表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

うたかた

作者: 裏山かぼす

 普段なら鳥のさえずりと、風で木々がザワザワと揺れる音しか聞こえないはずだが、今日は違った。珍しく人の声が聞こえるのだ。楽しげな声ではなく、怒り狂った男の声だった。

 ぎゃいぎゃいと耳障りな怒声は、家に居ないはずの父親を彷彿とさせ、ただでさえ低血圧なのに加えて薬が切れてテンションがド底辺だというのに、その底辺をぶち抜いて仮縫いの糸よりも脆い堪忍袋の尾をアッサリと引きちぎった。だからと言って、別にその声に対して、私も同じように怒鳴り散らすことはしない。そんな体力はないのだ。

 どうせ幻聴だろう。そう諦めて暖かい布団から、井戸やテレビから這い出る貞子さながらにずるりと這い出て、床を這うようにして部屋のドアまで辿り着く。ドアノブはカーテンの隙間から差し込む秋の夕暮れの日差しをぬらぬらと照り返し、異様に私を誘ってくる。残念ながら、紐を持ってくる気力はない。ズボンなり上着なりを使って吊ることだって出来たが、そんな想像力はその時の私には持ち合わせていなかった。

 力、と付くもろもろを全てこそぎ落としたような状態だが、それでも何とか体に鞭打って、ドアノブを引っ掴んで、数分かけてようやく立ち上がった。一度立ち上がればこちらのものだが、足は鉛のように重い。いつもの事だ。別に昨日動き回って筋肉痛になっているわけではない。

 部屋を出ると、そこはオレンジ色に染まっていた。築何年だったか忘れたが、かなりボロくさい家でも、それなりに見られるような景色だ。完璧な昼夜逆転である。

 私の家は山ん中の、それこそ山奥のど真ん中で、ご近所さんと言えば麓に住んでいる認知症が進んでいる爺さんくらいで、そこに行くまでに車で十分くらいはかかる。そのお隣さんは、更に十分くらい運転しなければいけない。だから、私の家の近くに人が来るなんて、そうそう無いことなのだ。

 木々の間からこぼれる夕日に目を細めながら、紅葉に染まりつつある辺りの様子を伺う。しかし雑音はどこから聞こえてくるのかはわからない。……あ、洗濯物干しっぱなしだった。

 日の出と共に寝入る前に干していた喪女スタイルの真っ黒ジャージと、女子力の欠片もないベージュのシームレスブラジャーが「いい加減室内に入れてくれ」と言わんばかりに揺れている。仕方ない、と重い腰を上げ――実際には座っていなかったので気持ち的な意味でだが――、薄汚れた緑色のクロックスを履いて外に出た。

 一人分の洗濯物は、案外少ないものだ。特に私のように、寝巻きは三日くらい同じのを使っていたり、そもそも出かける用事がなかったりと、人が来ることが滅多に無いから寝巻きとジャージ以外はほとんど着ない。更には気力の問題で風呂に入れない日もしょっちゅうだから、タオル系の洗濯物もあまりない。だから洗濯は一週間に一度で済む。……風呂は好きだけど、それを準備する工程で心が折れる。そのくらいまで、今の私のメンタルはズタボロなのだ。

 洗濯物を取り込んでいると、暗くなりつつある山の木々の間に、ちらりと白いものが見えた。遠目ではあるが、真っ白なシーツを頭から被ったような人影だったのをはっきりと目にした。

 その白い何かは辺りの様子を伺うような動きをした後、獣かと思うくらい素早い動きで木々の奥へと去っていった。

 何だ今の。日本人男性の平均身長くらいの大きさはあったんじゃないか? その大きさの生き物だったら、北海道じゃないから、出るとしてもツキノワグマくらいだろう。アルビノのツキノワグマかな?

 そこまで考えて、あっ違う、とようやく気づいた。

 怒鳴り声が聞こえているんだ。もしそれが幻聴じゃないとしたら、人だろう。幻覚という類も視野には入れているが、別に夢心地というわけでもないし、あんまりにもはっきりと見えているものだから、本物説が濃厚だ。

 しかし、車一台ようやく通れる程度とはいえ、道路だってあるし、人一人分くらいだけど山道だってある。その山道は、今見た方向の逆方向にある。記憶が正しければ、今白いのが横切った辺りは、獣道すらない場所だった気がする。

 まさかとは思うが、迷って遭難するなんて事が起きても困る。ましてや日が沈み始めているのだ。正直言って人嫌いだし関わらないで済むならそれでいいし、何より動きたくないけど、後から捜索願を出されて警察が捜しにきたりして、うちに事情聴取みたいな感じで来られても困る。まあ、そんなことはないのだろうが、鬱特有のネガティブ被害妄想みたいなものだ。

 玄関に置いてある懐中電灯が点くか確認して、錆びかかっている鉈を持って、重い足を引きずって、白い影が見えた所へと向かった。




 世間の一軒家を持つお宅の奥様方がガーデニングする庭と違って、山の中は雑草が生えまくっている上、微生物やらダンゴムシやらミミズやらが仕事をしまくっているおかげで、腐葉土と化しつつある落ち葉や、腐葉土そのものがふかふかしている。湿ってさえいなければ低反発マットレスに勝るとも劣らない寝心地だろうと思うくらいに、ふっわふわでもっふもふな踏み心地だ。つまり歩くには、非常に、かつ、異常に歩きにくい。更には枝やら木の根っこが邪魔をしてくる。クロックスでくるんじゃなかった、と後悔した。湿っている土が入りまくって、靴下はじんわりと水分を吸って冷たくなっている。つらい。帰りたい。何となくのノリで来るんじゃなかった。でも今日は動ける日みたいだし、ここまできたら行くしかない。半分ヤケだ。

 私はマタギでもなんでもないが、何かが通ったせいで変に枝が折れていたり、藪が辺に書き分けられた痕は、よくよく目を凝らして見るとわかった。白い人影が行った方向は完全に山道とは真逆の方向で、これ真面目に遭難コースじゃね? やばくね? と自分のことではないのに内心焦っていた。登山には完全に向かないクロックスでも何とか急ぎ足で山を駆け上り、邪魔な茂みを鉈でばっさばっさと切り落とす。

 きらり、と懐中電灯の光が反射される。水とはまた違った、ぬめりのある反射光。街中に行き交う車がスモールライトからヘッドライトに切り替える時間帯だから、もうライトをつけていないと近くでも良く分からない。

 照らしてよくよく見てみると、それは比較的よく見かける液体だった。

 赤い、血。結構な量がべったりと付いていて、うわぁ、とドン引きした声が出た。リストカットは頻繁にはしないし、そもそもそんなザックリやらないから血の量も少ないので、見慣れているとは言ってもこの量は引く。ドン引きだった。ホラー映画か何かかな? と若干現実逃避をしてしまったくらいには引いた。

 ないわー。これはないわー。殺人事件か何かかよ。だとしたらあの白いのって殺人犯? もしくは被害者? マジかよ。

 特に驚いたとか、そういうことは無かった。つくづく感情が死んでいるなぁ、と自嘲気味に笑った。

 これはヤバいやつだ。家に帰って知らないフリしていた方がいいだろう。そう思って踵を返そうとした瞬間、ガサガサとかドシャッという音が耳に届いた。そう、丁度デカイ何かを茂みにぶん投げて、その何かが勢いよく地面とコンニチワして、そのまま胴体全体を存分に使ってスライディングした時のような、そんな音。

「ご、めんなさ、ごめんなさいっ……!」

「うるせぇ! 俺に逆らおうとするからだ! 逃げ出そうったってそうはいかねぇからな!」

 続けて聞こえた、明らかにDVシーンな台詞。うわぁ、マジかよ。殺人よりマシだけど。いやマシなのか?

 ライトを消し、おそらく山の向こう側に姿を消したであろう太陽の残光を頼りにスニーキングもどきをする。出来るだけ音を立てないように、そろり、そろりと、声のする方向に向かう。助けようとか、そういう人情溢れる行動じゃない。ただの興味だ。

 声がはっきりと聞こえる場所に陣取る。丁度急斜面のてっぺんに位置するところで、あまり木も生えていないくぼ地のようになっている場所を見渡せるような所だ。

 空が完全に群青色に染まりきっている中でも、白は良く映える。

 真っ白な死に装束のような着物を着た人が、誰がどう見てもゲスクズゴミカス野郎だと思うような顔の、山伏っぽい着物を着たオッサンに蹴り飛ばされた。痛そう。てか着物って何だよ。今時和服を普段着感覚で着る人なんてそうそういないぞ。相当な金持ちの奥様がお高い着物を着るか、よく言えばハイカラで個性的、悪く言えば目立ちたがり屋な若者が袴を着るくらいだ。

 遠目から見てもわかるくらい、白い着物の人はガタガタと震えている。うんうんわかるよ。怖いよね。肉体的ないじめは受けてこなかったけどわかるよ。

 でも、助けない。人間なんて大っっっっっ嫌いだから。裏切りいじめはお手の物、このご時勢ネットの中だって罵詈雑言に溢れてあちらこちらで大炎上、鬱病患者は私含め年々増え続け、人間関係によってのメンタル的な阿鼻叫喚の地獄絵図は日常茶飯事、夢を語れば中二病、今日の友は明日の敵。そんな世の中だ、誰かを助けたって何の特にもならん。家族ですら信用できない時代だ。助けたところで金が貰える訳でもなければうつが治る事も無い。むしろ悪化だ。人と関わるからうつになるんだ。あーやだやだ。

 帰ろうと思った矢先、ゴミクズおっさんが動く。死に装束さんに馬乗りになる。

「俺の命令に逆らう奴には、きつぅーいお仕置きをせにゃあ、なぁ?」

 遠くからでもいやに醜怪で耳障りな声は興奮と熱に浮かれて、聞いてるだけでも悪寒で鳥肌が立った。一言で例えるなら「キモい」以外の何物でもなかった。

 白い人が「いやだ、たすけて」と何も無い空中に手を伸ばす。声はやや低めだから、おそらく男性だろう。

 今度こそ帰ろう、と立ち上がった。だが、踵を返すことは、叶わなかった。

 はたりと、白い人と目が合った。自慢じゃないが、このブルーライト満載な世の中で、私は両目とも視力が良い。完全に太陽が沈んで暗い上に結構遠い距離だが、彼(?)のハチミツのような金色の瞳を、この目に焼き付けてしまった。

 たすけて。儚げな彼の口が、そう動いた。

 その瞬間、私は何を血迷ったか、おっさんめがけて走り出していた。泥沼に沈んでいたかのように重かった体が、野を駆ける獣のように素早く動いた。私を突き動かす、腹の底からふつふつと何かが煮えたぎる感情は、なんと言い表すのかは思い出せないが、随分と久しぶりな気がした。

 下衆い顔のおっさんが私に気づいて、何かを叫ぶ。やけに驚いたような表情だった。

 私は斜面を駆け下りた勢いのまま、手に持っていた鞘に入れっぱなしの鉈を振りかぶり、筋力だの瞬発力だの、とにかく体の内側から湧き上がる「力」とつくもの全てをそこに込めて、ついでに体重もオマケして、おっさんの側頭部に叩きつけた。

 おっさんの体が吹っ飛ぶ。ビール腹で中肉中背のおっさんが吹っ飛ぶんだ、相当な威力に違いない。これが火事場の馬鹿力か。

「立てる!?」

「あ、あぁ」

 白い人に駆け寄って抱き起こす。今気づいたが、世の中のモデルが泣いて悔しがるほどのイケメン(美女?)ぶりだ。しかし、今はそれに見惚れている場合じゃない。

「走って!」

 彼の手を引いて、休む間もなく走り出す。おっさんが追いかけて来れないようにライトは点けず、茂みの中へと突っ込んだ。

 ここは私の庭みたいなものだ。まだ元気だった小学生時代はここに何度も遊びに来ていた。地理は忘れてなければ大体把握している。完全に日が落ちて真っ暗ではあるが、狐に化かされるような事がなければ迷わないはずだ。

 しかし、長年の引きこもり生活のせいか、私の息はすぐに上がってしまった。喉が痛み、血の味っぽい変な感じの味が喉にまとわりつく。途中小さな川を通過する時には、足がもつれて転びそうになった。それでも自分の足を叱咤し、久しぶりに根性をめいっぱい利用して、家まで逃げ帰った。




 玄関の鍵を閉めて、家中のカーテンを全部閉め切って、ベッドと本棚と机しかない自室に白い人を押し込んで、ベッドに座らせて、ようやくごろりと床に転がった。横になるって素晴らしい。

 白い人はベッドの上で挙動不審気味に辺りを見回し、体育座りでふるふると震えている。あ、この人靴履いてない。マジかよ。

「き……み、は……。私を、助けてくれたのか……?」

 震える声で私に問う。息も絶え絶えのこの状態で、言葉によるマトモな返事なんかできそうになくて、とりあえず首を縦に振っておく。てか何でこの人は息切れしてないんだ。言葉は途切れ途切れではあるけれど、完全に人見知りが無理矢理話そうとしているだけのそれだった。あんだけ走って息切れしてないとかバケモノか。

 白い人の怪我を見て、あぁそうだ手当てしてあげなきゃ、と思ったはいいものの、我が家に消毒液やガーゼなんぞない。あるのは絆創膏一箱だけだ。それに応急手当の知識なんて持ち合わせてはいない。あぁ、でもアイスノン渡して打撲冷やすことくらいはできるか。

 沈黙が続く。私が息を整えるのにはかなり時間がかかったが、その間彼も私も、一言も喋らなかった。

 体全体が熱い。汗がどんどん溢れてくる。ドクドクと心臓がうるさく鳴り響き、手足に力が入らず、少し力を入れると力加減が分からず震えた。

 こんな感覚は何時ぶりだろう。今まで止まっていたんじゃないかってくらいに静かだった血液が体中を巡って、生きていると主張している。

「……うぇ」

 気持ち悪。

 久しぶりに全力疾走したせいか、それとも数ヶ月くらい換気していない部屋の空気をめいっぱい吸い込んだせいか、いきなり活発に動き始めた内臓が負荷に耐えられないのか、はたまた全部が原因か。とにかく猛烈な吐き気に見舞われた。

