雲に覆われて
これまでも、ちっとも物語らしいことを語ることがなかったし、今回もその例に漏れることのない、ただただ日常のありふれた風景を語るだけである。しかし、その時のことは、客観的に見ればその通りであるのだが、僕にとってはとても劇的な出来事だったのだ。
妹の友達が家に遊びに来るなんてことは、妹を持つ兄なら誰でも経験しうる日常風景であるだろうし、そんなことぐらい僕にだってわかる。けれども、これだけは言わせて欲しい。
僕は、あの娘には決して出会いたくなかった。
妹の優雨が友達を家に招くというので、この時の僕は自分の部屋に引っこんでいた。さすがに、遊びに付き合ってやるような年頃では、お互いにないし、そんなお年頃の女子たちに囲まれても立つ瀬がないし、そもそも混ざりたいなどという意思自体が全くない。
優雨もどうせ邪魔者扱いしてくるだろうから、せいぜい部屋で読書にしけこむのが吉だ。
二階にある僕の部屋のちょうど真下は優雨たちがいるリビングであるため、ときどき優雨たちの声が漏れて聞こえる。
僕はなんとなく読書を中断して、これまたなんとなくベッドに体を投げ出した。
全く聞く意思はないけれども、耳をふさぐほどでもない優雨たちの嬌声を聞いていると、珍しい、今日来た優雨の友達は一人のようだ。いつもこの妹が友達を家に招くとなると、二ケタの単位の女子たちをはべらせて来るのだが、父さんのようにふざけた言い方をするなら、あな珍しや、である。
ま、何人連れてこようが僕には関係ないが。
一階のリビングの様子など全く興味はないと断言しておくけれど、ふと、のどが渇いてきた。
一階にある冷蔵庫の、麦茶でも飲もうか。
そういった、一階に行く言い訳や口実とは断じて異なる理由で下に降りようと僕は部屋のドアを開けた。
「こんにちは、おにーさん♪」
どういう訳か、ドアを開けてすぐ目の前に女子がいた。頭一つ分下から覗く表情は、そのまま仮面が作れそうなほど、分かりやすく笑顔だった。
「お邪魔させていただいています、優雨ちゃんの友達です」
かしこまった言い方をしながらも、彼女はそのまま僕の部屋にひょいと這入ってきた。
おいおい、少しは遠慮というものが――――、
「くふふふ。これは素晴らしい。とても片付いていますね。来客の予定でもあるのでしょうか。いや、というよりは自分一人が使うのに最適な状態にしてあるって感じですかね」
「きみ、前にどこかで会ったことがあるかな?」
「おや、どうしてそう思われるのですか」
「いや、距離感がね……。別に、馴れ馴れしいと言いたいわけじゃないんだが」
「図々しいということですよね。いえね、自覚はあるんですよ。しかし、自覚があってもコントロールしきれないのが自我というやつでしてね。すみません」
「別にいいんだけど。そういや、優雨は?」
「優雨ちゃんは、コンビニにお菓子を買いに行きました」
「コンビニに? 君も行かなくて良かったのか」
「行っても良かったんですけれどね。ちょっと、わがままを聞いてもらったんです」
「わがまま?」
「ええ、私、おにーさんとは前々からお話ししたかったんです」
そんなことを言う彼女の表情は変わらず笑顔である。
しかし、それがうれしさから来るものであるとは、なんとなく思えなかった。どちらかといえば、滑稽なものを見て嘲笑うような、あるいは、もう笑うしかない状況に浮かべる苦笑いのような、そんな印象を受けた。
まあただの、被害妄想だろうけれど。
「では改めまして、私は雲居香純です。字は雲居雁の雲居に、香り松茸味しめじの香と至純の愛の純で香純と書きます」
「ええと、僕は」
「寺井晴輝さんでしょう。出鼻をくじくようで申し訳ありませんが、あなたのことはずっと前から存じ上げていましたよ」
「ずっと前から?」
