ロンリー・クラウド
1
私の話を聞きたいなんて、物好きを通り越してどうかしているとしか思えませんね。いえ、構わないですよ。ちゃんと、全部お話しします。
おにーさんのことだけでなく、私自身のこともということになると、結構遡らなければなりませんね。
具体的に言えば、私が五歳の頃から。結構昔のことですけれど、具体的にお話し出来ると思いますよ。自分で言うのも何ですが、私は記憶力が良い方でしてね、――――楽しかった記憶も、…………どんなに辛い記憶も絶対に忘れられない。
私は実の両親を交通事故で亡くしています。
…………はは、初っ端から重たい話ですよね。事実なので、他に言いようがないのですが。両親が死ぬ直前は、私がちょうど小学校に上がる前でしたから、ランドセルを買ってもらったりね、幸せな時間でしたよ。お父さんとお母さんが幼心にも、本当に大好きでした。
なので、二人が死んだ時には絶望しました。明るい未来が全て真っ黒けですよ。真剣な話、私も死んでしまおうかと思いました。両親の葬式からこっそり抜け出した私は、近くの川へ行きました。
堤と堤の間には橋が架かっていて、橋から川の高さは十メートル前後はありました。これだけの高さから落ちれば、五歳の幼女にはひとたまりもありませんよね。
お父さんとお母さんの後を追おうとしたけれど、まあ、私は今もこうして生きていますよね――――橋から落ちようとした私を止めたのはあなたなんですよ、おにーさん。
その時のあなたは葉山咲良先輩と一緒に居ました――あの時から、あの方は美しかったですよ、色んな意味で。
……今はそれは置いておきますが、さて、その時の私は抵抗虚しく、おにーさんに自殺を阻止されてしまいました。「危ないだろ! 落ちたら死んじゃうじゃないか!」ってね。対して私は、
「放せ! どうして、邪魔をするんだ⁉︎ お前には関係ないだろ!」
と、私を押さえようとする彼になお抵抗していましたね。見も知らない男の子に邪魔されたとは言え、口が悪いですねえ、あの頃の私は。
「関係ないなんて、関係ない! おれは君をほっとけない」
「ほっといてよ! 私はお父さんとお母さんのところに行くんだ! 放せ! 放せよ!」
「嫌だ! 放さない! 死んじゃう! ダメだ!」
というような一悶着がありました。……ああ、その間葉山先輩はボーッとしてらっしゃいましたよ。自分の理解を超えたことに対して、何も出来なかったのでしょうね――――これは、彼女の完璧さ故の弊害かな。おっと、これは余計でした。
とにかく、お互いに幼い子供でしたから、体力が尽きて取っ組み合いは、とりあえずは収まりました。
が、私は、自分が決意したことを阻む、出会ったばかりの男の子に怒っていました。それと同時に、理解が出来なかった。
どうして、面識のない私を必死に助けようとしたのか?
