その名は……(前)
「ハルくん」と、あの謎のおねーさんは僕のことをそう呼んだ。僕のことをそんな風に呼ぶ人物の心当たりは一人しかいない。基本、僕は両親をはじめ多くの人々から「晴輝(先輩)」と下の名前で呼ばれるし、妹の優雨も「兄さん、お兄ちゃん、このお兄ちゃん野郎」など兄として呼んでおり、僕の名前を崩して呼ぶ人物は正直言って居ないに等しかった。あだ名で呼ばれることも中々なかったしな。
決して、友だちが居ないからという訳ではないが。
決して、友だちが居ないからという訳ではないが。
大事なことだから二度言ったけれど、要するに僕が伝えたかったのは、「ハルくん」と呼ぶような人間はたった一人『彼女』しか居らず、その他にはありえないということだ。やっぱり、『彼女』なのだ。
しかし、何故? 何故、このタイミングで?
そもそも、直接僕の家に来ることなく去って行き、回りくどさがあったものの、「明日会える」というのは一体どういう了見なんだ?
言い方と行動から察するに、僕と『彼女』が次に会う場所は僕の家ではないだろう。僕たちの関係性的には僕の家で会う方が自然で手っ取り早いはずなのに、そうしないのは、つまり、そういうことなのだろう。
少し反則を犯すような気分で両親にこのことについて訊いてみようと思ったのだけれど、父は今特に仕事が忙しいらしく取り合ってもらえず、母は何も知らないようだった。父に訊けなかったのは仕方がないとして、母が何も知らないのは妙である。取っ掛かりが一番良く、かつ唯一真相を確かめるための手段が、これで失われてしまった。
自信満々な口調から、ただの道端で会うということもないだろうし、そうなると、本当にわからない。
おねーさんの正体はわかった。しかし、次にどういう形で僕の前に現れるのかが全くわからなかった。
わからないまま、翌朝を迎えた。優雨は「バレー部の友だちと一緒に行くから、お先に~」と言って、僕よりも早く家を出てしまったので、咲良と二人で学校に向かう。
ふと思い立ち、僕は昨日のおねーさんのことと『彼女』のことを、隣を歩く咲良に話してみることにした。当時のことを完璧に記憶しているわけではないけれど、咲良も『彼女』と会ったことがある――どころか、一緒に遊んだことがあったはずだからだ。
「うん、私も覚えてるよ、『彼女』のこと」
僕の予想と記憶は確かだったらしい。
「覚えてるというよりも、中々忘れられないと思うよ。『彼女』のキャラクター性は、私の小さい頃の中でもトップクラスに強烈だったから」
「……ああ。僕も段々とそれを思い出してきているところだよ。それに、今もあの時と全然変わってない」
「変わってないんだ……」
「大人になって知恵を増した分、さらに厄介なことになっていると言っても良いかもしれない」
僕と咲良はそろって、マンガでいう暑さのせいじゃない汗をかく。
「それで、『彼女』がどういう風に今日会うつもりなのかってことなんだが……」
「話を聞いた限りだと、学校で会うことになりそうなんだけど……」
「学校で?」
学校にいるのは、高校生か教師、その他事務の人たちなどしか居ないし、中にも這入れないだろう。『彼女』の歳からして、『彼女』は大学四年生になるころだし。
「うん。でも、今日は平日で、晴輝が一日の大部分を過ごすのは学校だから、放課後に会うよりも自然でしょう?」
「うーん…………、確かにそうかもしれない。昨日、彼女に放課後出くわしたのは、本当にたまたまだったらしいしな」
二重の意味で事故だったという訳だ。
「会った時間帯を考えると、やっぱり社会人じゃなくて大学生だよね?」
「ああ、それは母さんが前に言ってたよ。『彼女』が大学生であるのは間違いない。どの学部や学科までは覚えてないけど」
「大学生が高校の中に這入る方法って、なんだろう……? ……私、何か忘れている気がするんだよね」
「何かって、……なんだ?」
「うーん、簡単な答えがあったはずなんだけど、思い出せない」
「咲良でも、そういうことがあるんだな」
「やめてよ。私だって物忘れすることくらいあります!」
「いや、珍しいと思っただけだよ」
何も、口を微笑ませながら目を逆三角形にするなんて、器用な怒り方をすることないじゃないか。
「けど、僕も確かに思い出せそうで、思い出せないんだよな……」
「うん、まるで喉に小骨が引っかかっているような感覚だよ」
咲良の言いたいことはよくわかる。しかし、わかるけれどわからない。
簡単な問いのはずなんだ。
大学生が高校の中に這入ることが不自然ではない状況とは何か?
「よお、晴輝か。今日、このクラスに教育実習生が来るらしいぜ。教師のタマゴの大学生とかが実習のために小中学校や、高校に来るアレだ。噂だとウチのクラスに来るのは女子大生らしいんだが、美人だと良いよな」
学校の教室についた途端、隣席の友人の井坂文弥によって、僕と咲良を悩ませた問題の答えがあっさりと出された。
教育実習生か、なるほどなるほど…………。
嫌な予感しかしない。戦慄である。
しかし、早まるなよ、僕。判断を焦ってはいけない。
確かに、「大学生が高校の中に這入ることが不自然ではない状況とは何か?」という問いの答えは出せたけれど、何も『彼女』がその教育実習生であるとは限らない。
いや、もう『彼女』と再び遭遇することには変わりないのだけれど、大変な人が僕らの日常に入り込んでくるのは、それこそ僕らの日常が大変なことになってしまうのであって。被害は最小限に留めたいところだ。憐れな小市民の願いは届くのだろうか。
「おっ、先生とセットで噂の教育実習生が来たな」
井坂がそう言ったので、僕は恐る恐る視線を前へと移す。朝のSHRを始めようとする、いつもの担任の姿は別に良い。その隣だ。
灰色のパンツスーツを着た彼女の長い黒髪は、下の方で一本にくくられている。利発そうな整った顔立ち。唇は緩く弧を描いており、大きく、猫のような瞳には緊張よりも期待を窺うことができた。
昨日とは打って変わった装いで眼鏡も掛けていないけれど、僕にはわかる。『目は口程に物を言う』という諺があるが、まさしくその通り。特に、『彼女』の目はうるさいんだ。一瞬、こちらを見た『彼女』の目から、――これは僕にしかわからなかったであろうな――溢れんばかりの悪戯心が伝わってきた。
「今日から三週間ほど教育実習でお世話になります。風早日和と言います。皆さん、どうか仲良くしてくださいね? よろしくお願いします」
『謎のおねーさん』『彼女』と散々ぼかしてきたけれど、その全てを振り払うかのように、教育実習生・日和おねーさんは圧倒的な存在感を放つのだった。
半端になってしまうので、少し短いですがここで切らせていただきます。「その名は……(後)」に続きます。




