フラワー・ギフト(後)
◇
前回のフラワー・ギフト!
訳のわからないまま、十年前にタイムスリップをしてしまったらしい私、葉山咲良。そこで出会ったのは、
「おれはてらいはるき、ろくさいだっ!」
「おにいちゃん! ゆうとおいしゃさんごっこするやくそくしてたのに、どこいってたのさ!」
十年前の晴輝と優雨ちゃんだった!
うっかり二人を愛でてしまっていたところで、その日が、過去の私が車に跳ねられそうになる日であることに気がついた。
案の定、過去の私に迫るトラック! 私は幼い二人を庇うのが精一杯で過去の私を助けられない――そう思った瞬間、
「僕もお前が大事だから、譲れないものを助けに来たんだ、咲良」
過去の私を助けたのは、私の時代の、この時代から十年後の晴輝だった!
この謎だらけの時間旅行に、一体どんな決着が着くのだろうか⁉
…………なんて、前回のラブライブ!みたいな益体もないことを考えてしまうくらいに、私は呆気に取られていた。
どうして、晴輝がこんな所に? というか、この時代に?
トラックが今さらのように遅れたタイミングで、クラクションを鳴らして過ぎ去って行く。
晴輝は息切れしつつも、幼い私をその場に降ろして、立たせた――ここからのやり取りは私の旧い記憶に残っている。
膝に手を当てて呼吸を整える晴輝に、私がある事を問いかける。そして、それを聞いた晴輝は額の汗を拭いながらも苦笑して答えるのだ。私の目をしっかりと見て言う晴輝に、幼い私は…………ああ、この時の私ってこんな表情をしていたんだ。端から見ると、結構恥ずかしいな。
だけど、そうか、私を助けてくれたあの人は晴輝だったんだ。
ほっとしたような、意外だったような、なんとなく分かっていたような……。でも、……嬉しかった。
ぼんやりと感じていた、あることにも確信を持てたしね。
「おーい、さくらちゃーん!」
「さくらー! 大丈夫か⁉」
私の後ろにいた幼い晴輝と優雨ちゃんが、幼い私に駆け寄った。目の前でよく見知った知り合いが車に跳ねられかけたのだ、心配にならないはずがない――いや、それ以上のことを思ってくれているのかな、優雨ちゃんなんか涙目になってしまっている。
私も私で、その場から静かに離れようとする晴輝に駆け寄った。
「晴輝、どうしてあなたがここに居るの?」
「話せばものすごく長くなる。咲良がこの時代に飛んだ理由も後で説明するよ。それよりも、今はここから離れることが先だ」
「えっ」
「僕たちはこの時代の人間じゃないからな。長居は良くない」
晴輝が後ろを振り返る。その先には、幼い私たちが笑い合っているところだった――しっくりきているというか、完成されているような光景だった。
ほんのわずかな時間でも幼いあの子たちと居られた時間はとても楽しかったけれど、そこに私の居場所はないんだ。
帰りたい。私も私の時間の優雨ちゃんに会いたい。私よりも背の高い晴輝の横顔を見ながら、そう思った。
再び向き直り晴輝が向かう先には、私にも見覚えのある電話ボックス――を模したタイムマシンが見えた。そうか、晴輝はこれに乗ってこの時代に来たのか。
でも、私は?