 ぐるん、と胃の中のものが逆流する。先程までの熱はそのままに、しかし首筋から背中辺りはいやに冷えたように感じ、代謝による汗は冷や汗と脂汗へ変わった。仰向けだった私は反射的に上半身だけを横に動かし、必死に楽な体勢を取ろうとした。しかし既に遅かったのか、ごぷ、と喉まで胃液が持ち上がり、口内を嫌な苦酸っぱさで充満させる。

「……? 君、どうし……っ!」

 やばい。吐く。

 トイレに行く余裕どころか、目の前のゴミ箱を引き寄せる余裕もなく、胃液を一気にぶちまけた。胃液しか吐くもんなんて無いのに、胃はもっと吐けと言わんばかりに蠢き、責め立ててくる。ぐるぐると世界が回る。オーバードーズをした時のように意識が朦朧として、べしゃりと吐瀉物に頭が落ちてしまっても、臭いとも汚いとも思う事すらできなかった。体がびくびくと痙攣して、頭の芯がじぃんと痺れたように何も考えられなくなった。

 苦しい、とは思わなかった。ぼんやりとして、何も考えられなかったからだろう。

 どのくらいかは分からないが、しばらくして、ようやく治まった。気がつけば白い人は私の傍らに居た。

 彼の手は背中をさするわけでもなく、ただ当てていただけだった。それなのに、何となくそこから温かい何かが流れ込んできているような気がした。多分体温だろう。この人体温低いな。

「……あ! 大丈夫か、君! 私が分かるか!?」

 泣きそうな顔で、悲鳴を上げるかのようにそう言っていた。うるせえ、そんな大きな声出さんでも聞こえるっつの。

はい大丈夫です、と言いたかったが、口の中に残る胃液の似が酸っぱさに邪魔された。ペッと吐き出して、一応、と答えると、安心したように手を離した。

 顔半分が胃液まみれだ。臭い。ツンとした臭いが鼻腔を刺激してまた吐きたくなったが、もう胃はすっからかんだった。

 すっかり重くなった体をようやく起こす。ティッシュで適当に顔を拭き、これ片付けないと、あぁ風呂にも入らなきゃ、そういや自分の靴下もびしょ濡れだし、この人裸足で野山の中でランナウェイしてたから我が家も泥だらけだな、と色々なことを考えたが、つい先程までうるさいくらいに活気に溢れていた体内が驚くほど静かになり、同時に脳の動きも停止したのかぼんやりとしか考えられなかった。

「もしかして、まだどこか悪いのか?」

 心配そうに顔を覗き込んでくる白。ゆるりと首を横に振ったが、納得はしてくれていないようだった。

 アレです、ただのエネルギー切れです。そう言いかけた瞬間、体が地面から離れた。いや、持ち上げられた、とでも言うべきだろうか。驚く分のエネルギーすらなくて、ただ小さな声で「おぉ」とも「あぁ」とも取れない言葉が口から漏れた。

 家の間取りを教えた記憶はないが、彼……いや、彼女? とりあえず彼と呼んでおくが、その彼は私を抱えたまま真っ直ぐ風呂場に直行し、服を着たままなのに容赦なく冷たい水のままのシャワーを頭からぶっかけてきた。ひんやりとした水が体温を奪いながら流れていく内に、ようやく脳内エンストが直ったのか、ハッキリと物を考えられるようになり、心なしか視界も明るく見えた。

 ようやくシャワーを止めてもらった頃には、完全に体が冷えきっていた。

「え、と……ありがとう、ございます? 久しぶりに動いて気持ち悪くなったみたいで……お見苦しいところを見せてしまってすみません」

 彼の真っ白だっただろう服に、自分の胃液がついていることに罪悪感を感じる。土や血で汚れているし、あちらこちら破けているが、胃液の黄色はよく目立った。凄く汚れているが、パッと見滅茶苦茶高価そうだ。着物って手もみ洗いで大丈夫だっけ? というか手もみ洗い程度で落ちるのか、この汚れ。

「いや、いいんだ。助けてくれた事に比べたら、このくらい恩返しにもならない」

「そ、そっすか……。あの、それ洗ってお返しするんで……あ、その前に傷の手当て? いやめっちゃ汚れてるし濡れてるから風呂?」

 ここで、ようやく思い出したことがあった。どうやらエンストはまだ完全には治っていなかったようだ。

「あの、もう下ろしてもらっていいです?」

 風呂場に運ばれた時は横抱き(通称「お姫様抱っこ」)で、現状は現在進行形で膝の上に乗せられて抱きしめられているような状態だ。この間、彼は一度も私から離れてない。バカップルもびっくりの密着度だ。美形からこんな風に抱かれたら、例え同性でも即落ちで惚れてしまうだろう。

 膝からようやく下ろしてもらって、ぐしょ濡れになったジャージの上を脱いで適当に浴槽にかけた。たっぷりと水分を吸った服から水が滴り、じゃばじゃばと音を立てた。

 とりあえず服脱いでください、と言って手を伸ばした瞬間、彼は大げさなまでにびくんと体を跳ねさせた。一瞬なんでだと思ったが、さっき暴力を受けていたし、大方いつもあんな目にあっているのだろう、当然の事だと思う。とりあえず意味があるかわからない謝罪を一言言って手を下げた。

 お手数ですがと前置きをして、濡れた服を脱いでもらって、居間で待ってもらうように言った。




 風呂掃除をしてお湯をためて、ついでに軽く温かいシャワーを浴びてから居間に戻る。彼は部屋の角で正座待機していた。

「あ、楽にしてもらって大丈夫ですよ」

 そうは言っても全く赤の他人の家だ、言われた通りにするとは思わないから、形だけ声をかけた。

 予想通り彼は「いや、いい」と断って、そのまま正座の見本のような姿勢で、銅像のように動かなくなった。濡れたままの頭をガシガシと掻いて、居た堪れない空気の中、とりあえず彼の怪我の手当の方法を探すべく、スマホの電源をつけた。

 しばらくすると、風呂場から電子音が聞こえた。どうやら湯を張り終えたようだ。

「あ、お湯湧いたみたいなんで、傷に触らん程度に温まっ……?」

 風呂に入るよう促そうとして、彼の……いい加減「彼」という無個性的な名称ではなくて、仮名として「白さん」と呼ぶことにする。白さんの方に向き直った瞬間、何故か凛とした顔つきで私に向き直っていて、がっつりと目が合ってしまった。何となく、私も正座した。

 あっちこっち汚れまくって、白髪しらがとは言いづらい綺麗な白銀の髪には血やら泥やら蜘蛛の巣やら葉っぱが付いてて、更には顔は殴られたのか腫れていて、一言で言い表すなら「みすぼらしい」という言葉が最適だ。だというのに、穏やかな水面のような静けさと、美しい後光が差しているかのような神々しさがあって、私は一瞬、呼吸の仕方を忘れていた。

「改めて、礼を言わせてほしい」

 直前までのきりりとした真顔から一変。ふわり、とはにかんだ。

「助けてくれてありがとう。君は、私の心も救ってくれた」

 不謹慎そのものだが、今にも消えてしまいそうな笑顔と、白と赤に、花みたいだな、と思った。

 あまりの神々しさにいたたまれなくなった私は、無理やり視線を床に落として、この空気をぶち壊そうという脊髄反射レベルの使命感からか、ほぼ無意識に口から言葉が漏れていた。

「助けるつもりは、最初はなかったんですけどね」

 え、と声を漏らし、一気に絶望したような表情になる。待て、こんな綺麗な顔泣かせたらすごい罪悪感がやばいの、今初めて知った。

「なんか、こう、目が合った瞬間……突き動かされるような、何か、うん、そんな感じで、勢いで助けたっていうか」

「っ……」

「あー違くて。その……助けたくないって理由が、単に人に対してトラウマ持ってて……友人だった人に男寝取られたり別の元カレがDV男だったり就職先が糞ブラックだったり私がうつ病だと分かったら親兄弟身内一同はこんな山奥に厄介払いさせやがったりで、人間不信というかなんというか……あぁいやいや、これは別にどうでもいいとして」

 あー馬鹿、何余計な事言っているんだ私は。ぶんぶんと頭を振って「とにかく」と仕切り直す。

「助けたもんは仕方ないし、邪険にも出来ないんでもういいっす」

 全く慰めになってない言い訳だ。どうせこれきりの縁だろうし、別に取り繕う事もしなくていいとは思うが。

 しかし、白さんは何か納得したようにへにゃりと笑うと、そういうことか、と呟いた。うわ美形のスマイルこわい。直視できない。キラキラしてる。めっちゃキラキラしてる。美形こわい。

 美形の恐ろしさに耐え切れず、少し目線を下にずらした。あ、胸平たい。この人中性的で分かりづらかったけど、多分体つきからして二次元のイケメンキャラみたいな、言うなれば細マッチョな男性そのものだ。「彼」で合ってたっぽい。しかしこれまたモデルみたいな体型だ。もしかしたら平たい胸族なのかもしれないという考えが頭をよぎったが、骨格からして男性だ。

「私が人間じゃないから、助けてくれたのか」

「えっ幽霊なの? 私霊感ないんだけど見えてんの?」

「いやいや、そうじゃない。君達人間で言う所の、『神様』というやつだよ」

 しばらく白さんによる「神様とは」という講座が開かれ、文明の利器の活躍もあって、私はようやく白さんがの言っていることを理解した。

 白さんは、名前の無い水の神様。ざっくりまとめるとそんな感じだった。ちゃちゃっとスマホで調べたが、「水神」という単語では、白さんの事は分からなかった。名前のある有名な神様というわけでもないらしいから、仕方がないだろう。

 ……とはいえ、本気で白さんが神様だと思っているわけではない。というかそんな事信じる方がおかしい。私も充分頭おかしい自信はあるけど、その私より頭がスカスカなアホの子なんだと思う。

 白さんの場合は、DVされ続けた末に、そういう妄想をすることによって自分をつなぎとめているだけだっていう可能性の方が十分高い。そもそも蛆虫にも劣るような人間に手を貸してくれる優しい神様がいるのなら、何故苦しんでいる人がいるんだ。世界は不平等だ。

「白さんが神様だって言うなら、このクソみたいな世の中何とかしてよ」

「無理だね。私は創造神じゃないから」

 ふと、白さんが自嘲じみた微笑を見せる。

「私に出来るのは、川を氾濫させて村を滅ぼす事くらいさ」

 仄暗い目。綺麗な金色が濁った。日頃から見る目だ。そう、自分の目と似ている。つまりこの人も同類だ。わかりやすく言えば、死んだ魚の目だ。

「え、じゃあやってくださいよ。むしろ日本全部水没させちゃってくださいよ。クソみたいな人種しか居ないんだから全員死んだってノープログレム。首吊る手間も省けてラッキーですわ」

「……」

「え、何すか?」

 白さんはぽかんとした顔をしていた。

 もしかして、DVは受けていたけど死にたくない系の人だったのかな。そりゃあ目の前で死に対してめっちゃポジティブな事言われたらビビるだろうけど。

 僅かな沈黙の後、そうか、と寂しそうな顔をされた。そして、とても自然な動作で頬に手を当てて、更にナチュラルに引き寄せられた。

 皮膚を無理矢理剥がされたような傷跡は古いもの、新しいもの問わず顔に残っているが、それすら美しく感じさせる程の美貌が、くらくらする程の端正な顔が、近い。

「なあ、君」

 金色が、私を映した。

「名前を、教えてはくれないか? 俺を助けてくれた君を、助けたい」

 くらくらする。

「神隠しも、そう悪いものじゃないぞ?」

 駄目だ。イケメン怖い。

 こんな嘘みたいに見目麗しい顔が間近に来られたら、幻覚だろうがそうでなかろうが反射的に「お断りします!」と叫ぶのは、私だけではないだろう。

 そうだ、顔で思い出した。アイスノン。冷やすもの。結構腫れ酷かったぞ。そうだ私はアイスノンを取りにいくという使命があるのだ。こんな所で油を売っている場合ではない!

 ちょっと手当ての道具取りに行ってきます! と何年かぶりの大声を出し、逃げるように部屋を出た。暗くて、そしてテンパってて気がつかなかった壁に思いっきり頭を打ち付けたことによって、私はようやく冷静さを取り戻したのだった。




「何であのオッサンに追いかけられてたんです?」

 持ってきた濡れタオルやサランラップをテーブルにおいて、何となくそう聞いてみた。言った後で「あっ、これ聞いたらダメなやつじゃん」と気づいたが、彼は淡々と答えてくれた。

「捕まっていたんだ。私の力を利用するつもりだったんだろう」

 あぁ、神様設定のやつね。

 出かかった言葉を飲み込んで、「そりゃ災難でしたね」と返しておいた。

「私はまだ水神になって日が浅いから、力が弱いんだ。だから人間に簡単に捕まってしまった。まだ妖怪のようなものだからね」

「へえ、妖怪かぁ」

 少し前まで妖怪のゲームがすごく人気だったなぁ、と思い出した。そこから影響でも受けたのだろうか。

「神降ろしの要領で人間の体に押し込められて、拷問され続けていたんだ。きっと服従するまで続いたんだろうね」

 いつの間にか白さんの顔は、恨みつらみ怨念たっぷりの表情になっていた。イケメンが台無しだ。

 傷の手当をネットで検索したら、ガーゼがなくても代わりにラップ等を使って湿潤療法というものをすれば大丈夫らしかった。傷口に密着させてテープで貼り付けて、とネットの見よう見真似で手当をしていく。打撲痕なんかには湿布を貼る。手当てをしていて分かったことだが、刃物で切られたような傷もちらほらと見かけたし、多分茂みにべったりと血が付着していたのは彼の左太ももの傷(漫画とかでよく見る刀傷っぽかった)だったようだが、殴る蹴るの暴行を受けたような怪我が大半だった。

 だが、その中でも一番ひどかったのが、いわゆる根性焼きだ。背中にびっしりと、いわゆる蓮コラみたいな状態だった。常人なら悲鳴を上げたりしそうなものだが、DV受けていたんならそのくらいあるだろうな、と思っていたし、特に驚くことも無かった。