彼は平然と答えました。
「おれもきみも、これからもきっと楽しいことがいっぱいある。なのに、死んだら、全部なくなっちゃうだろ。それはダメだ」
「私のお父さんとお母さんはもういない。ひとりぼっちなのに、何が楽しいんだ?」
「他にも、楽しいことはいっぱいある。ひとりが嫌なら、おれたちと一緒に遊ぼうぜ」
ショックを受けた私は、
「あなたたちと? 私が?」
と、辿々しく訊くしかありませんでした。それに対して、彼は自信満々に、
「ああ。そうだ。キミとおれたちが、だ。この辺に住んでるんなら、一緒に遊べると思うぞ」
そう言い切りました。これには私も驚いた、というより「何だ、この人は?」と思いました。
その後、私に残った唯一の身寄りである叔母の家に引き取られるまでの一ヶ月弱ぐらい、おにーさんやおねーさん(葉山先輩のことは当時はこのように呼んでいました)と遊びました。楽しかったですよ、とても。この時以上に、私に楽しかった時はないでしょうね。
少なくとも、死のうとは思わなくなりましたよ。
まだ、これからも生きよう、と思えるようになったんです。
ですが、ここで私は要らない期待をしてしまったんですよね。いえ、今となっては、大したことじゃあないんですけれど。
――――死んでしまった、お父さんとお母さん以外にも、私を愛してくれる人がいるだなんて、思ってしまったんです。
先程も言いましたが、私は叔母の家に引き取られたんです。叔母は結婚をしていて若くもあったんですが、中々子どもが出来なかったらしくって。そういった事情もあって、私を喜んで引き取ってくれたんですよ。
私としては、おにーさんたちと別れるのが辛いところでしたが、それこそおにーさんのおかげで大分心が救われていましたからね、叔母のもとでも上手くやっていこうと思いました。
叔父とも叔母とも、仲良くやって行けましたよ。他人行儀も抜けて行って、家族のようでした――――そんなある時、叔母が念願だった妊娠をしたんです。そして、私が七歳になった時、叔母は男の子を産みました。私にとっては、弟と呼ぶべき男の子です。
叔母夫婦にとって念願の実子が誕生したという訳ですが、私はこれまで通りに仲良く出来ると思っていたんです。
弟と呼ぶべき男の子はまだ幼いですから、叔父も叔母もそちらに構いきりになるのは分かっていましたが、ただ、それでも少しずつ違和感を覚え始めました。漠然としていて、何とも形容し難い感覚でしたが。無理やり言葉を選ぶとするなら、居場所がなくなっていく、という感じでしょうか。
そんなことがある訳ないと頭の中から振り払おうとしたんですけれど、――――決定的なことが起きたんです。
十歳の頃、私は叔母の料理を手伝っていました。確か、天ぷらを作っていたと思います。弟と呼ぶべき男の子は、叔父と共に台所近くのテーブルに座っていました。
「叔母さーん、もうここにあるものは全部揚げちゃって大丈夫ー?」
「ええ、お願い」
「ん、分かったよ」
「………………」
「…………あとは私がやっとくから、弟を見てなよ」
「え、だ、大丈夫よ。お父さんが居るから」
とか話していた時でしたね――――突然、大きな地震が起きたのは。大きな、とは言っても、震度四〜五ぐらいでしたが、それでも火元が危険でした。私は即座に火を消そうとしました。火はすぐに止められたのですが、不覚にも油が少し跳ねてしまいましてね、腕をほんの少しだけですが、火傷してしまいました。
それでも、叔母と叔父と弟と呼ぶべき男の子の方は大丈夫か、とそちらの方を向きました。地震はその時にはもうおさまっていましたが、――――くふふ、あれは驚きましたよ。
叔父と、弟と呼ぶべき男の子、そして、先ほどまで隣に居た叔母までもが、テーブルの下でお互いの無事を喜び合っていたんです。そして、十秒ほど後でしたかね、叔母はハッとしたかのように、私の方を向きました。
この時の叔母の表情を忘れられません。何も言わずとも、「あっ、しまった⁉」と顔が物語っていましたからね。
――この時になってやっと、分かったんです。私を愛してくれる人なんて、もうこの世の何処にも居ないのだ、と。
滑稽でしたが、何とか叔母が「大丈夫、香純ちゃん?」と言葉を捻り出したようなので、私は腕の油が跳んだ部分を水で冷やしながら、こう答えてやりました。
「ええ、大丈夫です。ご心配には及びませんよ、叔母さん」
――私の心は、この時に死んでしまいました。
喜びも楽しみもありませんが、辛さや悲しさも、この時以降、今に至っても感じることはないんです。
死んでしまったものは、もう蘇ることなんてない。
ただ、心が死んでしまったまま、生きて行くには、どうしようかと悩みました。短くはない人生、どうやって何も感じないまま生きて行こうか、と。
しかし、これはそう難しくはありませんでした。簡単な話、他人をよく観察し、推して測り、表面上は礼儀良く振舞えば良いのです。
人は一人では生きて行けません。
――おにーさんのトラウマにもなった、双子の姉妹は両親の不和による離婚で離ればなれになったそうですが、それでも愛し合える真の家族がいて幸せそうじゃあないですか、あっはっは。
それはともかく、だから、他人に媚びへつらい、これまで私は生きてきました。
唯一信用できる自分だけを頼りに。
笑える心なんてなくても、私は心から血を噴き出しながら笑うんですよ。
「くふふふふ」と。
そんな中で私が得た能力を、優雨ちゃんは私を褒め称えてくれましたけれど、私自身も良いように利用していましたけれど、何のことはない、生きて行くのに必要だっただけなんですよ。
私の話は以上です。
ロクでもない私の人生でしたけど、あの時、死んでしまうべきではなかった。
だから、私を助けてくれたあなたは、ずっと私のヒーローだったんですよ。
改めてお礼を言わせてください。
あの時、私を助けてくれてありがとうございました。
2
話を聞いている内に、僕は彼女のことを思い出してきた――――出会った頃には、真っ暗な瞳をしていた少女が、段々と光を取り戻していくのが記憶に甦ってきた。
しかし、現在の歪な光は何だ? 彼女は今、何を思っている? いや、思う心なんて、彼女にはもうないのか?
