第24話 私の世界
自動暖房の低い運転音を聴きつつ、私は目を覚ました。快適な室温が返って、真冬になったことを感じさせる。窓が曇っているのがちょっと不便だけど。なんでいつも冬場は窓が曇るのだろう。
あまり回らない頭のまま一階に降りると、どうしてそれまで耳に入らなかったのか、大人数の賑やかな声がダイニングに響いていた。
「蛍ちゃん、そこの醤油取ってもらえます?」
「ほい、あやめっこ。……ふむふむ、御母堂の料理もやはり美味じゃのう。味噌汁にアゴ出汁も使っておるじゃろ?」
「まあっ、気付いたの? そう。そうなのよ、蛍ちゃん。あなたが初めてよ。ウチの人たちは誰も気付いてくれなかったんだから。……ねぇ?」
「いやいやいやいや、俺は気付いてたよ。敢えてツッコまなかっただけだよ。いやぁ、良いよなぁ、長いアゴという一見コンプレックスにもなりかねない特徴がこんなに美味い出汁になるなんて」
「気付いてなかったことへの弁解はもう良いから、アゴ出汁への誤解を訂正させて。アゴ出汁のアゴは飛び魚のことだから」
何だこれは。
父母が揃っているのは何も問題がないにしても、
「なんであやめと蛍が居るの?」
「あ、おはようございます、ミィちゃん」
「おはよう美空。早く座るが良い。この卵焼きが冷めてしまうのは惜しいぞ」
私の預かり知らぬところで、ウチの朝の食卓に馴染まないで欲しい。
「そう冷たいことを言わないでください。私たちはミィちゃんの登校時の護衛のために来たんですから。あ、おばさん、味噌汁のおかわりいただけますか?」
「その通り。晴れ舞台の直前に何かあってはまずいからの。御母堂、妾はごはんのおかわりを頼む」
「はいはい。まだ沢山あるから遠慮しないでね」
「「はーい」」
「いや、少しは遠慮してくれない?」
どうして母も当たり前のようにあやめと蛍が朝の食卓に居ることを受け入れているのだろうか。
おかわりをよそいながら、母は微笑みながら言う。
「賑やかなのは慣れているわ。むしろ、最近はこんなに人が集まることがなくて寂しかったくらいよ」
「え、そうなの? でも、兄さんと姉さんが居なくなったくらいじゃ……」
「晴輝と優雨がお友達を連れてくることが多かったから、十人前後はザラだったわ」
「……え、うそ……」
今思えば、兄と姉が家を出ているとは言え、三人で食事をするにはダイニングのスペースが空き過ぎていた。テーブルにもゆとりがあって、普段使わない椅子も積まれて隅に置かれているのも、日常の風景に溶け込むあまり違和感すら持たなかったけれど。
そして、その椅子には今はあやめと蛍が腰掛けている。それでもまだ余りがあるくらいだから、母の発言に誇張はなさそうだ。
「家の中にそんなに人が多いのは嫌だ」
「ふふ、そうよね。私も昔はそう思っていたけど、慣れって怖いものよ」
母はそう苦笑しつつも、声色と遠くを見るような目には懐かしさを映していた。
母が回想している時はまだ私が生まれていないか、物心もつかない頃だったと思うので、どうしても共感はできないけれど。
「俺ァ楽しかったぜ。若い女の子たちと合法的に朝食の席を共にできたんだから」
「……最低」
父の発言で一瞬流れたノスタルジーな雰囲気は台無しになった。
「最低なもんか。てめーの子ども以外の青少年と話せる機会なんて滅多にねーんだ。その歳頃のものの考え方や感性、流行りや好き嫌いを学ばせてもらえるのは貴重だよ」
「お父さん……」
時々忘れそうになるけど、父は優秀な弁護士なのだった。家での父は屁理屈ばかりのおじさんだから。
「女子高生たちから若いエキスを接種できるアドバンテージを敢えて否定しようとは思わねえ」
前言撤回までの速度が段違いだった。
やっぱり最低だった。
「ま、友だちと平凡な日常は大事にしろよ。いつまでもあるもんじゃねーからな」
頬杖ついてニヤリと笑う父の言葉を、確かに今の私は否定することができないのだった。
今日は金曜日。明日を挟んで、明後日は私の初めての単独ライブになる。
既に私の新曲のうち二つは電子媒体では配信されていて、無名の新人にも関わらず三位に入っていて、業界で話題になっている。らしい。
