1.
それは唐突に起こり、私は混乱した。
そして、流れ行く時間のなかで理解した。
ネットの小説で読んだことのあるようなはじまり。
マンホールに落ちたわけでもないし、階段を踏み外したわけでもないけれど、私は落ちていた。いや、降りていたという方が正しいかもしれない。
マンションの一室、私の桃源郷から出て、いざアルバイト先へ出陣と意気込んでエレベーターへ乗ったは良いものの、なぜか私の乗ったエレベーターは止まらなかった。
無論エレベーターといえば、乗った階から指定した階まで人間を乗せて運ぶ機械。私がその時指定していたのは、地上階である一階。なのに、まるで地下階へ行くかのように、窓の向こう側で一階は通りすぎていった。
「止まらない…。」
押した一階のボタンは点灯したまま。けれど、窓の外に映るのは、真っ黒な空間。
本来見えるはずのフロアや通路側のドアが見えない。そのことですら恐怖を感じるのに、私の住む十階建てマンションのエレベーターでは感じることが出来ないはずの独特の浮遊感が私を襲う。
「なんで、どうして…!?」
地震の時はすべての階のボタンを押して、止まった階で降りましょう。なんて非常事態の時に取るべき行動も、一応とってはみたが、全てのボタンが光っているのにエレベーターは止まらない。
「ほんと、なんで…?」
これからアルバイト先に行かなければいけないのに。時間に遅れたら、責任者にだけじゃなく、客にも怒られる。
子供に囲まれたい、歴史の素晴らしさを話したいという二つの欲望を満たせられる、そんな軽い気持ちで始めた塾の講師というアルバイト。実はブラックの中のブラックで、大学生の私に無茶言うな!アルバイトにそんな所まで責任持たせるな!なんて思うこともあったが、中々楽しんでやっていた仕事。結構やりがいも感じてきて、中々うまくやれてると思えてきたころだったのに。
「最悪だ。なにこれ、本当になにこれ。」
非常時に押せ、というボタンをずっと押しても、押し続けても、何も言わない。普通ならビーってけたたましい音がするはずなのに、何も聞こえない。ならばと思ってスマートフォンを見るが、電波が届かずアンテナが一本も立っていない状態。電波が無ければ、電話もネットも出来ない。電波を失ったスマートフォンはただの情報記録媒体にしかならない。外部との接触が出来ないという絶望の中、エレベーターの中で呆然と立ち尽くす。
「もうやだ…。」
このままどうなるのか分からなくて、不安で不安で一杯になって、本当に半泣きになり床に座り込んだ途端、ガコンッという物凄い音がしてから、軽いチンッという音とともに、何をしても全く開かなかったドアが自ら開いた。
「…え。…え?」
ほっとして這い出ようとしたのも束の間、そこに広がる景色に思わず自分の頬をつねる。とても痛い。痛覚があるということは夢ではないのだろう。だが、どうも現実味がない。だって、開かなかったドアの先にあったものは、どこからどう見ても清々しい草原。爽やかな風が吹き、野草がそよそよと揺れている。
なんだこれは。私はエレベーターに乗って、マンションの一階に行きたかったのだ。けして草原を見に来たかったわけではない。自然のセラピーなんて求めていない、今求めているのは、仕事場に行くこと、ただそれだけ。
ところが、人間、狭く密閉された中に一人でいると心細くなるもので、駄目だとは思いながらも、開かれた外の世界へ首だけ出してみた。暖かな日光、草の香り…。夢ではあり得ない、肌と鼻で感じるこの感覚。太陽が雲に隠れ、一瞬辺りが暗くなる。
これは本格的に駄目かもしれない。夢に関する講義を履修したとき、大学の先生が言っていた。夢の中では基本的に明るさは変わらないと。明るさは変えられないのだと。だがどうだ、太陽が雲から出た途端、再び眩しい日光がそそがれる。
明るさ、しっかり変わっています、先生。暗くもなるし、明るくもなります。先生の言葉が本当なら、これは夢では無いようですね。
「…白い…花…。」
もしや我がマンションのエレベーターは、どこかの自然あふれる草原へ繋がっていて、誤作動で運ばれてしまったのか?なんて後から考えれば絶対にあり得ない想像をしながら、目の前に生えていた可愛らしい花を咲かせた野草に触れる。すると、花に指先が触れたその瞬間、ざぁ、という音とともに、今まで触れていたエレベーターが、光の粒となった。しまったと思う間もなく、エレベーターの全てが光の粒となり、鉄の地面から草の地面へと、手足から伝わる感触が変わる。光の粒を掴もうと手を伸ばしたが、私を嘲笑うかのように、指と指の間から光が逃げていく。みるみるうちに光の粒は上へとのぼっていき、やがて、空気中に溶けるように消えてしまった。
しまった…どうしよう。
