優しい雨
二年ほど前に書いた、このシリーズ最初の作品です。これを書いた時には、まさかシリーズ化するとは露ほども思わなかったんですけどね……。
雨の日は、なんとなく気勢が削がれてしまって、僕はあまり好きじゃない。
今は梅雨の季節。連日、空は灰色で、じめっとした空気を伴って、今日も無数のしずくが地上を濡らす。
元から引きこもりがちな僕ではあるが、これではいやでも家の外へなんか出たくなくなる。
しばらくは自分の部屋で読書に勤しむことで時間をつぶしていたものの、やはり毎日繰り返しているせいか、飽きてきてしまった。
かといって、ほかに屋内で興じる趣味もないため、気分転換にとリビングに場所を移して読書を再開したけれど、気乗りの悪さは相変わらず。
変わったことといえば、と向かいのソファのほうを見る。
何のことはない、妹が怠惰に寝っ転がる姿だった。
我が家のリビングには、ふたつの長いソファがテーブルを挟んで置かれている。
ひとつのソファでは僕が仰向けに横たわっていて、先ほどまで読んでいた文庫本はテーブルの上に投げ出されていた。
もう一方では、妹がうつ伏せで寝っ転がっていて、おそらくこいつも暇なのだ。
何をする気も起きず、ただただ時間の流れるままに。
顔の向きを変えて妹の顔を覗くと、ファッション誌の表紙をボーっと見ているようだった。
「暇だな」
気まぐれに、気晴らしに妹に話を向けてみたのだが、
「別に」
と、愛想のない返事を寄こされた。
「いや、でもお前今何もしてないだろ」
「何もしてないようでも、思索にふけってるってこともあるじゃん」
「ファッション誌を見て、しかも表紙だけ見ていて、何を思索するんだよ」
「わたしが表紙に載る日はいつ来るかな、って」
「来ねーよ、そんな日。パンピーが何を言うか」
「えー、だってわたし可愛いじゃん」
確かに。シャクではあるが、この妹はなかなか整った顔立ちをしている。
「自分で言うな。それに表紙云々いう前に、お前、ファッションモデルじゃないだろ。スカウトでもされたのか」
「うんにゃ。スカウトマンなんて、こんな地方都市に来るわけないでしょ。ただ、夢は大きく持とう、と言いたいわけですよ、わたしは」
「そんなことは、夢をかなえる努力をしてから言いなさい」
「説教臭いなあ、この兄は。そんなんだから、モテないんだよ」
「ひどい侮辱だな」
「ああ、わたしは義理の姉がいないまま生涯を終えるのだわ」
「いい加減にしろや。結婚はするわ。明るい未来にこう御期待だわ」
「え、それとも何? シスコン兄貴はわたしと結婚したいの?」
「安心しろ。その可能性は数字にするのもおこがましい、全くの無だ」
「だよねー。シスコン、ブラコンなんて創作上でしか存在しないよ。ありえない」
「ああ、ありえない」
「あ、でも兄さんがシスコンだったら良かったのに、って思うことはたまにある」
「……そのこころは?」
「その好意を利用して、便利な使い魔になってもらう」
「結婚できない人間性は、お前の方だ」
マシューとマリラのような関係だって御免こうむりたい、こんな妹ではあるが、良い暇つぶしの道具にはなるかもしれない。そんなことを考えて、妹との会話を続けてみることにした。
「おい」
「…………」
「おい」
「…………」
「……おいってば」
「『おい』じゃありませんー。わたしは妹ですー」
「ん? ……って、口語じゃ分かりにくいようなことを言うな。僕は別に『甥』を呼んだわけじゃない」
「どうよ、兄さん。わたしのこのオシャレな言葉遊びは」
「落第だ。普通に状況とアクセントから察しろ」
「ちぇっ」
「じゃなくって、僕は普通にお前を呼んでんだよ」
「なんですか、妹を暇つぶしの道具にしようと企む、残虐非道なお兄様」
「その企みについては大正解だが、それは残虐非道とまで言われるようなことなのか」
「あったり前じゃん。この妹様に向かって何たる仕打ち」
「お前は、こう、年長者を敬おう、とかそういうことを考えたことないの?」
「えー、だって生物学的に言えば、後から生まれたものの方が進化した、優れた生物でしょ」
「儒学者達に叱られるぞ」
「少なくとも、年上ってだけで偉くなったつもりになってるような人を敬う気にはなれない」
