ライジング・サン
0
初めて眼鏡をかけた時、世界がスクリーン越しに見えるように感じた。距離を置いて、俯瞰して、ひと呼吸おいて、そうすれば今まで見えなかったものも見えるようになるのだろうか。
僕にはまだ分からない。僕は怖い。
1
僕が「俺」だった頃の話。
あるいは、「おれ」だった頃からかもしれない。
かつての僕は、正しいことをするのが好きだった。良いものは良い、悪いものは悪い。それを様々なところから聞いて知って学んで、かつての僕は勧善懲悪に染まっていたのだった。
それをずっと続けていると、いつの間にか自分がまるで正義の味方であるかのような錯覚に包まれてしまう――そう、全くもってそれは錯覚に過ぎず、真実ではなかったというのに。
正義の味方である以前に、一人のちっぽけな人間であることを、僕は失念していたのだった。
そして、そんなちっぽけな人間が掲げる正義ほどあてにならないものなんてないじゃないか。それが本当の正しさである保障なんてないじゃないか。
いや、保障なんて話を持ち出したら、保障のあるものなんてどこにもないかもしれないが、――――少し話を一般化させ過ぎたかもしれないが、僕が心から後悔しているのは、要するにこういうことだ。
僕の思う正しさが、本当に人を助けられる正しさではなかったこと。それを、傲慢だった僕が全く分かっていなかったことである。
あんな思いをもう二度としたくなくて、「俺」を捨てて「僕」になったけれど、それで正しさに近づけたのかと言われたら、是と答える自信はない。
今でも、僕の心の痛みは続いている。
あれは、僕が高校に入学したばかりの四月のことである。
幼馴染の葉山咲良とは、小学校から中学校までの間ずっと同じクラスだったため、高校に入ってからもそれが続くものだと思っていたのだが、意外なことにもクラスが別れてしまった。
しかし、それなりに衝撃はあったものの、家が近所で登校も共にしていることに変わりはなくて、あまり重く受け止めることはなかった――――今から思えば、咲良があの時に側に居ればあんなことにはならなかったのではないかと思うけれど。
そんな感じの高校生活のスタートだったが、中学生までの僕と変わらない、ひたすら良いこと正しいことを求めていた僕は、ある少女たちに出会った。
木崎春菜と木崎若菜。双子の姉妹。
一卵性双生児である姉妹の顔立ちはとても似ていて、それどころか同じといっても過言ではなかったのだが、そんなそっくりな二人の見分けはとてもつけやすかった。
姉の春菜は明るく活発な性格でハキハキとした話をしていたが、対照的に妹の若菜は引っ込み思案な性格で、眼鏡をかけ、常に姉の後ろにいるような娘だった。
そんな姉妹が僕とどう関わってくるのか。というより、僕がどう首を突っ込んだのか。
四月。入学式、クラス分け、自己紹介からも一週間ほど経ち、そろそろクラスメイトたちがお互いにお互いがどういう性格なのかが分かり始めた頃。
僕はこの姉妹のことが気になり始めていた。気になるというのは異性としてではなく、説明するのが難しい暗さ、闇のようなものを感じたのである。えらく抽象的で、しかも彼女たちは周囲に毒を振りまくような人間では決してない。
そうであっても、そんな薄らぼんやりとした引っかかりが僕は気になった。そして、当時の僕は一度気になったら、ブレーキを忘れてアクセル全開になってしまうのだった。
「ちょっと訊きたいことがあるんだけど、良いか?」
ある時、僕は姉妹の姉の春奈に声を掛けた。妹の若菜がいないタイミングを見計らってでのことである――――若菜がいても良かったものの、一人に絞って訊いてみた方が良いと思ったからだ。
「何、寺井くん」
特に話をよくする仲でもないが、名前は覚えられているらしい。
いや。訊きたいことがあることはあるのだが、どう話を切り出したものか。「何か悩んでることがあるのかい? 良かったら、俺が相談に乗ろうか?」と直球に訊くことなんてできやしない。「突然、何を言い出すんだコイツは」と困惑されてお終いだろう。
と、この時のぼくは思わなかった。
「何か悩んでることがあるのかい? 良かったら、俺が相談に乗ろうか?」
――――当時の僕に、そんな殊勝なブレーキ的感情は欠けていたのである。
