フラワー・ギフト(中)
◇
仮にも最終話の後編(中編になっちゃった笑)であるにもかかわらず、言い訳から始めなければならないのもなんだけれど、端から見た人がよく分からないであろう状況について、僕、寺井晴輝が説明したいと思う。
僕だって、この日、好きで学校をサボった訳ではない。タイムスリップに関わる事件に巻き込まれた――いや、首を突っ込まざるを得ない状況にあったため、仕方なく欠席したのである。
なんでお前が語り手をやってるんだ、引っ込め、咲良ちゃんを出せ、という声が聞こえてきそうだが、その方にはご容赦願った上で、しばらくの間、僕から見たその日の出来事について語らせていただきたいと思う。
妹と咲良、香純ちゃんらに先んじて家を出た僕に、ある知り合いから電話がかかってきた。
『もっしー、おはよー、晴輝兄』
陽気な声色でそう話す彼女は、水川七海だ。
水川七海。僕の父さんたちの高校生の時からの友人の娘、つまり、親を経由した知り合いである。
父さんの友人にして彼女の父親でもある水川行成さんは大企業水川財閥の専務(そして、会長の息子でもあるらしい)でありながら、発明家としての側面もあり、世に出せばあらゆる科学の定説をひっくり返しかねないものも作っているらしい。
父さん曰く、奴のせいで高校生活が波瀾万丈になっちまった、らしいのだが、それはあながち間違いではないようだ(そう思える根拠についてはいずれ語る機会があれば、またその時に)。
その娘である七海もまた、発明家としての才能を引き継ぎ、小学五年生・十一歳であるにもかかわらず、まるで二次元なものを発明してしまったわけなのだ。
例えば、そのひとつがタイムマシン。四人乗りで未来にも過去にも行き放題の、まるで某国民的猫型ロボットの漫画に出てきそうな代物。
夏休みにはそのタイムマシンのせいで、僕や優雨、咲良がとある事件に巻き込まれたこともあった。もう終わったこととはいえ、まだそのタイムマシンは水川邸に残されている。
まさか、またアレ絡みじゃないだろうな?
『わお! 晴輝兄はエスパーっスか? そうっスよ。晴輝兄の言う通り、またアレ絡みで晴輝兄の力を借り……』
僕は電話を切った。あんな厄介事に二度も巻き込まれるなんて御免だ。いくら親しくしている少女の頼みとはいえ、ダメなものはダメなのだ。
が、再び僕のスマホが着信を知らせた。その主はもちろん七海――まあ、一応出るだけ出ておこう。
「なんだよ七海、今の時間を考えろ。朝だ。登校時間だ。平日なんだから、お前も学校があるだろう。メカいじりもほどほどにして、お前も早く学校に行け」
『いやいや、それどころじゃないから、こうして晴輝兄に電話をしたんスよ。のっぴきならない事態になったから、ヘルプを出したんスよ』
「断る。僕は普通の日常を送るんだ。この小説のジャンルをSFにするわけにはいかない」
『そう言わずにこの哀れな子羊を助けてやってくださいよ』
「哀れな子羊はタイムマシンなんて作らないからな」
『…………グダグダうっせえな。黙って助けろよ』
「お前今、なんて言った⁉」
『グダグダうっせえな! 黙って助けろよ!』
「聞こえなかったわけじゃねーよ! 言い直すチャンスを与えたんだよ、なんだ、年長者に対してその口の利き方は!」
『思想及び良心の自由』
「公共の福祉を守れ!」
『とにかく、四の五の言わずに、早く助けに来て欲しいんスよ、このヘタレリア充。マジで緊急事態なんで』
「焦ってるのは確かに伝わるが、……僕のこと、ヘタレリア充って言ったか?」
『えっ、言ってないっスね』
「とぼけるな! 言ったんだよ、今! チャンスをものにするな! ……で、なんで僕に頼むんだよ? 他の誰かじゃダメなのか」
『晴輝兄じゃないとダメなんスよね。その辺の事情も説明したいんで、あたしの家に来てくれないっスか?』
「……やる気が起きないな。七海の家、少し遠いし」