そう思ったのも束の間、絶望を吹き飛ばすような驚くべきことが起こった。
ドシンという音と共に、突然目の前が暗くなる。何?と思いながら視線を向ければ、そこには私の何倍もある蜥蜴。…いや翼があるから、ドラゴンと呼ぶべきか。地球には存在しない生物だから、思わず蜥蜴と言ってしまったが、とりあえず空想上の生物がそこにいた。
赤い鱗に赤色の瞳。龍と呼ばれる東洋の生物ではなく、西洋の竜。視界を覆い尽くすほどの翼に、トラックのような大きな身体。その大きな身体に合う、大きな口は簡単に私を噛み砕きそうだ。いや、私は丸飲み出来るほどの大きさだから、噛み砕く必要もないかも。
ドラゴンと目が合い、ばっちりと認識される。ああ食べられる!そう思ってぎゅっと目を閉じるが、いつまで待っても衝撃というか痛みはやってこない。
死んだフリをしていると思われている?ターゲットは私ではなかった?なんて考えてみるが、目の前からドラゴンの温かい息遣いが聞こえてくることから、どうやらそれも違いそうである。
とにもかくにも状況を確認しようと、薄目を開けて目の前を見ると、やはりドラゴンは目と鼻の先にいた。だが驚くべきことに、ピタリと地に伏せ、尻尾をぶんぶん振っている。その様はまるで“待て”をくらった犬のようで、こんなときにこんなことを思うのはどうかと思うが、とりあえず無様だった。
私に攻撃をしてはこないようなので、しっかりと目を開き、目の前のドラゴンを観察する。もう一度目を合わせてみるが、やはり襲ってこない。そろりと後ろに一歩踏み出すが、ドラゴンに動きはない。
どうしよう、どこかへ逃げる?といっても、ここは見渡すかぎりの野原。あのドラゴンからは逃げ切れるとは思えないし。でも一か八か…。
とりあえずドラゴンに視線を固定したまま、そろりそろりと後ずさってみる。ドラゴンに動きは無い。いや、正確には犬状態のままだから、尻尾がかなり動いてはいるけれど、身体の位置に変化は無い。
今度は先程よりも速いスピードで後ずさる。すると、なんということだろうか。ドラゴンがズリズリと前進をしてきた。そして、一定の距離を保って止まると、また尻尾をフリフリし始める。
なるほど、この子は私を逃がす気は無いな。
私はそう理解すると、逆にドラゴンに近づいてみた。逃がす気が無いのなら、近づいても一緒。食べられたら食べられたで、私が馬鹿だったってことにしよう。女は根性!なんて自分で自分を勇気づけながら、ドラゴンに近づき、そっと手を伸ばす。
指先にドラゴンの皮膚を感じる。ごくりと生唾を飲んでから、手のひら全体でドラゴンに触れば、グルルと喉を鳴らし、ご機嫌そうに目を細めた。その表情を見て、ほっと息をはく。どうやらすぐに食べる気は無いようだ。
「…どうしたものかな。」
見渡す限り原っぱ。目の前には私を離してくれないドラゴン。そして此処は何処だ。
「混乱しすぎて訳がわからない。」
とりあえず目の前のドラゴンをアニマルセラピーよろしく撫でる。そもそも、私は蜥蜴や蛇等が大好きなのだ。怖いと思った対象も、一度触れてしまえば、もう怖くはない。むしろ大好きな生物に似ているので落ち着いてきた。なので、より大胆に手を動かしていく。私は落ち着くし、ドラゴンは喜ぶ。利害は一致したので、遠慮なくワシワシと撫でる、というより、擦ってあげる。
「どうしよう…。君がいる時点で現実ではないってことは分かるんだけど。あら、鱗つるつる。気持ちがいいねー。…で、私どうしよう。君はきっと言葉が通じないし、早くアルバイト行きたいし、ああもう訳がわからないよ。なにか、なにか…。早く戻らなきゃいけないのに。」
広い原っぱは人一人いない。目の前のドラゴンと私だけ。一方的にドラゴンに話しかけて、頭がおかしいと思われるかも知れないけれど、犬とか猫とかに対してずっと話しかける人もいるし、私の行動も許容範囲内のはず。とは言っても誰も居ないから、気にする必要は全く無いのだけれど。
「グゥ…?」
黙って撫でられていたドラゴンが、ふと何かを感じたらしく首を動かす。撫でられている間は細かった目が、しっかりと見開き遥か遠くの何かを見つめていた。
「なに?どうしたの?」
ドラゴンの変化に戸惑ったが、見つめる先のものが何か分からなかったので最初は怖がっていたはずのドラゴンに、逆にすり寄って目線の先に目を凝らす。
まだ私には何も見えない。先ほどまでと変わらない景色だ。でもドラゴンには何か見えているのだろう。私を守るようにとぐろを巻くと、低く唸り声を出し、口先から炎をちらつかせた。私の視界はドラゴンの赤い鱗一色になり、上を見上げてもドラゴンの顔と少しの青空しか見えない。
「グゥ…グァアアァアア!!」