「っと、色々話過ぎましたかね。許容範囲をオーバーしてしまいましたか? 授業でもないのに、短時間に情報を詰め込みすぎましたね。ですが、もう終わりです。あなたはあの時のようなあなたらしさを取り戻しつつあるようですし、あとは葉山先輩をヒロインにでも据えて、どうかお幸せに。優雨ちゃんには……、もう一度お礼を伝えてから…………、お別れしましょう」
「お別れって、どうして⁉」
「言ったでしょう、私が本当に信用できるのは自分だけ。今更、他人と信頼関係を築こうなんて、まっぴらごめんなんですよ」
お時間を取らせてしまって、申し訳ありませんでした――――そういって、香純ちゃんは階段を下りていく。僕の前から去って行く。声をかけたくても、何を言えば良いのかが分からない。
もう何度目か分からないけれど、自分の無力さに腹が立つ。すると、そのとき、僕のスマホが着信音を鳴らした。マナーモードにしていなかったことが迂闊だったが、今は着信の主だ。僕は画面を見る。
僕の妹、寺井優雨だった。
『もしもし、兄さん? 今大丈夫? いや、大丈夫じゃなくても切らせないけど』
「大丈夫じゃあないけど…………何だ?」
『兄さんさ、今日、香純ちゃんに会った?』
「ああ、ついさっきまでな。けど、それがどうした?」
『私のことって、何か言ってた?』
「……まあ、ちょっとな」
『………………香純ちゃんにさ、もう会わなくて良いって言われちゃった』
「…………。お前はどう思った?」
『どうも何も、悔しいというか寂しいというか、さ。なーんか、友だちだと思ってたのはわたしだけなのかなーって、思って』
「そうか。お前は、今でも香純ちゃんは好きか?」
『当ったり前じゃんっ! あんないい娘、そうは居ないもん』
「そうか。……分かった。お前にもここ最近世話かけたしな、――兄ちゃんに、任せろ」
『……ふふっ、久しぶりに聞いたな、それ』
「って言っても、どうすればいいか分かんないし。何も出来ないかもしれないが」
『うっわ、女々しいっ。保険かけとくとか、女々しいっ』
「うっせえ。黙って、僕からの朗報を待ってろ」
『ハイハイ、ほんのちびーっとだけ頼りにしてるよ、お兄ちゃん』
失礼な感じに、電話が切れた。どうして、あの妹はこうも可愛げがないのだろう。兄の苦労が偲ばれそうだ――と他人事のように言いつつ、やっぱり優雨の兄は僕の他にはこの世の何処にも居ないのだけれど。
どう何とかすれば良いか分からないが、何とかしてみよう。
3
「あのー、おにーさん。あなた、演出などの造詣がないんですか? もう偶然以外で、あなたにお会いするつもりはなかったのですが」
僕は放課後、香純ちゃんのクラスを訪れた。上級生が下級生のクラスを訪れることについては、先輩も後輩も神経をすり減らしそうなものだけれど、あいにく僕の神経は存外図太かったらしい。
香純ちゃんの方も多少は驚いたようだったが、いつも通りの穏やかそうな表情と滑らかな口調で僕を出迎え、学校の中庭で話をすることになった。
コンクリートと芝生が中途半端に混じり、申し訳程度に植えられた木に囲まれたベンチに、僕たちは腰かける。
しかし、香純ちゃんを呼び出しておいてなんだけれど、僕はいまだに彼女に何を言えば良いか、分からずにいた。
彼女に綺麗事は通じない。聞こえは良くても中身のない言葉は、彼女が使いこなし、また、最も忌み嫌うものだから――もっとも、中身のない言葉なんて言うつもりは毛頭ないけれど。
ならば、香純ちゃんにはもう何も言葉は届かないのか。せめて、優雨と友達に戻ってもらえることはできないのか、いや、待て、そもそも――――。