『なら、こう言いましょうか…………もし、咲良姉の命に関わるとしたら、それでもやる気が起きないのか、と』
しぶしぶ、仕方なく僕は適当な理由をつけて学校に欠席の旨を伝えて、水川邸にやって来た。
水川邸は「邸」という言い方をしたくなるほどに大きい。まずは防犯カメラ付きの門に出迎えられ、そこをスルーしても、広い庭があって、まだ本宅の全貌は見えない。レンガでできた道を1分弱程歩いて、ようやく本宅にたどり着く。
その本宅も、まあ活字で説明するのが嫌になるほどの豪邸で、漫画やアニメに出てくるお金持ちキャラの豪邸を想像してもらえれば、この水川邸との違いはそうそうないだろう。
「おっ、来た来たっ! 早速入ってください!」
防犯カメラで僕の来訪を知ったのか、七海がタイミング良く玄関の大きな扉を開けて、僕を出迎えた。
長い前髪を上に引っ詰めてくくり、横もそれぞれくくってツインテールを作っている(本人曰く、全部合わせてトリプルテールらしい)。白衣を着ているのはいかにも発明家らしいが、その下がパジャマなので緊張感に欠ける――――僕から見れば、いつも通りの七海の格好だ。
七海は目尻を下げて、笑うような表情をしながら、
「やー、咲良姉の名前を出すと話が早いっスね。こうして一目散に来てくれたっスから」
「一目散は言い過ぎだよ。それにお前が意味深な言い方をするし、本当に咲良の身が危ないのか?」
「ままっ、立ち話もなんだから、詳しい話はリビングでしましょう」
七海に連れられ、リビングに僕は向かう――ちなみに、水川邸は洋風の家なので土足だ。
リビングについて、僕は早速ソファに座る。ウチにもソファはあり、慣れ親しんだ安らぎの場所ではあるが、このソファはあまりの質の良さで座る者全てをダメにする恐ろしいソファなのである……はふぅ……。
「あのー、晴輝兄。脱力しきってるところ悪いんだけど、話を始めても良いっスかね? あんまりモタモタしてると前中後の三編になるっスよ」
「やめろ。怖いことを言うな」
大雑把な流れをプロットにしただけで、基本見切り発車なんだから!
こっちの話だけどな!
「僕が悪かった。すぐに説明してくれ」
「えー、こほん。タイムマシン絡みってのは本当なんスけど、それ自体が問題なんじゃなくって、むしろタイムマシンを使って解決して欲しいことがあるんスよ。
「単刀直入に言うと、タイムマシンを使った時空改変っス。
「正確には、改変されることが前提でこの時空間が成り立ってるんで、改変っていうよりは介入って言った方が良いんスけど、それは置いときます。
「晴輝兄にお願いしたいのは、十年前へのタイムスリップ、そして、十年前の咲良姉を交通事故から助けることっス。
「……うん、あの、これマジなんで、そんな疑いの眼差しを向けないでくんないっスか。
「はい、確かにただ助けるだけなら他の誰でも良いんス。けど、それだけじゃないんスよ。理由は色々あるんスけど、とにかく咲良姉を助けるのは、晴輝兄その人じゃないとダメっス。
「助ける以外にやること……今は教えられないんスけど、言える範囲で言うなら、『十年前の咲良姉の問いに答えてあげてください』。
「あとは、他に何か訊きたいことはあるっスか? …………ああ、行く時間が指定されているのなら、今タイムマシンに乗らなくても良いんじゃないかって?
「確かに、晴輝兄がそう思うのも分かるんスけど、ちゃんとそれにも理由はあるんスよ。ただ、そこを説明するのが面倒で……。どうしても、訊きたいっスか?
「ま、ざっくり言えば、今の晴輝兄のコンディションがこのタイムスリップに適しているのと、時間線の交差ポイントの都合上、現行時間でタイムスリップできる時間の残りが少ないから、っスね。ざっくり言っても、こんだけ長ったらしくなっちゃうんで、そこらへんは察してください。よく分からない用語や時間解釈については、また暇な時にでも話すんで。
「つーこって、晴輝兄、十年前にいってらっしゃい!
