四話 光と闇を連れて
二日ほど前の事である。
城から一時撤退の命令書が届き、共に王子捜索に携わっていた者たちの殆どが、国王の言葉に従ってこの場を後にした。
(……俺は、帰れなかったんだよな……)
アルザス=パガードは、苦笑しながらこの漁村に一件だけある宿屋に身を寄せ、そこの階下にある食堂で魚のムニエルをつついていた。
脳裏に浮かぶのは、王子の文通相手だと言う少女の顔だ。
名前だけは以前から知っていた。
シュレーン王子にまつわる妙な噂の一つに《女性嫌い》というものがあったが、この名前に原因がある。
シュレーン王子も面倒だと思ったのか、否定もしなかったから噂は更におひれをつけて広がった。
アルザスはスタン自身を知った時、親のネーミングセンスを本気で疑ったものである。
(約束したからなぁ……無事に連れ帰るって)
魚のムニエルが美味しいなと思いつつ、器用にフォークとナイフで切りわけて口に運ぶ。
その内に、そう多くない食堂の人込みをかき分けて二人の男女が近づいて来た。
一人は簡素だが十分戦闘に混じっても対応出来る服装の青年で、遣い込まれた大弓を背負っていた。
腕に奇妙な印がびっしり刻まれた腕輪をしている。
その腕輪を見ただけで、彼がファルグスタ王国の正規の魔術師である事が知れた。
もう一人はアルザスとそう変わらない服装だが、動きやすい革鎧をつけている女性で、腰に飾り気の無い実用的なレイピアが揺れていた。
「メイルーン、キルアス。どうだった?」
魔術師の青年…キルアス=ボートは困った様に肩を竦める。
「駄目だ。みんな、海の中央に集まっている魔物たちに怯えて船を出してくれそうにも無い。魔物たちが散るまで仕事が出来ないって、誰もが話していた」
「仕方がないさ。誰だって命は惜しい」
女剣士であるメイルーン=バルボアは、横を通りがかった店員に定食を二つ注文すると、アルザスの前に座った。その隣にキルアスが座る。
「船が出せなければ、目的に向かう事も出来ない。例え向かったとしても、幾千幾万の魔物の大群に突っ込むというわけか。確かにやってらんねぇよな。帰ってしまう連中の気持ちも判らなくは無い。かと言って、あっさり諦めちまうのもなぁ……」
アルザスは、深いため息をついた。
「それにしても、とんでもないですね? あれだけの魔物に囲まれて《平気》な顔をして魔術を行使しているのですから、あの魔導士は」
キルアスは軽く身を震わせる。
「あんた、怖いのかい?」
「だって、メイルーン! あれだけの、魔物の数。あの魔導士が何をエサにして《契約》を交わしたかしらないけれど、恐ろしいほどの《魔力》を行使出来るはずなんだ。闇の力だよ?
対抗出来るのは逆の力だけど、それほど強い《光》を行使するには、その辺りに漂っている精霊程度では無理だ。……その上位の聖霊を補えな……」
キルアスは話すのを中断して、ふと顔を上げた。
真顔になり、遠くを見る《目》をする。
メイルーンとアルザスは運ばれてきた定食を腹の中に収めながら黙って聞いていたが、キルアスの急な変化に厳しい表情をした。
「……どうした」
キルアスは困惑した表情でアルザスとメイルーンの方へ振り返る。
「鳥肌が立つほど恐ろしい力を秘めた《光》が近くに来ている」
瞬間、アルザスとメイルーンはそれぞれの武器を確認して立ち上がった。
「……場所は」
「この村の外です」
声音を押し殺して答える。
アルザスとメイルーンは、テーブルの上に銀粒を四つほど放ると、店を駆け出た。
後を追う様にキルアスも、弓を右手に持って飛び出す。
ぐるりとアルザスは見渡した。
「どこだ?」
キルアスは真っ直ぐ東の方を示した。
三人はそちらの方へ駆ける。
「……戦闘になったら、村に被害が及ぶっ! 取り敢えず、相手を外へおびき出すぞっ!」
メイルーンとキルアスは同意する様に大きく頷いた。
だが、先頭を走っていたアルザスは、目的のものが目に入った途端、ぴたりと走るのを止める。
後から追いついたメイルーンとキルアスは、呆然とした様子で立ち尽くす、アルザスの見ているものに視線を向けた。
そこに、小さな少女と十七程の娘、そしてその娘を守る様に立つ褐色の肌に金の短髪の剣士を見つける。
娘の方はこちらに気付いた様だ。
そして、驚いた事にこう声をかけてきた。
「パガードさま?」
キルアスとメイルーンは驚いてアルザスを見る。
アルザスはかすれた声でこう言った。
「……なんで、こんな所に居る? スタンギール=キリー」
***************
「まさか、こんな所で会えるとは思ってもみませんでした」
スタンはニコニコと笑いながらアルザスにそう言った。
アルザスはと言うと、ガックリと肩を落とす。
「……あのな。おとなしくリャーメンに居る約束だっただろう?」
脱力するアルザスに、スタンはケロケロッとした様子である。
「こちら、コハクさん。あたしの護衛をしてくれているの。女の一人旅は危ないっていうから、ちょうどいいでしょ?」
スタンは、村の少女と別れたあと、アルザスからキルアスとメイルーンの紹介を受けた。
「もう一人いるのだけどね、後で合流する予定なの」
ふとメイルーンは隣を見た。
そして不審そうな眼差しを注ぐ。
キルアスはその視線に気付かないまま、真っ青な顔色で震えていた。
「……あのな、スタンギール」
「言いたい事は判っているの。危険だって言いたいんでしょ、パガードさまは。でも……だって! るりりんの捜索、中断されたって聞いたんだものっ!