かける言葉は見つからなくても、伝えたい思いを内に氾濫させた僕はこんな言葉を発していた。
「君に心がないなんて、嘘だろう」
言われて一瞬色を失った彼女は、再び笑みを――今になって思えば痛ましい表情を浮かべて、
「くふふ、何をおっしゃるかと思えば…………、私の持論が嘘だと? 何故、私が嘘をつかなければならないんです? 理性のみで生きる私には、もう心はないと言ったばかりじゃないですか」
「嘘、というよりは君が自覚してないだけかもしれない。でも、君を突き動かすのは理性だけじゃないはずだ。君の心はまだ死んでない」
「何を根拠に……」
「純粋に目的を果たすだけだったら、君の行為には無駄が多い。……そもそも、優雨と友達になる必要はなかったはずだぜ」
「それは、彼女の方から……襲われちゃいましたからね」
「あの妹、美少女に目がないからな。でも、なんで遠ざけたりしなかったんだ。あいつは嫌がる女の子に擦り寄るほどまでに性悪じゃないぞ」
「別に他意はありませんよ。あなたのことを調べるのに、都合が良かっただけです」
「君一人だけで、僕の件を調べるのに十分だったはずだ。…………僕の今の人となりだって、優雨の助力は要らなかったはずだろう。いや、そもそもだ」
「…………」
女子を追いつめることへの抵抗はあったけれど、僕は止まらなかった。言わずには、いられなかった。
「なぜ、君は僕にこだわるんだ」
「‼︎」
「君が体良く生活するのに、僕のことなんかどうでも良かったはずなんだ。僕がどうあろうがどうでも良かったはずなんだ」
「それは…………それは、……」
「だけど君は僕のあの件を暴き、僕を昔の僕に戻そうとした。何故だ? 僕のことがムカついたんだろう。 君を助けた僕の今の体たらくに、君は腹が立ったんだろう。心から」
「そんな、私は……」
「今までの優雨との付き合いに、君の心はなかったのか? 君のこの件での行動のモチベーションに心はなかったのか? 解っていながら、心に向き合わなかっただけじゃないのか⁉」
「うるさいなあっ‼」
彼女は今までになかった声を上げた。仮面のように貼り付けていた笑みは失せ、目を剥いて僕を睨みつけている。
「あなたに私の何が解る! 心に向き合えだって、ふざけるな! 向き合ったところで何がある! もう誰にも愛されない悲しみと虚しさしかないのに! 悪意を直視できなくなったあなたに、私の何が解るって言うんですか⁉︎」
言い切った彼女は、酸素が切れたのか、肩でハアハアと荒い呼吸をした。雲居香純の剥き出しの感情を、僕は始めて見ることができた。
「香純……ちゃん?」
「うわ、えと、あの、ですね、……」
彼女は何かしら弁解の言葉を述べようとしたが、
「ははっ、やっと、君の素顔を見ることができた。とても嬉しい」
「はぁ? わ、私はあなたに向かって、」
「そうだね。こんなに君は僕に腹を立てていたのか。むしろ、スカッとしたよ」
「スカッとしたって、何を言ってるんですか、あなた」
「いや、だって君の言ったことは否定出来ないし、その通りだと思うからさ。……今までの君は本性が全然掴めなくて、正直、不気味だったんだよ」
「本人を前にして、不気味ですか。……私も否定は出来ませんね」
けれどね、と香純ちゃんは続ける。
「あなたを攻めるようなことは言いたくなかったんです。弱音を吐きたくなんかなかったんですよ、あなたの前で」
ねえ、おにーさん。私はこれからどうやって生きていけば良いのですか? どうやって、心を抱えて生きていけば良いのですか?