七海に連れられ、地下のラボにやって来た。色んな機械やらコードやらで、大豪邸の一室に似合わない散らかりようである。
……説明を受けても納得できない部分はあるが、もう僕がタイムスリップするしかないようだ。増してや、咲良の身が危ないとなれば、動かない理由はない。この屋敷に来た時点で、その覚悟はできている。
「具体的な行動については、お渡しするトランシーバーから指示を出すんで、言う通りにお願いするッス。はい、コレ」
そう言って、七海は僕に黒いトランシーバーと、スパナの模様がついた小さいポシェットを手渡した。このポシェットはなんだ?
「それの中には、ふたつの薬が入ってるッス。青と赤、ふたつのカプセルで、青のカプセルは今飲んでください。時間酔いがそれで抑えられるんで」
それは助かる。以前タイムマシンに乗った時は、これまで乗り物酔いをしたことのなかった僕でさえ気持ち悪くなったからな。
「ありがとな。だが、もうひとつのカプセルはなんだ? これはいつ飲めば良い?」
「それはまた後でタイミングを教えるんで、その時にお願いするッス。……時間が――レコード上の時間がないから、焦り気味になっちゃって、ゴメンなさいでした」
「もう良いよ。行くと決めたのは、僕なんだから」
決意を新たに、改めて目の前のタイムマシンを見据える。ガラス張りでシースルーの、よく街で見かけるような(いや、なくなりつつあるのか?)電話ボックスの形をしている。もちろんただの電話ボックスである訳がなくて、中の電話のダイヤルで移動する先の時間を設定できるのだ――――って、僕は何を説明しているのだろうね、この世界はSFか?
「すこし不思議?」
「すごく不思議だよ!」
……全く、時間飛行の直前まで、僕たちはボケとツッコミをしなければならないのか。
「なーに、人はボケとツッコミを繰り返し、成長していくものッスよ」
「出会いと別れみたいに言うな」
「それでは、晴輝兄、ご武運を!」
「ああ、行ってくる!」
僕は電話ボックスのドアを閉めて、10年前のある日にダイヤルを設定する。そして、受話器を取った瞬間にモーターが回るような音が鳴り出す。タイムマシンが起動を始めた。
「あ、そうだっ‼」
何かを思い出したように、七海は引き攣った顔をした。
「十年前には、現時間の咲良姉も居るはずなんでよろしくでーす」
「は? …………はあぁぁぁぁあ⁉」
◇
「…………年の九月十五日⁉」
私、葉山咲良は幼い晴輝に現在の日付をそう教えられた……晴輝、なんだよね?
私のよく知る晴輝は学ランのよく似合う男子高校生であるはずなのに、晴輝を名乗るこの男の子は、私よりもずっと背が小さく、まるで弟のように手を引かれて歩いている。
「しらないおじさんについていくなってとうさんとかあさんにいわれたけどよー、おねーさんのばあいはどうなんだろうな?」
おねーさん!