だから、あたしがどうにかしようと思って何がいけないの」
アルザスは思いっきり顔を顰めて声を荒らげる。
「お前さんに何かあったら、俺たちがシュレーン王子に恨まれるんだ! ……ここまで来てしまったなら仕方がない。だがな、スタンギール。ここから先は危険だし邪魔だっ! 戦う術を持たない者は、かえって足手まといなんだよっ! お前はここに残れ」
スタンは思いっきり頬を膨らませた。
「なによ……何よっ! だって、パガードさまの方だって、打つ手が無くて困っているじゃないっ! いいわよ、いいわよ! あたしの勝手するもん! あたしが、るりりんを助けるんだからっ! パガードさまの方が残っていればいいんだからっ!」
スタンは、思いっきり舌を見せると海の方へ駆けていった。
その背をコハクは見送る。
「……コハク……さん?」
キルアスは、スタンの後を追う様に歩きだしたコハクに声をかけた。
コハクはちらりとキルアスの方へ振り返る。
「……俺がついているのだ、危険のはずないだろう?」
クツリと笑って目を細める。
キルアスは冷や汗を流しながら問いかけた。
「何故、あんな娘と一緒にいるのです?《あなた方は束縛を嫌う》はずです」
コハクは物騒な笑みを見せた。
「スタンギールを《あんな娘》呼ばわりするな。お前、死にたいのか?」
コハクの言いようにキルアスは蒼白になる。
話が見えないアルザスとメイルーンは交互に見比べる。
「ここに《ゲンカ》が居なかった幸運に感謝しな。その言葉を言う前に分解されていたぞ」
そう言って、コハクは三人に背を向ける。
「あっ!」
メイルーンは思わず指でコハクの背を示した。
コハクは歩み進めるごとに身体が透けてきて最後に消える。
アルザスは呆然とそれを見ていた。
見ながらふと思い出した様に呟く。
「……キルアス」
「はい」
「……お前の言っていた恐ろしい《光》って、何処にいるんだ」
キルアスはやや俯いてぽつりと答える。
「目の前に居たじゃないですか。《コハク》さんのことです」
メイルーンとアルザスは互いの顔を一瞥し、同時にキルアスを見る。
「俺にも何が何やら判りません。ですが、コハクさんは《人》ではありません。純粋な光の凝り……先程説明した《聖霊》ですよ」
「…………」
「あの聖霊がどれだけの力を持っているのかは不明です。ですが共通する事は本来人間に対して眼中にないという事なのです」
「…………」
「あなたの知り合いだというキリーさんが、何を切っ掛けに聖霊と知り合ったのか不明ですが、危険には変わりなく……」
アルザスはそう聞いて、スタンが気になりだした。
「……お前たち、先程の食堂で待っていろ」
そう言ってスタンが向かった海の方へ駆けだした。
メイルーンはその背を見送っていたが、軽く肩を竦めてキルアスを振り返る。
「アルザスの旦那いっちまったよ。で、あたいらどうするんだい? 旦那の言う様に、食堂で待っているかい」
キルアスは首を横に振って苦笑した。
「取り敢えず、追おう」
メイルーンは小さく笑うと、キルアスの肩を軽く叩いて駆けだした。
その頃、スタンは海辺の砂浜をサクサクと歩いて楽しんでいた。
耳では浜に打ち寄せる波の音を拾う。
寄せては引く、単調だがあきのこないその音楽をたんのうしながら、視線は海原の方へ向けられていた。
(……確かに、みんなが怖がったのが判る)
沖の方に一角だけ黒雲がかかっていた。
だが、スタンはそれがただの雲ではなく、大小様々な魔物が集ってそう見えるのだという事を知っている。
これだけ距離があるというのに、遠くのほうで様々な鳴き声まで微かにではあるが聞こえた。
「……だけど何故、あんな所に集まっているんだろう」
ついひとり言を呟いた時、意外にも返事が戻ってきた。
「それは、あそこに我等にとって《媚薬》に等しいものがあるからですわ」
スタンが驚いて振り返ると、そこに故郷の村までロバを送りに行っていたゲンカの姿があった。
「《媚薬》?」
スタンは目を瞬く。
「えっと……つまり、男の人や女の人を誘惑する様な薬があるってこと?」
すると、いつの間にか側に戻ってきたコハクが鼻の側面を掻きながら苦笑する。
「対象が違うがな、まあ似たようなもんだ。強烈に作用するのは、我等の様な存在か、精霊や魔物くらいだ。……人間自身にも少なからず影響が出るはずだぜ?