 ただ、別のものには驚いた。彼の折角の美貌に、異様なものが混在していたのだ。

 冷静になって、よくよく彼の体を見ていると、皮膚の一部にヘビの鱗のような模様が浮かんでいたのだ。こんな病気を医療漫画で見たことがある気がしたが、あれはもっと皮膚が分厚くなってひび割れる病気だったはずだ。首筋から顎や頬にかけてと、二の腕、背中辺りまでその鱗はあった。触ってみると案外ツルツルしていて、魅惑の触り心地だ。

 保冷剤で腫れた頬を冷やしている白さんにかける言葉も見つからず、ただ黙々と細く引き締まった体に障らない程度に優しく傷口を濡れタオルで拭い、手当てを施していく。別にいたたまれないとか、かわいそうだからとか、そういう理由ではない。余計な事言っても面倒になるだけだからだ。

 しかし、沈黙は辛い。最近は親とも会話らしい会話をしていなかったが、あれは単に嫌いだから会話をしなかっただけで、元々は人と話すのが好きだった。だから、この沈黙は辛い。

 白さんも人間だろうけど……なんとなく、嫌いになれる気がしないのは何故だろうか。

 ふと彼の視線を追うと、ちゃぶ台に置きっぱなしだったいくつもの薬を見ていた。はたりと私と目が合った。

「……なあ、それは何だ?」

「あー……心のお薬的な? 私、心の病気なんですわ。楽しいとか嬉しいとか、そういうのを感じられなくなって、代わりに無駄に悲しかったりムカついたりしかできなくなってるんです。でも悲しんだりできてる時はまだ楽な方で、何に対しても無気力になって、体的には健康なのに動くことすらできなくなったりするんです。今みたいに何に対してもテキトーな状態は比較的あかん方ですけどね。で、この病気って、個人差はあるけど、突発的かつ頻繁にあー自殺してー超死にてーってなって、勢いのままにリスカなりオーバードーズなり飛び降りなりやっちゃうんで、そうしないようにするために心を落ち着かせる必要があるわけです。その手助けをしてくれるのがこの薬、という訳です」

 正直効いてる気がしないけど、という言葉は飲み込んだ。

 再び訪れる沈黙。いたたまれなくて、つい適当なことを喋った。

「人間のくせにおこがましいよね」

 とっさに出た言葉がそれだった。別に嘘ではないし、別にいいだろう。白さんが神様という設定で、例のおっさんを憎んでいるのであれば、この言葉の選択は別に間違ってはいないだろう。

 返事が無いから、続ける。

「私が神様だったら、殴る蹴るの暴行されたら、末代すら残さないよう血族全員呪い殺すけど」

「いや、それだともったいないな。血族全員呪い殺した上で、あいつらにはいくら痛めつけても死なないようにしてやろう」

「うわキッツ。てか神様なら簡単に祟れるイメージがあるんだけど、違うの?」

「流石に無理だ。私はそう強い力は持っていない。さっきも言ったように、私は最近水神になったばかりだからね」

「へー。……ん? 最近神様になったとすると、神様って交代制なの?」

「この山にある川は小さいものだから、自ずと力も弱くなるし、その分寿命も有限になってしまうんだ。小さな川なんて、信仰心もないからね」

「なるほど」

「でも、神が自分の領域に人間を隠す時は、力が弱くとも対象の名前を知っていれば可能だね。まあ、こっちは気に入った人間に対してやることだけど」

「へー。……ん、待って? もしかして、さっきの名前教えてって」

 特に悪びれた様子も無く、白さんは言う。

「君が『死にたくない!』って言うくらい幸せにするのが、私を助けてくれた事に対する恩返しだと思ったんだ。いささかこの時代では君は辛いだろうから、私だけの領域に連れて行って、これでもかというくらいめいっぱい甘やかして、幸せにしてやろうとね」

「えっ……う、うわぁ……」

 こわい。このイケメンこわい。中二病とかそういうレベルじゃない。ネジぶっ飛んでる。首吊るぞひゃっほいって言ってる私も結構ネジ飛んでるとは思うけど、それを軽く越すような数がぶっ飛んでる。ヤンデレも真っ青な監禁だ。自分に依存させるタイプの監禁方法だ。逃げ出しても自ら檻の中に戻るよう仕組むタイプだ。怖い。

「そ、そういえば白さんって、DV受けてた割には人慣れというか、私のこと警戒しませんよね。それって何でですかね? 助けた以外になんか理由あるんですかね?」

 かなり強引な話の逸らし方だと思ったが、構わん。この怖い話題から逃げられるのなら何でもいい。イケメンだからって何でも許されると思うな。

「何でって? そんなの、決まっているだろう? 君に一目惚れしたからだよ」

「ふぁっ!?」

 ちょっと待て、こいつ何かとんでもないこと言いおったぞ!?

「もし今回助けてもらってなかったとしても、いずれは隠していただろうね。だって……」

「た、多分それは吊橋効果というやつだと思います。一時的なものなんで安心してください」

 くるりとこちらを向いた白さんの顔から思いっきり視線を逸らし、彼が何かを言い終わる前に言葉を被せた。最後にもう一度、そうです吊橋効果です、と強く言った。

「なんだ。やっぱり、ちゃんと感情があるじゃないか」

「へっ?」

「君が死にたいとか言っていたから、心が死んでいるかと思った」

 ……なるほど、キチガイに見せかけて、私がどれだけ動揺するかで感情がどのくらい残っているか確認したわけか。こやつ、出来る。でも安心した。

「そりゃ個体差もありますよ。それに適当な喋り方じゃないと気が滅入りそうですし。言っちゃえば空元気です。私、今日は体調良いからこんなんですけど、駄目な日は丸一日布団の中ですからね」

 それに、と続ける。

「そもそも心が完全に死んでたら、こうして喋ってないです」

「え?」

「だってそうでしょ。指先ひとつ動かすのも自分の意志でしょう? 心が死んだら、それすなわち植物人間だと思うんですよね」

「……ははっ、確かにそうだな」

 何か心当たりでもあるのか、口元は笑っていたが、目は完全に死んでいた。

 この話は早めに切り上げたほうが良いのかもしれない。丁度手当も終わったので、サイズ的には合わないが私のジャージに着替えさせた。乾きたての、黒地に白のラインの入っている、喪女スタイルのくたびれたジャージだ。……が、ズボンの方がサイズが合わず、つんつるてんだ。にも関わらず、上の方はやや丈が足りないのはそうだが、主に腹回りや二の腕周りが非常にゆるゆるなのが見て取れた。白さん、若干痩せすぎなんじゃね? とは思っていたが、こう見ると逆に自分の体に蓄えられている余分な脂肪が強調されているような気がして、少し嫌な気分になった。元気になったらダイエットしよう。

「一応、客人用の布団あるんで持ってきます。ちょっとかび臭くても我慢してください」

「構わないよ。……でも、出来るなら一緒に寝たいかな?」

 出たな、人外レベルのイケメンスマイル。例え鱗っぽい模様のある肌をしてようが、性別問わず九割の人類をイチコロにしそうな超絶美麗スマイル。だが残念だったな、私は残りの一割に含まれるんだ。眩しいとしか思わない。……訂正。眩しくて怖いとしか思わない。

 それにプラスして、声優なんか目じゃないレベルのイケメンボイスと口説き文句。電波野郎ということを差し引いても、この中性的な外見とイケメンボイスの手にかかればあら不思議。例え電波が入っていても、そういう口説き方なのかもしれないという錯覚すら起こってしまう。これが美形。私がやってもただの痛いナルシストとしか思われないだろう。人は生まれながらにして不平等である。

「ほら、布団持ってくるんで寝てください。傷に触りますよ?」

「ははっ、はぐらかされたか。わかったよ」




 ぶちまけた吐瀉物を片付けてから、自室にカップ麺と水の2Lペットボトル、飲み物用のオレンジジュースとケトルを持ち込んで、居間で寝ているだろう白さんを起こさないよう暇をつぶす。今日は散々動いたせいか、久しぶりにお腹が空いた。ここ数年聞いたことのない腹の虫の声が聞こえた。

 できるだけ静かにして、パソコンで動画を再生する時も普段は滅多に使わないヘッドホンを使って、動く時もなんとなく神経を使って音を立てないようにした。

 ……変な人拾っちゃったなぁ。

 着物の洗い方を検索しながら、そんな風に思う。明日起きたら警察に送り届けようと思ったが、何とか昼前くらいまでに起きて、病院に連れて行ったほうがいいかもしれない。明日も体調が良いという確証はないが、連れて行くくらいなら何とかなるだろう。問題は起きられるかどうかだ。

 病院に連れて行くとしたら、保険証の問題がある。多分持ってないだろうな、と予想して、少し面倒くさいと思ったのか、いつの間にかため息が漏れていた。

 病院、というワードで、あの殴り倒したオッサンの事を思い出した。

 あのオッサン、あの後どうなったんだろう。道具を使って思いっきり殴ったけど、流石に非力な一般女性が殴った程度で死ぬ訳ないだろう。なっても多分気絶程度だろう。……と信じたい。

 まさか死んでいるなんて事はないよな?

 そんなぞっとするような想像をしていたが、途中でいけない方向に思考が傾いていることに気づき、ブンブンと首を振って無理矢理「そんなことあるわけない」と自分を納得させた。大丈夫、何かあったとしても、アレは正当防衛だ。

 そういえば、持ち出した鉈、どこにやったっけ。

 部屋に駆け込んだから床に落ちていたと思ったが、部屋の電気を付けて探してみたがどこにもない。やっべ、どっかに落としたかも。

 いつ手放したかはわからなかったが、無くしたら無くしたで若干困ってしまう。薪を割るのに必要なのだ。居間にあるストーブは、今流行りの薪ストーブだ。「今流行り」と言うよりは、昔ながらのだるまストーブと言った方が正しいか。自分の部屋には十数年くらいの付き合いの小さな電気ストーブしかなく、冬場はそのだるまストーブに頼らざるを得ない。

 明日探しに行かなきゃ、でも面倒くさいな。熟考した末に出した結論は、「新しいの買えばいいや」だった。適当にサバイバルグッズの通販サイトで注文した。本日何度目かのため息をついた。

 しかしふと、ある可能性に気づく。

 ……もしかして、今のこの状況、私の妄想なのではないか?

 あんなコスプレ衣装のような真っ白デザインの着物を着る人なんて、現実だと痛いコスプレイヤーか、「キャラとお揃い」とか言ってそれっぽい色合いやデザインのパーカーや帽子、ジャケットなんかを着ている痛いオタクくらいしかいない。ぱっと見髪の毛は本物っぽいから、現実に居たとしたら、いわゆるアルビノってやつなのかもしれないのだが、そもそもアルビノの人なんて滅多に居ない。お釣りで二千円札をもらう以上に低い確率だ。第一、あんなハリウッド映画に出てもおかしくない顔と体型な人がそうそう居るはずがない。一昔前に携帯小説サイトを作っていた一部のオタクが黒歴史に頭を抱えそうな設定と状況だ。

 つまるところ、彼は私の妄想上の人物である可能性があるということになる。

 少し心配になってきた。確かにゲームはかなりやっているが、キャラに萌えを感じるオタクかと言われたらそうでもない。純粋にゲームのファンといったところだ。だからといって、ジャニオタでもない。いわゆるボーイズラブにはこれっぽっちも興味もないので腐女子でもない。だからといってガールズラブ至上主義な百合豚でもない。ネットスラングを多少嗜んでいるネラーに過ぎない。私はイケメンなんて欲していないのだ。じゃあ何で妄想の賜物である彼がいるのか、となると、もしかしたら世の中の優れた美貌の人物を知らず知らずの内に憎みまくってて、その結果現れたのかもしれない。もしくは一人が寂しかったか。無いわな。

 白さんが私を姫抱きしやがって風呂場まで連れてってくれたのは確かだが、それすらも妄想なのかもしれない。第一あの時は意識がぼんやりしていたし、自分で入った可能性だってある。

 悶々と考えていたら、いつの間にかかなり時間が過ぎていたようで、居間にある古めかしい時計のボン、ボーンという音が聞こえてきた。

 どうやら十二時を回ったようだ。そうぼんやりと思った矢先、どたんばたんと居間の方から慌ただしい音が聞こえた。……まさかとは思うが、時計の音にビビったんじゃないよな?

