その名は……(中)
風早日和。彼女は僕と優雨のはとこである――父方の遠い親戚だ。
僕たちが幼い頃に遊びに来ることが多く、一緒に遊んでもらうことが多かった。遊んでもらうというか、遊ばれていたというか、日和おねーさんには全く読めないハイテンションぶりで振り回されたものだ。
僕が彼女のことをすぐに思い出せなかったのは、そういったトラウマ要素的な記憶に蓋をしたからなのかもしれない。しかしまあ、昔から付き合いのあった咲良も含めて、日和おねーさんとは楽しく遊んだ記憶も確かにあるので、ゼロにしてしまうほどに忘れたいものではない。そんな思い出だった。
当時は、彼女のことを「日和おねーちゃん」と呼んでいた(呼ぶように強いられていた)が、十年位ぶりに再会した彼女は、「おねーさん」に昇格しているらしく、そのように自称していた。
それどころか、学校では教育実習生の「風早先生」と呼ばなければならないので、大変ややこしいことになっている。意外な再会だけでも、こちらは戸惑っているというのに。
平穏な日常の、存亡の危機だ。
そう思っていたけれど、僕の危惧は杞憂だったようで、日和おねーさんならぬ風早先生は、学校で僕に接触してくることはなかった。
僕たちが教室で授業を受けている中で、教室の後ろで時折メモを取りつつ見学をしていたり、昼休みも教育実習生同士で固まって別教室で昼食をとっていたり、そんな感じだ――しかし、考えてみれば当たり前か。例え親戚が学校に居るとはいえ、生徒には分け隔てなく平等に接しなくてはならないだろうからな。僕としては、安心して過ごすことができるというものだ。
そのまま放課後になり、僕は図書室に向かうことにした。最近、僕は香純ちゃんの影響で読書が好きになり、帰宅部で空いた時間をたまに図書室で過ごすようになった。
また、香純ちゃんから頻繁に色んな本をお勧めされていて、今日はそのお勧めされた本の一つである『夏への扉』を借りることにした。
香純ちゃん曰く、「『夏への扉』は、一般教養と言っても過言ではないです。これを読まずして、SF小説を読んだことがある、なんて言わせませんよ」とのことだ。
流石に過言であると思うけれど、嬉々としてそう言う彼女を見ていると、言い返す気も失せてしまう。
きっと、これは良い傾向なのだろう。彼女にとっても、僕にとっても。
そんな訳で、僕は文庫の棚から『夏への扉』を取り出し、カウンターで貸出手続きをした。
このまま家に帰るのも良いけれど、咲良が何か用事があるようだから、それを待つついでに読んでみよう。表紙の絵や裏表紙のあらすじから内容も気になっていたことだしな。僕は窓際の椅子に座って、荷物を傍に下ろしつつ本を開いた。
ほんの少しの読書タイム。そう思っていたのだけれど、僕が思っていた以上に熱中してしまった。文章を追う目が、ページをめくる手が止まらないのだ。日本人の感覚ではよくわからない本場のアメリカンジョークが所々にあって、その部分では引っかかってしまうものの、あれよあれよと移り変わっていく展開に目が離せないのだ。面白い。これは面白い。
あまりに読書に集中していたため、
「晴輝せんぱーい、読書にかかりきりのところ申し訳ありませんが、そろそろ閉室時間ですよー」
後ろからかけられた声に、ビクッとすくみ上ってしまった。もちろん、こんな風に僕に声をかけてくるのは香純ちゃんだ。
「香純ちゃん、どうしてここに?」
「私も本を借りようと思って立ち寄ったんですよ。晴輝先輩にもお会いできるかなーという期待もありました」
「そうだったのか。……あ、そうだ、咲良は……」
「お帰りになったんじゃありません? 放課後になってもう三時間は経っていますから」
「いや、でも、用事があるらしかったから待っていたんだけど……って、あれ、LINEが来てる」
スマホに通知が来ていた。開いてみると、咲良から一時間ほど前にメッセージが届いていた。
『ごめんなさい、用事が立て続けにあって疲れちゃったから、先に帰ります(汗)』
とのことだ。すぐに返事をすることができなくて、僕の方こそ悪いことをしてしまった。
「……立て続けにあった用事って何だったんだ?」
気になってつい呟いてしまったのだが、香純ちゃんが機嫌よく相槌を打ってきた。
「気になりますねえ気になりますねえ。まあ、あの方は教師陣からの信頼も厚いでしょうから、格好の頼み事対象となってしまったのではないですか」
「…………香純ちゃん、キミ何か心当たりはないかい?」