ドラゴンが突然うなり声をあげたと思ったら、口から火柱が飛び出した。赤い鱗とは対照的な青い炎が上空へ向けて放たれる。火は私とは正反対の方向に放たれているのに、ぶわりとした熱気が私にも襲いかかってきた。気球に乗ったときのように、頭のてっぺんが湯気をあげそうなくらい熱い空気に覆われ、身を縮こまらせる。
「…おっと、好戦的。でもさぁ、この俺に逆らうって言うの?」
熱い、と思いながら縮こまる私の耳に突如聞こえた謎の声。私を包んでいた熱が消えたのを肌で感じ取ってから、ゆっくりと体を戻し、辺りを見回すがドラゴンの鱗しか目に入らない。ドラゴンの前には誰かいるのだろうか?とりあえず日本語が聞こえたから、それを発した正体が見たい!そう思って身体を動かすが、ドラゴンの守りは固く、守られている私も太刀打ちできない。お願いちょっとだけ出して、とポコポコ身体を叩くが反応は無し。
「ねぇ君、真上を見てみなよ。」
再び日本語が聞こえてきた。その言葉に従い視線を上にあげれば、何もない空中に一人の男が立っている。いや、浮かんでいるといった方が正しいか。とにもかくにも、赤い髪に赤色の瞳をした男の人は、笑いながら此方に手を振ってきた。
「へぇー、やっぱり。…道理で他の気配がしなかったわけだ。目をつけるのが速いな、炎の竜。」
意味のわからない言葉を並べ立てながら、ドラゴンに話しかけるその人。一方ドラゴンは機嫌が悪いのか、ずっと喉の奥で唸り声を出している。
「威嚇しても駄目だろ。選ぶのは君や俺じゃない、彼女だ。それに君は人語を介せない。俺が居た方が君にとってメリットも大きい、そうだろ?…理解したなら早く守りを解けよ、彼女が出たがっている。」
その言葉を聞いてから、少しの間が空き、そしてドラゴンはゆっくりと私を解放し始めた。どうやらこのドラゴンは人の言葉が分かるらしい。鱗ばかりだった視界に自然という景色が戻ってくる。
「それでいい、炎の竜。」
空中にいたその人はにこりと笑ってから地に降りる。そして私の前までその長い脚でつかつか歩いてやってくると、気取ったような一礼をしてきた。まるで中性ヨーロッパの王侯貴族が行うような礼だが、イケメンは何でも許されるとは本当だ、非常に様になっていた。
クルリと跳ねる燃えるような赤の髪に、同じ色の睫毛が赤色に輝く瞳を縁取る。身長は私より頭二つ分高いのに、全体的に細い体つき。
「初めまして。」
にこりと微笑んだ顔は、私の目が光を失ってしまうのではと思えるほどに眩しかった。
「初めまして…。」
とりあえず返答をし、相手の出方を伺う。
「うん、言葉の理解だけじゃなくて、話も出来るみたいだね。よかった。とりあえず座ろうか。」
そう言って、どこからともなく厚手の布を取り出した彼は、それを地面に敷いた。綺麗な赤の布に草や土がついてしまう、と私は心配になったが、彼は気にした風もなく、むしろ地面に擦り付けるように皺を伸ばしていた。その後、私の手をとってそこまで誘い、腰を下ろすよう誘導してくれる。
ゆっくりと腰を下ろせば、自分の下に広がる布はモコモコとした地で、愛用のビニールシートと比べると、その座り心地には雲泥の差があった。たとえ腰をおろした部分に小石があったとしても、これなら払いのける必要性はなさそうだ。
「俺も座ろっと。」
そう言って隣に腰をおろした彼は私の顔をのぞき込み、目が合うと至近距離からにこりと笑いかけてきた。
途端にぶわりと粟立つ私の肌。
きれい。かっこいい。ととのっている。はずかしい。にげたい。
彼への賛辞と自身の逃走願望の言葉が頭のなかで浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。
イケメンは遠くから見るだけで十分だ。近くで見ると整いすぎていて、うまく感情がコントロール出来ない。綺麗だ、カッコいい、美しいという彼に抱く感情と共に、怖い、恐ろしい、逃げたいという逃走心がひたすら頭を駆け巡る。
彼の顔を直視なんて出来ない。でも逃げたら失礼だ、気分を悪くさせてしまう。そう思った私は生粋の日本人なのか。とりあえず下を向いて深呼吸をし、気持ちを落ち着けた。
「…あれ?俺の顔は不快?んー。」
ぎこちない私の様子からそれを察したのか、立ち上がってドラゴンに近づくと、そのの大きな目を鏡がわりにのぞきこんで、考え込む表情を示す彼。あらゆる角度から自分の顔を見ながら悩んでいるが、そんな顔も怖いほど美しい。
「…ちょっと弄るか。」
彼がぼそりと呟いて、右腕を大きく振るえば、どこからともなくキャンプファイヤー並みの炎が目の前に出現する。一瞬幻かと思ったが、私の肌を包む、火傷しそうなほどの熱風が、それが幻ではないことを表していた。そして、彼は怯む様子もなくその中に飛び込むと、瞬く間に全身が炎に包まれた。
「え…え!?」