「え、急にどうしたのさ? 別に悩み事なんて特にないよ。どうして、そんなことを?」
と、春奈からは教科書通りの反応をされたものだが、
「いや、なんとなく気になってな。こう、なんて言ったらいいのか俺にもわからないんだが」
「何それ? 変なの。もしかして、ナンパのつもり?キミにはもう美人の彼女がいるって噂だけど」
思わぬ方向に話を逸らされて困惑した。
「ナンパじゃない。全然違う。……って彼女? …………ああ、咲良のことを言ってるなら違うぞ。咲良は幼馴染なんだ。そういう関係じゃあない」
へえ、と春奈はあまり納得していないような相槌を打ったが、
「ま、どうでも良いけど。用事はそれだけ? 若菜が待ってるから、そろそろ帰りたいんだけど」
「あ、ああ」
僕としては疑問は何も解決していなかったが、彼女を引き留める口実が何もなかった。
廊下の方を見ると、若菜がこちらの様子を覗いていたようだった。僕が気付いたことに気付いたのか、若菜は慌てて体を引っ込める。
春奈はそんな妹の様子に苦笑しながら、教室を出ていく。廊下に出る直前にこちらを向いて、手をパーにしてひらひらと振った。
「それじゃあ、また明日。…………なんかよく分からないけど、…………ありがとね」
そう言った彼女の表情は、普段の飄々とした雰囲気とは打って変わった儚さを帯びていた。
そんな彼女を見て、僕は確信した。
彼女には明らかに何かがある。
何かは分からないけれど、気づいたからには僕が何とかしたい、助けになりたい――――相手が春奈であろうが誰であろうが関係なく、僕はこんなことを思うような奴だった。
そして、僕は、彼女が本当に願っているものは何なのかを知ることもなく、知ろうともせずに、彼女の抱える闇を暴いてしまった――――しかし、これは僕の口からは語れないから内容は伏せるけれど、とにかく僕はそれを春奈に伝えた。
だが、その時の春奈の表情を、僕は憶えていない。
力になろうと言ったけれど、春奈は、
「え、いや。ごめん。…………でもさ、一日待っててくれる?」
と言って、僕の答えを聞く前に去って行った――僕が春奈の顔を見たのは、これが最期になる。
翌日、そして、その後一週間以上、春奈は学校に来なかった。困りあぐねていたところで、とどめを刺すかのように、担任教師から姉妹の転校が告げられた。
事情を知っていた僕は最悪の事態を考え、妹の若菜に話を聞こうとしたのだが、
「……ちょっと、良い?」
若菜の方から話しかけられた。引っ込み思案の彼女から話しかけられるのは、はなはだ意外だった。
「若菜。俺、お前に訊きたいことが、……」
「……春奈に何を言ったの?」
そう言う彼女の、眼鏡の奥から覗く瞳からは、例にない敵意のようなものを感じた。困惑しながらも、僕は春奈に言ったことと同じことを伝えた。
感謝されることなんて絶対にないだろうとは思ったけれど、――この時のことは絶対に忘れられない――それでも、若菜がここまで鋭利な視線を向けてくるとは思わなかった。
「なぜ、あなたには分からないの⁉」
「?」
「私たちの問題は私たちの問題。他の誰にも、解決なんて出来ないの! だけど、せめて他の人たちには後ろ指さされたくなくて、知られないまま、改めてやり直そうとしていたの! 助けなんていらない! 無関心でいて欲しかったのに、なのに、どうしてあなたは! …………あなたの勝手な正義に、私たちを巻き込まないで」
呆然としている僕を残して、若菜は去って行った――彼女の眼鏡がいやに光っていたこともまた、僕の脳裏に焼きついた。
こうしてぼくは、自分の正義が疑わしくなり、人間が怖くなり、――――何より、僕と言う人間の在り様がとてつもなく恐ろしくなってしまった。
2
「兄さん、ここまで語るのが下手くそだったっけ? 後悔入りまくりの語りが、うざいね。中途半端に内容を伏せてて分かりにくいし」
「…………分かりにくかっただろうが、……うざいって、」
香純ちゃんが帰った後、僕は妹の優雨に高一の時にあった出来事を話した――いや、白状させられたと言った方が正しい。
本当は思い出したくも話したくもなかったのだけれど、優雨に本気で問い詰められたのだからしょうがない。……そして、今日初めて会ったばかりのあの娘にも僕の全てを見透かされているような気もして。
