新春番外編・翠色づく水晶の輝き(中)
新春番外編という題なのに、遅れてしまってすみません。そして、前後編で終わるのはやっぱり無理でした(苦笑)。
「へえ! 初代様はそういう方だったのね!」
寝物語のはずが、布団から身を乗り出して感心する翠。無理もない、晶が語る蓮生司家初代当主については、本来古文書に記載があるのみの存在だからだ。
霊山に社を築き、村を興して、蓮生司家を現代に至るまでの名家として不動の地位にした伝説の人物。その生き証人など本来は居るはずがないのだが。
「私生活はズボラな人でしたよ。一人で着替えができないと知った時は面食らいました」
知己を語るように初代当主について話すことができるのは晶しか居ない。
「晶は初代様に招かれて、この家で働くようになったのね」
「はい。元々家事は腕に覚えがありましたから、勤めて一年も経たずに女給頭になりました。仕える者に所作と作法を説いて、名家を名家たらしめたのは私の手腕によるものです」
「流石は晶ね」
「……いえ、冗談だったのですが」
苦笑を浮かべる晶だったが、翠は「そうかしら?」と首を傾げる。物腰の柔らかい彼女は家の他の者に対して威圧的ではないが、皆揃って血筋の人間だけでなく晶にも礼儀を払っている。晶の本当の年齢を知らずとも、皆が晶に育てられているからだ。
「私のことは良いのです。炎伽様の話を続けましょうか。……とは言え、炎伽様と共に居た時間はそう長くはありませんでした」
「そうなの?」
「生命力に満ちた人でしたが、他者のために命の灯を燃やし過ぎたのでしょう。初めて出会ってから約30年、炎伽様は50歳は超えられても還暦を迎えることは叶いませんでした……」
「ゴホゴホッ……、すまぬな、付きっきりの看病をさせてしまって」
「家のことは私が居なくても、あの者達だけで十分立ち行きます。それよりもご自分の身体を労ってください」
床につく炎伽の側に、晶は静かに座っていた。炎伽はもう老年に差し掛かりつつある。瞳の輝きと風格に衰えはないが、頬は痩け、髪も肌も白く薄くなっている。
「くく、そなたは変わらぬな」
枕元から炎伽は晶を見上げる。10代から20代のような肌の瑞々しさ。前髪から肩までの後れ髪に至るまで伸ばした直線状の黒髪。感情の表れない真っ黒な瞳。30年ほど前、山で初めて出会った時と何ひとつ変わらなかった。
「そなたは変わらぬ。だが、そなたの周りは移ろい変わってしまうのじゃな。……そなた一人を残して」
「今に始まったことではありません。理を外れた私は、やはりあなた達と同じ時を刻むことはできないのです」
「本当にそうかのう。なあ、晶よ。そなたの生涯からすればほんの僅かなひと時だったのかもしれぬが、妾はそなたのことを色々知ってきたつもりじゃよ。そなた、自分以外の脚で走るのが大好きじゃろう?」
「炎伽様に出会う前も馬に乗っていましたからね。正直、馬でも遅いくらいなのですが」
「くく。その内、馬よりもよほど疾い移動手段が現れるかもしれぬな。未来に期待じゃの」
「……未来、ですか」
「ああ。妾のやってきたことは、いわば種を蒔き芽吹かせたまで。花開かせるのは後の世代じゃろう。妾は満足じゃ。全身全霊をもって生き尽くした」
「余生の分の余力を残した方が良かったのでは?」
「それはあるのう。そなたとゆっくり茶を飲みながら語らいたかったな」
「私などでよろしいのですか?」
「何を言うか。妾、周囲から持ち上げられ過ぎたせいで、人望あるのに友達少ないんじゃぞ!」
「ふふっ、威勢よく言う内容ではありませんね」
「光栄に思えよ」
「ありがとうございます」
くく、とまた炎伽は可笑しそうに笑った。晶は改めて思う。この人は尊大な性格の割にあまり開けっ広げに笑わない人だと。
「のう、晶。妾はそなたの瞳に輝きを見たいと以前言ったな。若い頃とは言え、まだまだ修行が足りんのう」
「どういうことです……?」
「人の美しさは身の内にこそある。今の妾にはわかる。そなたはずっと美しかったのじゃ」
晶は同じ言葉を繰り返す代わりに首を傾げた。今ひとつ炎伽の言っている意味がわからない。
「くく、言っている意味がわからないとでも言いたげじゃな。今はそれでも良かろう。この先生きていればきっと、妾以外にもそなたの美しさを理解する者が現れよう」
少し息を吐いてから、炎伽は続ける。
「妾とこの家はそなたを守り続ける。しかし、そなたをこの家に縛りたくはない。そなたが居場所をこの家の外に見出した時は、いつでもここを出て行くと良い」
「…………。そのような時が訪れるのでしょうか?」
「わからぬ。じゃが、追い出すつもりもない。この家には居たいだけ居てくれて良い。そなたほど頼りになる者は居ないからな」
「……わかりました。覚えておきます」
「よし。これでこの世に思い残すこともなくなったのう」