混乱して固まる私をよそに、彼は全身に炎を絡めると、苦しむ様子もなく炎の中から歩み出てきた。まだ当然火だるまの状態であったものの、私がどうこうする前に、彼が犬のように身を震わせる。すると驚くことに、キャンプファイアーの炎もろとも火が一瞬でかき消えた。そしてそこには、先程と背丈や髪や瞳の顔は同じものの、顔は全くの別人である男の人が立っていた。
「え、あ、火傷。火。あ、だれ。え。」
混乱しすぎてうまく言葉がまとまらない。普通火に入って、あんな火だるまの状態になったならば、火傷で肌が爛れ、肉が黒く焦げるといった全身火傷の酷い状態になるはずだ。でも、彼は無事だった。彼は火だるまになったにも関わらず、無傷で火傷一つしていない。そして焼けるはずの服も焦げあともなく、きれいな状態で彼の身体を包んでいる。
頭が混乱しすぎて、恐怖感はわいてこなかったが、なんとなく、この人は人間ではないとこの時に悟った。
「だれって、俺だよ、俺。顔を変えてみた。」
一方彼は、詐欺の常套句のような台詞を言って、にこりと笑いかけてくる。彼の顔は、まだ美形であると自信をもって言える範囲ではあるけれど、さきほどまでの目をつむりたくなるような美形ではなくなった。一瞬で顔だけ整形をしたような状態に驚きを隠せないが、声や動作から先程の彼と今目の前に立つ彼が同一人物であると分かる。
「ん。これなら大丈夫そうか。此処の人間は元の顔を好んでいるんだけれど、異世界は違うみたいだね。…それとも君が違うのかな?」
やっと顔を正面から見れるようになったものの、まだ挙動不審なままの私に嫌な顔もせず、隣に座り直すと笑顔で色々尋ねてくる彼。…だが。
「え、あの、異世界…?」
聞こえた異世界という言葉に、彼の質問や彼の顔についてやらが頭からすっぽり抜け、彼の瞳をまっすぐ見つめながら、思わずそう口にしていた。しかし、彼は気を悪くした表情をすることも無く、儚げににこりと笑ってから、落ち着いて聞いてね、と前置きをしてから話し出した。
「君から感じる…力と言えば良いか。その力は独特で、この世界の人間では、絶対にあり得ない性質を持っている。そして、その力は時折現れる異世界人という人間の特徴と酷似しているんだ。」
「…。」
「だから君を異世界人だと思った。勿論、君からしてみても此処は異世界。君が居た世界と此の世界は違っている。つまり、君は何らかの影響で、異世界に迷い込んだ。」
彼は終始真剣な顔で説明していた。そして、その顔に冗談や嘘は微塵も見られない。
「…やっぱり。」
私の心を一番最初におおったのはその言葉。どこからどうみてもこの状況が地球ではあり得ないことくらい分かっていた。地球では、人は火だるまになったら死ぬし、人の形をした人外はいないし、ドラゴンもいない。手を振っただけで炎は出ないし、口から炎を出す生物もいない。全てお話の中のことだ。
ちゃんと分かっていた。ここが地球ではないことなんて。けれど、やはり誰かにその事実を告げられると、認めたくないと心が拒絶をする。
そんなこと、ありえない。だって、そんなのお話の中のことだもの。現実に起こりましたと言われても信じられない。
そんな言葉が、やっぱりという言葉とともに心をぐるぐるとまわる。
現実だと分かるけれど、非現実であると否定したい。
分かることと納得することは違うのだ。彼の言葉に分かったとは言えても、納得したとは言えない。納得したら、これが夢だと思っていなかったら、私は、私の心は壊れてしまう。
「昔、この世界に現れた異世界人はこう言った。“私は、気づいたらこの世界に居た。突然、この世界に来てしまった”…。きっと君もそうなんだろう?」
事実を確認するかのようにそう聞いてくる彼。
突然…そう突然、エレベーターに乗っていたら突然此処に来てしまった私。前触れなんて何もなくて、今でも瞬きひとつすれば、実はエレベーターの中に座り込んでいたりとか、実は出勤準備から全てが夢で今も自分の部屋のベットに寝ていたりとかするのかもって考えている。草木の匂いを感じ、土の感触を指先から確かに感じるのに、これを現実だと思いたくない。
最初は混乱しすぎて、非現実だ、どうしよう、なんて呑気に構えていたが、こうも真剣に話をされると、どうしようどころではない。一気に不安が増してきて、楽観視なんて到底できなくなった。川面にたゆたう葉のように、流されればどうにかなると思っていたが、よくよく考えてみれば、目の前のドラゴンや人の形をした人外生物が繁茂する世界で、私がどうこうできるはずもない。
夢ではないとわかっている、だからこそ、死が目の前で手を振っているのが見えた。三途の川の向こう岸へいくのは時間の問題だ。
世界から圧迫されるような苦しさを胸に感じて、思わず両手を胸の前でぎゅっと握りしめた。