「だって、うざいもんはうざいんだもん」
「そもそも、お前、僕が言う前から知ってたような節があるんだが」
「ある程度はね、香純ちゃんに聞いてたから」
「やっぱりか……。けど、何でそこであの娘が出てくるんだ? 関係ないだろ? ……お前が巻き込んだのか?」
「うん、わたしが巻き込んだ。香純ちゃんは凄いよぅ、現実に生きる美少女名探偵さんだからね」
優雨は普段の茶化したような口調にしようとしているようだが、僕には分かる、こいつ相当怒ってるな。
「それで、僕のことを知ってどうするつもりなんだよ」
「どうするって、決まってるじゃん。……兄さんの今のキャラをぶっ壊す。で、昔の兄さんに戻ってもらう」
妹らしい、ストレートな物言いだ。
普段はなんだかんだ言って嫌いじゃなかった優雨のそんな性格に、しかし、今の僕はとても腹が立った。
「お前は、僕に限らず、人の話を聞いてないのか? 前の僕がどれだけ馬鹿な奴だったか、分かってねーのか! 手前勝手に助けるとか言って、余計に事態を悪化させるような奴だったんだぞ! 僕は! 俺は! それを直そうとしてるのに、勝手なことを言うな!」
「それがうざいって、言ってんの!」
優雨はもう自分の激昂を隠そうとしていなかった。 顔を紅潮させながら、僕を睨んでくる。
「うざいっていうか、もうここまで来ると気持ち悪いよねっ! 兄さんにとっては、物分かりばっかり良くて、自分のことを主張しない奴の方が良いの⁉ 自分が出れば何とか出来そうなことを、悪化させるのが怖くて、ただ黙って見てるだけの奴の方が良いの⁉ そんな似合わない伊達眼鏡までかけて、何がしたいのさ⁉」
「お前はただ聞いてただけだろ。お前には分からないだろ、あの……怖さが」
「怖かったの?」
「ああ、怖かったよ! 自分が正しいと思ってきたことが否定されるのが! 自分の間違いで人を傷つけてしまったことが! …………もう、あんな思いはしたくなくて、それで、」
「反省でも、したつもりなの?」
「そうだよ。だから、僕は、」
「それ、逃げてるだけじゃん。怖くなって、逃げてるだけじゃん! …………間違ったまんまじゃん」
「……うるさいな。お前には関係ないだろ」
パチンという音と頬の痛みが同じタイミングで響いた――優雨に頬を叩かれたのだ。…………僕だって、腹が立っているのに、手が出なかった。
「関係ないとか言うなっ‼ アンタは、わたしのたった一人の兄さんでしょーが! 面倒だけど、ほっとけないんだもん!」
「…………!」
口の中が渇いて、声が出せない。
優雨は両手で握りこぶしを作って、僕をポカポカと殴り始めた――でも、不思議と少しも痛くなかった。
「わたしはいつでも人助けしようとしてた兄に憧れてた。昔から、わたしは口は出せても手が届かなかったから、ずっとずっと憧れてた」
「…………」
「一回失敗したから、何なの? 反省して、また復活すれば良いじゃん」
「……」
「全部嫌になって、怖くなって、投げ出さないでよ! わたしが憧れてた人を馬鹿にしないでよ‼」
「優雨……」
妹はいつの間にか、目を赤くして、その淵から涙を流していた。
「戻って来てよ、……お兄ちゃん」
優雨はしゃくりあげて、その両手が震えている。僕はその手を掴んで、優雨の頭を抱き寄せた。
何の言葉も理由もない。
ただ、胸の奥がじわりと温まっていくのを感じる。
柔らかな布に包まれているかのようだ。
数秒か数分か数時間か、――あるいはほんの一瞬だけかもしれない時を沈黙で貫いたのち、
「ねぇ、結局どうするのさ?」
優雨が顔を上げないまま、上擦った声で問いかけてくる。
「…………どうすれば良いんだろうな?」
「質問に質問で返さないでよ」
「悪い」
「じゃあさ、兄さんは何がしたいの?」
「…………周囲に対して鈍感で、自分勝手なことはしたくない。――でも、やっぱり正しいことをしたい」
ふふっ、と優雨が笑って、僕のTシャツが震えた。
「やっぱり、変われっこないよね。善悪とかそんなのは関係なくても、『ツッコミ』ってさ、間違っている『ボケ』を正すものでしょ。兄さんの、間違いに対しての潔癖は変わらないんだよ」