彼女は縋るように、僕にそう言った。僕は不謹慎な内なる喜びを抑えつつ、応える。
「ありのままの自分で生きていけば良いだけだよ。喜んで悲しんで、笑って泣いて、さっきみたいに怒ったりしてさ、そのままの感情を外に出せば良いんだよ。僕もそうするつもりだ」
聞いた彼女は再び無表情となったが、すぐに口元を緩ませて微笑んだ。それは、心から漏れだしたような自然な笑みだった。
……くらっと来た。
結局、私を助けてくれたおにーさんはもう戻ってこないのか、と香純ちゃんは小声で呟き、踵を返して去って行く。
が、更に彼女は振り返り戻って来て、僕の目の前まですり寄ってきた。いや、近いって!
「今日はありがとうございました。またすぐにお会いしましょう、晴輝先輩♪」
と言って、今度こそ彼女は早足でこの場から立ち去って行った。
晴輝先輩、ね。
僕は結局、彼女を助けた時の自分に戻ることはなかった。けれど、今の僕、今のありのままの自分たちで新しい関係を築くのも悪くはないと思うのだ。
心を取り戻した僕たちを、あの小生意気な妹はなんと言うだろう。
なんて思っていたら、また優雨から電話がかかって来た。
『もしもし、兄さん。どうだった?』
「どうだったって、どうにかできたが、お前、良いタイミングで電話をかけてきたな」
『ん、それは何となくね。予想が出来た。でも、やっぱり兄さんは何とかしてくれたね』
「はっはっは、褒めてくれて良いんだぜ」
『いやいや、良いリハビリになったようで何よりでございますよ』
「…………は?」
『リハビリだよ。兄さんにもとに戻ってもらうには、やっぱり人助けをしてもらわないと。カスミちゃんのことも前々から心配してたから、両方丸く収まって良かった良かった』
「……なんだ、その言い方だと、お前がこうなるよう企んでいたように思うんだけど」
『そのとーり! いやー、わたしスゲーな! 策士だわ、ナルサスと肩を並べられるくらいの、策士だわ』
「お前、…………帰ったら、覚えてろよ」
『良いじゃん。みんな幸せ、あとはハッピーエンドまっしぐらでしょ。…………でも、香純ちゃんのこと、ありがとね』
僕は途中で、電話を切った。何だか、要らない感情を抱いてしまいそうで。
違う、僕は今、兄を利用した妹を怒るべきなんだ。
結果がどうであれ、実は僕も香純ちゃんもあいつの手の平の上で踊っていた、という事実は非常に腹立たしい。
久しぶりに派手に兄妹喧嘩を繰り広げるとしよう。
「僕も帰るか」
4
「おはようございます! 起きてください、晴輝先輩っ!」
翌朝、僕は香純ちゃんに起こされた。
って、いやいやいやいや!