 その「まさか」は、当たったらしい。様子を見に行くと、暗がりの中、サイズの合わないジャージで動きづらそうな白さんが部屋の隅に居た。遠目で、更に電気をつけておらず自室から漏れる仄かな明かりだけだというのに、それでもわかるくらい大げさにガタガタと震えていた。

 白さんは私に気づくと、今にも泣きそうな声で「今のはなんだ」と聞いてきた。電気をつけて、ボロくさい壁掛けの振り子時計を指差すと、大体察してくれたらしい。一気に脱力して、長い長い溜息を吐いた。

「何時計の音にビビってんすか? トラウマでもあるんです?」

「い、いや、大きな音自体があまり得意じゃなくてね……」

「あー、怒鳴り声かな? 把握」

 こんな会話をしていても、全て私の妄想なのかもしれないのだと考えると、少し虚しくなってきた。

 確実に白さんの存在が本物かどうかを確認する一番確実な方法は、第三者に見てもらうことだ。多分。しかしその第三者がそれこそ幻覚なのかもしれない事を考えると、非常に面倒くさいことになる。過去に統合失調症だった、というより現在は安定期に入っているだけだが、まあ一度なっている身としては疑わざるをえないのだ。

 と、ここまで考えて、ようやく違和感に気づく。

 以前幻覚・幻聴や妄想に悩まされていた時、私の場合七割が自分を誹謗中傷する内容で、残りの三割が被害妄想の部類に入るようなものだった。だが、今はどうだろうか。突飛な内容ではあるが、白さんはむしろ私に好意的であるようにも思えるのだ。一目惚れとか言ってたし。

ここから「今までのは全部嘘だ」と裏切る展開が無きにしもあらずな気もするが、今までの妄想は全て最初から自己否定満載だったので、そもそものパターンが違う。第一、こうやって全てを疑っているような意識がはっきりしている状態で幻覚・幻聴を経験したことはない。いつもだったら、もっと夢の中のようなぼんやりした状態だった。もしくは妄想の言いたいことがエスパー並にわかっていた。だが今はそんなことはない。

 ……一応、確認だけしてみるか。

 部屋の隅でガタガタ震えて今にも命乞いを始めそうな白さんに目線を合わせるためにしゃがみ、出来る限り優しい声で話しかけた。

「ねえ白さん」

「……それは、私のことかい?」

「あっごめん」

 つい心の中で呼んでいた愛称で呼んでしまった。

「いや、その呼び方でかまわないよ。何となく可愛らしいし」

「そっすか」

 目に見えて体の震えが収まるのを見て、少しだけ安心した。それに少し表情が柔らかくなった気がする。落ち着いてくれたのなら何よりだ。

「あの、白さんって実在する人物ですよね?」

「人物というか、君達で言う所の『神様』であるというか」

「うんまあそこは置いておくとして、白さんは私の妄想じゃなくて、現実の存在なのかなーって思いまして」

「……? ああ、もちろんそうだよ」

「ちょっと触ってもいいですかね」

「ああ、かまわないよ」

 即答なのは以外だった。

 動物を触る時みたいに、相手の頭より下から手を出して、そっと彼の腕に触れてみた。ひんやりとしている。鱗の部分は硬いが滑らかで、手から肘の方へと撫でるとツルツルしているが、逆方向に撫でるとやや引っかかりザラザラとした感触がする。

 蛇だ。大昔、子供の時に触った白蛇と似たような触り心地だ。あの白蛇は今どうしているんだろうか。さすがに寿命が来ているかな。

 その魅惑の触り心地につい夢中になっていると、白さんは触られている方とは反対の手で、私の手を握ってきた。驚いたが、振り払うという条件反射を何とか抑えることは出来た。

「私はここに居るよ」

「えっ? あ、はい」

「君の目の前で、人の形をしている」

「うっす」

「こうして君は私に触れることができるし、他の人間も私のことを見て触ることができる」

「そうなんすか」

「幻でもないし、妄想の産物なんかじゃない」

「うぃっす」

「だから、ちゃんと私と向き合ってくれないか?」

「あ、はい。……はい?」

 冷たい手が私の手を覆う。うわ指細い。長い。ちらほら見える鱗さえなければめっちゃ綺麗だ。いや、鱗すら美しいのではと錯覚してしまう。

「私が神だと信じていないのだろう?」

「えっ……あー……いやその……」

「いいんだ、素直に言ってくれ」

「今日の出来事全部私の妄想の産物だと思ってたし、そうでなかったとしたら白さんの頭イカれてんじゃねえかなって思ってました」

「だろうね」

 美丈夫が苦笑した。世間一般から見て口が良いとは言えないだろう今の発言は、彼のことを傷つけてはいなかったようだ。

 じんわりと私の体温を奪っていた手が、私の手を持ち上げた。そしてそれを慈しむように頬ずりする。指先が触り心地の良いセミロングの髪を梳く。不思議と嫌悪感はなかった。

「私はね、元々こんな姿だったわけではないんだ。簡単に言えば、神を一時的に人の身に降臨させる儀式で、入れ物として用意された人間に入っているだけなんだ。そのまま出られないように細工されて、今この状況になっている」

「こんな美形を生贄にするなんてもったいない」

「元々この人間は、こんな顔じゃなかった。いつの間にかこの見た目になっていたんだよ」

「神様パワーかな? いいなぁ、整形手術いらずじゃないっすか」

「鱗ができてもいいならやろうか?」

「いや、遠慮しときます」

「うん、そうした方が良い。君はそのままの姿が一番美しい」

「この口説き上手め」

 少し手を動かすと、白さんは名残惜しそうに開放してくれた。

「……話を戻すね。今の話を聞いて、君は私のことを信用してくれたかい? 正直に答えてくれ」

 そう言う彼のハチミツ色の双眸は真剣そのもので、脊髄反射的に口から漏れかけた嘘八百のでまかせを、飲み込まざるを得なかった。

「残念ながら、全く」

「そう言うと思っていたよ」

 彼は最初から予想していたのか、当然だろうという顔で微笑んだ。

「だって、そもそも神様とかいうものが存在するっていう証拠がないじゃないっすか。ただのおとぎ話か聖書の中にしかいない、つまり想像上のもので実在はしないって私は想いますよ」

「じゃあ、証拠があれば信じてくれるんだね?」

「そりゃもちろん。神様だって言うなら、神業を見せてみやがれって感じですわ」

「見せたいとは思うんだけどね」

 彼は名残惜しそうに私の手を離した。彼の冷たい手に体温を奪われたせいか、心なしかひんやりしていた。

「ごめんね、変なことを言って」

「ぶっちゃけ初っ端から変なことばっか言ってたんで今更感ありますけど」

「はは、そうか」

 さり気なく持ち上げられた彼の手を、同じくさり気なく避けた。女性がイケメンからやってほしい行動トップ3に入るであろう「頭を撫でる」という行動を意図せず自然にやってのけるのはやめていただきたい。いくら本物のイケメンで性格もイケメン(ただし電波でややメンヘラの気があるという事実は除く)だとしても、人間にボディータッチされるのはごめんなのだ。動物なら大歓迎だが。

 時計を見ると、針はもうすぐ十二時半を指し示していた。普段この時間帯に活動しているため、丁度目が冴えてくる頃だ。しかし白さんは今日のこともあるし、普通の人ならこの時間帯には寝ている時間帯だ。寝かせた方がいいだろう。

「そろそろ寝たほうがいいんじゃないっすか」

「いや、目が冴えてて寝付けないと思う」

「じゃあ眠気来るまで適当に暇潰しててください」

「……話相手になってくれないのかい?」

「残念ながら、そこまで話のネタがないんで」

 それと、長時間人間と話していると物凄い勢いでストレスが溜まるんで。

 出かかった言葉は何とか飲み込んで、白さんを放置して自室に戻った。




 嫌な記憶が頭の端にチラつく。ベッドに横になり、ただ何もせずぼーっと天井を見上げていると、嫌でも過去のトラウマを思い出し、その度に吐息のような声で「知らない、そんなことは知らない、私は何も知らない」と自分に言い聞かせていた。

 都市の離れた兄に対しては今でも仕送りを続けたりとやたらと甘やかしているのに、私の時は仕送りを送るどころか金をよこせと言い、実家に住んでいた幼少期から学生時代の時は私の部屋だけ冷房も暖房もない物置のような部屋で過ごすことを強要するといった、辛辣な態度を取る両親の記憶。家族内村八分か。

 会社では人受けのいい営業マンだけど、プライベートじゃ情緒不安定で頻繁に殴る蹴るの暴行をしてきたり、反対に滅茶苦茶甘やかしたりする、よくわからない元カレ。病院行け、そして二度と出てくんな。

 DV元カレと別れた後に出来た彼氏が絵に描いたような性格イケメンで「これでようやく幸せになれる」と思った直後、酒飲みの場で人の彼氏を誘惑し既成事実を作り、彼から私を振るよう仕組んだ元友人。あの女狐一生許さねえからな。

 残業代は出ないしそもそも定時にタイムカードを勝手に切られてるのが当たり前で、明らかに一日で終わりそうにない量の仕事といわれのない誹謗中傷を押し付けて、自分だけ定時で帰っていくパワハラ上司の居る元勤め先。ネット掲示板かSNSサイトに晒してやろうか。

 高校の頃、ただ前の席に座っていたという理由だけで漫画かとツッコミを入れたくなるような、強いて言うなら靴に画鋲を入れたり、カツアゲしてきたり、ノートに目立つ色のペンで大きく「死ね」だの「ブス」だの書くようなイジメをしてきやがった、見た目だけはモデル並に可愛くて愛想の振り撒きが異常に上手いあのぶりっ子性格ブス女。質の悪いストーカーにストーキングされてしまえ。

 その他、エトセトラ、エトセトラ。

 今日は色々あったせいだろうか。いつもより脳が活発になっている分、今すぐドブに捨てたくなるような記憶が湧き水のように溢れてくる。毒素が強すぎて飲めたもんじゃないが、水源は私自身だから止めようにもどうしようもない。

 どこかでこういう時は体を動かせばいいと見た気がするが、そんな元気があるなら鬱になってないと反論したい。第一、今日は動きすぎてもう動きたくない。未だに息切れした時の喉のダメージが回復していない。喉に擦り傷でも出来てるんじゃないかと思う痛さだ。

 日頃の運動不足と、鬱による気力不足が相まって、完全にベッドの上から動けなくなっていた。だというのに、疲労感が大盛りマシマシにも関わらず、眠気は全く来てくれない。睡眠障害の弊害がこんなところにまで及ぶとは思いもしなかった。ついでに、流石に肩こりが限界になったから少しだけ体を伸ばそうと横になっただけなのに、こうも動けなくなるとは思ってもみなかった。

 すぐ枕元に置いてあるスマホにすら手を伸ばせず、ただただ無駄な時間を過ごしていると、ノックもなしにドアが開く。ギイィ、と錆びかけている蝶番がいやな音を立てた。

「なんすか白さん」

「いや、とても暗い氣を感じたから、少し気になって」

「あー、呪詛聞こえてました?」

「似たようなものは感じた」

 冗談めかして「呪詛」なんて言ったが、白さんは至って真面目な顔でマジレスしてきた。いや、そこは軽いノリで返してくれよ。クソ真面目に返答されてもこっちが困る。というか気ってなんぞや。オカルト的に言うならオーラとかそういうやつか?

 白さんは幽霊かと思うくらい静かに部屋に入ると、ゆっくりとベッドに腰掛けた。

「出会った時から思っていたけれど……君の氣はとても淀んで、邪気で濁っていて……どうしてそこまで、負の感情を溜め込んでしまっているんだい?」

「頼れる人が居ないからに決まってるじゃないっすか」

 他人なんて信用すべきではない。第一、自分という存在すら信用ならない。信用できるのは、嘘をつくことを知らない人間以外の動物だけだ。動物は良いぞ、あいつらは落ち込んでいるとちゃんと慰めてくれる。愛情を注いだ分だけ返してくれる。金に余裕があったら確実に犬か猫を飼ってただろう。

 目だけを動かし、了承も得ず勝手に部屋に入ってきた男を睨む。眉尻を下げて、「そうだったのか」と悲しそうに言うのが見えた。

 彼は、本質的にはお人好しなのかもしれない。いや、それとも、ただ私に同情しているだけか。

「白さんも虐待受けてたなら、心のどこかでこう思っているんじゃないんです? 『他人なんて信用できない』って」

「そうだね。そう思っていたよ」

「ほらみろ」

「だけど、君に助けられて、その考えが変わった」

 ベッドが軋む。白さんが動き、私に覆いかぶさる。

「君に助けられた時にね、まだ獣だった頃の事を思い出したんだ」

 白銀の髪が垂れ、頬をくすぐる。払いのけようとも思ったが、そんな雰囲気ではなかったから、大人しく我慢した。

「その時の私は、鼬に追われていたんだ。急いで木に登ったんだけど、彼女も追いかけて来て、そのまま捕まって食べられてしまいそうだったんだ。下は川で、人間の子供が遊んでいた。川に逃げても、そのまま木を登り続けても、助からないな、って思ったんだ」

「まあ食物連鎖ですから? 仕方ないんじゃないっすかね? あと子供は意外と残酷だし。カエル潰して遊んだりとか」

 イタチに追われていたって、一体なんの動物だったつもりなんだ。お稲荷様とか狗神様みたいなのはいるけど、それのつもりなのか?

 鱗があるし、魚の神様なのかもしれな。川の神様とか自称してたし。だけど、木に登ったとかほざいてるから、多分違うだろう。どちらかと言うと、鱗的に爬虫類か何かなんだろう。トカゲとかその辺。ついでに言うと、こんなイケメンが魚の神様だとは思い難いと感じるのもある。大方、クトゥルフ神話のせいだろう。

「うん。だから、仕方のないことだって諦めたんだけど……その人間の子供が、鼬に石を投げたんだ」

「それ、白さんに石投げたんじゃね?」

「いや、確実に鼬を狙っていた。追い払った後、私を手に乗せて『大丈夫だった?』って言っていたから、間違いない」

「あら心優しい子供だこと」

「人間の使い魔か荒神に堕ちる前に、君みたいに優しい人間だって居ることを思い出せたんだ」

 妖艶に微笑む彼の顔は、どことなく爬虫類感のある顔つきだった。弧を描く口は大きめだし、長い睫毛の生えた目は、今は細めているけれど普段なら写真アプリの加工補正をせずとも充分大きい。てか睫毛まで白いのか。やっぱこの人ただのアルビノなんじゃねえのかな。

 白さんの話を右から左へ素通りさせつつそんなことを考えていると、唐突に視界が歪んだ。

目元が熱くなって、鼻の奥が少しツンとした。まばたきをするまでもなく涙は溢れ、そのまま流れた。上を向いていたからか、丁度耳に流れ落ち、耳甲介艇を湿らせた。

「あー、スンマセン。限界だったっぽいです」

 驚いた顔の白さんに、適当に謝罪する。

「突然泣き出したから、吃驚したよ」

「泣いてるっつーか、勝手に出てくるんですわ。要するにクソ疲れてる」

 ゆるりと右腕を持ち上げ、そのまま目を隠すように顔に乗せる。ジャージの袖がじんわりと涙を吸い、水分と涙の温度が布を伝い広がった。

「これ日常茶飯事なんでー……あー……とりあえず放っておいてください」

 あ~、と気の抜けた声が出る。人前で涙が出るのは流石に恥ずかしい。それにトラウマが蘇る。「泣けば許されると思ってんのか」って言ってきたパワハラ上司、絶対許さないからな。地獄に落ちろ。許されるなんて思いもしないし、勝手に出てくるんだからしょうがねえだろ。

「確か、君は心の病にかかっていると言っていたね。それが関係しているのかい?」

「うんまあそうですね」

「そうか」

 スプリングが動き軋んだ音を立てる。

左腕に何かが乗った。少しだけ右腕をずらして確認してみると、私の腕に頭を乗せた白さんが、丁度手を伸ばしたところだった。彼の長い指が私のボサボサ髪を梳く。丈の足りない袖からはみ出た腕は細い。痩せているというよりは、駄目な意味で痩せ気味な気がする。お米食べろ。

