「やっぱり姉さんの靴はもうなかった」
秋から冬にかけての朝はとても寒い。布団から出たくなくなるけれど、一階から母さんに叱られてしまうので、なんとか抜け出す。
ぼくは自分の部屋を出て、隣の部屋をノックした。「どうぞ」と部屋の中から返事が来たので、ぼくはそっと扉を開ける。
姉さんが椅子に座って何かの本を読んでいる。もう制服に着替えていて、鞄も足元に置いてあった。
「おはよう、姉さん」
「おはよう、夕霧くん」
挨拶するときは顔を上げてくれたけれど、すぐに姉さんの顔は本のページに向いてしまう。
「あー、ね、姉さんはもう朝ごはんは食べたの?」
ぼくはなんとか話を続けようとした。でも、
「うん、私はもういただいた。夕霧くんも早く食べてくると良い。遅刻する、とまではいかないだろうが、朝は余裕を持って行動するに越したことはない」
そう言って、再び姉さんは読書を再開した。遠回しに、部屋から出ていくように言われたようなものなので、粘りも虚しくぼくは姉さんの部屋を後にした。
姉さんがぼくよりも毎朝早くごはんを食べていることは本当は知っていた。ぼくだけじゃなくて、父さんや母さんよりも早いんじゃないかと思う。夜も、ぼくたちが食べ終わった後に一人で食べていたり、一緒に食べる時もすぐに食べ終えて部屋に戻ってしまったりする。
姉さんはぼくたちと一緒に食事を取りたがらない。
姉さんがそう言わなくても、はっきりと伝わっている。
だからせめてはと思って、ぼくはいつも朝起きてすぐに姉さんの部屋に挨拶しに行ってお話をしようとしているのだけれど、いつもやんわりと追い出されてしまう。
「今日もあまりねばれなかったなぁ」
とぼとぼと階段を降りていくと、お肉を焼いているような良い匂いが近づいてきた。
ダイニングを通り過ぎてキッチンまで行くと、母さんがフライパンでベーコンを炒めていた。
「おはよう、母さん」
「おはよう。もうちょっとしたらできるから、座って待ってて」
「はーい」
ぼくは洗面所で髭を剃っている父さんに挨拶しながら、ダイニングに引き返す。テレビでニュースを見ながら待っていると、母さんがお皿を持ってきてくれた。お皿の上にはベーコンエッグを乗せたトーストがあった。湯気が立っていて、熱々で美味しそう。
「いただきまーす」
「熱いから気をつけてね」
トーストにパクつくと、パンの柔らかさ、ベーコンのうまみ、とろっとした卵が口の中であふれた。母さんの言った通り熱かったけれど、とても美味しい。ごまドレッシングのかかったサラダも食べ、カフェオレを飲んで一息つく。
「ごちそうさまでした」
ぼくはお皿をシンクに下げてから、洗面所に向かう。
洗面所にはまだ父さんが居た。お湯で濡らして絞ったタオルを頭に押し付けているようだった。
「父さん、まだいたの?」
「ああ、なかなか寝癖が直らなくてな」
タオルを押し当てては鏡で後髪を確認するのを繰り返していたようだ。ぼくが歯みがきをし始めてもしばらく続けていたけれど、ようやく寝癖を直すことができたようで、ぼくの頭にぽんぽんと置きながら、
「遅刻するなよ、夕霧」
「父さんもね」
ぼくも顔を洗ってクシで寝癖を直してから、またダイニングに戻って、テレビで時間を確認する。支度はしてあるから、あとは着替えるだけ。結構余裕がありそうだ。
二階へ上がって、ぼくの部屋で着替え始める。最近寒くなってきているので、生地の厚い長袖のシャツに袖を通して、長ズボンを履く。
ぼくが着替えている間に、隣の部屋が開く音がした。気になって顔を出したかったけれど、ズボンをまだ履けていなかったので、あわててズボンに足を突っ込んだ。
チャックを閉めるよりも先に廊下を覗き込んだけれど、もう姉さんの姿はなかった。
今日も、一緒に学校へ行こうと誘えなかった。
ちゃんと着替えて持ち物をまた確認してから、ぼくはランドセルを持って、また一階に降りた。父さんがちょうど家を出るところだったので、母さんと一緒に見送った。
「ぼくもそろそろ出ようかな」
