ドクター登場
ドクターを再び書く日が来るとは思いませんでした。
彼女のセリフは一度書き終えた後でまあまあカットしてます。
この辺りで一番大きい病院の駐車場にフィアットは停車した。
ここに最後に来たのは優雨がインフルエンザに罹った時だったかな。確かに地元で大病院と言ったらここが思い当たるけれど、本当にこんな所に世界一の腕を持つ医者が居るのだろうか。そんな評判は聞いたことがない。
「当然ですわ。彼女はもう往診は滅多にしません。今は専ら検査と研究ばかりですから」
「へえ」
家達さんの先ほどまでの嫌がる態度の割には、何となくある程度親しい関係性が窺えた。それに、
「師匠、その方は今おいくつなんですか?」
香純ちゃんも同じことを思ったらしい。話しぶりからして、高齢な人のような感じがしたのだ。
家達さんは表情を変えずに、感情のこもらない声で言った。
「正確な年齢は知りませんが、90代の半ばくらいだったはず。……あの人に会う前に忠告しておきますが、あの人の前ではなるべく感情を表に出さないこと。そして、話すことは全て雑音だと思いなさい。まともに聞いてはダメ」
「…………」
年齢の高さもそうだけど、家達さんの忠告の本気度に絶句してしまった。いや、本当にどれだけ危ない人なんだよ。
足取り重く、されど前に歩く脚は止まらず、病院の自動ドアをくぐった。
家達さんが受付を済ませた後、僕たちが案内されたのは少し離れたところにあるエレベーターだった。エレベーターに乗ると、やけに低い場所にボタンがあった。それに、階層のボタンが二つしかない。『1F』と『R』。一階と屋上だけ?
そのままエレベーターに三人で乗せられ、ドアが開くと、コンクリートの床の先に白い箱のような建物があった。
ここに件の人物が居るのか。
家達さんは何の躊躇いもなく、ノックもなしにノブを回して扉を開いた。僕たちも恐る恐るその後に続くと、
「おはよう、御三方! まだ昼の11時だよ。朝っぱらからご苦労なことだねぇ。トウコちゃんはまだお眠だぜ! 起きてるけど!」
キンキンと鼓膜に刺さるような声が下の方から聞こえてきた。中を見回す余裕もなく、声の主の方を向くと、そこには小さな女の子が居た。……女の子、だよな?
優雨よりも更に一回り背丈が小さく、おかっぱ頭の黒髪の下から覗く顔も小さく、右目には片眼鏡を付けている。子供のようにツルツルの肌なのに、浮かべている表情がどこか大人びている。セーターにチェックのスカートを履いていて、その上に大きな白衣を着ていて、それだけ見ればお医者さんごっこのような可愛らしさがある。
だが、何だろう。この強烈な違和感は。
「お久しぶりね、ドクター。ご連絡差し上げた通り、香純の検査をお願いします。用件はそれだけですから、どうか速やかにね」
「つれないねぇ、シャリーネちゃんったら。お互い積もる話もあるんじゃあないの?」
「ありませんわ。それと、その名にもう何の価値もないと何度言えば理解されますの?」
「母親の胎内から取り上げた時の名の方が印象的だと言ったはずだよ、私からも」
二人の会話を聞いていて、まさかとは思うが、この人が……?