しかし、人生初の腕枕が、される方ではなくする方だとは予想だにしていなかった。何となく気恥ずかしい気分になる。

「なあ。少しだけでも良い、私に話してくれないか? 君がそうなった原因や、感情を、吐き出すだけ吐き出してくれ」

「いや語るほどでもないんで」

「じゃあ、語らなくていい。適当に口に出すだけでいい。私は相槌を打っているから」

「とか言いつつ『それは甘えだ』とか言ってくるんでしょ」

「言わないさ」

「信じられないっす」

「信用しなくてもいい。ただ、ここで聞いたことは誰にも話すことはないと誓おう」

 あ、これ駄目だ。話すまで押し問答繰り広げるつもりだなコイツ。目がそう言ってる。

 相手が諦めるか、私が諦めるか。結果は推して知るべし。当然、私が折れた。だってそんなに頑なに拒む気力ないし。

 わざとらしく嫌味を込めてため息をついてやったが、白さんは気にもとめてなかった。

「白さんが居なかったら今すぐ首吊りたかったわ」

「唐突だね」

「最初から自殺に関して超前向きなことしか言っていないし、唐突も何もないっしょ」

「それもそうか。どうして、死にたいって思っているんだ?」

「いや~、働かず毎日食って寝るだけの生活してる糞ニートに生きる意味ないですし? 鬱とか甘えなのに改善しようともしてないですし? 私が死んだら万々歳な人の比率大きいし? 世の中様々にお役に立てるのなんて死んで二酸化炭素の排出量を減らすことくらいですし? あ、後アレもあるか、お国の税金を私みたいなクズに無駄遣いされなくて済むってのもあるか。葬式は……あの家族とかいうただ血が繋がってるだけの奴らはしないだろうな。私にかける金なんてないって言ってたし。だけど死体清掃やら何やらの置き土産は置いてってやる。せめて一矢報いたい」

 言ってて虚しくなってきた。が、事実は事実。

 私は誰にも必要とされていない。必要とされていないなら、消えても問題はない。

「第一さ、もう三年くらいここでヒキニートしてるけど、ここまでブランク空いたら世の中の企業は雇用してくれないのは明らかなんだよなぁ。ほら、今の日本って新卒至上主義だから、中途採用なんて中々してくれないじゃん。資格もなんも取ってない、それどころかバイトすらしてない。そもそも鬱で二級とはいえ手帳もらっちゃってるから、三年間引きこもりしてたっていう事実を合わせるとどの企業も取ってくれない訳よ」

「そうなのか」

「だというのにお役人様は就活就活言ってくるし、親兄弟は甘えだ甘えだって言ってくるし、ンなこと自分が一番良くわかってるっつーの。こっちだって甘ったれてるってのは重々承知のことだし、さっさと働いて普通の人間らしい幸せっていうのを感じたいわ」

「普通の人間らしい幸せ?」

「……さあ? 普通に喜怒哀楽を感じて、ご飯食べたら美味しいって思えて、誰かに必要とされることなんじゃね?」

「……そうなのかい?」

「そうだよ、普通に友達と遊んで、普通に彼氏とデートして、そういう幸せってもんを噛み締めたかったんだよ」

 引きかかっていた涙がまた溢れ始める。それをきっかけに、何かたかが外れたかのように感情がふつふつと煮えたぎり、他人の前だから自制しなければという理性を追いやってしまった。

 怒りがこみ上げる。悔しさが湧き出る。如何ともし難い感情に流される。

「なのに何だよ。他人から好かれようと行動すれば利用しやすいだけの道具扱い。他のことで頑張ろうとすれば出てすらいない杭を打たれる。努力すればするほど裏目に出るし、そもそも私の努力は努力のうちに入らない認定される! 挙句家族にも愛されない! 私だけいつも除け者だ!」

 目に乗せていた右腕を振り抜き、ベッドに打ち付ける。バスンッ、と大きな音を立てた。

 何度も何度も、ベッドを殴りつけながら天井に向かって、行き先のない怒声を振りまいた。

「何なんだよもう! 本当何なんだよ! こっちは頑張ってるのに! まだ頑張れっていうのか! 私に一体何を求めてるんだ! 知るかよクソッタレ! やること成すこと全部空回り! どれだけ努力すれば報われるんだ! 嘘つきめ! 皆嘘つきだ! 努力しても報われないじゃねえか! 他人に見返りなんか求めてないのに何でこうなるんだ! もう嫌だ! こんなのもう嫌だ!」

 白さんが居ることも忘れて、癇癪を起こす子供になった。

「わかってるよ、こんなん子供の発言だって自分が一番わかってるよ! もうアラサーだってのにガキのまんま成長してないのは私が一番よく知ってるよ! 人より劣ってるのも、私の考えが全部被害妄想なのも、ただの甘ったれなのも全部知ってる! 世の中結果が全てだってわかってるんだよ! でもこんな理不尽な人生やってられねえよバカヤロー!!」

 絶叫に近い声を上げた後は、もう我慢できなかった。

 私は言葉になっていない声を上げて泣き喚いた。声を押し殺して泣くことはしょっちゅうあっても、こんな風に感情に任せて号泣することはなかった。

涙腺が壊れているのは元々だが、滝のように涙が出るのは覚えている限りない。小中高とイジメぬかれた時だって、上司に叱られた時だって、彼氏から振られた時だって、こんな風には泣かなかった。ずっと、感情も声も涙も、必死に押し殺していた。声を上げて泣けば叱られるし、貶されるし、ただえさえ悪い扱いが更に悪くなるから。幼稚園児くらいの時はこんな勢いでギャン泣きしていたかもしれないが、そんな昔の記憶はない。

ともあれ、私は何年ぶりかの大号泣をかましたのだ。何分そうやって哀哭していたのかはわからないが、その間白さんは何も言わず、あやすように私の頭を撫でていたのは確かだった。

しばらくして、叫ぶような泣き声が出なくなった。涙の勢いも弱まり、いつも通り静かに泣くくらいに治まってきて、ようやく冷静になった。

なんて恥ずかしいところを見せてしまったんだろう。医者やカウンセラーはおろか、親兄弟にすらこんな姿見せたことはないというのに。何でよりにもよって、今日会ったばかりの赤の他人、それも私と同じかそれ以上に頭のおかしい奴に、あんな姿を見せてしまったのか。恥ずかしすぎる。

鼻が詰まって鼻水をすすることすらできない。ほぼ垂れ流し状態だ。流石に鼻水を垂らしている顔を見られるのは、欠片程度に残った女性としての感情が羞恥心を訴えてくる。ベッドの宮棚に置いてあるティッシュで拭ってはみたものの、いくら拭っても出てくる。しかも粘度の低い鼻水が喉に落ちて咽そうになった。

とりあえずティッシュで鼻を押さえつつ、汚いけど喉に落ちた鼻水は飲みこんだ。

私が冷静になったのを見計らってか、白さんが声をかけてくる。

「なあ、もう一度聞いてもいいかい? ――君は今、どうしたい?」

 その質問に、自分でも驚くくらいに素直に答えた。

「…………人並みに幸せになりたい」

 鼻が詰まって、更にかすれてひどい声だった。

本当、情けない。

「でも無理だ。こんな世界じゃ無理だ。こんな私じゃ無理だ」

「うん」

「だけどさ、少しくらい、人並み以下でもいいからさ、報われても良いじゃないかって思うくらいに、ずっと理不尽な仕打ちを受けてきたんだよ」

「うん」

「皆被害妄想だって言うけど、私自身はそう思ってるし、そう感じたことこそが真実なんだよ」

「うん」

「でも誰も信じてくれない。私の言うことも、感じたことも、努力も、何も認めてくれない。承認欲求が強いわけじゃないとは思うけど、私が他の人にするくらいには認めてくれたって良いと思う」

「うん」

「でもそんなこと今まで一度もなかった。だからこれから先もないんだろうなって思う。だったら、この先も辛いままなら、死んだ方が楽だなって思う」

 白さんは否定も肯定もせず、ただただ話を聞いてくれた。「聞くだけ」なのは、医者やカウンセラーですらしなかった。

 白さんの枕になっている左腕を引っこ抜いて、一度寝返ってうつ伏せになってから起き上がり、新しいティッシュで無理やり鼻をかんだ。詰まっててほとんど鼻水が出ない。

 何度か鼻をかんで、ジャージの裾で乱暴に顔を拭って、ちらりと白さんを見る。彼は上半身だけ起こして、私を見ていた。

「……すんません、醜態晒して」

「いいや、良いんだよ。スッキリしたかい?」

 言われてみれば、いつもより胸と頭のモヤモヤ感が無い気がした。

「疲れただろう? 今日はもうお眠り」

「顔洗ってからでいいっすか」

「あぁ。ついでに水も飲んでくると良い。たくさん泣いただろうからね」

「うぃっす」

 心なしか軽く感じる体で台所に行き、冷水で顔を洗う。やたら熱く感じる顔に、肌寒い季節の水道水の温度は心地よかった。ついでに水を飲んだ。わざわざコップを出すなんて面倒なことはせず、蛇口から流れる水を両手に貯めてがぶ飲みする。最後にキッチンペーパーで顔を拭き、鼻をかんで、そのまま生ゴミ用の三角コーナーに捨てた。

 ふう、と一息ついて、ついて来ているだろう白さんに声をかけたが、返事は帰ってこない。振り返ったり、辺りを見回しても居ない。まさかと思って部屋に戻ると、白さんは未だにベッドに横になって待機していた。

「おかえり」

「いやなんで人のベッド占領してんすか」

「え?」

「えっ?」

 しばしの間、いたたまれない微妙な空気が漂った。

「……いや、私は寝床を占領しているつもりは無いよ?」

「じゃあ何でまだ私の部屋に居るんですか」

「一緒に寝ないのかい?」

「何で一緒に寝ると思った?」

「えぇ……」

「自分の布団に帰ってください」

「そんなぁ」

「自分の、布団に、帰ってください」

 念を押すようにわざとらしく言葉を区切って言うと、白さんはしょんぼりしながら起き上がった。が、ベッドの上で正座して、捨てられた子犬のみたいな表情で私の顔色を伺った。

 思いっきり睨みつけてやったら、更にしょんぼりして部屋から出ていったのだった。




 午前十時。世間一般で言うなら「朝」と言うにはやや遅く感じる時間だ。残念ながら太陽光は見えず、空はグレーの分厚い雲が陣取って、そこからざあざあと雨が降っている。

 結局私は一睡も出来なかった。出来なかったと言うよりは、完全に昼夜逆転生活を送っているから活動時間が丁度夜だったと言ったほうが正しいだろう。現に、頭が重いような、目の奥がじんわり痛いような違和感がまとわりつき、体が脳に休眠を訴えていた。ついでに、散々泣いたお陰でいつもより疲労感は強い。だがその一方で、脳はまだ活動できそうだと眠気を誘発してはくれない。その結果、体が異常にだるく感じる。きっと横になってあれこれ考えるのをやめたら、某青い猫型ロボットが出て来る国民的アニメの主人公くらいの早さで眠りにつけるだろう。

 ちょくちょく私の部屋に顔を出していた白さんの訪問も、ここ一時間くらい途絶えている。彼も寝たのだろうか? それはそれでありがたい。

 そろそろ本格的に寝る努力をするか、と布団に潜り込む。冷たかった布団が私の体温を吸って、しばらくすると丁度人肌程度に暖かくなって私を眠りの淵へと誘ってくる。やけに体に力が入っているのを何とか力を抜こうと努力したり、過去の嫌な記憶がフラッシュバックしたり、意味もなく死にたいという感情がいきなり湧き上がったりしつつも、段々と眠気によってそれらが断片的なものになる。何分経っただろうか。ようやくうとうとしないで完全な眠りに入ると思った瞬間、ピンポーンと無粋なチャイムが部屋に鳴り響いた。眠気が一気に吹っ飛んだ。

 誰だよ、こんな時間に。そうは思ったが、一般的には宅急便が来てもおかしくない時間帯なのは明白だった。

 居留守を使おうかとも思ったが、何度もピンポンピンポン鳴るもんだから、いい加減うざったい。一応ジャージだから人前に出ても多分大丈夫だ。顔は……泣き腫らしたとはいえ、大分時間も経っているし、見れる顔にはなっているだろうと信じたい。

 重くてだるい体を引きずるように玄関に向かい、「今出ますー」と言いながら扉を開いた。

「どうもこんにちは。警察の者です」

「あぇっ!? あっ、は、はい、コンチワっす」

 扉を開けた先には、ビニール傘を差した二十代後半っぽい外見の警察官が居た。爽やかフレッシュな笑顔が曇天すら吹き飛ばす勢いで最強に眩しい。

「少しお聞きしたいことがありまして。ご協力をお願いしても?」

「えっ、ええはい、はい、いいですけど……?」

「ありがとうございます。ええと……あった。この辺りで、この方を見かけませんでしたか?」

 警官さんは小脇に抱えていたバインダーから写真を取り出すと、私に見せてきた。

 写真に写っているのは、中年太りのオッサンだ。暗い緑の着物を着ている。お世辞にも人相はよろしいとは言い難い顔だ。

 しばらくじーっと見て、ふと昨日の事を思い出す。昨日、この写真に似たような人に合わなかっただろうか? 確か、白さんにDVを行っていたクソゴミカス野郎が、こんな顔をしてたのでは……?