「ん、ああ、いえ、優雨ちゃんとの話の中で、たまにおにーさんのことが話題に上がっていましたので」
なんだと。それは少し気になるな。
「優雨は僕のことをどういう風に話しているんだ?」
「気になりますか」
「や、気になるというほどではないが」
「おにーさんとのことをいつも楽しそうに話してくれましてね。よっぽどおにーさんのことが好きなんだなって、思わされましたよ」
「う、ウソだろ⁉」
「ウソですよ」
……おい。
「ごめんなさい。私、勝手に親しみを感じてしまって。不愉快ですよね」
「そんなことはないけど」
「それならば幸いです。まあ、本当のところは優雨ちゃん本人から聞いてください」
「それで、雲居さんは、」
「香純ちゃん、で結構ですよ」
「いやでも出会ったばかりの娘に、そんな……」
「良いんですよ。図々しい私ではありますけれど、おにーさんの方から親しみをもって接していただけるのであれば、これに勝る喜びはないといっても過言ではありません」
「ないのか」
「ないのです。おにーさんは、人の顔色をよく見て、それに合わせた接し方をなさる慎重な方なのですね。私も見習わなければなりません」
「見習ってもらうほどじゃないよ」
「謙遜なさらないでください、おにーさん。私は自分の性格の短所は自覚しているんですよ、これでもね。だから、ほかの、例えばあなたのような方をよく見て学び改善したいんです。人の振り見て我が振り直せ、ってやつですね」
「…………」
「ですから、私相手にそこまでかしこまらなくても良いのです。たかが、妹の友人なんですから、私は。おっと、この言い方では優雨ちゃんを見下げたようになってしまいますね。そんなことは決してないので、誤解しないでくださいね」
僕は、思わず窓の方に視線を移していた。コンビニに行くのにどのくらい時間をかけるんだ、あいつは。最寄りのコンビニは家から五分もかからないはずなのに。その、つまりあれだ、自分の友達を家に招いておいて、そのような行動をとるのはどうなんだという正論を僕は言いたいわけで。
「お、これはこれは。おにーさんも読書がお好きなんですか?」
いつの間にか香純ちゃんが窓の前に回り込み、本棚を指さしながら言った。
「ああ、うん。そうだよ」
彼女は、手に取ることはないものの、本棚にある本を検分し始めた。
「なるほど。『こころ』に『藤野先生』に『富嶽百景』ね。くふふ、おにーさんは近代文学を嗜んでらっしゃるんですね」
「嗜むって、大袈裟だよ。ただ、読んでるだけだ」
「くははは、それにつけても良い本棚ですねえ。まるで高校の教科書を読んでるみたいだ」
「…………」
「おにーさんは、ほかにも好きな本はありますか。あるいは、作家とかも。……あー、いや、この場でそんなに広げるべき話でもありませんね。またの機会に、教えてください」
「別に、今教えても良いんだけど、」
「ところで、おにーさん。これまた図々しさを承知で申し上げたいんですけれど、本棚の位置は変えた方が良いと思いますよ」
「え?」
「風流とかそんな胡散臭い話ではないんですけどね。その位置では本に日光が当たってしまって、日に焼けてしまいますから。僭越ながらアドバイスさせていただきますよ、根っからの読書好きの私からね」
「あ、ああ、今度の休日に模様替えしておくよ」
「くふふふ、どんなものであれ、あるべき姿でいることが一番ですから」
すると、玄関の扉が開く音が聞こえた。優雨が帰ってきたらしい。
僕は、優雨が帰ってきたから一階に行こう、と香純ちゃんに言い残して、足早に階段を駆け下りた。その時に、今日はこのくらいにしておきましょうかねえ、という呟きが聞こえたような気がするが、意味が分からない。まあ、気のせいだろう。
「たっだいまー。お、兄さんがお出迎えとは。はい、レシート」