…帰りたい。その言葉がポッと心の中に浮かぶ。なんで忘れていたんだろう、そんな大切なこと。そう思うほどに、その言葉が出てしまったら、頭の中が帰りたいという欲求で埋め尽くされる。
「あの…どうすれば…帰れますか?」
やっとのことで絞り出した声は震えていた。
家に帰りたい。家族に会いたい。友達に会いたい。アルバイトに行かなきゃ。レンタルしていた映画を返しに行かなきゃ。家出るとき火の元確認してこなかったし、あの漫画最後まで読みきってない。どうでも良かったはずのことさえ、なぜか気になって帰りたいという気持ちを増幅させる。
仮にここが異世界だとしても、前に異世界人が居たのであれば、帰れる方法があるはずだ。そう思って聞いた質問に、彼は困ったような表情を浮かべて言った。
「ああっと、とりあえず落ち着いて、深呼吸しよう。」
いや、そんなことせずに話が、続きが聞きたい。そう思って彼に詰め寄るが、深呼吸、といなされてしまう。はやる気持ちを抑えて言われるがままに何度も深く息を吸って吐けば、彼も納得したようでやっと口を開いてくれた。
「…落ち着いて聞くんだ。…いいか、元の世界へは…帰れない。元の世界には戻れないんだ。…まだ、戻る方法が見つかっていない。…過去に来た異世界人も死ぬまでこの世界で生きた。」
「……。」
…モドレナイ。
カエレナイ。
その言葉が頭の中で反芻する。
「…あえ?」
漸く絞り出した声は言葉になっていなかった。
全てが理解できなくて、飲み込めなくて、頭が真っ白になって、目の前が暗くなって…。
ココロトアタマガイタイ。
イタイ。
イタイ。
「…泣くな。」
気がつけば、彼に抱き締められていた。いつのまにか目からとめどなく溢れていた涙を何度も手で拭ってくれる。
帰れない?戻れない?なんで?わたしが何かした?もうみんなに会えないの?ずっと?一人?…私は独り?
子供のように泣きじゃくる私。嗚咽が止まらない。涙が止まらない。
「…悲しいよな、辛いよな。」
彼はそう言って、ただ私を抱き締めてくれる。独りぼっちになってしまった世界の中で、腕を広げてくれる人。初対面とか信用とかそんなもの全部ふっとんで、ただ抱き締めてほしかった。全てを失ったと理解も実感もして無いけれど、すごく不安で悲しくて、ただ目の前の腕にすがった。
「俺が、君を守ろう。もし、この世界で生きてくれるなら、俺の全てを君に捧げる。元の世界へ戻る方法も共に探そう。」
独りは嫌。怖い。涙が止まらない。身体の震えも止まらない。苦しい。
「グゥ…。」
「こいつも君に服従するって言っている。君がこの世界で生きてくれるなら、俺らが支えよう。いついかなるときにも側にいて、守るから。」
私には自分を守るすべもない。こんな世界一人では生きていけない。
「君には、珍しくて上質なエネルギーが宿っている。しかも膨大な量だ。それを俺らに分け与えるだけで良い。」
エネルギー?分け与える?…分からない。言っている意味が何も分からない。でも。
「それを…分け与えるだけで、ずっと…側に居てくれるの?」
聞きたいことはいっぱいある、不安なこともいっぱいある。でも何よりも、独りは嫌。孤独は辛い。独りになるのだったら、誰かを少しでも早く自分に繋ぎ止めたかった。
「君が俺らを必要としてくれる限り、ずっと共に。」
永遠の忠誠を。
壊れかけの心に、その甘い毒をはねのける選択肢なんて無かった。
「…どうすれば、いいの?」
そう聞いた私に、どこか嬉しげな表情をしたドラゴンと彼は、私の正面に場所を移動する。
「契約は簡単、血によってお互いを縛れば良い。」
彼はそう言うなり、ポケットから折り畳み式のナイフを取り出すと、迷うことなく己の手を傷つけ、私にその手を差し出してきた。
「俺の血を君が飲んで、君の血を俺が飲む。血の交換をするんだ。それがすんだら、主として、俺にふさわしい名前を君がつけてくれ。」
そう言われるがまま、彼の手の平から滴る血を舐め、唾液でどうにか食道へ押し込む。誰かの血を飲むなんて初めてだ。本当なら気持ち悪いとか、汚いとか、衛生がなんて思うんだろうけれど、その時の私にはそんなこと考える余裕はなかった。ただ、飲み込んだ血は熱く、食道が燃えるようだったことはハッキリと覚えている。
「君の血を。」
私の左手をとると、指先に刃先が押し当てられ、ゆっくりと横へ引かれる。ツキリと走る痛み。その痛みを覆うかのように、すぐさま指先が彼の口へと押し当てられ、玉のように浮かんだ血を舐めとられた。
「…名を。」
乞われるまま、無い上にうまく動かない脳をフル回転させて、彼にふさわしいと思えた名を口にした。
「フェニクス。」
老いると自ら炎に飛び込み、雛に戻って再び生を歩む鳥。老いても死なない不死の鳥。彼に名をつけろと言われて浮かんだのは、彼の炎に飛び込む姿。それがまるで不死鳥のようだと思った。だから、フェニクス。私の不死の炎の擁護者。