「咲良、早く乗ってくれ。子どもたちに見つかったら厄介だ」
晴輝がボックスの中の電話機でボタン操作をしながら、私を急かした。私も電話ボックスの中に駆け込んだ。私が乗った途端に、電話ボックスから唸るような起動音が鳴り始めた。
もう一度振り返ると、私と幼い私の目が合った。
私を私とわからないだろうから、幼い私が私に対して何かを思うことはないけれど、私は思うことが山ほどある。何を言ってもしょうがない、結局のところ私は私にしかならないのだから。がんばれというのもおかしいし、二人と仲良くね、というのも今さらな気がする。私はただ曖昧に微笑むしかなかった。
さようなら。
「よし、行くぞ」
晴輝がボタンを押した途端に、視界がぐにゃりと歪んだ。傾き、回り、浮かんで、落ちて。目を開けられなくなって、ギュッと目を瞑ると、突然重力が働いたように一つの場所に落ち込み着地した。
外から電話ボックスが開かれる音がして、そっと目を開くと、
「おかえりッス、晴輝兄、咲良姉♪」
前、右、左の髪をゴムでくくった、パジャマに白衣を羽織った女の子――水川七海ちゃんが腰に手を当ててニカッと笑っていた。
私に続いて、晴輝がしかめ面で電話ボックスから出てくる。
「まったく、無事で済んだから良かったが、もうこういうことは勘弁してくれ……って、七海、どこに電話してるんだ?」
晴輝の言う通り、七海ちゃんはスマホを耳に当ててどこかに電話をかけているようだ。長電話ではないのか、すぐに電話を切って、七海ちゃんは応えた。
「ああ、すいません。ちょっと救急車を呼んでて」
「救急車? 誰か怪我か病気なのか?」
晴輝が訊くと、七海ちゃんはスマホの画面で時間を確認するようにしながら、
「もちろん、晴輝兄のためッスよ。そろそろ時間だと思うんで」
「時間?」
晴輝が首を傾げた瞬間、晴輝の身体がビクッと跳ね上がった。
そのまま「いだだだだだだだだっ⁉」悲鳴をあげると、晴輝はうずくまってその場に倒れた。
「えっ、何⁉ どうしたの、晴輝⁉」
「全……身が急に、痛く、なって、……かっ」
晴輝は充電が切れたように気絶してしまった。気絶しながらも、晴輝の全身が痙攣し続けている。
「晴輝! 晴輝‼」
「大丈夫ッスよ! 大丈夫じゃないけど、大丈夫ッス! 生命に障るほどじゃあないッス」
晴輝に駆け寄ろうとする私を、七海ちゃんが引き留めた。え、でもこれ絶対大丈夫じゃないでしょう⁉ 何、何なのこれ?
「咲良姉、落ち着いてください。これも後で説明するッス」
「またそれ⁉ 後で説明する、っていうのばかりじゃない! 訳がわからない」
「本当にごめんなさい。でも、後でちゃあんと説明大好き七海ちゃんが全部説明するッスから、ね、」
「そうなの? でも、晴輝が」
「晴輝兄も大丈夫! これひどい筋肉痛なだけっスだから! ほら、救急車来たみたいなんで、運んでもらいましょう」
七海ちゃんの言う通りに、救急隊員の方々がこの部屋に這入ってくる。七海ちゃんがすでに説明済みだったのか、晴輝は手際良く担架に載せられ運ばれて行った。七海ちゃんが念押ししているから、多分晴輝は大事には至らずに済みそうだ。
何だか思考が働かない、というかあまりに働き過ぎてエンストしてしまったような気分。はあ。
「咲良姉、呆けているところすみませんが、そろそろ説明タイムに入っちゃって良いッスかね?」
え、ああ、どうぞ?
「この度は、本当にお疲れ様でした。色々あったンスけど、特に咲良姉は訳のわからないまま事態が進んじゃった感があるッスよね。これから順を追って、全部ちゃあんと説明します。さすがに、ここからは失礼なので『ッス』口調はやめます。みんな知ってると思いますが、この口調、父さまに反発した故のキャラ付けですからね。さてさて、本題へ。
「まずは、咲良姉のタイムスリップから。これは誰の手も加えられていない、ただの事故です――あたしたちが知りえない何かしらの事情があるのかもしれませんが、今のところは偶然と考えてくれて良いです。
「これが結構ありえない話じゃないんですよ。ガセも多いですが、実際に偶発的にタイムスリップ・タイムトラベルをしてしまうケースは存在するんです。咲良姉の場合もそれです。
「たまたま不可思議な現象でタイムスリップした。正直、説明にもなっていない説明ですけど、これで勘弁してください。
「続いて、晴輝兄のタイムスリップですが、これは私の仕業です。晴輝兄には、十年前の咲良姉を助けるという役目がありました。これは歴史的に確定事項であり、晴輝兄が咲良姉を助けなければ、未来、つまり現在が変わってしまうことになります。少なくとも、咲良姉はその時にお亡くなりになっていたはずです。
「ですから、現在の晴輝兄が十年前の咲良姉を助ける、という荒唐無稽なことをやり遂げるために、晴輝兄にはタイムスリップしていただく必要があったんです――今回は、単なる時間旅行でなく大切な用事だったので、もし後で父さまから何か言われても、あたしを庇ってくださいね。ね!