そう言って玄関に向かおうとすると、
「待って、夕ちゃん」
母さんに呼ばれたので振り返ると、母さんがマフラーを持ってきていた。紺色のマフラー、ぼくのだ。
「今朝は寒いからマフラーを巻いていきなさい」
「えー、まだ良いよ」
「ダメよ、風邪引いたら大変じゃない。暑くなったら外せば良いんだし」
「荷物になるよ」
「手提げのバッグにしまえば邪魔にならないじゃない。今日は体育があるから、バッグも持っていくんでしょう」
「……わかったよ」
しぶしぶそう答えると、母さんは巻くところまでやってくれそうだったので、すぐにマフラーを受け取って自分で巻いたーー母さんは優しいけれど、ちょっとしつこいなって思うことがある。
マフラーも巻いて、今度こそ学校へ行こう。
「いってきまーす」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
母さんに手を振り返しながら、ぼくは玄関にある靴を見た。
やっぱり姉さんの靴はもうなかった。
家から出てしばらく歩き、家の裏の橋の方に女の子の姿を見つけた。彼女もぼくの姿を見つけたようで、大きく手を振ってくれる。
ふわふわな髪のショートカットに花の髪留め、クリッとした目に形の良い唇が開いている。
「夕霧くん、おーはよっ!」
「ゆかりちゃん、おーはよっ」
柏木ゆかりーーゆかりちゃんといつものように挨拶を交わす。ゆかりちゃんとは家が近いので、一年生の頃からこうして待ち合わせて一緒に学校に行くことにしている。
「夕霧くん、ちょっとテンション低くない? どしたの?」
「そうかな。……まあ、うん。今日も姉さんに一緒に学校へ行こうって誘えなくてさ」
「またお姉さんか。……はっ! まさかあたし、捨てられちゃうの⁉︎」
大げさにショックな表情を浮かべるゆかりちゃん。
「どうしてそうなるのさ⁉︎ もちろんゆかりちゃんも一緒だよ」
「ふーん。ま、あたしはお姉さんがいてもいなくてもどっちでも良いんだけどね」
ちょっと不機嫌そうな声で言う。
「まったくまったく、夕霧くんはほんとシスコンなんだから」
「シスコン?」
「えーと、何だったかな。あ、そうだ、シスターコンプレックスってやつ。お姉ちゃん好き好きーってなっちゃう人のこと」
「そんな大げさじゃないと思うんだけどな」
「あのね、夕霧くん。一応言っておくけど、お姉さんとは結婚できないんだからね?」
「それはそうでしょ。結婚したいと思ったこともない。姉さんは姉さんなんだから」
何を当たり前のことを真面目そうな顔で言うのやら。ぼくが不思議に思っていると、
「ならば良し!」
「ん?」
「さあっ、夕霧くん! 今日も元気に学校へレッツゴー!」
「ちょっ、ゆかりちゃん⁉︎」
ゆかりちゃんがぼくの手を取って、ずんずん歩き始めてしまうので、足がもつれてしまう。
よくわからないけど、ゆかりちゃんの機嫌が良さそうなので良いのかなと思う。
教室の前でゆかりちゃんと別れてから、ぼくは自分の席に落ち着いた。なんだか学校に来る前からもう少し疲れてしまった。
あくびを一つすると、途端に眠気が戻ってくる。朝のホームルームまでまだ時間があるから、ちょっとだけ寝ていようかな、と。頭を机の上に伏せようとしたその時。
「よっ、おはよう!」
そんな挨拶と一緒に背中を叩かれて、ぼくは跳ね起きた。
「ははっ、良い反応してくれるじゃねーか。まだ眠いのか」
ぼくと同じくらいの背丈の男子。気さくな笑みを浮かべて親しげに声をかけてくるけれど、ぼくはその男子のことを知らなかった。
なので、戸惑いながらも訊くしかない。
「あのー、きみって、誰だったっけ?」
「俺が誰かって。酷いなぁ、寝ぼけついでに俺のことを忘れるなんて」
男子は笑ったまま答えた。
「俺だよ俺、井坂文弥だよ」
のんびりしているようで色々詰め込まれたサードシーズン第1話でした。
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