そんな意味を込めてつけた名を呟いたと同時に、彼の顔…特に額部分に変化が起きた。チラチラと炎のような光が肌を走り、額を右へ左へと駆け回る。その白磁のような肌に走る光が、絡まりあう菫の花を描いていると気づいたのはすぐだった。傷一つない美しいものに傷がつく様をまじまじとみて、なんとも言いがたい感情に支配される。淡く光ったその模様は白い肌に黒く残り、綺麗な顔に傷をつけた。
「最後に、君の名を教えて。」
「…柚木菫。」
彼に言われるまま自らの名を口にすると、今度は私の体に変化が起きる。左手首がじんわりと温かくなり、そこに視線をうつせば、うねうねとした波打った線が絡まりあう、よくわからない模様が刻まれていた。
「俺の印だ。」
その印を覗きこんできた、男性改めフェニクスが笑う。
「あなたの…印?」
「ああ、俺の炎を模した刻印。君の肌にしっかりと刻まれた。…これで俺は…君のものだ。死ぬまで、共に…ずっと、守る。」
満面の笑みを浮かべて、私の手に頬擦りをするフェニクス。頬を紅潮させて、屈託なく笑う様は無邪気な子供のようで。強張っていた顔の筋肉が、自然と緩んだ。
「火の精霊、フェニクスは柚木菫に永遠の忠誠を。」
最後に私の手の甲に一つ口づけを落とすと、フェニクスは私から離れる。その代わりにドラゴンが私の前へやってきて、犬の芸である伏せの状態をとった。大きな瞳は前方へ集まり、鼻先にいる私を視界にとらえようとする様が滑稽で、気づけば小さく笑っていた。
「こいつとも契約を結んでやって。俺に比べると弱いけど、それなりには役立つよ。」
フェニクスはそう言うが、ドラゴンと比べると、どうみてもフェニクスの方が小さいし、華奢だ。だから、その言葉は本当だろうかと考えつつも、私の不死鳥に言われるがまま、私は無言で首を縦にふった。それを見たフェニクスは、ドラゴンの鼻先を軽く二回叩いて、口を開けさせると、間髪いれずにその口腔内に勢いよくナイフを突き立てた。
「グゥ!」
心構えをする間も無くナイフを刺されたため、かなり痛かったのだろう。短い呻き声と共に喉の奥から小さな火がパチパチと飛び出てくる。まるで大きな線香花火のようで美しかったが、その下ではナイフが口内を傷つけ、赤い血が唾液に溶け込んで血の海を作っていた。
「ヴゥ…。」
低い唸り声と共に、恨むような目線がフェニクスにおくられる。
「うるさい。…はい、主。」
フェニクスは一言でドラゴンを黙らせると、その口腔内からナイフを取りだし、私に柄を向けて差し出した。彼から渡されたナイフには、真っ赤な血が滴るほどついている。先ほどの滲むような血に対し、明らかに違う量の血に、ナイフを受けとる手が震えた。それを見かねたフェニクスが私にナイフを持たせると、補強するかのように、私の手の上からナイフを握る。
「飲んで。」
彼に促され、ようやく手が動く。ナイフをそのまま口に含むことは戸惑われたので、ナイフの側面に指を這わせ血を纏わせると、口に含んで唾液で喉の奥へ押し込んだ。再び感じる燃えるような熱さ。どうにかそれを乗り越えると、フェニクスに手をとられながら、ドラゴンの口へ手を入れ、先程切った指を舌へ押し付ける。固まりかけていた血をドラゴンの舌で拭うような形で私の血を渡す。渡した血は微量ながらも、ドラゴンの喉がごくりと動いたので、あの血にまみれた唾液で飲み込んだのだろう。それを見届けると、既に決めていた名を口にした。
「焔。」
名をつけると同時に、ドラゴンの額にも菫の花模様が出現した。フェニクスに促され、もう一度自分の名を口にすると、今度は左の掌が暖かくなる。視線を落とすと、掌に炎を吐くドラゴンが白く肌に刻まれていた。
「…成功?…成功!?…やった!ぼくの主様だ!!ぼくの!主様!」
フェニクスではない、子供のような高い声。突如聞こえてきたその声は、非常に興奮していた。
「わーい!!わーい!!」
その声は喜びを隠すことなく表し、子供っぽく嬉しさを表現する。その声が聞こえる方向へ視線を向けると、あのドラゴンが尻尾を上下左右に振り回し、花火でも打ち上げるような形で、空へ火の塊をいくつか吐いていた。
「やめろ、馬鹿!ここを焼け野原にする気か!?」
暴れるドラゴンをフェニクスがたしなめる。確かに火に水分を奪われたのか、近くの木は元気を無くし、足元の葉も萎れかけている。
はっと気がついたドラゴンは、ピタリと動きを止め、フェニクスを見てから私を見ると、みるみるうちに瞳に涙をため、しゅんとした表情で私に向き直った。
「ぼ、ぼく、う…嬉しくて…はしゃいじゃった…ご、ごめんなさい。ぬ、主様…わ、わるい子な、ほ、焔を…ゆるして、ください。」