「ありませんよ。何をもって、私に心当たりがあると思ったのでしょう?」
僕は香純ちゃんの顔を指しながら答える。
「そのニヤニヤ笑った顔から」
「ひどいなあ。ニヤニヤなんて、私笑ってませんよ」
「そうかな?」
「しめしめ、と笑ってました」
「クロじゃねーか!」
ツッコミの勢いで叫んでしまったけれど、ここは図書室だ。図書委員や他の生徒から非難の視線を浴びてしまう。かなり気まずくなってしまったので、僕はそそくさと図書室から立ち去ることにした。そのまま、帰ってしまおう。
昇降口を出た後も、香純ちゃんがチョコチョコと後ろをついて来る。別に良いんだけれど、それでも彼女には少々非難の目を向けざるを得ない。しかし、香純ちゃんは軽やかに笑い飛ばしながら、
「はっはー、怖いなあ。そんなジト目を向けないでくださいよ。私はお困りの先生方に適材適所な人物を紹介しただけです」
「…………咲良に面倒ごとを押しつけたんだな?」
「そうとも言いますが、そうとも限りません。別に、教師の言うことは絶対、なんてことはないのですから、断れば良いんですよ。誰かが悪いとするのなら、断らないあの方も悪いんじゃないですか」
「そう……なのか?」
「ちなみにこれ、あなたにも言ってるんですよ、晴輝先輩。晴輝先輩も良い人間であろうとするあまりご自分の分を超えたことをなさろうとしますけれど、日常を過ごすには生き辛いでしょう。適度な妥協も必要です」
「妥協…………か。そんなに肩ひじ張ってるつもりはないんだけど」
「いえ、それが悪いという訳ではないんです。むしろ、そういう晴輝先輩が私は好きなんですから」
「……それは、ありがとう」
「だから、厄介なんですよ。長所と短所が被っている方は」
「……どうすれば良いんだよ」
「さあ? 何とかしてください」
そんな無責任な、と思ったけれど、香純ちゃんにそこまで何かをしてもらう筋合はない。というか、この積極的で思いやりの深い後輩にあんまり甘えすぎてもいかんな。
「先輩、そこは愛情深いと言うところではありませんか?」
「地の文を読むな」
「表情を読んだだけです」
「それにしても、香純ちゃんって洞察力とか異様に高いよな。ああ、異様って言い方は悪かったかな」
「構いませんよ」
香純ちゃんは昔を懐かしむように目を細めながら続ける。
「その昔、私には師匠が居たんです。変な人でしたよ。勝手に人のプライバシーにずかずかと上がりこんで、秘密も何もかも暴いて回るような人でした」
「……とんでもない人だな。師匠ってことは何かを習っていたの?」
「習っていた、というよりかは押しつけられたと言った方が良いでしょうが、師匠は私に推理力や洞察力を身に着けさせてくれたんです。私も変な子どもでしたが、師匠も過去には変な子どもだったんでしょう。私のことを初めて理解してくれた年上だったんです。私の方もそんな彼女に共感することができて、それでいて私のはるか先を行く師匠に憧れていたこともありました」
「そうなのか。あれ、でも、今は……」
「どこかへ行ってしまいました。その後音沙汰もありませんし。もう会うことはないでしょうが、会えたとしても憎まれ口しか叩けないでしょうね。憧れ以上に今はムカついています」
「ムカついてるんだ」
「ええ。『私は貴女とは違うんだー!』とか叫んでしまいそうです。まあ、それはあちらもわかっているんでしょうけどね」
「ははっ、そうかそうか」
「あのー、晴輝先輩? 私を馬鹿にしてません?」
「してないしてない」
僕はそう言うけれど、香純ちゃんはジト目になって自分の口元を指す。僕も自分の口元に触れてみると、あからさまににやけていた。
「ごめんごめん、ちょっとおかしかったからさ。香純ちゃんがそんな顔しながら話すような人が居るんだな、と思って」
「そんな顔って、どんな顔ですか?」
「えーと、女性とか女子とかじゃなくて、女の子、みたいな?」
「失礼ですねえ、普段の私が女の子じゃないみたいですか」
「そんなこと言ってないだろう! そうだ、話を変えよう! 香純ちゃん、どうして咲良に仕事を押しつけたりなんかしたんだ?」
「ああ、それは、……って、話変わってないじゃないですか」
「え、そうなのか?」
「そうですよ。だって、」
香純ちゃんは早足で僕の二、三歩前に行ってから、後ろの僕を振り返る。満面の笑みを浮かべて、彼女は言った。
「晴輝先輩と二人っきりで帰りたかったからに決まってるじゃないですか」
思ったよりも、字数がかかってしまいました。今度こそ(後)に続きます。




