第9話 先輩
一条蛍に薦められた本はどちらも面白かった。
趣深かったと言っても良いのかな。
『思考の整理学』は、最初は現代文の評論を読んでいるような気分だったけれど、一つあたりが短い章を少しずつ読んで比喩をじっくりと理解していくと、その的を射た指摘が面白く感じられた。大人が子供に読ませたいような内容を、何故同級生に薦められているのかという疑問は残るけれど。
『星の王子さま』は、タイトルは聞き覚えがあったけれど、実際に本文を読むのは初めてだった。あらすじも文章もとてもわかりやすい。ただ、解釈の幅が広くて返って難しく感じられた。……むしろ、このように考えることを蛍から求められているような気がした。『思考の整理学』と一緒に薦められたあたりから、そんな意図を読み取れた。
本当、何者なんだろう、あの子は。大人びているとかそんな次元じゃない。口調とか関係なく、数世紀前の人と話しているような感覚だ。流石にそれはあり得ないだろうけれど。
ともあれ、蛍のおかげで麗さんからの宿題はクリアできた。
「よしよし。えらいえらい。これからも自分の感性を深めていきたまえよ」
5月の某日。事務所のトレーニングルームにて。
トレーナーの松田麗さんは満足そうに頷く。
麗さんからの指導を受けるようになってから、自分の声の使い方を自ら把握できるようになってきた。
これまでは気分のままに歌っていたのが、今では自分の声を楽器のように操る感覚が生まれ始めている。
「楽器を維持して鍛えることも大事。でも、それと同じくらい操り手の技術や感性も大事になるの」
それが麗さんのボイストレーニングのモットーらしい。他をあまり知らないから比較のしようがないけれど、技術に振り切っていない麗さんの姿勢は珍しいと思う。
「それに、十代は人生で一番多くのものを吸収して肥やしにしやすい年代だからねェ。感受性の豊かな子なら尚更さ。徹底的に叩き込まなくっちゃ」
「お手柔らかにお願いします」
未だに麗さんのギラギラしている時の眼は苦手。
私の怯えた様子を一頻り楽しんだらしい麗さんは、
「……ふぅ。そろそろ来る頃かな。今日はね。君の事務所の先輩を呼び出しておいたんだよ」
「先輩?」
言われてみれば、ほぼ毎週末事務所を訪れているのに、他の所属タレントに1人も出くわしたことがない。元々人数は多くないらしいのだが、忙しい人たちは更に事務所から足が遠のいてしまうらしい。
だからなのか、事務員の百地利奈さんからは来る度に熱烈な歓迎を受ける。
ちなみに、黒子さんは居たり居なかったりで、どちらかと言えば後者の方が多い。忙しい人なのだ。
「先輩ってどんな人なんですか?」
「役者だよ。人となりは会えばわかるし、何なら名前も顔を見ればわかるよ」
麗さんがそう言ったタイミングで部屋の扉がノックされた。
「おー来た来た。入ってちょうだい」
ガチャリと開かれた扉から現れたのは、どこかで見覚えのある女性だった。
茶色がかったセミロングの髪に、少し垂れ目がちのどこか眠そうな表情。緑色のパーカーにデニムのスカートを履いている。
そこまでまじまじと見つめていてようやく気が付いた。
「おはよー、麗さん。麗さんが言ってた超大型新人ってこの子?」
間伸びした調子で言いつつ、彼女は私を見てくる。
「こんちは。三雲純菜です。俳優やってます。よろしく」
首だけで彼女は一礼した。
「初めまして。私は寺井美空です。えっと、まだ何をやっている訳でもなく、麗さんからレッスンを受けてます」
よろしくお願いします、と私もお辞儀した。
麗さんの先程の言葉の意味がよくわかった。
俳優に詳しくない私でも、三雲純菜のことは知っている。公共放送の朝の連続テレビ小説でヒロインを務めて以降、色んなドラマに出演しており、CMでも時々見かける有名な若手女優だ。
先輩、ということは、この事務所の所属だったのか。
「純菜ちゃんはこの事務所の俳優第一号だよ。ミュージカルやってた時に私が指導したことがあってね、オフの日だから呼び出してみたのさ」
「ん。麗さんの頼みは断れない。あんまり。……ふぁぁあ」
私眠たいですという態度を全く隠そうとしないな、この人。
でも、これだけ忙しい人なのだから、オフの日は少ないに違いない。