その巨体からは想像できない、とても子供っぽい物言い。このドラゴンの体格とこの子供の声は、どう見て聞いてもすぐには結び付かなかった。でも、ドラゴンの表情からして…やはり、この声は焔だろうか?そう思った私は、ドラゴンに尋ねた。
「…焔…よね?」
「う、うん。ほ…焔、わ、わるいドラゴン。これ…から、いいドラゴンに…なるから、い、いい子に…なるから、す、捨て…ないで…。」
とうとうドラゴンの目からぽろりと涙が溢れる。その涙を見て、私は思った。ああ、この子は焔で間違いない。聞こえてくるこの声は、目の前の赤いドラゴンから響いてくる声だ。
「焔。捨てないよ、怒ってない。だから、泣かないの。」
気づけば、優しい母のような声色で焔に話しかけていた。
「ほ…ほんと?ほ、焔の…こと、怒ってない?焔…許して、くれる?」
「許すもなにも、怒ってないわ。もう、泣かないの。」
なるほど、焔は体だけは大きいけれど、子供なのだ。ドラゴンの成体がどれくらいかは知らないけれど、少なくとも焔の心はとても小さな子供なのだ。
「契約を交わした生物とは、意思の疎通が可能になる。焔はドラゴン、感じないだろうけど、この世界では珍しい生き物だよ。」
それまで黙っていたフェニクスが焔について耳打ちしてくる。確かに、この世界で一番最初に出会ったのが、焔だ。珍しいと言われても、私にはピンとこない。
「う、えっく。」
とりあえず、まだぐずり中の焔をどうにかしなければと悩み、無意識に両手を擦り合わせたら、この世界に来たときのエレベーターのように、焔の体が無数の光の粒に変わった。先程は天に昇ったその光だが、今度はそれがまるで吸い寄せられるかのように私の左の掌へと吸い込まれていく。
「え、あ、え?」
あまりに予測不可能であったことに、脳の処理が追い付いていかない。しきりに左の手のひらと焔がいた場所を見比べてから、意味もなく手のひらを何度も擦った。
「あ、丁度いいや。」
驚いて挙動不審になる私とは対照的に、いたって冷静なフェニクス。
「あ、あれ?ほ、焔?」
(う?な、なーに?主様。)
慌てて呼び掛けたところ、しっかりとした返答がある。エレベーターの一件があるため、焔が消えていないことに、ほっと息をはいた。
「異世界の人って最初はビックリするとは聞いてたけど、本当に文化が違うんだね。」
独り言なのか、話しかけているのか分からないが、フェニクスが呟いた。その言葉から、これが異世界では一般的なことだと理解する。
「ほら主、見て。この印。」
フェニクスに言われるまま視線を落とすと、フェニクスの印である炎は白色の模様なのに、焔の印であるドラゴンは黒に色が変わっていた。
(主様…大丈夫?混乱、してる。)
再び、焔の声がする。先程は驚いていて気づかなかったが、身体の中から声が発せられるような感覚で、脳に焔の言葉が響く。
「う、うん。焔は…平気?」
ドラゴンの名を呼べば、可愛い子供の声が身体の中から返事をする。
(うん!主様の、中、とっても…落ち着くから。でも主様は、混乱してる。どう、したの?)
また泣きそうな声になる焔だが、私は混乱の真っ只中にいるため、どう声をかけていいものか分からず、何も言えない。
「主、焔は何て?」
焔の声は私にしか届かないのか、フェニクスが顔をのぞきこみながら聞いてくる。
「…私の中は落ち着く。…私が混乱してる、どうしてって。えっと。」
だめだ、頭が働かない。異世界の不思議を目の前にして、軽くパニックになっている。
「あー、うん、了解。大丈夫。…とりあえず焔を出してみようか。」
フェニクスは混乱する私を落ち着かせるためか、頭を数度撫でると、私の左腕をとって、私の口元へ近付けた。
「舐めて。」
「…え?」
真剣な顔で、不思議なことを言うフェニクスに、思わずもう一度聞き返してしまう。
「…だから、舐めて。少しでいいから。」
そう言って、掌を唇にあてられる。フェニクスの真剣な眼差しに、言われるがまま、舌を少し出して掌を舐めた。すると、掌から光の粒が弾けるように飛び出し、一ヶ所に集まるとみるみるうちに小さなドラゴンを形成し、ぱちりと瞬きをしたら、そこにはもう小さなドラゴンが座っていた。
「…お、焔、小さくなったか。」
フェニクスがそう言って、小さなドラゴンの頭を片手で掴んだ。そして、真っ赤で真ん丸の宝石みたいなお目めが二つついた顔をしげしげと眺めたあと、自らの顔の前でドラゴンの身体をぷらーんぷらーんと左右に振って遊ぶ。だらんと垂れた赤い尻尾がふりこ運動で勢いよく右へ左へと揺れてとても可愛い。
