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編集・試験前夜に御座候

編集させていただきました。


 証文を手渡すと、ベン……すなわち飯屋のオヤジは、涙を流して喜んでくれた。その娘ももらい泣きしていた。

 食べきれないほど、肉を焼いてくれた。酒を出してくれた。商店街の人々も集まった。

 大騒ぎだった。誰も彼もが笑顔だった。




 つまりそれらは、すべて過去のことだった。





 夜。飲んで食べてゴキゲンな客が、すべて帰ったあと。

 宿として借りた部屋で、ノボルはひとりだった。

 たすき掛けの和服、細帯で裾を絞った袴。鉢巻きは鉄を仕込んである。足袋は丈の長いもので、草鞋は踵を乗せる部分が無い。そして足指は、草鞋からはみ出している。

 土足が基本の床に、ノボルは袴をさばいて正座した。左手の大小を持ち変えて、右側にならべる。


 そして師がいるヒノモトの方角、東に向かって一礼。大小をひざの前にそろえて、これにも一礼。作法に則って、袴の内側の帯に差し込む。

 この瞬間だけは、ノボルも死を覚悟する。尻の穴が恐怖でゆるみそうになるが、固く硬く引き締めていた。


 腰に刀剣を落とすは、腹を召すと同じなり。

 切腹も戦場へ赴くも、刀剣をたばさむ者のつとめ故。


 師の言葉だ。


 師よりあたえられた恐怖を克服し、両手を腿に乗せた。

 静かに、呼吸。真剣白刃が頭上に降ってこようとも、長槍の先が腹に迫って来ようとも、乱れぬ呼吸を練り上げる。


「ヒノモトの外に出たならば、ノボルよ。お前さんなんざ、チビの痩せっぽっちに過ぎねぇぜ」


 師のいやらしい笑みがよみがえった。


「金髪銀髪の連中なんざな、ガタイが良くて腕力体力が半端じゃねぇんだ。……そんなの相手に、技が通用すると思うかい?」


 心を乱さないでください、師匠。

 黙って座っているだけなのに、額は玉の汗を浮かべる。

 技が通じない。無惨に身体は傷ついてゆく。

 そんな幻想が、頭をよぎった。

 無数の刀傷を受けて血を失い、何もできずに這いつくばる自分。そんな光景がノボルの心を占めている。


 だが、師は言った。それこそが、剣士であると。

 大志を抱いて腰間に大小を差し込むとも、志なかばで命を落とすこともある。いや、そんな連中が大半だ。

 そんな未来を予測しても、やがては死にいたると知っても、なお剣を執る者が……執る者だけが、明日を切り拓けるのだ。


 覚悟。

 人を斬る覚悟と、人に斬られる覚悟。それを備えた上で……。


 刀を抜くなら斬れ。断固として、一点の迷いもなく斬れ。

 断固たる信念が固まらないなら、わずかでも迷いがあるのならば、それは抜いてはいけないし、斬ってもいいことは無い。


 俺は、刀をたばさむ者。覚悟はできている。師の元で何を学んだかと問われたら、きっと答えてやる。


「師の教えは枝葉の技に非ず。ツワモノの心得なり」


 ……そうだ、何を恐れることがある。俺は腰の大小をたのみに、田舎から出てきたのではないか。そして師の元で散々胆を練ってきたではないか。いまさら何を恐れようか。


 昼間のいざこざなど、ツワモノの成したことには入らない。あれはツワモノを目指す者が、ツワモノどころか普通人にさえなれなかった脱落者を、少々懲らしめただけのことである。

 あんなものは、最初から俺の目指すところではない。本来ならば見逃すべきところなのだが、あまりに人の道を外れていたから立ち上がっただけだ。


 窓から差し込む、月あかり。

 心静かに、その澄めるところ水鏡のごとく。そっと刀に手をかけた。

 初めての差し料だったが稽古用の刀と違い、不思議なほど掌に吸い付いてくる。チンピラの支配人相手では、こんな感覚はなかったのだが……。


 鞘をこすることもなく、切っ先が水平に走った。

 もう、何千回も何万回も繰り返した業だからだ。

 仮想敵は、背格好がノボルと同じ人間。いや、ノボルは自分を斬るつもりで、いつも稽古に励んでいた。

 そして架空の自分に切っ先をむけて、ジリとにじり寄る。

 架空の自分は切羽詰まったようだ。右目を失い、それをかばうように退く。

 逃げは許されない。切っ先で架空の自分を睨みつけて、その上でなめらかな一刀を振りおろす。

 ……斬ったか? 仮想敵は、脳天から水月まで斬られているはずだ。だが、死んだふりかもしれない。

 残心。

 油断なく敵を観察し、反撃がないのを確認してから血振り、納刀。それでも気持ちを途切らせない。

 どうやら仮想敵は、絶命したようだ。ノボルは静かに元の位置に戻る。


 足をすすめて、今度は壁際に立った。真正面に壁、という状態。振り向きざま、刀を上に抜いてから斬った。鞘は壁にぶつからず、切っ先も天井に当たらず。狭い場所での抜きつけ、斬って血を払って納刀を成功させる。