「べつにおばさんじゃあないだろ。おれがおねーさんってよんじゃだめか?」
「いいえ、そういうことじゃないの」
なんとなく反応に困るなあ。
「おねーさん、かわいいよな。……さくらのつぎにかわいいぜ」
……とても反応に困るなあ。
それにしても、だ。
私はどうやらタイムスリップしているらしい。ドラえもんや時をかける少女のような状況に、私は陥っているらしい。
どうして? 意味がわからない。
晴輝の幼い姿に和んでうっかり忘れてしまいそうだけれど、およそ一般の人が体験できないような状況に在るよね、私。
そして、訳がわからないなりに、喫緊の問題としては、この過去の世界に私の居場所がないということだ。高校生の姿の私がまさかこの時代の私の家に帰る訳にはいかないだろう。この時代にもこの時代の私が居る訳だし。
ところで、この時代の私は何をしているのだろう。
「なあ、おねーさん」
晴輝が私を見上げて、話しかけてきた。
「こうえんにあそびにいくつもりだったんだけど、やっぱりやめた。おれかえるけど、おねーさんもうちにくる?」
「えっ、私が?」
「うん。それとも、どこかほかにいくところがある?」
「ううん。……むしろ、目的地がわからないくらい」
そう答えると、晴輝は首を傾げた――そうだよね、同一人物と知り合いとはいえ、今の私のことはよく分からないものね。ついでに言えば、私の中から沸々と湧いてくる、幼い晴輝をギュっと抱きしめたくなる衝動もよく分からないけれど。
「とにかく、うん。晴輝くんが良いなら、お邪魔させてちょうだい」
「おうっ。うちにおれのいもうとがいるんだ。おねーさんにしょうかいするよ」
妹……優雨ちゃんのことだ。
え、ちょっと待って。幼い晴輝を見ただけで、私、こんな有様でしょう(どんな有様かは自分で言いたくない)? 更に幼い優雨ちゃんに会ったら……。
「ゆうーっ、ただいま!」
晴輝が自分の家の玄関のドアを元気よく開け、私もその後に続く。大きな違いはないけれど、この時代の寺井家の方はまだ新築に近い感じだ。
私が不躾ながらもこの時代の寺井家の様子を色々と眺め回していると、ドタドタっと慌ただしく階段を下りる音が響いた。そうして現れたのは、
「おにいちゃん! ゆうとおいしゃさんごっこするやくそくしてたのに、どこいってたのさ! やくそくやぶっちゃわるいんだ!」
「あーっ、そうだった! ごめん、ゆう。わすれてた」
「だめっ! ゆうはおこってるんだよっ! おかあさんにいいつけてやる」
「ごめんって、いったじゃん。ゆるしてくれよ」
「やだーっ! だめ!」
「ゆーうー」
「…………じゃあね、どうしてもゆるしてほしいならね、ゆうのほっぺにちゅーしてくれたら、ゆるしてあげる」
か、可愛ええ! ちっちゃい優雨ちゃん、可愛ええ!
跳ねた癖っ毛に、感情的な瞳は今も変わらない。けれど、キャラクターのついたトレーナーを着て、ちょっとブラコン気味のセリフがたまらない――そうだったのよね、優雨ちゃん、だいぶ前はこんな感じだったのよね。
思わず、抱きしめたくなるほど可愛い。
「わわっ、なにこのおねーさん⁉ なんで、はぐしてくるの⁉ えっ、なに、いいにおい、おっぱいおおきい⁉」
というか、抱きしめてしまっていた。欲望を抑えられなかった――私ってもしかして、ショタコンとロリコン?
いやいや、まさか。
「いいにおい、やわらかい…………かわいいおんなのこって、いいかも」
……優雨ちゃんの方も何かに目覚めかけているようだけれど。
急速に熱が冷めてきた私は優雨ちゃんを引き離し、私の前の少し離れた場所に座らせた。
「で、おねーさんはだれ?」
優雨ちゃんは小さい首を傾げて尋ねてきた。
「私はさくら……」
いや、確かにこういうことを訊かれるのは当たり前なんだけれど、名乗ろうにも葉山咲良としか言いようがないし、かと言ってこの時代にも同姓同名の年齢だけが違う同一人物がいる訳で……。
「……こ。私は櫻子っていうの。よろしくね」
結局、安直な偽名で誤魔化すことになってしまった。
無邪気なこの子たちを騙すのは良心がとても痛むけれど、この時代では仕方がない。
「さくらこ、か。さくらとなまえがにてるな」
「うん、さくらこおねーさん、さくらちゃんのつぎにかわいい」
またそれ⁉ この時代の私って、あなたたちにとってどんな存在なの⁉
それから、どうもこの子たちの中では「可愛いは正義」という主義があるらしい。そのおかげでお家にお邪魔させていただくことができたけれど、やはり心配だ。将来が心配だ。
将来を知っている身としては余計に。
「それで、おねーさんはどこからなにをしにきたの?」
「うーん、内緒」
「えー」
ごめんね。私にもそれが分からないから、答えることができないの。私も知りたい。私は一体誰から内緒にされているのかしら?