「それ、色々飛躍がある気がするが、……あんまり否定は出来ないな」
――――まったく、僕は情けない。
妹に諭されてしまうなんて、兄の立場がない。
「それはそうと、珍しくお前を泣かせちゃって悪かったな」
「はあっ⁉ わたし、泣いてないし」
「なら、僕の服で涙をゴシゴシ拭うのをやめろ」
僕がそう言うと、妹はパッと顔を上げた――――涙は拭えても、目が真っ赤だぞ。
「泣いてないし泣いてないし! アレだよアレ、頭に血が上っちゃって体温が上がったから、上がった体温を下げようと汗が出たんだよっ! そう、汗だよ汗! 涙じゃないし! わたし泣いてない!」
「意地張らなくたって、良いんだぞ。女の涙は武器になるんだろ?」
「やなこった! わたしは涙以外の武器で勝負するもん」
はいはい、と適当に合わせて、僕は妹の頭をぽんと手を置いた。
こんな妹でも、ごくごくたまになら可愛く思えることがある。
なんだか、空気が和やかになってきたところで、僕は優雨にずっと気になっていたことを訊いてみた――――僕の心のままに尋ねてみた。
「優雨、…………香純ちゃんのことについて訊きたいことがある」
訊くと、優雨はニヤリといつもの不敵な笑みを浮かべた。
「その言葉を待ってたよ、お兄ちゃん」
3
翌日。登校した僕は、クラスメイトたちに眼鏡をかけていないことをツッコまれた。
僕の変化に対する彼らのリアクションが予想以上に大きかったのだが、何とか雑談も交えてそれに応じることが出来たと思う――――そして、これは僕もクラスメイトも互いに感じたことであると思うんだけれど、特に中身のない雑談でも実際に話してみるとこれまた予想以上に話が弾むもので、約一年間自分がぼっちだったことが不思議でならない。
それが顕著だったのが、後に頻繁に会話を交わすようになる、井坂文弥という男子だ。
井坂は僕の後ろの席に座っており、やや時間がかかってから自分の席に腰掛けた僕に気さくな感じに話しかけてきた。
「おはよう、寺井」
テノールよりは低くバスよりは高い声。確か、彼はクラスの中で最も背が高いはずなのに、座高はほとんど僕と変わらない。僕だってこの年頃の男子の平均身長よりは高いのだけれど、彼のスタイルの良さは何なんだろう。
「ああ、おはよう」
そう答えた僕を、井坂は頬杖を突きながら観察するかのようにジッと見つめてきた。
「な、何だ? 顔に何かついてる?」
「いんや、何も。ただ、週明けと今日とでガラッと雰囲気が変わったな、お前。憑き物が落ちたみてーだ」
ここしばらく、特に昨日の顛末を全て見ていたかのようなことを言った。
「まぁ、ちょっとな。とりあえず、眼鏡は止めた」
「はは、それが良い。あんまり、似合ってなかったしな」
「…………そうなのか?」
「ああ。似合ってないっつーか、違和感まみれだった。下手にキャラ作りをしようとして、失敗してる感じに。だが、今日の寺井にはあんまり違和感がねーな。何があったか知らねーが、そっちの方が良いと思うぜ」
「それは、…………ありがとう」
井坂は口の端を上げ、僕に右手を差し出してきた。
「んじゃ、改めまして。俺は井坂文弥。趣味は読書と、小説を書くこと。文芸部に入ってて、図書委員会にも所属してる。面白い人間が好きだ。よろしくな、寺井晴輝」
それは、九月というあまりに中途半端なタイミングで、それでいて唐突な自己紹介だった。
何だか良く分からない奴だ。けれど、僕もまた良く分からない感情に突き動かされて、井坂の手を握り返した。
「こちらこそ、よろしく」
随分と久しぶりに、僕に友達が出来た。
4
昼休みになり、弁当を取り出そうとしたところで、
「おにーさーん、こーんにーちはー! 何も用事がないようでしたら、私と一緒にお弁当を食べませんかー?」
妹の友達で昨日もウチに来た、雲居香純ちゃんが教室に現れた。…………いやいやいやいや。
「何で、君がここに? あと、弁当って……」
「くふふふ、照れなくても良いんですよ。私たちはあんなこともこんなこともした仲じゃないですか」
「そんなことはしてないし、誤解を招くようなことを言うな!」
僕のクラスメイトたちをご覧! こちらに好奇、あるいは妬みの視線を向けてきてるじゃないか!