 音もなく前転。刀を邪魔にしない転がり方だ。そこからの抜きつけと斬りおろし。

 心が澄み渡るのがわかる。刀と自分しかいない世界。自分と技しか無い世界。


 基本的な技をいくつか抜いたとき、部屋の外で気配がした。耳をすませると、かすかに階段から足音が聞こえてくる。

 二階に泊まりの客は、自分だけと聞いていた。ならば足音は、この部屋にたどり着くだろう。

 この足音には、覚えがある。この宿の娘のもののようだ。こんな夜更けに、なんの用か? ノボルは鉢巻きとたすきを解いて、大小を外して枕元に並べた。

 足音は、部屋の前で止まった。遠慮がちに扉がノックされる。


「……お兄ちゃん、起きてる?」

「あぁ、開いてるぞ」


 入れと声をかけると、控え目に扉が開いた。娘が顔をのぞかせる。


「どうした、いま時分?」

「お兄ちゃんが眠れないんじゃないかってね。明日、兵隊さんの試験なんでしょ?」


 部屋に入ってきた。トレイには、ウイスキーのミニボトルと、小さなグラス。トレイを小卓に置いて、グラスを渡してくれた。

 ベッドに座ると、娘はとなりに腰かけた。


「宿帳で見たんだけど、お兄ちゃん、ヒノモトノボルって言うんだね」

「あぁ、今日名乗りだした名前だな」

「え? いままで違う名前だったの?」

「そうではない。名字がなかったのさ、農民の出だからな」


 アタシと同じと、娘は笑う。


「アタシも名字は無いよ。飯屋のリコとか、風呂屋となりのリコとか」

「そういえば、お前の名をはじめて聞いたな」

「それってアタシに興味がない、ってこと?」

「そういう訳ではない。今日は何かと忙しかったのでな」


 リコは「エッヘッヘ」と子供らしく笑い、「ありがとね」と言った。

 そして上目遣いで見上げてくる。


「でもさ、お兄ちゃん。忙しかったからって言うけど、忙しくなかったら……興味がわいてたってこと?」

「お前のような可愛らしい娘に、袖を引かれたのだからな。おそらく興味はわいただろう」


 短い髪と輪郭が、ドングリのようだとノボルは思っていた。それに子供子供した仕草、クルクルと変わる表情。頭をグリグリとしてやりたくなる。

 ……ポス、と肩が重くなる。リコが身体を預けてきた。眠たくなったのだろうか。支えになれるよう、身体を寄せてやる。


「……太い腕」


 昼間はケラケラと笑っていた娘が、ノボルだけに聞こえるような声でささやく。いつの間にか、リコはノボルの腕にしがみついていた。

 夜が怖いのだろうか? それは仕方のないことだ。年端もいかぬ子供なのだから。こんな小娘なら、鍛えた腕にすがりたくなるのも、分からなくはない。


「……リコ、もっとすがってみるか?」

「いいの、お兄ちゃん!」


 不安そうな雰囲気だと思ったら、今度は花が咲いたような顔をみせる。この年頃の娘は、なんと不安定なことか。

 そう思ったから、「許す」と答えた。


 許すと答えたことを、ノボルは少し後悔した。

 ベタベタデレデレ、背後からリコは、遠慮も咀嚼も無しに抱きついてきたからだ。

 明日は入隊試験なのに。


 いや、この時分まで起きていた自分が悪い。もちろん今夜は集中力を高めるため、まともに眠ろうなどとは思っていなかった。

 しかし稽古時間を削られ、集中力向上の機会を奪われ、気練りをさまたげられるとは予想外だった。


 ……ノボルの中で、師の苦い顔が浮かぶ。

 その顔を見て、思い直す。


 俺がこれから出てゆく戦場は、予想外が存在しないと思っているのか? すべて事が自分の思う通りに、動いてゆくと思ってはいないか?


 気練りをしたいのだな? ならば何故、リコを遊ばせながら、気練りをしないのか?

 やる気の問題ではないか。

 そもそも、こんな小娘に抱きつかれたり撫で回されているくらいで、ツワモノの戦気を練れないとはなんたる未熟か。


 ならばやれ、ヒノモトノボル! 貴様はツワモノを目指すのだろう! その道を邁進するところを、存分に見せつけてやれ!


 戦気。

 その澄めるところ、水鏡のごとし。

 湖が端から中央に向かって、凍りつくような感覚で、ノボルは戦気を練りはじめる。


「ノボル、なんだか怖いよ」


 リコのささやきに、また心が乱れた。というか、いつの間に名前呼びになったのか。


 リコの唇が、頬に触れる。心地よい感触だったが、今は練りを途切れさせたくない。

 仕方ないので、小さな身体を抱いてやる。リコは何もしてこなかった。ノボルも黙って、頭を撫でてやる。眠ったようだ。

 リコの寝息が香った。その香りは酒の匂いだった。いつの間に飲んだものか。苦笑いして、布団の中に寝かしつけてやる。


 そして、夜が明けた。

 リコはぐっすり眠っている。

 脅かさぬよう、刺激せぬよう、そっと布団を直してやる。


 昨夜は一睡もしていない。しかし心は、戦場におもむく気練りを終えていた。

 これで気練りが足らなければ、あと何年練ればよいのか? そう思えるほど、気力は充実している。


 朝飯を食った。店主は娘の行方を心配している。「大丈夫さ、リコは」と答えてやった。


 まだ布団にくるまって眠っているリコ。ミノムシのような姿を見下ろしながら、支度を整える。


 さあ、これこそが俺の初陣だ。


 代金を払って、宿を出た。


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