らしいというのは、作詞作曲して歌って編曲や収録にも立ち合わせていただいたけれど、どうしても世に広く出回っている実感がないから。
黒子さん曰く、集客も順調のようで会場が埋まるどころかファンクラブの設立も視野に入れられるほどとのこと。
本当、誰の話なんだろう。他人事ならぬ自分事として受け入れるにはあまりに規模が大きい。
当然ながら、学校でも私の芸能活動は知られていて、少なからず私に関心の目を向けられてはいるのだけれど、
「…………」
「…………」
「……あのさ、」
登校する道すがら、周囲に鋭い警戒の目を向けつつ私の側をピタリと貼り付くように歩く、あやめと蛍が怖い。
「もうちょっと普通に歩いてくれない?」
「何を言うんです、ミィちゃん。ミィちゃんを狙う不貞の輩はことごとく始末しなければなりません」
「始末するな。構えた拳を解いて」
「あやめっこの言う通りじゃ。油断は禁物じゃ、敵はどこから現れるかわからん。しかし安心せい。何が来ようが妾が全て燃やすぞ」
「燃やすな。指からライターみたいに出した火を消して」
誰かに見られたらどうするんだ、全く。
……ちなみに、蛍の正体を知ってしまった私たちだけれど、彼女が真の姿で居る時以外にはこれまで通り“蛍”として接することにした。
風貌は限りなく“蓮生司炎伽”そのものになってしまっているとは言え、他の人たちには依然一条蛍と認識されているから、私たちにとっても“蛍”のままで良いかという結論に至った。
だから、火を出すのはやめて。
「ちぇー、しょうがないのう」
蛍は唇を尖らせながら指先の火を消す。
「だが、身辺に気を付けなければならぬのは本当じゃ。其方は其方一人の身ではないことを覚えておけ。大好きな歌を思い切り歌うためにもな」
「……。うん、気を付ける」
「その為にも結界を張っておくか? 意思にまで反応して炎を出すことが……」
「あ、もしもし、晶さん? おはようございます、美空です。朝早くにごめんなさい。実は蛍がですね……」
「やめよやめよ! 火も結界も使わんから、晶にチクるのはやめて!」
手に持った携帯端末を押さえ込まれてしまった。もちろん繋げる前だったけれど、普段の蛍の不敵で余裕たっぷりな態度が瓦解してしまっている。
「地獄の閻魔よりも怒らせた晶の方が怖い……」
「一度死んだ人が言うと説得力が違うよね」
尤も私はいつも優しくしてくれる晶さんが怒っているところを見たことがないのだけれど。
「親しい友人にしか見せない姿もあるのでしょう。わかりますよ、私にも」
「言いつつ腕を組むな。びっくりしたわ」
私にかかる力はキツくないのに、振り解こうとしてもびくともしない。どうなってるんだ。
「もう24話目じゃろ。そろそろデレても良いのではないか?」
「人をツンデレみたいに言わないで。あと、24話目って何の話?」
「そこは気にするな。新世代でメタネタをできるのは妾だけのようじゃからの」
本当はぶっちぎりで旧世代じゃしの、とも呟いていたけれど、本当に何を言っているかわからなかった。
まあ、蛍がよくわからない話をし出すのは今に始まった事ではないから、敢えて追及はしない。
「とか言ってる間にも、腕組んだまま歩かないでくれる? そろそろ人通りの多い道だし」
「んー?」
最早わざわざ反論することすら辞めたあやめ。
「……」
あんまり弾けるような笑顔を向けないで欲しい。抗議する気も失せてくるじゃないか。
仕方がないので、私は溜息と共にひと言呟いた。
「やれやれ……」
二日後、つまりライブ当日。
会場の控え室。既にメイクをしてもらって衣装にも着替えて、見た目だけは準備万端だった。しかし、その心境はと言うと、
「………………」
膝を抱えてガクブルだった。もうお客さんたちが会場入りしているから、その多くの人の気配を感じずにはいられない。うっかり耳を澄ませようものなら、普段聴かない膨大な量の人の音が脳に侵入してきてしまうだろう。
落ち着いて。落ち着いて制御できれば大丈夫。
緊張も上手く抑えなければならないのに、こちらは無意識な身体の反応なのでどうにもならない。
「美空ちゃん。やほー」