 確か、思いっきり、頭を殴ったはず。

「見……かけ、ましたね」

 嘘はつかなかった。

「そうですか。どの辺りで見かけましたか?」

「あっちの、ほら、目の前の道路脇。あそこから森の中に入っていくのを見て、あーキノコ狩りにでも来たのかなって思って」

「そうでしたか」

 嘘はついていない。何一つ、嘘は言っていない。ただ、隠し事をしているだけだ。

「声をかけたりはしましたか?」

「いえ、特には」

「本当に?」

「はい」

 ……疑われているのだろうか。そんな気がする。私は基本的に話をする時は人の顔を見ないが、じろじろと見られている感じがするのがわかる。ちらりと警官さんの顔色を疑うと、やはりと言うべきか値踏みするような視線で私を舐め回すように見ていた。

「あの、何かあったんですか?」

 気になっていることは事実だ。一応聞いてみると、実は……と前置きをして警官さんは語り始めた。

「昨日から家に帰ってないらしいんですよ、この方。いやね、こちらとしてもご家族との仲が悪いとか、そういう線で聞き込みをしたりはしたんですけどね、そんなことは一切なかったと。普段誰かに何も言わずに遠出するようなことはしない性格らしくて、それで捜索願が出たんですよ」

「へえ、そうだったんですか」

 よく一日でここに来たということまで調べられましたね。出かかった言葉をぐっと飲み込み、「早く見つかるといいですね」とだけ言っておいた。変に何か言うと怪しまれる。

 警官さんは一礼して、パトカーへと乗り込んで去っていった。

 ……鉈、探しに行かなきゃ。

 出かける前に、昨日着ていた服を洗濯機に入れた。捨てるのもタイミングが良すぎる。ここは普通に洗濯したほうが良いだろう。

 妙に頭が冷えているにもかかわらず、脳内がフル回転しているのがわかる。私が関わっていたとバレるのはいけない。いや、白さんを突きつけて正当防衛だと言い張れば何とでもなるだろうと思うが、彼は彼で頭のネジが数本なくなっているから証言しても信用されない可能性がある。百パーセント大丈夫なんて保証はないのだ。頼れるのは、自分だけだ。

 ばたばたと証拠隠滅のために部屋を走り回っていると、流石にうるさかったのか、文字通り頭から布団を被って丸まって寝ていた白さんが布団から這いずり出てきた。しかし途中でまた布団に潜り込んで、最終的に頭だけ布団から出している状態になった。

「どうしたんだい……?」

「さっき警察が来た」

「ケイサツ……?」

 あからさまに「眠たいです」と言っているも同然な声色で聞き返された。よく知らん人の家で爆睡できんなアンタ。

「昨日あんたを追っかけてたオッサンを探してた。外は雨が降っているし、本格的に捜査が始まる頃には匂いも消えている……と信じたい。余計な事に巻き込まれるのはごめんだから、証拠隠滅してんの」

「ケイサツって、紺色の着物の人間かい?」

「いや流石に警察すら知らないってことはないでしょ」

「あの男の仲間だ」

「……は?」

 唐突に聞こえた(多分)新事実は、耳を疑うようなものだった。

「あの男の一味と、紺色の着物の一味は、確か協力関係にあったはずだ。私を捕らえる時も奴らが居たはずだ」

「……ちょっと聞いていい?」

「何だい?」

「その協力関係が発覚したのって、いつよ?」

「私を捕らえる時、紺色の着物の奴らが道を塞いでいた。その後、私が閉じ込められている時にちょくちょくあの男と出会っていたな」

 あっ、こりゃ信用ならんわ。

 適当に「そうかいそうかい」と返しておいた。また白さんの妄想の産物だったのに、がっかり半分、呆れ半分といったところだ。

「とりあえず、私ちょっと出かけてくるから、大人しく待ってて」

「どこに行くんだい?」

「落とし物を探しに」




 無いなぁ、とため息混じりに呟いた。ほぼ無意識も同然だったが、独り言を口に出している時点で若干痛い人に思えた。他人に聞こえるような音量で一人ごちるとか、小説かなにかだけにしてくれ。

 今回はクロックスではなく、ちゃんと長靴を履いてきたから比較的歩きやすい。湿った土に靴下を濡らされる心配もない。それに雨が降っていたから、上下が分かれているタイプの雨合羽も着てきた。かなり蒸れるから少し動くだけでめちゃくちゃ暑くなるが、濡れるよりはマシだ。

 まあ、だからと言って山の洗礼を受けないわけではなかった。ものの見事に罠と見紛うような木の根に足を取られてバランスを崩し、坂道だったこともあってコントのように斜面を転がる羽目になった。人間って急に転ぶと叫び声すら上げられないんだな、と体のあちこちから感じる鈍痛に呻きながら思った。幸いだったのは、ない胸から大地にダイブしたことだった。変に頭を打ったらそのままポックリだったかもしれない。いや、それはそれで楽に逝けるかも。

 ぐしょ濡れ大地に頭を埋めて痛みに悶えること数分、ようやく立ち上がる気力が起きたので顔を上げてみると、すっかり朱と黄色に染まった落ち葉が目に入った。夏なら辺り一面を覆い尽くす青々とした若い笹が埋め尽くしているのだが、今や枯れ木も山の賑わいだと言わんばかりに主張を控えている。

 ごろりと体を仰向けにして、空を見上げる。木々が青空を遮って、美しい紅葉が支配していた。

 少し残念なのが、時折ボタボタと木々の隙間から落ちてくる雨粒と、嫌な羽音を立てて近くを飛び回る羽虫の存在だ。うざったくて仕方がない。更には、何となく手がこそばゆかったから見てみると、大きな山アリが掌を探索していた。頼むから噛まないでくれよ、という念が通じたのか、そのまま興味が失せたように山アリは去っていった。

 虫嫌いに紅葉狩りは無理だな。あと、花粉症の人も。

 美しく色づいた落ち葉に混じった、枯茶色になったスギの葉を見てそう思った。

 何十分かその場に寝転がったまま、十数年ぶりの紅葉狩り(?)を堪能した後、やっと本来の目的を思い出して体を起こした。いけない、こんなことをしている場合じゃない。

 起き上がって、またあてもなく鉈探しを始める。

 雨が徐々に止み、さっきまでの曇天は何だったのかと言わんばかりに日が差してきた時だった。やっとのことで「ここ昨日通ったぞ」と確信の持てる場所にたどり着いた。

 橋を架けるまでもない、小さな川だ。大きな石が三つほど水面から出ていて、子供でもジャンプすれば飛び移れるような間隔で「く」の字に並んでいる。勝手に「三ツ石」とか呼称していた気がする。石の表面が平らだから、足を踏み外さない限りは川に落ちる心配もないし、踏み外したとしても膝下くらいの深さしかない。

 ここは小さい頃、よく遊んだ場所だった。そして昨日、逃走中に通った場所だ。

 そういえば、ここで一回転びそうになってたっけ。

 そんなことを思い出し、川を覗き込んだ。雨で増水しているにも関わらず、水の底まで覗き込めるような透明度だ。魚影だって確認できる。

 三ツ石の真ん中の石の影に、明らかに自然物ではない形状のものが沈んでいた。

「見つけた!」

 探しものが見つかった。トントンと石を渡って、雨合羽とジャージを二の腕辺りまでまくって、水に手を突っ込んだ。どこかデジャヴを感じるひんやりとした冷たさに、少しだけ鳥肌が立った。

 鉈を引き上げて、一度鞘から抜いてブンブンと振り回して水気を払う。鞘も同じようにある程度水気を払って、本体をしっかりと収めた。

 一つの大仕事をやり遂げたサラリーマンのように、大きく息を吸って、ゆるく長く息を吐いた。水の匂いが心地いい。でも、また若干のデジャヴを感じた。

 この匂いといい、ひんやり加減といい、何だろうと十秒だけ考えて、思考を放棄した。どうせ小さい頃の記憶とデジャヴってんだろ。

 どうせ川に寄ったんだし、と泥だらけの両手を洗った。家に帰ったら改めて風呂にはいるつもりだが、いつまでも汚れっぱなしというのも居心地が悪いものだ。

 ついでに雨合羽の、手で水をかけられる部分も洗い流しておく。最後に何となく顔を洗って、ジャージの袖で拭いた。

 ゴシゴシと乱暴に顔を拭った後、一息ついて改めて景色を見渡した。水面は陽の光を照り返し、まるで光の粒を作っているようだ。川辺には彼岸花が咲いている。時折、山鳥のさえずる声が聞こえてきた。

 清々しい景色だ。川のせせらぎと山鳥は歌い、花は咲き誇り、木々は紅葉に染まっている。昨日起こったことなど知らないかのような穏やかな景色だ。残念な所があるとすれば、その花が彼岸花だということだけだ。白いものと赤いものが入り混じってとても写真映えがしそうではあるが、何となく縁起が悪い気がする。まあ、縁起が悪いとされるのは日本だけらしいけど。

 嫌な現実を忘れて景色を楽しんで、また雨が振りそうな天気になってきた辺りで家に引き上げた。帰り道はあちこち散策しなかったから短時間で家に着いた。

 雨合羽を庭の倉庫に放り込んで、長靴を靴箱にぶち込んで、鉈は定位置に置いて、そのまま気力が尽きて、玄関先だというにも関わらず横になって眠りについた。

 無論、目が覚めたら、体中痛くて仕方がない状態になっていた。




 私は迷っていた。

 オッサンが死んだか、それとも生きていて山の中で遭難しているのか、どうなのかを確認しに行くためにオッサンを探しに行くか。それとも、全てを私の脳内に押しとどめ、貝のように口を噤み何事もなかったかのように今まで通りのクソ鬱ライフをエンジョイするか。ちなみに起きた時間が午後七時を過ぎていたので、警察もしくは病院に白さんを連れて行くという選択肢はボツになった。

 もそもそと味のしない――実際にはあるが精神状態的にあまり感じられない――栄養バランス食品をやや口に押し込むように食べ、ついでに薬も押し込んで、無理矢理水で胃に押しやった。さて、どうするべきか。はぁー……と無意識に長い溜息が出る。居間に居る白さんが私の様子をうかがうようにちらちらと見てくる。

 そういえば、白さんに食事をとらせてなかった。人間の三大欲求の睡眠欲以外がこそげ落ちている状態だったから、気づくのが遅れてしまった。私の食事は今や作業も同然だから、食欲にはカウントされないだろう。というか出来るならあまり食べたくない。

「白さん、ご飯食べます? つってもカップ麺くらいしか無いですけど」

「いや、いいよ」

「そっすか」

 どうやら私を見てくるのは「腹減った」の催促ではなかったようだ。

 燃えるゴミが溜まってきた。今日は昨日に引き続き動ける日のようなので、今のうちに片付けておくに越したことはない。燃えるゴミの袋の口を縛ってゴミ箱から持ち上げ、なるべく床に引きずらないように持って歩く。残念ながらこの家に裏口はないので、玄関から回って倉庫に持っていかなくてはならない。

 泥だらけのクロックスを履いて、背中で玄関のドアを押す。最近は日が落ちるのが早くなっていて、既にもう太陽は大地の向こう側に落ちていた。

 そして、暗闇に紛れるように、黒スーツにサングラス姿の、ガタイのいいおっちゃん達が数人、家の前で何かをしていた。二人がこっちを向いた。即座に目をそらして適当に頭を下げて、さっさと倉庫に燃えるゴミを放り込んで逃げ帰るように家の中に戻った。玄関の鍵も閉めておいた。

 なんだ、あのヤクザみたいな格好のおっちゃん達。本能的に目を合わせたらいけないと思ってちゃんとは見ていなかったが、顔に傷がある人も居た気がする。何あの人達。怖い。

 私の様子に気がついたのか、白さんが廊下から顔を覗かせてきた。

「大丈夫かい? 顔色が悪いようだけど……」

「そりゃヤのつく自由業みたいな人が家の前うろついてたらな」

 私も居間に戻り、白さんと向かい合うように座った。流石にこの状況でぼっちを極めるのは心細い。

「外の奴さん、お知り合いだったりする?」

「少し待ってくれ」

 そう言うと、瞑想するかのように目を閉じて、しばらくしてから神妙な顔で「そうだね」と答えた。ちょっと待て、お前はエスパーか何かのつもりか?

 恐らく顔に出ていたのだろう。彼はばつの悪そうな顔で苦笑いした。

「どう説明したら信じてくれるんだろうね、君は」

「いや超能力にしろ何にしろ、信じろって言う方がおかしいっすわ。宗教かなにかじゃあるまいし。それに、前にも言ったでしょ? 『神業でも見せてみやがれ』って」

 外国人がよくやるように、わざとらしく肩をすくめた。漫画やアニメは結構好きだが、超能力だの神様だの、そういうのはこれっぽっちも信じていないのだ。オカルト的な楽しみ方に利用するくらいしか関心がない。

「わかった」

 適当に言っただけなのに白さんは真面目に受け取ったらしく、ごく自然に首を縦に振ると、私の手を握った。

「今なら、君に証明できる」

 白さんの手、何か異様に冷たくないか? と思った瞬間、まるでいきなり足元に大穴が空いたかのように一瞬だけ浮遊感を感じた後、ぐんっと体が落ちるのを感じた。何が起こったんだと下を向いて確認した直後に、何の脈絡もなくどぼんと水の中に落ち、その勢いで生まれた空気の泡の嵐に視界を奪われる。口や鼻から水が流れ込んでくるのを感じた。

 どのくらいの時間呆けていたのかは分からないが、しばらくしてとりあえず「水の中に落ちて溺れかけているっぽい」という状況だけは把握できた。冷たい水の温度で感じる寒気ではなく、「このままでは死んでしまう」という悪寒が背筋を駆け巡り、けたたましいエマージェンシーコールが脳内を駆け巡った気がした。

 水面に浮上しないと。そう思ってもがこうとしたら、白さんから「落ち着いて」となだめられるように抱きしめられた。もちろん「んなこと知ったこっちゃねえ」と暴れまくってやった。

「コレが落ち着いていられっか! こっちゃ溺れかけてんだぞ! 離せボケカスコラ!」

「だ、だから大丈夫だって、いたたっ! ほら、息もできるし、ね?」

「水ン中で息できるわけなかろーが! ……えっできてる」

 怒鳴り散らしている最中にようやく気づく。普通に息出来ている。それこそ普通に空気を吸っているかのように、自然に。

 ようやく状況を確認できる程度に頭が冷えてきたので、辺りを見回してみる。水の透明度がすごい。ロシアのバイカル湖に勝るとも劣らない。そのおかげでよく見渡すことが出来た。

 多分五メートルくらいの深さだ。底は大小様々な丸石が転がっていて、時折流木のようなものもある。それに藻が生えていて、藻や石の隙間を住処にしているらしい魚が泳いでいる。

「……どこ、ここ」

「川の中だよ」

「なんで川ン中で息出来てんの。てかその前になんでいきなり私ら川にダイブしてんの。さっきまで家だったじゃん」

「ここは私の領域で、本物の川じゃあない。一瞬でここに飛んできたと思うかもしれないけど、実際は地下水の流れを通って現し世のここに当たる場所まで移動して、それからここに来たんだよ」