「えーと、で、あとは……あ、そうだ、晴輝兄でなければならなかった理由なのですが、これは何となくわかりませんか? 歴史的な確定事項であるのもそうですが、晴輝兄には晴輝兄なりに、十年前の咲良姉と触れ合っていただき、その上で彼女を助けて、ある言葉を彼女に告げなければならなかったからです。これは他の誰でもない晴輝兄にしかできないことです。
「…………最後に、晴輝兄が倒れちゃった理由なんですが、それも、あたしの仕業です――晴輝兄が、十年前の咲良姉がトラックに跳ねられそうになるところから救う時に飲んだ薬の副作用です。ホントごめんなさい。あの、最後まで聞いてください、咲良姉、今の表情は今までのキャラが崩壊しかねない感じになってます。落ち着いて落ち着いて!
「『タッチ』で上杉和也が自らの生命を犠牲に男の子を助けたことがあったでしょう。あれって、普通に考えて不可能なことなんですよ。
「時速数十キロで走るトラックよりも速く道に居る子どもの元にたどり着き、子どもを道の外に弾き飛ばすのなんて無理ゲーです。実際にやってみたところで、間に合わないか、間に合っても二人揃ってお陀仏か、ですよ。そういう速さの問題もありますし、子どもとはいえ人間一人を弾き飛ばすには結構な力が必要だという、力の問題もあります。
「しかも、今回の場合は晴輝兄と咲良姉の両方が助からなければならない。高い難易度が更に跳ね上がってるんです、晴輝兄には人間業じゃ不可能な芸当を、一時的に身につけてもらう必要があったんですよ。そのための、薬――ドーピングです。
「晴輝兄はあれで中々身体能力が高い方ですが、それをあたし開発の薬で更に上昇させました。薬を服用することで、その時の晴輝兄は通常の三倍速で動くことができたんですよ。Fate/Zeroの衛宮切嗣のタイムアルター的なそれです。力については、普段から子ども一人を抱えるくらいの力はあるでしょうし。
「これで速さと力の問題をクリアーできたんです。……ただ、身体を三倍速で動かすというのは、結構な負担が身体にかかるもので、服用後には晴輝兄の身体がその負担で悲鳴をあげてしまったんです。あたしの今の技術では、その痛みを八分抑えるのが限界でして。生命に障るほどではありませんが、瞬間的に筋肉を酷使したせいでひどい筋肉痛になってしまったんです。二日間ぐらい安静にしていれば、すぐに治りますよ。
「そういう訳なんで、咲良姉を助けるためだったんです。晴輝兄にも後でちゃんと謝るので、許してください!