「逆に、おねーさんから訊きたいんだけど、あなたたちはこれから何か予定がある?」
「「よてい?」」
兄妹揃って、同じ角度に首を傾げた――そんな姿に悶えることなく、私は続ける。
「どこかに出かける、とか、そういうこと」
「いいや、おれたちはるすばんしてたから。そとにはでないよ」
と、答える晴輝。けれど、優雨ちゃんは晴輝を睨みながら、
「けど、おにいちゃん、さっきそとにでてたよね。ゆうとやくそくしたのに」
「ごめんって、いってるだろ」
うぅー、と唇を尖らせる優雨ちゃん。ん、これはまずいかな。喧嘩するほど仲が良いというけれど、仲が良いほど喧嘩してしまうこともあるから。
「優雨ちゃん、お兄ちゃんは今はもうここに居るんだから、許してあげて」
「えー、でもさー」
「ここでお兄ちゃんを許してあげることで、あとでお兄ちゃんに良いことをしてもらえるかもしれないよ。物事は長い目で見て考えるものだよ」
これは今の優雨ちゃんの受け売り。
「んー、よくわからないけど、わかった」
「よしっ。良い子ね」
私は優雨ちゃんの頭を撫でた。ふにゃふにゃと嬉しそうに表情を緩ませる優雨ちゃんが、たまらなく愛らしい。
「ところで、晴輝くんはどうして外に出てたの? 優雨ちゃんと約束していたのに」
「ああ、それはな」
晴輝は答えた。
「さくらがはじめてのおつかいにいくらしいから、しんぱいだし、ついていこうとおもったんだ」
さっきと言っていることが微妙に違う気もするけれど、それはさておき、晴輝の幼気な優しさを微笑ましく思いながらも、私は背筋に冷気が這い上ってくるのを感じた。思い出したことがある。
私がこの時代に来た理由は、そういうことなのか?
「さくらちゃん、わたしもついてっていいの?」
「うん、優雨ちゃんをひとりでお家に残して行くわけにはいかないでしょう? あと、私はさくらじゃなくて櫻子よ」
「べつにおれひとりでいいのに」
「ダメよ、お父さんとお母さんにお留守番をお願いされているのに、勝手に遠出しちゃ。私も一緒に行くよ」
私はショ……小さい晴輝と優雨ちゃんを連れて、さくらちゃんのおつかいを見届けに行くことにした。
本当は私一人で行きたいところだったけれど、思い出した晴輝はまたさくらちゃんのところへ行きたがってしまい、かといって優雨ちゃんをまた家に一人残す訳にもいかない、という故あって三人で行動することになったのである。
そして、多分さくらちゃんのおつかいを見届けるだけでなく、彼女を助けに行かなければならないかもしれない。
さくらちゃんというのは勿論昔の私のことなので、このおつかいのこともほんの少しだけ覚えている。
私はこのおつかいの帰り道に交通事故に遭いかけたのだ。トラックにはねられそうになったところを、誰かに助けてもらったのである。私を助けてくれた人のことは恩知らずなことによく思い出せないのだけれど、高校生ぐらいの、つまり今の私ぐらいの歳ごろの人だったと思う。
もしかしたら、かつての私を助けたのはこの私なのかもしれない。
確証はない。でも、私がタイムスリップ? なんて妙な体験をした理由づけを求めるとしたら、そこにあるかもしれない、と考えるのは、決して考え過ぎではないと思う。
この時代の誰かが助けてくれたとしても、正確にあの言葉をかけてくれるとも限らない訳だし。いや、限るのか?