フラットな声音に薄い表情ーーいつもの調子で手を振りながら現れたのは純菜先輩だった。
「純菜先輩⁉︎ 来てくれたんですか?」
「うん。来た」
唇を綺麗な半月状にする先輩。あれ、でも事務所に掲示されていたスケジュール表によれば、先輩は春に放送される連ドラの撮影の真っ最中なはずだけど。まさかまたズル休みをしたんじゃ……。
「違う。ちゃんとお願いした。美空ちゃんのライブに行きたいから休ませてって」
「ストレートですね」
「うん。そしたら、良いよって。後輩想いで優しいねとも言われた。私優しい?」
訊かれても困る。でも、
「優しい先輩です。今日ここに来てくれたのが、まさにそうじゃありませんか」
「うん。うん? あれ、なんでだろ? なんとなく行きたかったから来たんだよね。なんで?」
だから、訊かれても困るんだって。
時間が経って段々わかってきた気がするけれど、純菜先輩は感情がないんじゃなくて、自他共に感情が読み取られづらいほどのマイペースな人なんじゃないかと。
純菜先輩はしばらくの間左右に首を傾けていた後、「ま、良いか」と呟き、
「美空ちゃん、緊張してる?」
「今はそんなに。先輩のおかげで気が紛れました」
「そう。良かったね。……あ、そうだ、アドバイス聞きたい?」
「え、アドバイスですか? はい。急でびっくりしましたけど、ぜひお願いします」
「うん。良かろう。……ふふ」
先輩はコホンと咳払いをして、大きな瞬きの後、
「俳優は舞台での演技で物語の世界に引き込む。歌手も歌を通して音楽の世界に引き込む。どちらも同じよ。美空ちゃんがお客さんの世界に振り回されることなんてない。あなたがあなたの世界にみんなを引き込んでしまいなさい」
……麗さん?
私の耳をして一瞬混同してしまうくらい、まるで麗さんが憑依したかのような調子で、純菜先輩は言った。
「どう。似てた?」
「似てました。いや、でもそうじゃなくて……」
「普段の私は上手く言葉が出てこない。から、麗さんの演技してみた。そう、だから、そういうこと」
純菜先輩の演技力の高さのあまり、言葉の内容が頭に入らなかったので、改めて脳内再生して汲み取ってみる。
本当はもっとお客さんの反応や感想を気にした方が良いんだろうけれど、強気にも聞こえる純菜先輩のアドバイスの方が、私にはしっくり来る。
「私の世界、ですか」
私がこれからやろうとしていることを考えると、このくらい強気でいるべきかもしれない。
バンドメンバーには三曲目(、、、)のことは伝えてあって、入念な打ち合わせと練習は済ませてある。
私のラブソングが世に放たれる準備はできている。
“覚悟”なんて強い言葉を使える気がしないから、代わりに“野心”はどうだろう。
今日は私の両親や兄姉たち、咲良さん、あやめや蛍、他にも私の周りの人たちがみんな来てくれている。
麗さんは仕事の関係で、開演直前にはこの会場に着くと言っていた。
利奈さんは事務所での仕事が山積みで今日は来られないととても残念がっていた。私もできれば利奈さんには直接立ち会って欲しかったから残念だけれど、無理強いはできない。
黒子さんは会場に居る。
居てくれなければ困る。
純菜先輩と話していると、ノックの後に扉が開かれた。スタッフの人の代わりに現れたのは、いつもと同じく真っ黒なスーツに身を包んだ、黒子さんだ。
「美空さん。出番ですよ」
「……純菜先輩をここに通したのは、黒子さんですね?」
「僕よりも彼女と話していた方が、美空さんの気が紛れると思いましたから」
「おかげさまで」
純菜先輩の方を振り返ると、無表情のままピースサインを作って、突き出た二本の指を折り曲げている。
相変わらず、黒子さんの采配は完璧だった。
「黒子さん。私の歌、ちゃんと聴いていてくださいね」
「勿論です。関係者席で一音も逃さず聴いていますよ」
私が向けた不敵な笑みに、黒子さんはただ柔らかく微笑む。
彼の開けたドアの外。私は軽やかに進み出て、「いってらっしゃい」と言ってくれる二人を振り返りながら応えた。
「いってきます」
たとえみんなが遥かに壮大で充実した歴史や物語を持っていたとしても。
私の世界で全てを塗り替えてあげる。




