う。
その強い意志はパーティーに伝播。
皆の集中力が今日一番に高まった。
通路の角から、豚鬼がその姿を現した。
幸隆よりも更に頭一個分以上高い、巨人のような背丈に、相撲取りのようにでっぷりと張ったお腹のその下に筋肉の厚い層が伺える。
短い手足は異様に太く、この場の女性陣の胴よりも太い。
異様な姿だが、なんとか人の様とも言える体型をその肌と顔が完全に否定している。
小醜鬼系統と同じ苔のような色、そして一番特徴的な豚のような鼻と上に突き出た立派牙。
ファンタジーのオーソドックスとも言えるような見慣れた豚鬼のその姿はしかし、現実で目の当たりにすれば腰が抜けてしまいそうなほどの迫力を発していた。
初めて豚鬼と遭遇した探索者たちは、この威圧感にそれまでの経験を忘れて飲まれてしまい、動けなくなってしまうというのはあまりに有名な話であり、自身の力を見誤りがちな新人探索者の死を除けば、最も探索者に死を振りまいているのがこの豚鬼であった。
サイズの違いというのは生物にそれだけの畏怖を与え、それは探索者であっても逃れ得ない本能なのだ。
立ち塞がる豚鬼がその巨体全身で鳴らすように雄たけびを挙げた。
その豚鬼の咆哮は純然な殺意の塊で、以前のような俗的な情念は当然ながら一切なかった。
桃李たちは階層全体を揺らすかのような大音声に身を竦ませるが、長くは続かない。
すぐに持ち直した翠が邂逅早々にスキルを発動。
出し惜しみは一切ない。
翠の放った炎を魔術が豚鬼の顔面を襲い、視界と呼吸を奪う。
その間に前線の二人──桃李と千秋が安全に距離を詰め、先手を決める。
裸足の親指を千秋の刺突剣が貫き、桃李の長剣が逆足の健を断つ。
一瞬で機動力を奪われた豚鬼が悲鳴を挙げる。
しかしそれもすぐに己を奮い立たせる喊声へと変わる。
握るこん棒を足元へと大きく振るう。
目を焼かれた豚鬼の滅茶苦茶なそれは、桃李たちに当たることはなくとも十分に脅威であるため、安全のために飛び退いて距離を取る。
戦いの一合目は、桃李たちの一方的な攻撃に成功。
豚鬼には大したダメージではないが、視界を奪い、機動力を奪うことに成功したのだから、始まりとしては上々だった。
「翠」
「うん」
桃李の端的な指示だが理解に苦労はない。
翠が魔術スキルを再び発動。
しかし、速度の伴わない炎の魔術が豚鬼のこん棒によって薙ぎ払われてしまい、宙に掻き消されてしまう。
それでも大きな動きを見せた豚鬼の付け入る隙は大きい。
一度に同時に追い払われないように、桃李と千秋が豚鬼を挟撃。
只でさえ、視界の奪われた豚鬼だ。
数の利のごり押しに満足のいく反撃が出来ずにその体に浅からぬ傷が次々と刻まれていく。
──────いける!
桃李がその手応えに勝利を見出した。
豚鬼はその体に刻まれた多くの傷に苦しみ、じわじわと生気を床に垂れ流していっている。
一撃を喰らえば一発逆転も許してしまいかねないが、それも視界と足を奪ったことで危険を大きく削いでいる。
豚鬼が見せる時折危なっかしい動きには綴が合わせ、急所に矢を突き立てることによって怯ませ、その凶行が前線の二人を襲うことはない。
このまま攻撃を加えれば確実に勝てる。
二人の体力が怪しくなっても、距離を取ってもう一度翠の魔術スキルだ。
抜かりはない。
桃李は勝ちを確実にするために、効率よく戦力を削げる足を集中的に攻撃し続ける。
そして、崩れたら首や頭、急所を一気に畳みかける。
それが桃李のプランだった。
「桃李!豚鬼の目が回復してる!いったん退くんだ!」
綴の指示に桃李が思ったよりも遅かったなと余裕を見せる。
あの時の豚鬼の回復能力はやはり異常だったのだ。
通常の豚鬼ならば、倒せる。
そう確信した時、桃李と豚鬼の目がかち合った。
「──────あ」
桃李の身体が固まった。
目が離せず、足は地面とくっついたかのように動かない。
思考は真っ白に染まり、そしてその空白にあの時の記憶が投影される。
あの時の目だ。
目に宿る感情に違いはあれど、その目は確かに桃李を貪ろうとしていたあの時の豚鬼のものだった。
「桃李!」
綴が叫ぶ。
桃李の思わぬ失策に、全員が呆け、そして気付いた時には既に豚鬼の巨大な得物が桃李に振りかざされていた。
もう避けられる距離にいない。
大ぶりなこん棒がその間合いを潰していく。
桃李の眼前を埋めていくようにそれが目前まで迫る。
(─────終わった)
避けることが出来なければ当たるのは頭。
一瞬で潰される。
己の死が免れない事をゆっくりと流れる時間の中で悟った。
大きく鈍い音。
しかしそれは桃李を襲ったものではなかった。
「よう、お姫様。勝手に諦めて目閉じんなよ。キス待ちかと思ったぜ」
そこには振り落とされたこん棒を片手で抑える幸隆の姿があった。
「なんのために俺がついてきたと思ってんだよ。死ぬにはまだはえーよ」
幸隆はそのこん棒を振り払うと体勢を崩した豚鬼がたたらを踏んだ。
「ほんと、弱体化がひでぇな!あれに比べたら月とスッポンだな!」
意味をはき違えた諺と共に幸隆の拳が豚鬼の腹に突き刺さり、その厚い筋肉の鎧を貫通して衝撃が内臓を揺らし、豚鬼が悶え苦しむ。
「そうだよな、ごめんなさいには頭を下げなくちゃな」
大きく振り上げられた脚、その踵を豚鬼の頭へと落とす。
「 剛轟大爆散!!! 」
いつぞやの必殺技が遂にその姿を現した。
当然スキルでのなければ名前に意味すらない。
頭の潰された豚鬼は塵へと消えた。
「大丈夫か?」
幸隆が桃李に手を差し伸べた。
「……はい」
桃李の表情は暗い。
その目は自分に対する失望に曇っていた。
豚鬼へのリベンジマッチは、頼れるはずのリーダーの失敗に終わった。




