日はまた昇る
ジャンルをSFに変えた方が良い気がしてきました。
「……香純ちゃん?」
「イタタタ」
僕が一瞬垣間見えた振る舞いについて訊ねようとする前に、頭を押さえて痛そうにする彼女に虚を突かれてしまった。
「香純ちゃん、大丈夫かい?」
「……ええ。すみません、最近たまに頭痛がして。でも、今は平気ですよ。なんででしょうね? 気圧のせいでしょうか」
「あ、ああ。近頃は天気の移り変わりが激しいからね」
“この”香純ちゃんに大事ないことがはっきりしたところで、改めてさっきの言葉が気になった。
『総てが誰かに仕組まれた偽りのように感じるんです』
まるで今の僕の状況を知っているかのようじゃないか。世界と一緒に香純ちゃんも変わってしまったはずなのに。
と、またうっかり考え込んでしまったところに、こちらを不安げに覗く香純ちゃんの視線に気づいた。ごめんよ、僕の方こそ何でもないんだ。
「晴輝先輩は海はお好きですか?」
「海か。嫌いじゃないよ。家が割と海に近くて見慣れているってことはあるかもしれない」
「私も好きですよ、海。……ねえ、晴輝先輩。私は人の記憶を何かに喩える時は必ず海を持ち出すんです。枝葉のある樹木が喩えに使われることもありますが、私には海なんです」
そう言って海を眺める横顔は美しくて、それでいて目の前に居るのが誰なのかがわからなくなってくる。僕のよく知る“彼女”にしては天真爛漫で、改めて出会った彼女にしては理知的に映る。
「海は一であり全でもあるーー海という一つのものでありながら、様々な生物を内包し、地域や気候によって水質も変わる多様性もある。楽しかったことも悲しかったことも全てひっくるめて一つの記憶であるように。流動的であるところも似ていると思います」
流動的、ね。当時は嫌だった思い出が時間を経て何ともなくなったり克服できたりするように、記憶はいつまでも同じ形を保つ訳じゃない。
「浮いたり沈んだり、引いては寄せて、自分の内側で揺蕩う液体。記憶はそういうものなんじゃないでしょうか」
「なるほど、わかる気がするよ。香純ちゃんにとって、記憶はそういうものなんだね?」
「はい。私にとっては。不安定なものでもあるんですけどね、忘れっぽいという意味だけでなく……っく!」
「香純ちゃん⁉︎」
また頭痛がするようで、今度は立ってもいられないほどなのか、目を閉じて頭を押さえながらその場に蹲ってしまった。
「香純ちゃん、大丈夫か⁉︎」
「…………ふふっ。記憶は海、ですか。我ながら面白いことを言いますね」
「⁉︎」
その声のトーンで身体が思わず反応する。
「その喩えをそのまま使わせてもらうならば、そうですね、……私は海で溺れたことなどありませんでした。常にすぐ側にあり、どんなものでもその中からすぐに掬い取れるくらい気安いものですから。慢心した覚えはありませんが、波に呑まれて遭難したような気分でしたよ。『忘れる』というのは存外不愉快な感覚です。この現状ほどではありませんが」
「香純ちゃん……」
「つまり換言すれば、年末までの総てを思い出しましたよ、晴輝先輩」
そう言って浮かべる淡い微笑みは、間違えようがない。
「香純ちゃん、なのか?」
「はい。愛する彼女の顔を忘れてしまいましたか、マイダーリン♪」
「…………ダーリン言うな」
「それよりも晴輝先輩、どういうことですか? いくら同じ私とは言え、あんな抜けてる娘にデレデレしてしまっていたのはどういうりょう……うわっと!」
彼女が何かを言っている途中だったけれど、聞いている余裕なんてなかった。後悔すること必至だし、普段はこんな狼藉を働くことはない……ないが、僕は香純ちゃんを抱きしめずにはいられなかった。
「良かった……本当に、良かった……」
「……あのー、私、珍しく彼氏の浮気を責められるシチュエーションを楽しめるかと思ったんですが……。そんなに寂しかったんですか?」
「あぁ……」
「そんなに私に会いたかったんですか?」
「あぁ……」
「ふふっ、そうですかそうですか。なら、一連の騒動が収まったら結婚しちゃいます?」
「ノリが軽過ぎる。段階を飛ばし過ぎだ。このタイミングは死亡フラグみたいで嫌だ」
「ツッコミできる余裕はあるんですね」
今しがた理性を取り戻したんだよ。普段理性を前面に出して生きているから、回復するのも早いんだ。
香純ちゃんがツッコミを入れてくれたおかげで、自然と彼女の身体を離すことができた。
「えーと、今の君は、僕が覚えている年末までの香純ちゃんということで良いんだよね?」
「はい。ヒロインレースに勝利した香純ちゃんです。リセットは御免被ります」
「うん、その軽口で十分に伝わったよ」
今目の前に居る彼女は間違いなく僕のよく知る香純ちゃんだ。