七海ちゃんから謝られてしまったけれど、私は許すのではなく、むしろ感謝するべきなのではないか。
晴輝があんな目に遭ってしまったとはいえ、私は生命を助けてもらった訳だし。私もあの時代に居たのに、結局は幼い兄妹たちと触れ合うだけで何を成せた訳でもないのだから。つくづく、私は情けない。
「あのー、咲良姉? 見るからに暗い顔してるッスけど、誰も悪くないッスからね? 強いて言えば、」
「身の丈に合わない行動を取った、僕の娘が悪いのです」
「そうそう、あたしが……って、うわ、父さま⁉」
七海ちゃんの背後には、いつの間にかボーダーのスーツ姿の背の高い中年の男性――七海ちゃんの父親である水川行成さんが立っていた。
物腰の柔らかな風貌に、皮肉たっぷりな笑みを浮かべている。
一方、七海ちゃんの表情には「やっば」と書かれていそうなくらいの動揺がくっきりと刻まれている。
「なんで、父さまがここに? あと、ここプロテクトをかけておいたはずなんだけど」
「お前が何かをしでかしそうな気配がしたものでね、会議の合間を縫って飛んで帰ってきたのですよ」
行成さんは水川財閥の専務。平日のこの時間(現代に戻ってきたばかりで時間認識がはっきりしていないけれど、多分まだ夕方)は、まだお忙しいはずなのに……。
「それから、プロテクトと言いましたか? 誰を相手にしていると思っているんですか。ここは僕の自宅であるし、それ以前に娘のプロテクトを解くなど一分あれば十分です」
「一分あれば十分って、一分なのか十分なのかどっちなんだって思うッスよね?」
「茶化しても、心証を悪くするだけだ。より長い時間をかけて説教する必要がありそうですね」
先ほど七海ちゃんが恐れていた状況が、今から発生しようとしている。
「あの、行成さん。七海ちゃんは……」
助け舟を出そうとしたけれど、行成さんは手で制しながら、
「わかっています。しかし、すまないね、咲良ちゃん。少し黙っていてもらえますか?」
「…………」
救いを求める目を向けてくる七海ちゃん。でも、ごめんなさい。私にはあなたを助けられそうにない。
「父さま、あたしは咲良姉を助けようとしたんですよ。それに、きちんと晴輝兄が助けるシチュエーションを作り上げたし」
「それでこの結果ですか? 最適解を求める努力を最後まで怠ってはならない、と僕は言いましたよね。結果として、まだ、お前のレベルでは完璧に処理しきれなかった。僕を頼ってくれれば良かったものを……」
「だって、父さま忙しそうだったから……」
「仕事よりも優先すべきことはあります。僕への気遣いはありがたく受け取りますが、それだけでなく、お前には僕への意地もあったんじゃありませんか、七海?」
「それは! ………………」
「意地を持つのは結構。向上心に繋がりますからね。だが、リスクを自分で負えないようでは、お前はまだまだ半人前です。半人前が半端なことをするんじゃない」
七海ちゃんはうつむいて、拳をぎゅっと握り締めている。行成さんの言葉は厳しい。私は、彼女が歯を食いしばっているのが見えた。行成さんは少しずつ七海ちゃんに近づいていく。
「独力で無理なことは、親を頼る。これが最適解だったのですよ。僕ならほぼノーリスクで今回の件をクリアーできました。……しかしまあ、」
行成さんは七海ちゃんの頭の上にぽんと手を置き、言葉同様厳しかった表情を崩した。
「己の技術を他人の幸福のために使う。僕の教えを不器用ながらも守ってくれましたね。よくやりました」
七海ちゃんはぷいっとそっぽを向いた。でも、私の方からはその表情が伺える。照れちゃって、もう、可愛らしい。小学生の女の子らしい、娘らしい可愛らしさだった。
「七海、先に僕の部屋で待っていなさい。……説教ではなく、対等に話し合いましょう」
「はい、父さま」
七海ちゃんは、ではまた、と私に挨拶してから、部屋を出て行った。行成さんは頬を緩ませながら、閉まった扉の方を見つめている。
「ふふっ、七海には厳しいことを言いましたが、あれでも僕には過ぎた娘ですよ。僕も子どもの頃から色々発明をしてきましたけれど、七海は僕以上に飲み込みが早い。それ故の問題もありますが……まあ、晴輝くんには僕からも謝っておきます」
行成さんはこちらを振り返りながら、