「は?」

「息ができるのは、私と手を繋いでいるから。人間はすぐに溺れてしまうから、そうならないように加護を与えている」

「待って、ちょっといい?」

「何だい?」

「ちょっとあまりにファンタジーな設定すぎてついていけないんだけど、つまり今手を離す……というか白さんのこのガッチリホールドを解いたら、私は溺れると?」

「そうだよ」

「一回試してもいい?」

「えっ? や、やめておいた方がいいと思う。水を飲んでいないというわけじゃあないから……」

 本当にやるの? という心配そうな白さんに「早よやらんかい」と目線で訴えると、おずおずと私から離れた。

 その瞬間、最初から溺れていましたと言わんばかりに鼻と喉、あと胸の辺りが水で満たされている感覚に襲われた。鼻の方は奥の奥まで入っているせいで痛いし、気管は今更水が入り込んでいるのに気がついて、むせ返る事を強要した。もちろん空気から酸素を取り込めないから、そんな激しい運動をすれば一気に体内の酸素がなくなっていく。

 あ、ヤバい、死ぬ。いくら自殺志願者でも苦しんで死にたいとは思わない。自殺志願者は自分の任意のタイミングで死にたいと思うのであって、突発的に襲い来る死の恐怖はまっぴらごめんなのだ。

 白さんもヤバいと思ったのか、すぐに私を抱きしめてきた。途端にあの溺れていた感覚はなくなり、単に気管に何かが入ってむせた程度になった。

「大丈夫か?」

「これ陸に上がった後手離しても普通に溺死するくね?」

「それは大丈夫、ここから出れば自然と肺の中の水はなくなるから」

「どういう原理だよ」

「そういうものなんだよ」

 ……ちょっと頭がこんがらがってきた。夢だと信じたくて頬をつねってみたが、当然のごとく痛い。「現実だよ」と微笑むこのクソイケメンの顔が憎たらしく感じてきた。

 彼が言うとおりなら、簡単に言うとワープ移動した挙句、いわゆる神様の世界に連れ込んで水ン中にドボンさせたと。そして私は神様パワーで守られていると。妄想なのかなとも思ったのだが、ここしばらくはそんなひどい妄想癖も出ていない。

 これは信じざるをえないのだろうか。

 拝啓、全世界の皆さん。どうやら神様というものは存在するようです。信じたくないけど。信じたくはないんですけど。

 家に帰る時は、来る時とは逆だった。ざっぱんと水中から勢い良く飛び出して、そのまま昇っていつの間にか元の場所に戻ってきていた。家に帰ってきてからもう一度頬をつねってみたが、やはり痛かった。

 そういえば、とふと思いついたことを聞いた。

「地下水脈辿ってあそこに戻れるなら、その力使ってさっさと戻ってくりゃ良かったんじゃないっすかね?」

「使えない状況だったんだよ」

「まさかそれもファンタジーみたいなアレか? 封印がどうたらとかそういうアレか?」

「うん、少し違うけど、それに近いね」

「えっ」

 予想外の返答に思わず声が裏返った。おかしいな、私、ファンタジー系のゲームの世界に迷い込んだのか?

「昨日、私と初めて会った時の事を覚えているかい?」

「そこまで記憶力悪くないっす」

「君は人間の男を殴り倒して、僕を助けてくれたね」

「そっすね」

「彼は死んだよ」

「……へっ?」

「そうだね……丁度、日が昇る頃だと思うよ」

 ちょっと待って。

 今、白さんはなんて言った?

 あのオッサンが、死んだ、と言った気がする。

「私の力はね、彼らに奪われていたんだよ。彼も力の一部を奪った一人だった。でも、要石の一つだった彼が死んだから封印に綻びが出来て、多少は使えるようになったんだ。後は封印が自壊するのを待つだけでもいいくらいだ」

「……」

「どうしたんだい?」

「……死んだの?」

「あの男のことか?」

「うん」

「そうだよ」

 どうやら私は、意図せず殺人を犯してしまったようだ。




 何時間が過ぎただろうか。朝日はとうに昇って、空の天辺に居座っているのは確かだ。

 普段夜に起きて昼に寝ている生活をしているとはいえ、いやに冷える体と、背筋に這い寄る焦燥感と、それと吐気がするほどの胸のざわつきのせいで眠気は一切訪れなかった。

 人を殺したかもしれない。今まで漠然としていてどこか他人事だったその考えが、一気に現実味を帯びた。

 どうしよう、自首するべきか、いやでもそれは嫌だ、じゃあどうするんだ、と考えがひたすらぐるぐると脳内を駆け巡り、じんわりと冷や汗が滲んでくる。

 無意識に爪をかじる。ベッドで布団を頭から被りながらも、気がついたらもぞもぞと体を動かしていた。

「……だ、大丈夫かい?」

 ものすごく気まずそうに白さんが布団越しに私の背中をつつく。

 大丈夫なわけあるかクソッタレ。というかいつまで私の部屋に居座るつもりか。パーソナルスペースというものを考えろ。そう言ってやりたいところではあるが、そんな余裕はなかった。

「大丈夫に見える?」

「見えないね」

「まだ若干実感ないんだけど、人を殺したって自覚したときって、こんなに嫌な気分になるんだね。クッソ最悪な気分だわ」

「でも、君は私を助けるためにしたんだ」

「だから正当化されると? 気に病むなと? ふざけんじゃねえよ」

 本当、ふざけてるつもりはないだろうが、ふざけないでほしい。

 もし私がオッサンを殺したとバレたらそこで人生即終了だ。今まではそれとなく事態が好転すれば御の字程度で生きてきたが、もうお終いだ。さっさと死んだほうが良いレベルの最悪の事態だ。殺人事件は大抵ニュースにもなる。つまり私の醜態が見ず知らずの大勢の他人に晒される。プライドが傷つくとか恥ずかしいとかそういうのも多少なりはあるが、それよりも何よりも、私の事を私に許可なく報道されるという嫌悪がある。ただえさえ自分のことを根掘り葉掘り聞かれるのが嫌いなのに、それを私の知らん奴に知られるとか、おぞましいの一言に尽きる。

 そこまで考えて、ふと自分の思考の異様さに気がついた。

 あれ、これって人殺しした罪悪感より、そのことがきっかけで私の存在を晒されるのが嫌なだけなんじゃないか?

 そう、別にオッサンに申し訳ないとか、そういうことは一切思っていなかったのだ。多少の背徳感はあるが、お店の商品を壊してしまって「やっちまった」と思う程度くらいだった。

 そうか、私はとっくの昔に、頭がおかしくなっていたのか。

 妙に納得のいく答えにため息をついた瞬間、ピンポンとチャイムが鳴った。部屋の扉と私の顔を交互に見てくる白さんに「ちょっと待ってて」と言い残し、昨日から着替えていないジャージのまま訪問者を出迎えに行った。

「はい」

「どうも、こんにちは」

 チャイムを鳴らしたのは、昨日来た警官さんだった。今日は晴れていて、バックに映る青空と警官さんの爽やかスマイルが相乗効果を生んでめちゃくちゃ眩しかった。

「あぁ、警官さん。こんにちは。失踪された方は見つかりましたか?」

「まだ捜査中といったところですかね」

 彼の後ろに、明らかに警官ではない人が居た。黒スーツの、若干ガタイのいいおっちゃんだ。人相は……警官さんと比べなくても「悪い」としか言いようがない。

 おっちゃんは私と目が合っても挨拶はせず、しきりに何かを探すようにキョロキョロと辺りを見回していた。

 家の前にはパトカーしか停まっていない。黒服おっちゃんは、警官さんと一緒に来たと思っていいだろう。

「実はもう一人探さなければいけない人ができましてね。写真は無いんですけど、髪が真っ白なのですぐにわかると思います。ちょうど二十歳くらいの男性なんですが、見かけませんでしたか?」

 腹の底に液体窒素をぶちまけられたような感覚がした。

 隠しもせず(多分だけど)白さんのことを聞いてくるあたり、事情を知っている私としては嫌な予感しか感じることができなかった。サングラス越しの黒服おっちゃんの視線が気になって仕方がない。

「いや、知らないですね。そんな目立つ人が居たら覚えてたと思うんですがね。昨日の失踪者さんの息子さんですか?」

「そんなところですね」

 ふと、警官さんと目が合った。あの爽やかな雰囲気はどこへやら、何となく私を見下しているような、そんな目で私を見据えていた。

 あ、これ予感とかじゃなくて、完全にヤバいパターンだ。

 半歩後ろに下がって、横目で靴箱を確認する。多分警官さん達からは見えないだろうけど、靴箱の脇に例の鉈が立てかけられている。それだけ確認して、「ところでそちらの方は?」と黒服さんを指した。黒服さんはそこでようやく「どうも」という、社会人としてやっていけねえだろと思うような適当な挨拶をした。

「ちょっと捜査に協力していただいているんですよ」

「へえ、そうなんですか。捜査、頑張ってくださいね。お力になれず申し訳ないです」

「いえいえ、良いんですよ」

 それじゃあ、と警官さんは頭を下げて踵を返した。

 玄関のドアを閉めて、急いで居間に向かい、閉めっぱなしのカーテンに隠れてこっそり窓の鍵を開け、ほんの少しだけ開けて外の様子に聞き耳を立てた。

 車のエンジン音は聞こえない。代わりに、あの二人が会話する声が聞こえた。

「どうでした?」

「間違いない、居る」

「あぁ、やっぱりそうでしたか。ここの家の人、なんか見るからに怪しかったですしね。で、どうするんです?」

「自殺か強盗に見せかけりゃいいだろ」

「ま、そうなりますよね。全く、お偉いさん方の考えることはわからないなぁ」

「そのおかげで楽して食っていけてるんだろうが」

 うわあ。

 どこか全て自分の妄想であってほしかった白さん神様説が、彼らの発言によって完全に事実だと発覚してしまった。しかもお偉いさんとか言ってるから、政治家が絡んでいる可能性もある。ドン引きってレベルではない。

 その後すぐに車に乗り込むような音が聞こえて、エンジンがかかり、パトカーはどこかへと走り去っていったようだった。

 十分くらい様子を見て、本当に彼らが居なくなったようだと確信を得てから自室へ戻った。白さんはおとなしく待っていた。

「白さん」

「ん?」

「あんたの言うことようやく信じられたはいいんだけど、これ以上あんたのこと匿ってらんないわ」

「え……?」

 私が何を言ったのか理解できていないのか、それとも理解してしまったからか、彼の口から声が漏れた。

「さっき、あんたのこと探してた、多分あのゴミクズおっさんの仲間らしき人が来たんだよ。このままだと私、殺されかねんわ、白さんのせいで」

 白さんの白い顔が更に白く、というか青白くなる。「え」とか、「う」とか、言葉になっていない声を漏らして、パッと見でわかるくらいに動揺しているのがわかった。

「ごめん説明が足りないよね。あいつらが話していたんだけど、どうやら私の事殺して白さんを連れ帰る的な話をしていたのよ。だからこのまま白さんをここに置いてたら、まず確実に殺されるわ。顔もバッチシ覚えられてるだろうし逃げても無駄だと思う」

「そ、そんな……」

「悪いね、そういう訳だからさ、あいつらんとこ帰ってもらっていいっすかね」

 こんな異常事態に巻き込まれて死ぬなんざまっぴらごめんだ。いつ死んでもいい気でいたつもりだが、どうせ死ぬなら任意のタイミングで死にたい。

「……いや、駄目だ」

「は?」

「君は事情を知ってしまったんだ。きっと私が何をしても、君は殺されてしまうよ」

「どこにそんな確証が? 映画の話じゃあるまいし、流石に殺人を犯したら警察が……」

「そのケイサツという組織も仲間なんだよ」

「……あっ」

 そうだった。

 多分一部の、それこそ下っ端の下っ端とかだとこんなファンタジー現象が現実に存在するなんて知りもしないだろう。だが、盗み聞きした話が本当なら、政治家みたいなお偉いさんの部類はそういうのを知っていて、ついでに利用したりしているんだ。上からもみ消されたら、下っ端がどんなに頑張っても意味はない。

 警察には頼れない。その事実に今更気づいて、私は頭を抱えた。

「じゃあどうしろってんだよ……。のあの川の底に逃げらんないの?」

「逃げられるけど、今の力じゃあ一時的にしか行けないんだ」

「あーもう! そもそも白さん川の神様なんでしょ! なんであんな政治家とかそういう人に狙われるの!」

「……白蛇は住みつけば瑞兆とされ、更に福運金運の利益もある。そう言われたことがある」

「思い込みも甚だしい! 面倒くせえな人間ってのはよ!」

「全くもってその通りだ」

 盗み聞きした会話をひたすら頭の中で反復し続けていると、ふと気になる点が浮上する。あの黒服おっさんは「俺達」と言っていた。さっきまでそれは「黒服の仲間」だと思っていたのだが、もしかすると、あの警察さんも含まれているのではないだろうか?

 そもそもあの警察さんは、本当に警察なのだろうか。「警察の者です」とは言っていたが、警察手帳は見せてもらってない。

「白さん」

「何だい?」

「力奪ったやつって、何人?」

「……三人だよ」

「本当に?」

「本当に」

「あのゴミクズおっさんの他二人、どんな人だった? 外見教えて」

「一人はあの男と同い年くらいの男で、もう一人は若い男だった」

「人相は?」

「若い方は人受けの良い顔立ちだったよ。中身は悪鬼羅刹のようなやつだけど」

「おっちゃんの方は」

「人の子が見たら怖がりそうな顔立ちだった」

 もしも、だ。

 あの二人を何とかできれば、活路が見出だせるのではないだろうか?

 白さんのためではなく、今後将来、私自身が悠々自適に何の悩みもなく暮らしていくためには、逃げるよりも何よりも、あの二人をどうにかこうにかするのが手っ取り早いのではないだろうか?