ダメだ、考えがまとまらない。とりあえず、こうして行動には移したものの、根拠も自信もなくて、その意味を自分に見出せずにいる。
そして、私はまた自分を誤魔化しているのを感じる。タイムスリップした状況への恐怖ではなく、タイムスリップをすんなりと受け入れてしまっている自分を誤魔化しているのだ。本当はもっとこの訳のわからない状況に抵抗すべきなのに、怖がるどころか、この時代の晴輝たちを可愛がっている始末だ。
寛容、……とは違うんだろうな。
香純ちゃんから「闇を見ていない」と言われたけれど、これはつまりリスクを軽んじてリスクをリスクとして見ないということなのだろうか。
思い当たる節はある。私に何の悩みもない訳ではない。それでも、すぐに何とかなって悩みが消えてしまうものだから、私にトラウマはひとつもなかった。
それはとても楽なこと。
ただ、社会にとっての必要悪とは少し違う話だけれど、人にとっての必要な痛みがあるのかもしれない。
香純ちゃんは痛みがあったから、強くなれた。痛み自体は受け入れがたいものであっても、逃れられないものでもあるから、痛みに耐えて乗り越えられる強さを身につけなければならない。その強さで、譲れないものを護らなければならない。
私は痛みに耐えるどころか、耐えるべき痛みを痛みと感じないのだから、そもそもそのステージに立つことができていない。護るべき譲れないものもわかっていない。
私にとって、譲れないものとは何なのか?
「さくらちゃーん、まえ! まえ!」
「……ひゃわっ⁉」
変な声が出た! じゃなかった、考え事をしていたら目の前の電柱にぶつかりそうになった。危ない危ない。
目の前のことも見えていないなんて、ダメね。
「ごめんなさい、ふたりは大丈夫?」
私と手を繋いでいたふたりの心配をしたけれど、ふたり揃って私と繋いでいない方の手で親指を立てている――良かった。……変なタイミングだけど、やっぱりこのふたりは兄妹なんだな、と思う。表に出ている性格は違うけれど、根本的なところは一緒。
大好きな人には優しい。誰にでも分け隔てなく優しくするのは無理でも、手の届く大事な人にきちんと心を込めることができる。晴輝はそこから優しくする手を広げて失敗し、優雨ちゃんはより多くの女の子をその手中に収めている(今はそこにツッコミは入れない)けれど、その元を辿るとこの子たちに行き着くのだろう。だから、私には幼い頃のこの兄妹が眩しい。
私にはないものを持っているから。
私にはないもの、それはこだわることだ。相対的により好きなものはあっても、絶対的に譲れないものがない。あるいは、譲れないものに気付けていない。気付けていなくても、器用に世の中を渡り歩けてきたから、私は天秤に乗せずにあるがままを受け入れていた。
晴輝や香純ちゃんが苦しんでいる時も、私は何も出来なかった――しなかった。何とかなると思って、見過ごしていた。
でも、それじゃあダメなんだ。何とかしようとしなければ、何とかならないんだ。
T字路に差し掛かり、眼前に幼い少女が居た。少女は身体が隠れるくらいの大きな花束を抱えている。幼い兄妹も彼女を見て、嬌声をあげる。花束を抱えた少女がこちらに向かって走ってくる。
けたたましいクラクション。
時間がゆっくりと、まるで止まっているかのように感じる。
少女のすぐ横に大きなトラック。トラックのどこかが故障しているのか、焦った形相の運転手。突然の脅威に目を大きく見開き、立ち尽くす少女。そんな彼女のもとへ駆け寄ろうとする幼い兄妹。
私は手を伸ばした。トラックに近づこうとする兄妹の手を堅く掴んだ。非難の目を向けられるだろう、それでも、私はこの子たちを選んだ。この子たちをどうしても失いたくない。
私はぎゅっと目を瞑った。目の縁に涙が溜まる。
ごめんなさい、過去の私。私はあなたを助けることが出来なかった。あなたよりも、晴輝と優雨ちゃんを選んでしまったから。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、……」
「謝らなくて良い! お前はお前の譲れないものを護ったんだから!」
瞑った瞼の裏に、光が差した。
一陣の黒い風が幼い私をさらう。黒い風が疾風のように通り抜けた後に、トラックが走って行く。風のように見えたものは、人の形をして私の前に降り立った。
幼い私を花束と一緒に両腕で抱えた、学ラン姿の、
「僕もお前が大事だから、譲れないものを助けに来たんだ、咲良」
寺井晴輝はそう言った。