「さて、咲良ちゃん。今回の冒険はいかがでしたか? 楽しいことばかりではなかったかと思いますが、何かを掴めたのではありませんか? まあ、あまりお節介は言わない方が良いのでしょうが、……まあそれでも一言添えさせてもらえれば、冒険とは糧として次に進むことに価値がある。どうか良い青春を」
◇
目が覚めると、僕はどうやら病院のベッドの上に居るらしいことがわかった。
窓から見える空は真っ暗。見慣れない白い天井、薄い消毒の臭い、布団一式が白――こんなシチュエーションを現実に体験することになろうとは思わなかった。意識を取り戻すと、意外に早く状況が把握できる。
僕は痛みの余りに気絶してしまったらしい。恐らく幼い咲良を助ける時に使った薬が原因だろう。身体を三倍速で動かすって、よく考えなくても無茶なことをしているもんな。仕方ないと言えば仕方ない。
ところで、多分今日はまだ平日だろうし、身体の感覚からして、今夜休んで治る気がしない。つまり、学校を休まなければならないということなんだけれど、高校の授業は一日でも休むと面倒だからな。咲良を助けるために学校をサボタージュした時にはこういうことはまるで考えなかったけれど、何とかしなければならない。
「それでしたら、最近ようやくできたらしいお友達に見せてもらえば良いんじゃありませんか?」
「そうだよな。利害関係ばかりを考えたくはないが、そういう意味でも友だちって大事だよな…………って、うわっ、香純ちゃん⁉」
ベッドの脇の椅子に、いつの間にか制服姿の香純ちゃんが座っていた。果物ナイフでリンゴの皮を剥いている。
「不肖私雲居香純、お見舞いをお見舞いしに参上しましたよ」
「ああ、それは、ありがとう。……リンゴ?」
「はい、お見舞いの品にと持って来ました。見ての通り今剥いているところなんですが、召し上がりますか?」
「うん、もらおうかな」
「はいはーい」
香純ちゃんは鼻唄を歌いながら、器用にリンゴの皮を剥いていく。
「ああ、そうだ。晴輝先輩、あなたはどうやら今日明日入院すれば退院できるそうですよ。お父様とお母様、それに優雨ちゃんも先ほどまで見舞っておられましたが、晴輝先輩の着替えを持って来られた後、一旦家にお帰りになりました」
「そうなんだ」
二日の入院か。自分の不調に少なからずビビっていたところもあったけれど、大事には至らなくて良かった。
「お義父様とお義母様は一旦家にお帰りになりました」
「何故あえて繰り返す?」
「しかし驚きましたよ、入院なんて。昔も無茶なことをしがちなところがありましたけれど、高校生になってもそのままとは」
「いや、僕もそんなに無茶はするつもりはなかったんだけどな……まあ、こんなことはそうそうあることじゃないから。心配かけたようで、悪かったよ」
「両方の意味で、いえいえ、ですね。あなたの良いことをしたいという性根は死ぬまで治りませんから、今回だけで済むとも思えません。それに、心配かけて悪かった、とは他の方々にも伝えてあげてください。ご両親や優雨ちゃん、それに……葉山先輩にも」
「…………そうだな」
香純ちゃんは剥いたリンゴでうさぎを作り始めた。
「特に、優雨ちゃんと葉山先輩の狼狽っぷりはすごかったですよ。葉山先輩は今回の件の一因であったらしいですし、優雨ちゃんもあれで結構……まあ、それは良いでしょう」
リンゴでできたうさぎが、次々とお皿に並んでいく――いやいや、もう十八匹目だぞ、二人で食べるにしても多すぎるだろう!
「ふっ、ふふっ、はは、ははは、」
「おや? どうされたのです、いきなり笑い出して?」
「ああ、ごめんごめん。君も随分感情的になってきたよな」
二十匹目のうさぎの右耳が切れてしまった。
「そうです、か? えへへ。まあ、少しずつ出していこうかなーと思いまして。色々溜まってましたから」
「うん、それは良いことだ」
「色々たまってましたから」
「何故あえて繰り返す⁉」
やっと、リンゴを切る作業をやめた香純ちゃんは、切ったうさぎリンゴを食べ始めた。
「晴輝先輩も食べてください。あーん、ってしてあげましょうか?」
「いや、良い! 一人で食べられる」
「それは残念」
それからはしばらく無言でリンゴを食べていた。美味しいな。しばらく伸びていたせいか、少し喉が渇いているしお腹も空いているし、ちょうど良い。