 もちろん、白さんの言っている人が別人という可能性もある。

「ちょっと良いかい?」

 独り言をつぶやきながら悶々とそんな風に考えていると、急に白さんが額に手を当ててきた。多分超能力的な何かを使っているのだろう。そんな風に考えるくらいに、妙にこの状況に順応してきた自分に少し呆れた。

「ああ、うん……君が出会った二人、正にそいつらだよ。そいつらが、私の力を奪った奴らだ」

「マジかよ」

 犯人は現場に戻る……とはまた違うが、こうも事が単純に運んでいるなんて、まるで出来レースのようだ。

 だが、その分脳に楽をさせられる。もし別人だったら、といった事は考えなくても良くなった。

 昨日、一昨日と引き続き、脳がフル回転している。ネガティブ思考以外でこんなに何かを考えたり、それを行動に移すなんて、いつ以来だろうか。

 何となく、「あぁ、私、今ちゃんと生きているんだ」と実感した。

「なあ、手を出してくれ」

「うん?」

 言われた通り、手を差し出す。

 白さんは私の手を両手で包み込むと、そのまま祈りを捧げるかのように、額を当てた。相も変わらず、白さんの手は冷たかった。

「どうか、君に頼り切りの私を許しておくれ」

「良いんだよ別に、見返りがほしい訳じゃないし。自分の為にやるだけだから」

 他にもやりようはいくらでもあるだろうし、選択肢はこれしかないわけではないはすだ。

 でも、少なくとも今の私には、あの二人を何とかするという方法しか思いつかなかった。

「私にはこれくらいしか出来ない……けれど、加護を与えることだけなら出来る」

 顔を上げた彼の顔は、少し疲れているようだった。

「私は、君を信じているよ」




 とっぷりと日が暮れた頃、あの二人はようやく私の家に来てくれた。なんとも行動の早い二人だ。今回はパトカーではなく、歩きで来たようだ。

 黒服さんは昼間の時と同じ黒スーツで、闇夜の保護色となっていてとても見えづらい。警察(偽疑惑あり)さんは、驚いたことにゴミクズおっさんみたいに着物を着ていた。明るい黄色のおかげで少しは見やすい。

 遠くて聞きづらいが、二人は家の玄関前に立ち、何か小声で話しているようだった。

 私は木々の隙間からその様子を伺いつつ、手に握りしめた例の鉈を持ち直した。

 殺すつもりはない。ただ殴って縛り上げるだけ。ただそれだけだ。

 異様に高鳴る心臓と浅くなる呼吸に、落ち着け、と自分に言い聞かせる。失敗したらこっちが殺されるというのに、演劇の練習をあまりしないままぶっつけ本番で舞台を演じるような緊張感しかない。やはり私はどこかイカれてる。

 予め用意していたパソコンマウスくらいの大きさの石を、適当な方向に投げる。ガツンとどこか木の幹に当って、どすりと鈍い音を立てて柔らかい腐葉土の上に落ちた。こんな風に物を投げて音を立てて敵を誘導するホラーゲームがあったような気がする。

 そしてゲームよろしく、その音に二人は反応した。当然ゲームとは違い、すぐに音が鳴った方に向かっていくようなことはしない。

「おい、確認してこい」

「やだよ、せっかくの仕事着が汚れる」

「俺だってこのスーツ、クリーニングしたばっかなんだぞ」

「俺は着物だよ? 動きにくいし行きたくないよ。それにほら、俺は気功みたいな戦闘術は使えない非戦闘員だよ? 精々結界張ったり祓ったり出来る程度の、か弱いインドア派なんだよねー」

「……ちっ、わかったわかった、行ってくれば良いんだろ! このエセポリ公が!」

「やだなぁ、エセじゃないよ。れっきとした霊課の特殊部隊!」

 なんとも呑気なものだ……と思ったが、それは私も同じことだった。ド素人がスニーキングミッションの真似事なんて、どこかで失敗するに違いない。だというのに、無謀にも挑戦しているんだから馬鹿丸出しである。

 しかし、あの警官さんが本物の警察だとは思わなかった。霊課、とか言っているのを聞くに、幽霊絡みとかその辺の専門なんだろう。気功だの何だのって言ってるから、多分黒服さんもそれっぽいファンタジー能力があるんだろう。

 黒服さんが森の中に入ってくる。黒服さんが動くのに合わせて、出来る限り物音を立てないように近づく。幸い夕方に雨が降ったおかげで落ち葉は湿って、ふんわりと足音を吸収してくれた。

 背後を取って、身をかがめて視覚に入らないようにして近づいて――髪というクッションが薄くなりつつある頭頂部めがけて、思い切り鉈を振り下ろした。

鈍い音とうめき声が同時に聞こえて、それに一瞬遅れて黒服さんの体がぐらりと揺れた。

 まだだ。次いで野球のバッターの如く鉈をスイングする。奇跡的に当たった感触がして、黒服さんは反動で泥だらけの地面へと倒れ伏した。

 まだだ、まだ起きてくるかもしれない。黒服さんに馬乗りになってひたすら殴る。殴る。殴る。ほぼ頭が真っ白で、自分が何をやっているのかすら、途中からわからなくなっていた。

 背中を思い切り突き飛ばされた感覚がして、ようやく意識が戻る。思い切り顔から地面とコンニチワしてしまったせいで口の中に土と落ち葉が入った。

 遠目にだが、警官さんが何か叫んでいるのが見えた。やばい、見つかった。

 認識したのと同時に走り出す。愚直に真っ直ぐ向かったら、銃で撃たれるかもしれない。仮にも相手は警官だ。木々の間を縫うようにして走る。

 警官さんが何かを叫びながら、指で空中に何かを描く。何かが纏わりついたかのように体が重くなるが、そんなのは知ったこっちゃない。一人やったら二人やっても同じだ、早く殴り倒してしまわないと。

 私が止まらないとわかった途端、悲鳴を上げて逃げようとした。逃すまいと、とっさに腕を振り抜いた。当然のごとく避けられたが、ブンと重く空気を切る音のおかげで、まだ鉈を手に持っていたことに気づけた。よかった、これなら頭を殴れば何とでもなる。

 側頭部めがけてを鉈で殴りつけた。

 殴りつけたと、思った。

 いつの間に鞘が取れていたんだろう。確かにしっかり固定なんかはしていなかったけども。刃がむき出しになっていたそれで頭を殴りつけたら、どうなるだろうか。

当然、肉を抉り、骨を断つ。頭部に深く突き刺さることになる。殴る時とはまた違った感触が伝わる。

警官さんの体から力が抜ける。がくりと膝を折って、地に伏した。その衝撃で鉈は抜けた。

 あ、やばい。やってしまった。

 半ば他人事のようにそんなことを考えた。

 ここまでやってしまったら、多分、もう取り返しのつかない事態になるだろう。どこか吹っ切れてしまったのか、妙に清々しい気分だった。暗いおかげで血が見えづらいというのも、変な方向に向かってしまった思考を止めることが出来なかった大きな要因だろう。

 私はもう一度、鉈を振り上げた。




「ただいま」

 ぺっぺっと口に入った土やら何やらを吐き出しながら、ややテンション高く家の中に入る。白さんが今にも泣き出しそうな顔で駆け寄ってきた。

「大丈夫かい? 怪我はしていないかい?」

「あーうん平気。むしろ何かスッキリしてる」

 見せつけるように笑ってみせると、驚かれた。失礼な。

 体中泥と返り血で汚れまくっているので、白さんの服につかないように離れるようジェスチャーで伝える。が、それも虚しく白さんから抱きしめられた。

 ひんやりとした体温に、水の匂い。あぁ、昨日川で感じたデジャヴはこれか。

 白さんは、あの川の神様だったのか。

 一人で勝手に、そう結論づけた。

「よかった……! 君が無事で、本当に……!」

「うんまあ、ド素人なのにうまくいったのは多分ビギナーズラックのおかげだわな……もしくは、白さんの加護? のおかげ……かな……?」

 白さんのおかげだと言うのが照れくさくて、つい照れ隠しで背中を強めに叩いてしまう。数回叩いたところで「そういえばこの人、背中に根性焼きあるんだった」と思い出し、慌てて白さんを引き剥がす。しかし白さんは居たがる素振りを見せなかった。ただきょとんとしていた。

「ごめん背中痛かったよね!?」

「え? あ、背中の傷かい? 大丈夫、もうすっかり治っているよ」

「いや流石にそれはないでしょ」

「本当だよ」

「……あっ! そうかアレか! あの二人やったから、力が戻った的な?」

「そういうこと」

 白さんは見せつけるようにジャージをめくって体を見せてきた。あのDV痕や根性焼きはどこへやら、鱗さえなければしなやかで美しい肉体美がそこにはあった。神様パワーってすごい。

「ところで……君も何か、どこか変わった気がするんだが」

「うんまあ、外れかかってた頭のネジが外れたようなモンだよ」

「……?」

「すごい生きる活力に満ちているーって感じがしてヤバい。今なら何でも出来る気がする! って感じがする。まあその前に風呂入りたいけど」

 足取り軽く風呂場へ向かう。床についた泥やら何やらは後で片付けよう。

「待って」

「何すか」

 手を掴まれて引き止められる。どうしたんだ、急に。

「君にお礼が言いたい」

「いや別にいいっすよ。おかげでこっちも色々吹っ切れたんで」

「いいや、言わせてくれ。……君の名前を教えてくれるかい?」

「それ必要?」

「名前を知らないままだと、君の名を呼んで感謝することが出来なくなるじゃないか」

「そういうもん?」

「そういうものだよ」

「んー、まあいいけど」

 白さんの手をにぎにぎしてみる。異様に冷たい。そんなに心配してたのだろうか。

「なごみ。水沢なごみ。すっげー似合わんでしょ?」

 白さんが、にっこりと笑った。

「そうだね、なごみ」




 気がつくと、白さんは居なくなっていた。それこそ一瞬で、目の前から消えてしまったのだ。

 いや、それだけではなかった。照明がついていたはずの玄関には、代わりに陽の光が差し込んでいた。どことなく違和感を感じてよくよく見てみると、室内のレイアウトが若干変わっている上に、さっきまで夜だったはずの外は真っ昼間になっていた。

 どういうことなの。

 人間は、驚きすぎると声が出なくなるらしい。文字通り開いた口が塞がらないまま、恐る恐る外に出てみた。

 あの紅葉はどこへやら。赤と黄色に取って代わるかのように、萌黄色の世界が広がっていた。庭や山にはなごり雪が散らばっている。

 待って、どういうことなの?

 脳内が混乱を極める中、ふとある考えに辿り着く。

 あ、これもしかして、白さんの不思議パワーじゃね?

 その考えのおかげで、一気に冷静さを取り戻した。なんだ、白さんパワーなら仕方ないわな。

「白さーん、隠れてないで出てきなよー」

 家の中に入って呼びかける。靴を脱いで、室内に上がり込んだ。妙に生活感のある空間になっていて、私の知っている家ではなくなったような気がした。

「ほらもう充分驚いたからさー。ここ白さんの世界? ワープするなら言ってよもう」

 居間を探しても、白さんは居なかった。やっぱり外だったかな? と思い、再び靴を履いて外に出た。

「白さーん、どこ行ったー?」

 ブロロロ、と車のエンジン音が聞こえた。駐車場に見慣れた車がある。丁度エンジンを切る所だった。ナンバープレートを確認した瞬間、うげ、と声を漏らしてしまった。母の車だった。

 あっ、待ってヤバい、服ヤバい。今血まみれ泥だらけなんだって!

 家に逃げ込むより早く、母が気づいたようで車から飛び出してきた。人生終わったな、こりゃ。

 しかし母の反応は、私が想像していた反応とは全くの別物だった。

「なごみ! なごみなの!?」

「えっ?」

「今までどこに行っていたの? どれだけ探したと思っているの!?」

「いや別にフツーにここで暮らしてただけなんだけど」

「何を言っているの? 半年間いくら探しても見つからなかったのに、どうして……いえ、いいの、なごみが元気に帰ってきてくれただけで充分よ……!」

「は? 行方不明?」

 正直、母が何を言っているのかわからなかった。演技とは思えない様子で私に抱きつき、おんおんと泣き声を上げ始めた母に困惑する中、今まで腫れ物に触るかのような対応しかしてこなかったくせに、行方不明になっていた私が帰ってきたら親らしく泣いてくれるような人だったんだなぁ、なんて感心していた。

 母を引き剥がそうとして、いつの間にかジャージについていたはずの泥や血が綺麗さっぱりなくなっていることに気がついた。まるで新品だ。

 不思議な事ばかり起こっていて、頭がパンクしそうだ。

「この近くで殺人事件が起こったのは知ってる? 二人も殺されたのよ。事件に巻き込まれたんじゃないかってお母さん心配で心配で……!」

 云々とどれだけ心配だったかを語る母を押しのけ、もう一度家の中に入る。居間にあったはずの白さんの布団は、今や母の布団と化していた。匂いを嗅いでみるも、あの水の匂いはしなかった。

 家のどこにも、白さんの痕跡は残っていなかった。まるで、最初から居なかったかのように。

 なんだよ。

 これじゃあまるで、全部私の妄想だったみたいじゃないか。

「なごみ、どうしたの?」

 母が問いかけてくる。

「ちょっと、寂しくて」

 残り香を求めるかのように、息を吸った。

 自分の体から僅かに、雪と、土と、若々しい葉をつけた木々の匂いがする。春の森の匂いだ。それに混じって香る、懐かしいような、親しみ慣れたような水の匂い。自分の体に染み付いた匂いだった。

 ふと、身に覚えのない感覚を思い出した。心の底から安らぐことの出来た場所を思い出す。どこにあったかはわからないけれど、長らくそこに居たような気がした。

 いや、知っている。身に覚えがないはずがない。今までどこに居たのか、私は知っている。

 窓を覗き込むと、春風に煽られた木々が枝を揺らしていた。窓を開けると、力強い風が髪を弄んで過ぎ去っていった。まだ肌寒い風が、ひんやりと心地よいあの場所の記憶を揺さぶった。

 あぁ、やっぱり知っている。覚えていなくても、覚えていた。

 白と朽葉色の山々を侵食するように、萌黄色が広がっている。山鳥のさえずりが聞こえる。母が植えたであろう庭の鈴蘭が、小さな蕾を揺らしている。

 どこからともなく、川のせせらぎが聞こえた気がした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