「おかえり。そして、何故僕にレシートを渡す?」
「この分のお金をくれるんでしょ?」
「あげないからな。お前が勝手に買ってきただけだろう」
「ちぇっ」
相変わらずの妹のがめつさに、何故か僕は安心感を覚えた。
「お帰りなさい、優雨ちゃん。待ちかねてましたよ」
「おお、美少女に出迎えられる、この感動!」
そう言って、優雨は玄関に現れた香純ちゃんに抱き付き、香純ちゃんもそんな優雨をしっかりと抱き留めていた。
なんだ、この背景に百合が咲いてそうなシーンは。
「どうよ、兄さん。カスミちゃん、滅茶苦茶可愛いでしょう」
「え、ああ。まあ、そうかもしれない」
大きめの瞳に、薄く広がる唇。ゆるくパーマのかかったセミロングよりは少し短めの髪型。確かに、優雨の言うように、彼女は可愛い部類に入るかもしれない。
今の今まで、全く気付かなかったのだが。
それからは、優雨が買ってきたお菓子を食べながら僕たち三人は歓談を楽しんだ。しかし、優雨がいるだけで、こんなに話が弾むとは思わなかったな。
誤解を恐れずに言えば、先ほどまでの香純ちゃんとの二人きりの会話は息が詰まるようだったのだ。その時の心境を説明しづらいのだが、取り調べを受けているかのようなプレッシャーを、僕は感じていた。
もしかして、彼女は知っているのか。
いや、まさか。そんなはずはないだろう。多少変な個性の持ち主であるとはいえ、ただの妹の友人なのだ。
警戒する必要はない。そのはずだ。
時計を見ると、夕方の六時を指していた。
「おや、もうこんな時間ですか。名残惜しくはありますが、そろそろお暇させていただきますね」
「えー、帰っちゃうの? なんなら夕飯、うちで食べて行ったって良いんだよ」
「ごめんなさい。多分、母が用意をしてくれていると思いますから」
「残念、また来てね」
「ええ、是非」
やはり、僕が先ほどまで香純ちゃんから感じていたプレッシャーは気のせいだったようだ。三人で話している際の雰囲気から、美少女好きの優雨が咲良の次ぐらいに彼女を気に入っているのも、まあ分かる気がする。
「兄さん、わたし皿とか片しちゃうから、香純ちゃんの見送り頼むわ」
は? 自分ですれば良いのに。
と、思ったのだが、優雨はさっさとリビングの方へ引っ込んでしまった。てっきり片づけは僕に押し付けてくるとばかり思ったのに。
しょうがないので、僕は次の曲がり角まで彼女を見送ることにした。
「くふふ、おにーさんにお見送りしていただけるとは嬉しいですね。欣喜雀躍と言っても過言ではありません」
「それはさすがに過言じゃないか」
「過言ついでに、一つだけ豆知識を披露させていただけませんか。度が入ったメガネと伊達メガネって見分けることができるんですよ」
「……え?」
「これが結構簡単なことでしてね。度入りのレンズの場合は、レンズを通すと輪郭が歪んで見えるんですよ。しかし、伊達の場合はそのまんま。面白いでしょう」
「…………きみは、」
「どうしました、そんな鳩が豆鉄砲を食ったような顔をされて。ただの雑談じゃないですか」
「きみは僕の何を知ってる?」
「私に訊くより、自分の胸に尋ねてみてはいかがです? ああ、お見送りはここまでで結構ですよ。ありがとうございました」
「………………」
「いやだなあ、そんな怖い顔をなさらないでください。それでは、私はこれで失礼させていただきますね。またお会いしましょう、おにーさん」
香純ちゃんは、迷いのない足取りで歩いて行く。僕はそれをただ黙って見ているしかない。
僕は、ふと空を見上げた。
夕陽が雲の間に沈み、途端、空に暗闇がじわりと広がっていく。陽光の残滓は抗うように瞬くが、わずかに冷たさを伴う風に吹き払われた。
夜が始まるのだ。
割とシリアス目でしたね。このあたりから、シリーズ化を意識するようになりました。