「なんで君が僕の部屋に居るんだ!」
「それはどちらのことを訊いているのですか。ホワイダニット? ハウダニット?」
「両方だ!」
「ホワイは、先輩がびっくりするかなーって思いまして」
「びっくりしたわ! 眠気が吹き飛んだわ!」
「ハウは、優雨ちゃんに鍵を借りました。お父様とお母様にも了承は得ていますよ。お母様は最初は難色を示されたようですが、最終的には、面白そうだからオッケー、とのことで」
「家族が敵に回った⁉」
面白そうだからオッケー、と結論を出したのは恐らく父さんだ。そしてあの妹、まだ悪だくみを働かせてやがった。
立っている足場がガラガラと崩れる音が聞こえてきそうである。
「しかし、晴輝先輩。思ったよりも、喜んでいただけませんね。何故です?」
「何故も何もあるか! 朝から何で、こんなに驚かなければならないんだ」
「アラームよりも目が覚めたでしょう」
「まあね!」
「朝、目が覚めたら女の子が目の前に居た、というシチュエーションは全ての男性が憧れるものだと思っていたのですが。……やっぱり、可愛い女の子じゃないとダメでしたかね」
「いや、君は可愛い女の子だよ」
「ふぇ?」
あまりに想定外の出来事で冷静さを失っていたが、ようやく落ち着いてきた。本当に目が覚めたというなら、それは今この時だろう。確かにシチュエーションこそおかしいが、努めて冷静に。
僕は寺井晴輝。この物語の数少ない常識人の一人である。
「というか、鈍感主人公じゃないですか」
心なし頬を赤らめながら香純ちゃんは言った。ん? これはどういう脈絡なのだろう。
「え、なんだって?」
「……だから、鈍感主人公まっしぐらじゃないですか。ヒロインが苦労させられそうだ」
「鈍感主人公って、ラノベとかアニメとかギャルゲーとかの? 誰が?」
「…………やれやれ。ここは一度はっきり言っておいた方が良さそうですね」
そう言って、彼女は未だベッド上の布団の中に居る僕にのしかかって来た。
「ちょ、香純ちゃん⁉」
「晴輝先輩、あなたは私の中の色んな心を指摘してくれましたが、一つだけ足りないものがありましたよ」
「一つ?」
「ええ。私があなたに執着した理由……………………あなたへの恋心」
「はあっ⁉ で、でも君は……」
「確かにあなたへの感情は、愛憎入り混じりまくりでした。でも、あなたに辛い過去を蒸し返した私なんかを、命を救ってくれたあなたを散々に罵った私なんかを、あなたは助けてくれた。…………私から惚れられないとでも思ったんですか?」
「で、でもさ、それは僕じゃなくても、それに状況のせいもあって、あれだ、吊り橋効果とかそういうのが」
「吊り橋効果? 吊り橋の上で怖がりながら進む人を、飛び跳ねて橋を揺らして更に怖がらせたくなる衝動のことですか?」
「そんなSっ気たっぷりな心理学じゃないからね」
「では、私のこの気持ちが間違っていると言いたいのですか」
「…………」
香純ちゃんは僕を睨みながらも、両腕を僕の首に絡めてくる。
何故だろう、抵抗できない。
「散々、心の存在を疑ってきた私が、今更自分の心を見誤る訳がないでしょう。それにね、元々他人とは表面上の付き合いを望んでいた私が下の名前で呼ばせるのなんて、よっぽど親しくなりたい人以外にあり得ませんよ」
う、言われて見れば、確かにそうだ。
だからね先輩、と香純ちゃんは続けた。僕と彼女の距離は、もうミリメートルほどもない。
「晴輝先輩、私はあなたを愛しています。結婚を前提に、私と付き合ってください」
僕を真っ直ぐに見つめて、香純ちゃんは僕に告白した。
眠気も冷静さも、何もかもが吹き飛んだ。
とても器用で、それでいて不器用な可愛い女の子からの愛の告白に何と応えたら良いのか。
彼女にとっての僕は?
僕にとっての彼女は?
考えて、考えて。考え、感じた答えを伝えよう。彼女のありのままの心に、僕のありのままの心で返事をしよう。
「香純ちゃん、僕は……」
突然、扉が開かれた。誰かが僕の部屋に入ってきた。
僕と香純ちゃんは、同じタイミングでそちらを見る。
「な……な…………」
葉山咲良が、そこに居た。動揺と驚愕が、その表情に貼り付いている。よく見ると、全身が小刻みに震えていた。
そして、その奥では、次なる兄妹喧嘩を始めようと予定していた相手、寺井優雨が口もとに手を添えてニタニタと笑っている。
一方、僕のすぐ近くで同じ人物を見ていた雲居香純は、――――本当に感情的になったな、咲良の方を向いて挑戦的な笑みを浮かべた。
さてこの状況、一体どうすれば良いのだろうね?
爆発すれば良いんじゃないかな?