命の灯が今にも消えそうな彼女は、しかし、愉快そうに笑う。
「晶、妾からそなたに友として最後の頼みがある」
「何でしょう?」
「妾の最期を看取れ」
晶は一瞬呼吸ができなくなった。咄嗟に言葉が出てこない。言葉を紡ぎ出せるほどの感情がまとまらない。
「これは意地じゃよ。かように小さくなって死んでいく姿を他の者に見せたくなくてな。我が夫にも、我が娘にも。かと言って、独りで逝くには寂しい。故にそなたに看取って欲しいのじゃ。晶よ、我が友よ。妾の我儘を聞いてくれるか?」
炎伽はすっかり細くなった手を晶に差し伸べる。初めての誘いに応じた時のように、やはりその手を取らずにはいられなかった。
「あなたの、望むままに……」
そう応える声は震えていた。万巻の思いがそこにはあった。それを汲み取った炎伽も言葉だけは簡潔に笑顔を添えて言った。
「ありがとう」
「ふふっ。初代様とは気が合いそうね」
晶の物語を聞いた翠の最初の感想がそれだった。
気が合うどころの話ではないと、晶は思う。直系の子孫故に炎伽の血を引いているのは当たり前だが、それ以上に紅華と翠の姉妹は炎伽によく似ている。
人の先を歩き、大胆で強かで、けれども本当は誰よりも繊細で優しい。
「……? どうしたの、晶?」
「いえ。それより、どのような点で気が合うと思ったのですか?」
「初代様は晶のことをちゃんと見ていてくれたんだなって。連れて来た本人だから当然なんだけど」
「私のこと、ですか?」
「初代様の言っていた“美しさ”というのは、真心と愛情だと思うの。私も、お姉様も、他のこの家の人たちはみんな晶に世話を焼かれていた。晶がこの家の女給だからというのはあるけれど、その立場以上にあなたは真心を込めて、愛情を持って接してくれた」
「そんな大層なものは……。私はただ己の役目を果たしているまでのことで」
「でも、晶は私のこと大好きでしょう?」
晶の顔が硬直した。脳の機能まで停止したかのように見える。
「私みたいな病弱な娘のことなんて適当に寝かせて放置してしまえば良いのに……」
「そんなこと出来る訳がないでしょう!」
突沸したように晶は声を荒らげた。発した後で自分でも驚くほどに。
「そうね。晶は私の世話をよくしてくれているものね。知ってた? 晶って、私が笑うとあなたも笑ってくれるのよ」
「……?」
「私が苦しんでいる時は一緒になって闘ってくれる。怒っている時は嗜めながらも私と一緒になって怒ってくれる。寂しい時はただ静かに側に居てくれる。そういうものを“愛情”と呼ぶんじゃないの?」
晶はカッと目を見開いた。翠の挙げた内容は全て他人事ではない、漏れなく心当たりのあるものだった。翠を傷つけ脅かす全てのものから守り、彼女の笑顔を見ると心から安らぎ、永い時を生きて擦り減った心が、潤いと色彩を取り戻すように感じる。
その感情に名前を付けることがなかっただけで。
本当はずっと自分の中に在り続けていたのだ。
「知りませんでした。私、翠お嬢様が大好きだったのですね」
「ふふっ、何よそれ。今さら気づいたの? 私はちゃんとわかっていたもの。私も晶が大好きよ。だから、ずっと側に居てね?」
枕元から微笑みを浮かべる翠に、晶は布団の中の彼女の手と自身の手を重ねて応えた。
「あなたの望むままに」
……そして、私の望むままに。
それから15年の月日が経った、ある日のことである。
「翠お嬢様に縁談?」
晶は思わず訊き返してしまった。そして、話題を提供した、赤みがかった装束を纏った紅華が不愉快そうに続ける。
「ええ、そうよ。“あの人”と“あの人”の周りの連中に捩じ込まれたのよ。現当主の私の了解もなくね」
30歳になった紅華は前当主である母から当主の座を継ぎ、現当主となっている。紅華と母は昔から冷え切った関係だったが、今に至るまでそれが改善されることはなかった。
最早紅華が“母”とすら呼ばないその人のことを、晶はひどく不器用な人なのだと理解していたが、この親子の関係の雪解けは晶をもってしても容易ではない。
どちらの肩を持つでもなく、翠のことだけを思って答えた。
「その縁談を受けるか受けないかは、翠様のご意志を尊重した上で判断するべきでしょう。翠様が拒むのであれば、私も同意しかねます。ただ……」
晶が言葉を詰まらせたところで、その意を理解する紅華が続きを引き取る。
「あの子が拒まなければ、この話を進める上での障害はなくなる。……でも、翠ちゃんが断りそうにないから困るのよ」
晶は頷く。翠のことだから、家のためと気を遣って縁談を受け入れてしまうであろうことが目に見えている。
「せめて、その相手だけは私が直々に選ぶことにするわ。翠ちゃんを幸せにしてくれそうな人をね。晶、あなたに頼みがあるの。この縁談のことを、あなたから伝えてもらえないかしら?」