もうちっと近づけば、理性を失った獣になる。結構強烈だぜ? 俺でもクラクラするからな」
「わたくしでも酔った様な気分ですわ」
同意する様にゲンカも頷いた。スタンは不思議そうに二人を見比べる。
「あたしは……なんともないけど?」
すると、ゲンカとコハクは小さく笑った。
「人間だからだと一言で言いきれればいいんだが、この場合魔力に関わるモノたち限定と言っておこうか? さっ、その媚薬を他の奴らに取られちまわない内に、取りに行くぜ?」
スタンは怪訝な表情でコハクを見上げた。
「なんで、あたしがその《媚薬》を取りにいかなくちゃ成らないのよ」
するとゲンカは可笑しそうに笑った。
「ですが、アレはあなたのものでしょう? 末に我等の仲間ともなる」
スタンは目を点にした。
「……へっ?」
するとコハクがクツクツと笑う。
「ここに来た目的だろう? あそこにスタンギールの《従者》がいる。俺はスタンギールの《剣》、ゲンカはスタンギールの《楯》だ」
スタンは彼らがいう《従者》が誰を意味するか、知っていた。
何しろ以前本人がそうスタンに言ったからだ。
スタンは眉間に皺を刻んでため息をつく。
「……まさかとは思うけど、媚薬って《るりりん》のことじゃあないでしょうね?」
コハクは軽く肩を竦めた。
「……ああいう体質に生まれてくる人間は、珍しいというべきか。対外は無性の精霊が多いんだ。だが、その存在は生まれてくるだけで悲劇だな。殆どが道具のように命を摘み取られる。利用価値はその身体だけだからな。偶然それを手に入れたものが自由にしてきた。今度の対象は人間で、だからこそ広範囲に影響を及ぼしている。低級の魔物などイチコロだな。匂いに惹かれてあの様に集まっている。ただ今回は心がほとんど無い精霊ではないという事だ。魂を宿した《人間》だ。そこが鍵だな。……受け入れるかそうでないかは、相手しだい。また、相手が受け入れてスタンギールが受け取るにしても、その方法はそれぞれ異なる。だから、その方法は本人に聞いてくれ」
スタンはコハクを見上げた。
次に横に立つゲンカを見る。
そして、肩に留まっているミルを見た。
――― 行くのか?
ミルはスタンの視線を受けて軽く羽ばたき宙を舞った。
「ミルちゃん、力を貸して」
ミルは急降下してくると、スタンの背に留まる。
チクンと針が背を突いた様な痛みがあった。
次の瞬間にはスタンの背丈の三倍はありそうな漆黒の翼が背に生えている。
背の双翼が軽く羽ばたいた。
ふわりとスタンの身体が宙に浮く。
その時、少し離れた場所から驚きを滲ませた声がかかった。
「……スタンギール!」
ゲンカとコハクは翼もなくふわりと宙へ浮かび上がると、守護するかの様に両脇を固める。
スタンは、声のした方へ視線を向けた。
「…………」
バランスを取る様に中空に停滞して羽ばたくスタンに、アルザスは驚愕の眼差しを注ぐ。
その表情には、様々な感情が過っているようだった。
そのアルザスを追ってキルアスとメイルーンが駆け寄って来たのだが、スタンの羽ばたきで砂ぼこりが舞い、吹き飛ばされそうな様子である。
スタンは、呼びかけたまま、声の出ないアルザスに、にっこり笑顔を向けた。
「やっぱり《あの娘》を迎えに行くのは、あたし。守ってあげなくちゃ、かわいそうでしょ?」
アルザスは、目に砂が入らないように手を翳しながら叫んだ。
「無事に帰って来られる保証は無いんだぞっ! それでも、行くのかっ」
スタンは軽く身を屈めて小さく笑った。
「逃げ足には定評があるのよ。山暮らしの田舎娘を嘗めないでよね。どっちにしろ、打つ手だてはそちらには無いんだから」
「…………」
「……たとえあたしが失敗しても、パガードさまがシュレーン王子を助けてくれるんでしょ? なら、安心じゃない」
「……スタンギール……」
聞きたい事が沢山あるだろう。
人に無い翼を持ち、異形を平気で側に置く。
だが、それら全てを飲み込んで、アルザスは安否だけを気づかってくれた、それで十分だった。
スタンは小さく笑いながら、ウインクを送った。
「……他のみんなみたいに諦めて帰らず、ここに留まって努力してくれた事、それがすっごく嬉しかった。例えここに来たのが、国王陛下の徴集によってだとしてもね!