「はて、誤解と言いますと、例えばどのような?」
「僕から言わなきゃ、分からない⁉」
「分かりませんねえ。あの、校内一の美少女にして、あなたと友達以上恋人未満の幼馴染関係であるところの、葉山咲良先輩、とのような間柄と誤解されることでしょうか?」
「間違いだらけだし、むしろ新たな誤解を招かないでくれる⁉」
好奇の視線が妬みに変わっていくような空気を感じる。これは危険だ。
「とにかく、僕は友達と食べるから……、」
「……あなたの方から、私に訊きたいこともあると思うのですがね」
「…………分かった。どこで食べるんだ?」
香純ちゃんはしめしめと言わんばかりの笑みを浮か
べて、
「私がご案内しましょう」
僕らは視線から逃げるように、教室を出て行った。
香純ちゃんが僕を連れてきたのは、四階の屋上に至る階段だった。屋上へ行く訳ではなく、ここが目的地らしい。
「屋上は流石に施錠されていますからね。ああ、でもこの場所は綺麗だから大丈夫ですよ。人気のない場所であるにも関わらず、何故か清掃当番が振り分けられていますから」
僕と香純ちゃんは、踊り場の近くの四段目ぐらいのところに座った。
「おにーさん、眼鏡は外したんですね。うん、らしくなったと思います」
「井坂にも言われたよ」
「? 先ほども言っていた、お友達のことですか?」
「ああ。…………香純ちゃん、さっき君が言っていた通り、君に訊きたいことが山ほどあるんだ」
「良いですよ。私もそのつもりでしたから」
「あと、それは僕関係のことだけじゃない。…………君自身のことも、僕は訊きたいんだ」
「…………」
雄弁だった彼女が、初めて沈黙した。彼女の笑顔が口許だけになる。
「…………優雨ちゃんに何か聞いたんですか?」
「そうだ。いや、それだけじゃない。僕自身も昨日から気になってはいたんだ」
そう言うと、香純ちゃんは、くふふふ、と笑いながら、少しだけ首を傾げた。
「私のこと、って言われても曖昧ですねえ。話してもつまらないでしょうし、第一、どこから話せば良いんですか?」
「僕と本当に初めて会った時のこととか、かな」
「くふふ、それだと最初から話さなければなりませんねえ。昼食を取る時間がなくなってしまいそうですが。私は別に良いんですけど、おにーさんはよろしいのですか?」
「ああ、構わないよ」
――――僕は昨日彼女に会った時、曖昧で仄暗い何かを感じた。多少、図々しくあろうが、僕は知りたい。
香純ちゃんは僕の真剣な表情を見ると、口許の、偽りの笑みを消した。
僕を見つめ返す瞳は、まるで感情を介さないような無機質さだった。
「では、お話ししましょうか。話したところで、私にはもう痛むような心なんてありませんしね」
人の呼び方って割と大事ですよね。