「私の記憶力は自分でも引くレベルですね。ラグがあったとは言え、まさか世界改変にも耐えられるとは」
「世界……改変?」
改変というのは何だ。僕はてっきり一部が変えられた上で過去に逆行しているものだと思っていたのだけれど。
「そうですね、晴輝先輩の視点からすればそう考えても不思議ではありません。私というイレギュラーがあって初めて、話が変わってくるんです」
「……詳しく聞かせてくれるかい?」
「はい。ただ、その前に改変された後の世界で晴輝先輩が見てきたものを聞かせていただけますか? それを踏まえてお話しさせていただきたいので」
「わかったよ」
僕は香純ちゃんに語って聞かせた。朝起きたら日付が6月16日だったこと。僕を除いてそのことに誰も違和感を抱いておらず、過去に時間を戻されたのだと最初は思った。しかし、水川邸に行ったら七海が存在ごと消えていて、その代わりに亡くなったはずの七海の母・翠さんが生きていた。そして、七海が僕に遺していった手紙。
「その手紙に促された通りに、香純ちゃんに会いに行って……あとは君の知っての通りだ」
「話逸れますけど、私の階段落ちを助けた件についての語りが軽過ぎません?」
「え?」
「『え?』はこっちのセリフですよ。晴輝先輩にとってはその程度は日常茶飯事なんですか?」
「うん」
「『うん』いただきました。ありがとうございました、もう結構です」
こういうところが、晴輝先輩も世間擦れしてないんだよな、と香純ちゃんが小声で呟く。
え、僕そんなに変なことを言ったか? 追及したかったのだけれど、香純ちゃんに妙な笑顔で遮られた。
「話を戻しますね。私の側の事情をお話しします。私はご存知の通り、呪いじみた記憶力を奪われ、実の両親が存在せず最初から雲居家の娘だった、という風に書き換えられていました。我ながらあんな抜けた振る舞いをしていて、穴があったら入りたいくらいです」
言うほどのことかと思ったが、口に出すと怒られそうなので黙っておく。
「しかし、ここでの私が晴輝先輩と出会って以降、頭痛に苛まれるようになりました。今ならわかりますが、記憶を取り戻す予兆だったのでしょうね。細部は省かれていたとは言え、別人の15年分の記憶が上書きされたようなものですからね、無限に等しい私の記憶領域にも負担が大きかったのです」
それでも思い出せてしまうあたり、私の記憶力もバケモノじみていますがね、と自嘲気味に笑う。
「しかし、私が“思い出せた”という事実から、僅かながらも希望が見出せます。“思い出す”ということは過去があるということ。つまりこの世界は、私たちが居た年末までの世界の過去ではなく、新たに上書きされた未来なのです」
上書きされた未来……ここは過去じゃない?
「少々ややこしいですかね? 図にしてみましょうか」
香純ちゃんはそう言って、近くに落ちていた木の枝を拾って、地面に次のように書き始めた。
◯本来の歴史
12月31日
↓
1月1日、
↓
1月2日……
◯現状の歴史
12月31日
↓
介入・改変(α化)
↓
6月16日α
↓
6月17日α
「矢印の方向は日時が先に進む流れです。これはどちらの図も同じです。12月31日の次に1月1日が来るのは当たり前ですよね。しかし、今回の事態が引き起こされた事象を便宜上α化と仮に呼びます。現状の歴史では私たち以外の誰もが今を6月と認識していますし、気候を含めた様々な事象も6月そのものになっています。ただ、私も晴輝先輩も12月31日を過去として思い出せるのです。このことから、日時が先に進む流れ……図でいう↓の方向は変わらないことが証明できます」
ということは、この6月は12月から見た過去の6月ではなく、6月αという形に上書きされた未来なのか。
「ですから、このα化という介入・改変を解けば、本来の歴史通りに1月を迎えることができるのです。そして、その鍵が……」
七海が手紙で言及していた『井坂文弥の部屋』なのか。
「そのためには行成さんの協力が必要になる。けど、」
「再び妻を喪えと言っているのと同義ですからね……。そう簡単に協力していただけるとは思えません」
そして、明らかに分が悪い。今存在している妻と、間接的に存在を示された娘の二択ならば、妻を選択するに決まっている。
よく知る香純ちゃんに再会できたのは非常に嬉しいことだけれど、行成さんの協力を仰ぐのが難しいことに変わりはないのだ。
「どうしたもんかな……」
そう呟くと、突然僕のスマホが着信を知らせた。画面に表示された名前を見て、僕は慌てて電話に出た。
「はい、もしもし!」
『連絡が遅くなってすみません。晴輝くん、この後、時間を取れますか?』
電話の主は水川行成さんだった。




