アイスクリームを食べよう
*
夏のある日、僕は幼馴染の葉山咲良と共に駅前に新しくできたというアイスクリーム屋に向かっていた。
暑い日にわざわざ日光の照り付ける屋外に出るのは如何なものかと思わないでもない。が、昔から咲良と過ごす時間は何かに限ることなく楽しいから、評判の良いアイスクリームへの期待の側に僕の気持ちは傾いていた。
家の中にばかり居るのも飽きてしまうしな。
実の兄よりも咲良になついている僕の妹が付いてこなかったのが意外だったが、今の僕の気分は概ね愉快だ。
アイスクリーム屋の前に着くと、長い行列ができていた。スマホをいじったり、顔を見合わせて会話しながら順番待ちをする友達グループや親子づれに混ざらなければならないようだ。
しばらく列に並んでいると、「あの子可愛いね」とかいう声が、一部の連中から聞こえてきた。
一方、好奇の目で見られる当人の咲良は、アスファルトに顔を伏せて吐息を漏らしていた。僕の距離からは、それがため息だと判る。
しばらく経って、僕たちの順番が来た。注文をした後、咲良は拗ねたような顔で僕を見つめて、言った。
「ねえ、晴輝。アイスクリームの歴史って知ってる?」
僕はほんの少し優越感を得たような気分で、知らないな、と答えた。
「アイスクリームの起源は諸説あるけれど、古代ローマ帝国まで時間を遡ることができてね、」
咲良はあまり公言しないが、歴史好きなのだ。いわゆる、歴女である。
「かの有名なユリウス・カエサルが部隊を率いて山岳地帯へ遠征するときに嗜好品として部下たちの雪や氷を持たせたことが始まりだと言われているの」
「夏場では、いつの時代も暑いだろうからな」
「うん。それよりも前から、健康食品として食べられてはいたけれど、現代のようにおやつ感覚で食べたのは、カエサルが最初。その後、キリスト教徒への迫害で名高い暴君ネロが、果汁や花の蜜などを氷に混ぜた氷菓を愛飲していたという記録があるわ」
初期の治政や嗜好を考えると、ネロを暴君と一言で言い切りたくはないんだけどね、と咲良は呟くように付け足した。
「その頃には、スウィーツらしくなったんだな。けど、それだとどちらかと言えば、シャーベットじゃないか」
「うん、乳成分が入ってくるのは十三世紀ごろの中国・北京でのこと。マルコ・ポーロがそれを『ミルク・アイス』としてイタリアに持ち帰ったことで、ヨーロッパにも今のアイスクリームに漸近したものが伝播したの。特にルネサンス時代の富裕層や諸王朝の国王たちが好んで食べたと言われているわ」
「パンがなければ、アイスを食べればいいのに、って?」
「ふふっ、もしかしたらそんなことを言った人もいたかもしれないね。けれど、その頃にはアイスクリーム屋さんもあったから、民衆も食べられないことはなかったと思うけれど」
しかし、パンを食べる余裕すらなかった人々がアイスクリームなど食べられるものだろうか。
「だから、一般にアイスを食べられるようになったのは、基本的にはアメリカでのアイスクリーム産業化からと考えた方が良いよ」
「やっぱり、アメリカが出てくるのか。大量生産に成功して、コスト削減という感じか」
「その通り♪ 特に、1920年から33年までの禁酒法時代、カポネが暗躍していた時代はお酒の代わりの嗜好品としての評判がよかったの」
「そうして、現代にまで至るわけか。なるほどね。相変わらず、咲良のエピソード的歴史授業は面白いな」
「授業って……。ありがとう。でも、かなり大雑把に説明しちゃったから、抜けてる部分も多いよ。イスラム圏でも独自に同じようなものが食されてきていたし」
歴史の話になると、周りの誰よりも活き活きと雄弁になる咲良なのであった。しかし、
「早く食べないと、アイスが溶けるぞ」
「え、う、うわあっ」
急におたおたし始めた幼馴染の様子を、心が柔らかい毛布でくるまれたような気分で、僕は見ていた。
夏場には暑苦しいだろうか。
暑い中行列に並んでいた後に食べた、という相乗効果もあるかもしれないが、咲良に連れられて食べに来たアイスクリームはとても美味しかった。
ちなみに、この店は少し珍しいメニューになっていて、少量のアイスで複数の味を選択できるというものになっている。そのため、僕たちはそれぞれに五~六種類の味を選び、カップに入れてもらった。
「確かに、この価格でこのボリュームはお得だな」
僕がソーダ味を食べながら言うと、
「味はどうなの?」
咲良はストロベリー味を食べつつ、口をとがらせて言った。
「ああ、味も美味しいよ。優雨に土産に買って行こうかな。家からあまり遠くないから、溶けないだろうし」
「ふふ、さすがお兄ちゃん♪」
「からかうなよ。後で、アイツがうるさそうだからな。『この妹様に土産の一つもないとは、何事かー!』って」
「晴輝ってさ、最近、良く気が回るようになったよね」
「そうか。ん、だが、無神経で鈍感でいるのが嫌になっただけだよ」
「…………」
ソーダ味のアイスの中に、ラムネの粒が入っていた。
甘酸っぱい。
アイスを食べ終わり、優雨に土産を買ってから、僕たちは帰路につくことにした。そうして、僕の家の前にたどり着いて、
「じゃあね、晴輝。また明日」
「ああ、また明日」
咲良は少し先にある家に帰って行った。
少しおかしな妹の機嫌は、土産のアイスで取らせてもらおう。
*
「もう少しお付き合いくださいね。くふふふふふふ」
*
「ちょっと道を訊いてもいいかな、お嬢さん」
私こと葉山咲良が晴輝と別れて、帰って来ようとした家の前に、彼は居た。
いや、「彼」と言っても良いのだろうか? 私にかけてきた声は、女性がわざと低く喋っているように感じる。服装は男の子らしい。帽子を深くかぶっているため顔は窺いにくいけれど、多分私と同年代だろう。
「あれ、聞こえているのかな? いるのなら、僕をジロジロと観察するんじゃなくて、イエスかノーで答えて欲しいんだけれどね」
「ああ、ごめんなさい。道案内ですね。良いですよ。どこへ行きたいんですか」
「貴女と行けるところまで」
………………………………………………は?