ふむ、と香純ちゃんは腕時計を見ると、
「そろそろ私はお暇させていただきますね」
と言って、荷物をまとめ始めた。
「待て待て。まだ切ったリンゴがだいぶ残ってる。十五匹のうさぎが僕を見つめてる」
「もう一人、今日中に見舞客が来るでしょうから。ではでは、今日はこれで失礼します。」
そう言って、香純ちゃんはぺこりと一礼して、扉の方に向かって去って行った。
「少しばかりではありますが、昔の恩返しです。お二人で召し上がってください」
香純ちゃんの言うもう一人の見舞客とは誰だろう。待っていると、十分後くらいに病室の扉をノックする音が聞こえた。どうぞ、と入室を促すと、這入って来たのは咲良だった――もちろん現代の方のだ。
「遅い時間にごめんなさい。この花束を買って来たから」
そう言って、僕の前に出したのは、赤や黄色、オレンジなどの暖色系の色の花束だった。
「わざわざありがとな。これは何ていう花だ?」
「これはガーベラよ。可愛いお花だし、花粉もあまり落ちないの。そこの花瓶に挿しておくね」
「ありがとう」
咲良は器用にガーベラを花瓶に挿してから、「座っても良い?」と訊くので、もちろん、と僕は促した。椅子に腰かけた咲良は浮かない顔をしている。
「咲良……」
「晴輝、今日は本当にごめんなさい。私のせいで」
「いやいやいや、お前のせいじゃない。これは、誰が悪いとかそういうことを考えるんじゃあなくて、お前が助かって良かったって思うべきだろ。僕は大丈夫だから」
僕がそう言うが、咲良の表情はまだ浮かない。
「でも、でも、…………」
「僕が自分からやったんだから。咲良を助けたかったんだから。だから、『ごめんなさい』じゃなくて、『助けてくれてありがとう』で良いんだよ」
僕ははっきりと伝えた。伏せていた顔を上げて、咲良がそっとはにかんだ。
「助けてくれてありがとう。大好きだよ」
…………………………………………は⁉
え、今、お前、なんて……?
「え、いや、その、あ、うわっ、」
はにかんだ咲良の頬が引き攣って行き、冷や汗をかき始めている。顔もどんどん朱に染まって……、
「あの、違うの! 友達としてだから! 昔からの友達としてだから! 決してそういうのじゃなくって! そういうのじゃなくもなくって! あの、えとっ、」
「お、お、お、落ち着け咲良! 分かった! 分かったから! 香純ちゃんが持って来てくれたリンゴがあるんだ。一緒に食べよう」
「そうなんだ! うん! いただきます!」
二人でリンゴを食べることにした。美味しいな。すごく美味しいな。僕はこれで通算九個目のリンゴだけれど、全然飽きないな、この赤い果実――――全力で心中を誤魔化しにかかっているが、頬がカッカと熱い。咲良も僕と同じなのか、リンゴをパクパクと速いペースで食べている。
リンゴのおかげでクールダウンができたところで、
「あのね、晴輝」
と、咲良が話を切り出した。
「私、今回のタイムスリップやその前後で色々考えることがあったの。私って何なんだろうなって。人からどう思われているのかも気になって、自己評価とのギャップも困ったし、どうあればいいのか分からなくなっちゃって。色んな人から色んな話を聞いて、やっとこうすれば良いのかな、っていうのが分かったんだ」
「……………………」
それは他人事じゃないな。僕もさんざん自分がどうあれば良いのか分からずに空回りしてきた。今でもそうだ。
参考にするわけでもないけれど、咲良がどんな答えを出したのかは気になるな。
「まだ答えを出すのは早い! これから頑張る!」
「え?」
「その、ね、私もまだまだ未熟者だなって思ったの。だから、自分がどうあるべきかっていう答えを出すのはまだ早い。だから、うじうじ悩む暇があったら、もっといろいろ経験をしようかなって。それが今の私の答えだよ」
「……はは、そうか」
何だか良い具合に力が抜けてしまった。
確かにそうかもしれない。思春期は悩む時期と相場が決まっているけれど、同時に多くのことを経験できる時期でもある。あるかどうかわからない自分の伸びしろを探して、これから頑張る、というのも確かにありだ。
参考にするわけでもない、とか先ほどは思ったけれど、前言撤回したくなってきた。