「ええ、そうよ。あたくしが医学の腕と知識だけは信頼を置く、この人が香純を診てもらう医者よ」
「ご紹介に預かりました、Dr.トウコ・キリシマです。どうぞ親しみを込めて、トウコちゃんと呼んでおくれよし!」
ニッコリと笑う彼女は言った。
この人が90代だって? 10歳にも満たない幼女にしか見えないが。
「おやおや、坊やの目は私の外見を見て驚いているね。年齢を聞いたのかい? なぁに、老化遺伝子をイジっただけだよ。寿命は然程変わらないが、死ぬまでの身体のパフォーマンスを少しでも上げておきたいのさ。老い先短い老人の茶目っ気とでも思ってくれたまえ」
「あの、僕まだ何も言っていないんですが」
「視線の向け方と筋肉の緊張具合でわかるよ。声帯を通した言語よりも雄弁なのだよ、身体言語というものはね。……ふむ、君は洋介ちゃんと茉衣子ちゃんの子か。あの子たちは息災かい?」
「は? え、ええ、まあ」
「それは良かった。洋介ちゃんの遺伝ならば、坊やにもさぞや素晴らしい“才能”があることだろう。どう? これから私の“健康診断”を受けてみないかな?」
「ドクター、話を勝手に進める悪癖は相変わらずですわね。あたくしは香純の検査をお願いしたのよ」
家達さんが遮ってくれたお陰で事なきを得た。勝手に話を進められた上に、気づけば僕の素性まで暴かれていた。この辺りは家達さんにと通じるものがあるけれど、この人のそれは、口調の割にまるで感情がこもっていないように思えたのだ。
端的に言って、不気味だ。それでいて、この人がどうしようもなく医者であることがはっきりとわかった。
「香純、というのはそこの可愛らしいお嬢ちゃんかい? パッと見たところ私が処置する必要はもうなさそうだけどねぇ」
「脳機能の検査は慎重にすべきでしょう。それも、“才能”絡みですから」家達さんが抗議する。
「ああ、はいはい。思い出したわ。“記憶”の子ね、いけないねえ、歳を取るとすっかり忘れっぽくて。どれどれ……」
年寄りみたいな発言とは裏腹に、ぴょんと飛び跳ねて香純ちゃんの左腕の手首を触り、かと思えば頭をペチペチと触り始めた。香純ちゃんはされるがままになっている。
「これも診察、何でしょうね?」
「勿論よぅ、香純ちゃん。……ふむ、香純ちゃん、お嬢ちゃんに感謝することだね。お嬢ちゃんの応急処置のお陰で、脳波はかなり安定している。ただ、ちょっと損傷が残っているね。日常生活に問題はないけど、激しい運動はしないように。1週間分の処方箋を出すから、寝る前に一錠飲んで。眠くなる副作用があるから、朝や昼間には飲まないこと。良いね?」
家達さんのことをお嬢ちゃんと呼ぶように、先ほどから僕たち一同が子供扱いされているような感じがする。
「あー、はい。触っただけでわかったんですか? 検査と言われて、てっきりCTを撮ったりするものと思ったんですが」
「ああ、撮るよ、念の為ね。でも、私の診断は変わらないだろう。このくらい触ればわかる」
「はぁ」
香純ちゃんまで呆気に取られているようだった。ただペチペチと触っていただけなのに、処方箋まで出せるなんて。
「機械が奥にあるから付いてらっしゃい。薬局の安西くんに連絡入れておくから、サクッとパシャっと撮っちゃおう」
「CTを写メ感覚で言わないでくれません?」
ツッコミながらも香純ちゃんはトウコさんの後をついて行った。ちなみに後で知ったのだが、トウコさんの言う『安西くん』とは薬局のベテラン薬剤師のことだった。
遠ざかる二人の後ろ姿を見つつ、僕は呟いた。
「何者なんです、あの人は?」
色々とめちゃくちゃ過ぎて、どこから理解して良いのかがわからない。
「理解しようとしても無駄ですわ。医学を突き詰め過ぎて、人間であることを遥か昔に辞めているような人ですもの。あの人の存在で全世界の医療レベルは引き上げられましたが、それと同時に複数の国々から国際指名手配を受けている。ドクターがこんな地方の町の病院に居るのはそのせいよ」
「はぁ……」
これでもだいぶ噛み砕いて説明してくれているのだろうけれど、何を言っているかがわからなかった。それでいて、理解しようとすると自分の中の危険信号が点滅を始めるのを感じる。
「香純の体調の安全のために渋々ドクターを頼りましたが、彼女との縁はこれっきりにすることね。ゲスト出演とでも思いなさい」