「……あーいや、冗談だよ。ごめんごめん。ただ道を訊きたいだけだ。だから、逃げないおくれよ」
逃げるなというものの、彼は立ち位置的に私の家の前で完全に立ちふさがっている。何なんだろう、この人は。なんとなく悪い人には思えないけれど、とても怪しい。
「どこに行きたいんですか?」
彼は口元をゆるく微笑ませながら、
「ここからの最寄り駅に行きたい。口頭で構わないから、教えてもらえないかな」
「良いですよ。まず、……」
駅というと、先ほどまで私と晴輝が居たアイスクリーム屋のすぐ近くだ。説明するためのイメージが、自分の中でつきやすい。
「……ふむ。なるほど、理解できた。助かったよ、ありがとう」
「ええ、では私はこれで、」
家に入ろうとしたが、道を訊いた彼は一向にこの場から立ち去ろうとしない。
「あの、まだ何か御用ですか。私、そろそろ家に入りたいのですが」
「いえね、駅までの時間を見積もってみたのだが、今から行っても電車の時間がちょうど良くないんだ。少しだけ僕と雑談でもしないか? というより、ひとつ貴女に訊きたいことがあるんだ」
道を訊いたばかりなのに、そのうえ、何を知りたいのだろう。
「貴女は、恋をしたことがあるかな?」
「はい⁉ 恋ですか?」
「うん、そう、恋だ。ほかの誰にも代えられない、愛する相手は居るのかと訊いている」
唐突にそのようなことを訊かれて、頭が真っ白になってしまった。動揺のあまり、私は場の空気を流すように彼に訊き返した。
「そんなことを訊いて、どうするんですか?」
「ん、どうもしないよ。しないとも。しかし、質問を質問で返さないでくれるかな。訊いているのは、貴女じゃない。僕だ」
「…………いない、ですよ」
つい、私は答えてしまった。彼の口調は朗らかなのに、どこか謎めいた迫力がある。改めて思うけれど、目の前に居るこの人は何者なのだろうか。
「本当に?」
「ええ、本当です。なぜ、そんなことを?」
「いない、いない、……おかしいな? 僕の勘違いだったのか? 貴女には、一緒にいて心地よい、親しみ深い男性が居るはずだ。本当に心当たりはないのかい?」
言われて、私はとっさに晴輝の顔を思い浮かべた。いつからか、髪型が整い、メガネをかけ始めた幼馴染。ぶっきらぼうさが抜けて、枠の中に体よく収まったような性格になった彼。けれども、メガネの奥の瞳の輝きは変わらず、『私自身』をきちんと見てくれる寺井晴輝。
「親しい幼馴染は居ますけれど、恋愛対象として見たことなんて……」
「へえっ、そうなんだ。そう言う割には、その彼を思い浮かべる貴女の顔は、まさに恋する乙女といった感じだったけれどね」
「そ、そんなこと……!」
思わず、私は両手で顔中をペタペタと押さえたが、あれ、頬のあたりが熱い。
「やれやれ。自覚がないのでは、仕方がないなあ。まあ、これは客観的な判断ばかりが重視されるものでもないか。じゃあ、良いよ。今のところは、それで良い。だが、」
彼は、はっきりと私を見据えて言った。
「…………でも、彼が。彼が苦しい時は、辛い時は、必ず彼を支えてくださいね。彼が苦難を乗り越えられた時には、慰め、褒めてあげてくださいね」
――――――――私には、できないことだから。
そう呟いて、彼か、彼女かは、ついっと踵を返し、駅とは正反対の方向に歩いて行った。声をかけようとしたけれど、憚られた。
強い意志を全身に纏わりつかせていた先ほどとは裏腹に、去って行く背中はとても小さく見えた。寂しがりの少女のような、そんな感じ。私の気のせいだろうか?
「私は…………、」
何者かは分からないけれど、彼女の言葉は私の心の奥を素手で撫でつけるようだった。それでも、外に引きずり出されることのなかった、私のこの想いはなんだろう。
彼女は、曲がり角に吸い込まれるようにして消えた。
もう、夕方。雲がすうっと引いて、夕陽が爛々と輝いている。眩しくて、私は目元を手で覆った。
*
「はぁあ。こればかりは、我ながら余分なことをしたかもしれませんね。でも、これで心置きなく彼と戦える。でもなぁ、でもなぁ、やっぱり羨ましいですよ、おねーさん」
彼女の弱音は誰にも聞かれることはなく、誰にも届くことはない。
彼女自身以外には、誰にも。
時系列が少々ややこしくてすみません。意味深なことを言わせていただければ、この「アイスクリームを食べよう」は「雲に覆われて」よりも前の話です。つまり、晴輝くんが香純ちゃんと「雲に覆われて」で顔を合わせるよりも前、ということになりますね。