「すみません。貴重な休みを割いていただいて」
「良いよ。私も君に興味があったから。美空ちゃんって呼んで良い?」
「あ、はい」
「私のことも純菜先輩って呼んで良いよ。うん、良いね、先輩って」
「はぁ」
途中から独り言ちているが、第一印象よりも親しみやすい人のようだ。……少なくとも、表面的な部分では。
しかし。
「緊張しなくて良いよー。取って食いやしないから」
この人の“声”からは感情が何も読み取れない。“事務所に入った新たな後輩に会いに来たオフの日の女優”以外の情報が全くない。さりとて、嘘をついている気配すらない。
大なり小なり誰からも読み取れるのに、私の耳が悪くなったのかな。
或いは、
「……それとも、私が“演じている”ことを聴き取ったのかな?」
瞬間的に身体がビクッと跳ね上がる。我ながら、これほどわかりやすく「図星」を示すリアクションはないだろう。
「……なんで?」
「麗さんに聞いてたから。良い耳してるって。本当だったんだね。驚いたよ」
多分、普通の人は全く違和感を感じることはないと思う。表情から声の抑揚まで本当に驚いてるようにしか見えないだろう。
でも、私には感じられる。「驚いた」と言ったこの人の感情は依然として全く動いていない。
「ごめんね。嘘をついているつもりはないんだよ。ただ、私には感情がない。喜怒哀楽も“そうすべき”場面は解るけど、衝動的にそういった感情が湧いたことがない」
「感情が……ない?」
「『人の振り見て我が振り直せ』って諺があるよね。私は感情を持つ人たちの振る舞いを見て、自らも感情を持つ人の振りをしてきたんだ。ずっと」
「…………」
振りをすることが演じることになるならば、この人は常に演じ続けていることになる。
「初対面で私の演技に気付いたのは、君とプロデューサーさんだけ。ロボットだった私を“演じる人間”にしてくれたのは、プロデューサーさんがこの世界に連れてきてくれたから」
「あなたも黒子さんにスカウトされたんですか?」
「うん。あの人に見つけてもらったお陰で、今の私がある」
同じだ。私も河原で歌っていたところをスカウトされた。歌うことが好きで、好きなことをもっと究めたくて、私は今ここに居る。
でも、もしかしたら、私も“何か”になりたかったのかもしれない。一人では決してなることのできなかった“何か”に。
「なれるよ、美空ちゃんなら。私も応援してる」
そう言って、微笑む彼女の声からは微かな“揺らぎ”を感じた……本当にごく僅かではあるけれど。
言うほど感情がない訳ではないと思う。
本当にそうならば、自身のことについて話す時に微かな寂しさを交えない筈だから。
「ありがとうございます。純菜先輩」
夜。家に帰ってきた私は、自分の部屋に入るなり、ベッドの上に倒れ込んだ。
今日も密度の濃い時間を過ごした。
あれから聞き役に徹していた麗さんに連れ出されて、純菜先輩とご飯を食べに行ったり、そのままカフェでコーヒーを飲んだり、かと思えば純菜先輩が帰った後には通常通りにみっちりとレッスンを受けたり。
これまでテレビで見ていた人を「先輩」と呼ぶ日が来るなんて思わなかった。今後も似たり寄ったりな経験があるのだろうか。
「芸能人に会いたいなんてミーハーな気持ちはなかったんだけどな」
長いため息をつく。悪くない気分だ。
と。完全に油断しきっていたタイミングで、私の携帯端末が着信を知らせたので、驚いて片足がベッドから落ちた。
相手は……黒子さん?
身体を起こしてから応答する。
「はい」
『お疲れ様です。長い用件ではありませんが、お時間はよろしいでしょうか?』
「平気です。レッスンは終わって、もう家に居ますから」
てっきり、そのタイミングを見計らって電話をしてきたのかと思ったけれど。
『そうでしたか。お休みのところすみません。なるべく早くお伝えしたいことがありまして』
「? 何ですか?」
わざわざ電話をしてくるからには余程重要な用件なのだろう。何となく予感がありながらも、私は黒子さんに続きを促した。
詳細は後日に追ってお伝えしますが、と前置きをしてから、黒子さんは言った。
『美空さんの最初の仕事が決まりました』