しかし、揺らされている本人は不快なようで、我慢ならぬといった表情で勢いよく口から炎を吐いた。その炎は目の前にあったフェニクスの顔面へ綺麗に当たり続けるが、フェニクスは燃えることも痛がることもなく、ひたすら悪どい笑みを浮かべて振り続けた。その攻防だが、結局はドラゴンの息が続かず、最後に火の粉を幾つか散らせると、炎攻撃が終わってしまった。一方フェニクスはなに食わぬ顔でドラゴンを振り回したままなので、ドラゴンはぐるぐる回されながら、肩を上下させて呼吸していた。しかし、その瞳は負けぬ、敗けは認めぬという意志を映していたので、それがたまらなく可愛くて、変態じみた笑みを浮かべてしまったのは言うまでもない。
「主様、これを手に巻いて。」
落ち着いた様子を見せた私に、フェニクスはゆっくりと近づくと、ハンカチのような小さな布を私に差し出してきた。
「本当は手袋が良いけど、手持ちが無いから…。左手に、そう、左の掌から手首までを覆うように巻いて。」
フェニクスに促されるまま、手のひらに布を巻き、外れないよう手首でぎゅっと縛った。すると、それを待っていたかのように、パタパタとフェニクスの腕からドラゴンが飛び出し、私の元へと飛んでくる。手を広げたら、腕の中めがけてドラゴンが降りてきたので、優しく抱き止める。
「…ほむら、フェニクスきらい。焔はおもちゃじゃないもん。」
腕の中に入るなり、そうこぼしたドラゴン。
「え?ほ、焔。大きさ…?」
混乱する私を他所に、焔は楽な体勢をとろうと、もぞもぞと動く。
「簡単に言えば、君の中に入ると、ドラゴンは大きさを自分の意思で自由に変化できるんだ。」
何も言わない焔の代わりに、すかさずフェニクスが説明に入ってくれた。先程の巨体とは違って、今の焔は全てがミニサイズでとても可愛い。赤子を抱くように抱き締めると、その体勢が落ち着くのか、焔は動くのをピタリとやめて、静かに抱かれてくれる。その人形のような態度に、撫でたい衝動に駆られたが、さきほどの一件があったから、すぐに手を伸ばすことは出来なかった。
ちらりとフェニクスに視線をやれば、にこりと笑って一度頷かれる。それを見てから、おそるおそるハンカチを巻いた手を伸ばした。まずは指先、そして、掌。左手全体で触れるが、焔は今度は光の粒にならず、私の腕の中で形を保っていた。いつのまにか詰めてしまった息を吐き、ゆっくりと焔を撫でる。
「焔、主様の手、すきー。もっと、もっと撫でて。」
たどたどしい手つきでは満足が出来なかったのか、頭をグリグリと押し付けてくる焔。おねだりに答え、大きな身体の時にしたように、遠慮無く撫で回す。
「うひゃあ、あひゃ!もっと!ふは!もっと!」
喜ぶ焔を見て、私の口角も上がる。ふと見れば、フェニクスも穏やかに笑っていた。焔が幼体に身体を変えてくれたのは、故意か偶然か分からないけれど、とても穏やかな気持ちになれた。
そのまま暫く撫で回し、焔の息があがってきたころ、私は手を止めた。そして焔を胸に抱いたままフェニクスに向き直った。
「…少しは落ち着いた?」
向き直ったは良いものの、なんと切り出そうか悩んでいた私を見かねてか、最初に口を開いてくれたのはフェニクス。その言葉に、私はこくりと頷いてから口を開いた。
「うん、ありがとう。」
フェニクスと焔のお陰で、最初に比べればずいぶんと落ち着けた。これなら、話が出来ると自分自身でも思ったし、そうなるよう彼らが配慮してくれたのも分かった。だから、とりあえず二人に月並みな言葉ではあるけれど、お礼を言った。
それを聞いたフェニクスは、ゆっくりと頷くと、私に手を差し出して言う。
「そう。…じゃあ、色々とこの世界のことを話そうか。」
まずは一歩。どのような理由かは知らないが、私に慈悲をくれた二人のために、この世界のことを知る、受け入れる覚悟を持とうと思った。
彼の手をとることは、この世界のことを少なからず、理解し、受け入れること。私は元の世界のことを諦めたわけではない。心が張り裂けそうなほどに思っている。帰れるなら今すぐ帰りたい。その思いは変わらない。
でも、今、を生きるためには、踏み出さなくてはならない。ここでうじうじしていたってなにも変わらないのだから。
アルバイト先の教え子にも言っていた。悲惨なテスト結果を見て、泣く暇があるなら、悲しむ暇があるなら、次のために、明日のために勉強しろと。そう言っていた私が、自らの発言を守らないなんて。そんなことをしたら、生徒に顔向けができない。
今、すべきことは絶望ではない。立ち止まる暇なんてない。帰りたい思いがあるなら、帰れるように努力すること。
「はい、教えてください。フェニクス。」
決意を込めて、彼の手の上に自分の手をのせる。僅かに震える指先を見てか、フェニクスはそっと、そして強く私の手を握る。まるで、大丈夫だとでも言うように。
その手に勇気を貰い、私も彼の手をぎゅっと握り返す。
私はこの世界を生き抜いてみせる。そして、きっと元の世界へ戻ってみせる。そう自分の心に誓った瞬間だった。