だから、先に行かせてもらうの。抜け駆けくらいさせてよね」
そう行って、スタンは鳥の様に羽ばたきながら上昇していった。アルザスは、キルアスとメイルーンと共に呆然と立ち尽くしその光景を見守るしか方法が無い。
スタンの姿が見えなくなった頃、側にいたキルアスはヘナヘナとその場に座り込んだ。
キルアスの栗色の髪は、先程の風圧でボサボサになっている。
「……どうした、キルアス」
何処かかすれた声で問いかけるメイルーンに、キルアスは苦悩の表情で頭を掻きむしった。
「今度は妖魔だ。どうなっているんだ、あの少女はっ! 何故、聖霊が……妖魔が、あの特に変わった所のない、平々凡々な少女に従う?
魔導士でも魔術師でもないのに、そんな事が可能なんだっ!」
アルザスはその台詞から、スタンの側にいた漆黒のドレスをまとった妖艶な女が、人外のモノである事を悟る。
「いいじゃないか、誰が側にいようと」
メイルーンはくぐもった笑い声を漏らした。
「あんたの様な魔術を扱う者たちにとって、それがどれだけ重要な事か、あたいらには判らないけれどね、他人の《友人付き合い》に口出すなんざ、やぼってもんさ」
キルアスは眉をはね上げてメイルーンに食ってかかる。
「そんな甘い事をっ! この辺りにうろついている、魔物や精霊じゃないんだっ! 聖霊だぞっ、妖魔だっ! 扱い方しだいによっては、国一つ滅ぼすくらい簡単な力を持っているんだぞっ! 俺たち魔術を扱うものたちは、魔力を手に入れるには、それ相応の魔物と契約を交わさなければ成らない。契約の代価を支払うために、命の危険さえ伴うんだっ。契約するために魔物一匹捕らえて使役するのにさえ、容易な事ではないんだぞっ! それを、魔術のなんたるかも知らない様な田舎娘が……」
メイルーンはやたらと熱くなるキルアスを鼻で笑った。
「……それは、嫉妬だろう? 自分に無い物を持つ相手に対して」
「…………」
「あんたは甘いって言うけどさ、それはあんたに人を見る目が無いからそう言えるんだ」
キルアスは瞬間顔を朱に染める。
「あの娘はね、見た目通りの普通の女の子だよ? 普通の女の子が望む事ってたった一つしかないだろ」
「…………」
「家族が大切で、友達とお喋りの好きな娘が、国家転覆を願ったり、聖霊や妖魔の力を行使して誰かを陥れたりなんかするかい? そんな事、かけらも考えてないさ」
アルザスは、メイルーンとキルアスの会話を黙って聞いている。
「ああいう力はね、欲しがっている奴に与えちゃ駄目なんだよ。ろくな事を思いつかないからね。……まあ、あたいだって聞きたい事があったさ。どう考えても背に翼が生えるなんて異常だからね。だけどさ……だけど、あの娘の側を固めていた二人を見た途端、勘がね……言うんだよ。《余計な事を考えるな》って」
キルアスは黙り込んだまま俯いた。
「《深入りするな、放っておけ》と、あたいの勘が訴えるのさ! この勘は信用していいんだよ。そして、それを無視した時、どういう目に合うかも想像出来るんだ」
アルザスは一つため息をつくと二人に提案する。
「取り敢えず、俺たちは食堂に戻ろうや。先程中断した昼食を再開しようぜ」
キルアスは苦笑して立ち上がった。
「そうですね」
「それに……俺たちは、まだ王子の捜索に関して諦めたわけじゃねぇし、海を渡るための対策を練らなければならん。そうだろう?」
キルアスとメイルーンは互いの顔を見て、次に小さく笑った。
「判りました」
三人はそうして、砂浜を後にした。