「ご自分でお伝えになれば宜しいのでは?」
「私はダメよ。立場を持ってしまった今の私から縁談の話を伝えたら、翠ちゃんに圧をかけてしまう。あの子に気を遣わせずに、受けるか拒むかを選んで欲しいのよ。だから、御免だけど、頼まれてくれない?」
「わかりました。お任せください」
「ありがとう、晶」
ここまでが当主と女給頭のやり取り。が、長い間互いの胸中を打ち明けあってきた間柄では、立場に縛られたやり取りは長続きしない。
「それにしても、紅華様。よく翠様の縁談を進めようという気になりましたね?」
「前向きにやってると思う? シスコンお姉様からしてみれば、これ以上の苦行はないのよ」
「心中お察しします」
「翠ちゃんにはいつまでも側にいて欲しい。でも、それは私の欲であって、あの子の幸福を縛りたくない。もしもあの子の幸福がこの家の外にあるのなら、喜んで送り出さなければならないわ」
「…………」
「晶?」
「いえ、少々既視感が。紅華様は本当に妹想いなのですね」
「そうでしょうそうでしょう。超可愛い妹のためだもの」
「言ってることが昔と変わりませんね」
「変わらないものがあっても良いじゃない。特に他の誰よりもあなたがわかってくれるでしょ、晶?」
紅華がそう言うと、晶は否定も肯定もせずにただ曖昧に微笑んだ。
「さあ、どうでしょう?」とでも言わんばかりに。
「翠様、失礼します」
晶が一声かけてから、翠の部屋の襖を開ける。
中では、色鉛筆片手にスケッチブックと向き合う翠の姿があった。黒く艶やかな長い髪を、晶が以前贈ったヘアゴムで括っている。とても集中しているようだ。晶はそれ以上呼びかけることなく、黙ってその場に立ち続ける。
しばらく経ってから翠が一呼吸つくと、ふと人の気配を感じて、ようやく晶の入室に気づいた。
「ごめんなさい、晶。またあなたを待たせてしまったのね」
「構いませんよ。集中しておられたようでしたから」
「でも、何度も声をかけてくれても良かったのに」
「お邪魔をしてはならないと思いまして。……また、海を描いておられたのですか?」
「うん、まあね」
頷きながら、翠はスケッチブックを開いて見せた。そこには青々とした空と白く輝く太陽の下で広がる海があった。光彩と海の流動感が巧みに描かれている。
成長した翠は絵を嗜むようになり、このように絵筆を取ることが多いが、その殆どが海の絵である。
「翠様、お話ししたいことがございます」
「……。当ててみせようか? 私の縁談のことでしょう?」
早々に言い当てられるとは思わず、晶は身じろぎした。
「ご存知だったのですか?」
「ちょっと小耳に挟んじゃってね。お相手はどなたなの?」
「まだ決まっておりません。紅華様が直々にお相手の方を探すと仰っていました」
「お姉様が……。わかったわ。そのお話、お受けします」
「お嬢様、よろしいのですか⁉︎」
思わず感情を露わにしてしまった晶に、翠は思わず笑ってしまう。成人してから「お嬢様」呼びはなくなったが、余裕がなくなるとつい出てしまうらしい。外見だけでも晶に年齢が追いついて、少しだけ余裕が出てきた。
「私はお姉様を信じます。…………それにね、私本当はずっとここではないどこかへ連れ出してくれる王子様を待ち望んでいたの」
「……。存じておりましたよ」
山で育った翠はずっと海への憧れを抱いていたーーつまり、海に象徴されるここではないどこかへの憧れ、生まれ故郷を愛し、周囲の者たちから大事にされていることもわかっているから、言葉には出さなかった。けれど、
「ずっとお側に居た私が知らないはずがないでしょう。承知しました。紅華様にはそのようにお伝えします」
「ねえ、晶?」
「なんでしょうか」
「あなたは本当に良いの?」
「……どういう意味ですか」
「私が縁談を受けるということはつまり、この家を出て行くということ。わかっているの?」
拗ねたように言う翠。だが、当然わかっていた。
この家に仕える晶と、家を出ていくことになる翠が離れ離れになることを。
翠の縁談の話を聞いた時から、ずっと念頭にあったことではある。
ただ、それでも晶は言う。
「翠お嬢様の幸せが私の望みです」
それが晶の偽りのない本音である。
そのつもりだった。
それから半年後のことである。
蓮生司家を一人の男が訪ねてきた。
応接間で待つ翠と紅華の代わりに、女給頭の晶が玄関で応対する。
「ようこそいらっしゃいました。下仕えの私がお出迎えする非礼をお許しください」
「いえ、紅華殿からあなたについてもお話は伺っておりました。晶さん、あなたにもきちんとご挨拶したかったのでちょうど良かった」
男はそう言うと、晶に向けて丁寧なお辞儀をする。
「お初にお目にかかります。水川行成と申します」
翠の“王子様”はキチッとしたスーツに身を包んでやって来た。