「どこからのゲストなんですか」
とか言っている間に、香純ちゃんとトウコさんの二人が戻ってきた。良かった、何もされていないようだ。
「晴輝先輩、このドクター、口さえ開かなければ恐ろしくまともなお医者さんでしたよ」
「本人を前に失礼だよ、香純ちゃん。何も聴診器で君の『ピー』を『ピー』して『ピーーーーー』した訳じゃあないんだから」
「…………」
……すごいな、この人。これまでもアウトギリギリかギリギリアウトな発言の多かったこのシリーズだけど、『ピー』音を使わなければならない事態は初めてだ。
伏せ字を連ねる前に、早くこの場から退散するのが良さそうだ。
「さようなら、ドクター。もう二度とこの子たちを会わせることはないでしょう」
「先生、ありがとうございました」
冷気の伴う声色で告げる家達さんと、きちんとお礼を伝える香澄ちゃん。
「寂しいねぇ、私の出番は良くてカメオ出演か。S級の“才能”ももう失われてしまったし、私の側から出張る意味はなかったな……もし晴輝ちゃんが居なければ」
「え、僕、ですか?」
「縁があれば、またこのお婆ちゃんのところにいらっしゃい。何の研究も診察も放り出して、たっぷり遊んであげるよ」
「はは……」
家達さんの言う通りだ。この人との縁はこれっきりにしておきたい。これ以上拗れる前に。
機嫌良く手を振る小柄な医者から逃げるように、僕たちはそそくさとエレベーターの方へと向かったのだった。
処方箋が出され安静にしているよう指示されたとは言え、香純ちゃんの体調に大きな問題はないようだ。その保証を得る為にどっと疲れるハメになったが、とにかくそれは良かった。
家達さんにお蕎麦屋で昼食をご馳走になった後で、
「気分転換に買い物に行きましょう。香純の服も見繕ってあげたいし。晴輝は荷物持ちをなさい」
「えー」
午前中の病院で既にどっと疲れてしまってあまり力仕事はしたくない。ただ、昼食までご馳走になってしまったからな。
「師匠、そのことなんですけど、ちょっと……」
香純ちゃんが家達さんの耳元に近寄って、ヒソヒソと何事かを話していた。
「……ふふ、わかりましたわ」
家達さんは愉快そうに笑うと、
「晴輝。車で家まで送りますから、あなたは先に帰りなさい。香純も買い物が済んだら、雲居家まで送り届けますわ」
「? はい、ありがとうございます」
発言が180度切り替わったぞ。香純ちゃんからの内緒の囁きで心変わりしたようだ。
その理由は敢えて探るまい。二人の楽しげな様子を見ていて、そう悪い事態にはならないと思うからな。
それに何より疲れた。家のベッドが恋しい。
家達さんの運転するフィアットが僕の家の前に止まった。
「家達さん、昨夜からお世話になりました」
「良いのよ。お礼を言うのはこちらの方。お陰で助かりましたわ」
車を降りると、香純ちゃんの申し訳なさそうな顔が助手席の窓から覗いた。
「あの、……晴輝先輩。昨夜から本当にご迷惑をかけてばかりでごめんなさい。何とお詫びしたら良いか……」
そんな殊勝なことを言うので、思わず形の良い鼻を軽く突いてしまった。
「お詫びはいらないよ。『ありがとう』で良いんだ。僕だって君に助けてもらってばかりなんだ。このくらいなんてことないさ」
そう言うと、香純ちゃんは頬を赤らめて「はい……」と小さく呟いた。
「君が助けを求めるなら、いつだってどこからだって駆けつけるよ。だから、今は師匠とお買い物を楽しんでおいで」
「はいっ、そうします。また明日学校で!」
「うん、また明日!」
挨拶がキリ良く締まったところで、エンジンが再始動し、二人を乗せたフィアットが遠ざかって行った。
やれやれ、今回の冒険はこれで終わりかな。そう言えば、香純ちゃんに釣られて「また明日」と口に出したけれど、今日は日曜なのか。
休日があと半日で終わってしまうと思うと切なくなるな。が、大事な女の子にまた会えると思えば気が紛れるか。
「ただいま」
重い身体を引き摺って家に入った。両親と妹から質問責めに遭いそうな気配がしたが、香純ちゃんの無事を簡単に伝えてから、僕は自分の部屋に引っ込んでそのままベッドに倒れ伏した。
夕飯の時間に優雨が起こしに来るまで、僕はすっかり電池が切れたように眠りこけていたらしい。