「何だかちょっと前までの僕って何なんだろうなって。ここが病院のベッドの上でなかったら泣き伏せりたくなるよ」
「だからっ、うじうじするんじゃなくて、頑張ろう! 私も頑張るから、晴輝も頑張って、ね」
ベッドにもたれかかる僕と、椅子に座る咲良――咲良からの視線がまっすぐに僕に届く。心の何かが発火させられてしまったかのようだ。
「まあ、頑張ってみるよ。自分勝手になってしまいそうで怖くもあるんだけどな」
僕がそう言うと、咲良は何故か悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「『あなたはどうしてわたしをたすけてくれたんですか?』」
…………そういうことか。ならば、僕も返す言葉は決まっている。
「『君を助けたいっていう、僕のただのわがままだよ』」
二日後、そして、一連のオチ。
僕は退院を果たし、自宅に帰って来ていた。
我が家のリビングには、ふたつの長いソファがテーブルを挟んで置かれている。いつかの梅雨の日のように、ひとつのソファでは僕が仰向けに横たわっていて、先ほどまで読んでいた文庫本はテーブルの上に投げ出されていた。
これまたいつかの梅雨の日のように、もう一方では、妹がうつ伏せで寝っ転がっていて、やっぱりこいつも暇なのだ。
「ねえ、兄さん」
徐に口を開いた妹に、僕は「何だ」と答えると、
「今回、わたしの出番少なくね?」
とんでもないことを言い出しやがった。
「お前、メタなこと、いや、滅多なこと言うなよ!」
「咲良ちゃんがフィーチャーされてるから、咲良ちゃんの出番が多いのは分かるよ。ウェルカムだよ。でも、何で兄さん視点があるわけ? 読んでて、引っ込め引っ込めって思ったもん」
「お前、読者だったの⁉」
いや、そんな設定ねえよ。メタネタもいい加減にしろ。
最終話の、しかもエピローグなんだから。
「でもお前、(前)の最初の方とか出てたじゃねーか。それに十年前の姿も結構出てたし」
「でもそれちょっとだけじゃん。あと、黒歴史時代の話はやめて」
ロリ時代のわたしの可愛さは確かに天使級だけどさ、と優雨は続ける。お前のそのバイタリティは一人の人間としては憧れるけれど、兄としてはウザい。
「あとさー、兄さん。わたしの天使たちで中途半端なラブコメ始めないでくんない? すべての美少女たちはわたしの物みたいなところあるから」
「ねーよ。どっちもねーよ。ラブコメを始めてないし、みんなはみんなのものだから! むしろ、お前がそういう方向に差し向けているような描写がなかったか?」
「人のせいにするの、良くない」
「自分の非を認めないの、もっと良くない」
「まあ、確かにさあ、香純ちゃんとか咲良ちゃんの意も汲んで、そういうのを見てるのも面白かったよ。でもさ、やっぱりわたしのものはわたしのものだからねえ。たまに兄さんに貸し出すくらいならいーよ」
「あの二人を何だと思ってるんだ⁉」
「わたしの親友と幼馴染」
「合ってる。合ってるんだけどな」
「兄さんこそ、何にもアプローチ掛けないんだったら、マジでわたしのものにしちゃうからね?」
「だから、そういうのはないんだって。火のないところに煙を立てようとするな」
「このヘタレが」
「この恋愛脳が」
「ばーかばーか!」
「ばーかばーかばーか!」
「うー!」
「がー!」
最早言葉すらなくなり、ただの唸り合い。今にも、取っ組み合いが始まりそうになったその時、インターホンが鳴った。
僕と優雨が玄関まで行って、ドアを開けようとすると外から、
「葉山先輩、晴輝先輩の病室で食べたリンゴ代として、その豊かなたわわを触らせてくれませんか?」
「くれるわけないでしょう⁉ 何を言い出すの、こんな時に! って、うわっ、背後取られた! ちょっ、やめ、」
「ほうほうほう、これは素晴らしい。柔らかく形も良いなんて、けしからんものをお持ちですね!」
「やっ、やめなさい! 香純ちゃん、あなた百合なの⁉」
「私にその気はありませんよ。ただ、いじめっ娘なだけです」
「迷惑‼」
とか何とかやっているやり取りが聞こえてきた。どうやら、優雨が二人を家に呼んだらしい。優雨はためらいなくドアを開け、僕はただただ肩をすくめるしかなかった。
やれやれ、騒がしい日々はまだまだ終わらないようだ。
一応、本編はここで完結です。そのつもりでした。