「……それは分かる気がする。が、つまり、僕が年上ってだけで尊敬に値しないってことを、お前は言いたいのか」
「そんなことありませんよぅ。今時、孝悌忠信を謳うことなんて滅多にないし、それよりも家族としての親愛の情の現れのタメ口なんですよぅ」
「タメ口は良いんだよ、別に。その一回で変換されないややマイナーな四字熟語のことに関しても賛成の意を示そうじゃないか。ただな、僕が言いたいのはな、その砕けた丁寧語でごまかそうとしている真意の中で、お前はこの兄を人間として舐めているんじゃないか、と言いたいのだよ」
「くどい。三十字以内で簡潔に述べて」
「お前はこの兄を完全に見下してますよね。イェス、オア、ノー?」
「イェス‼」
「LINEのスタンプに出来そうなほどの良い表情で認めるな‼」
「何よ、兄さん。わたしにそんなに尊敬してもらいたいの?」
「うーむ……、言いすぎて自分でもよく分からなくなってきたな。僕ァ、一体どうして、お前に対してこんなに食い下がっていたんだったっけ?」
「目に入れても痛くない、可愛い妹に好かれたかったからでしょ」
「僕を勝手にシスコンにするな。見ていて痛い、痛々しい存在にしようとするな」
「わたしと雑談して暇をつぶしたかったんでしょ」
「あ~、そうだったそうだった」
「けどねえ、兄さん。こんな愚にもつかない話を見せつけられる読者の身にもなって御覧なさいよ。うんざりよ、こんなの」
「……うん、それ僕も感じてた。『優しい雨』って題が嘘になりそうだ」
とか、そんなことを言っている内に、ふと思いついた、というか気になったことがあった。
雨の日だからなのか、それとも、この妹が目の前にいるからなのか。
僕は妹にこんなことを訊いていた。
「そういや、お前の名前の由来って何だ、優雨」
妹は、先ほどまで僕をからかっていた時とは打って変わった、機嫌の悪そうな目を向けてきた。
「知らなかったの。うっわ、ムカつく。兄さん、今年でわたしの兄歴何年よ」
「一六年だな」
僕は、現在一七歳の高校二年生。優雨は、一歳下の妹である。
「なのに知らないとか、冷た! 兄さん、冷た!」
「悪かったよ。今聞いて覚えとくから。けど、確か僕たち兄妹の名前を付けたのって、父さんだったよな」
「うん。で、二人とも生まれた日の天気になぞらえてつけられたんだよね」
「そうそう」
妹が生まれたのは、雨の日。ちなみに僕が生まれた日は、ぴーかんの快晴だったらしい。
名前負けも良いところだ。
「名前をつける時にお母さんに、お父さん、こんなことを言ってたらしいんだよね」
『雨って、腹立つことにネガティブなイメージが先行しがちなんだよな。涙とか変事、困難の例えにされたりさ。いや、分かるぜ。確かに、あのじめっとした空気は嫌いだし、風呂にもプールにも入るわけでもねーのに身体が濡れるのは不快だし、何より、雨雲に覆われた陰気な空の色が好かねー。けどさ、雨についてはろくなことを言いやしない慣用句にも、一つだけ俺の好きな言葉があるんだ。分かるか?』
「雨塊を破らず」
僕は無意識に、そう呟いていた。
確か、父さんが昔どこかでそんなことを言っていたのを聞いたことがある気がする。
『中国の前漢の時代に書かれた書物の中の一節が起源らしいんだが、ただ言われてもピンと来ないだろう。政治的な意味合いはこの際置いとくとして、要するに、平和な世では、雨は土を壊すことなく、静かに降って土や草木を養うって意味。恵みの雨だ。だがそれだけだとケチくさいな。せっかく生まれてきたこの娘には、この世のあらゆる人やものに優しい雨になって欲しい』
「だからその願いを込めて、優雨、なんだな」
「そゆこと」
日ごろから言葉を大切にする、僕たちを育てたまいし父親らしい名づけ方だ。
「けどお前、優しくないよな」
「はぁ⁉ 何言ってんの。ちょー優しいじゃん、わたし。マザー・テレサもびっくりの優しさだよ」
「急に引き合いに出された、マザー・テレサさんの方がびっくりしてるわ!」
「てかさあ、名前負けって言いたいんなら、それ兄さんの方なんじゃないの」
「……名前に込められた願いよりも、幸せに生きることが両親の願いだと、僕は思うよ」
「そうやって、自分の都合の悪いことから目を逸らして生きていくのね。ああ、嘆かわしい」
「放っとけ。お前もじゃないか」
「兄妹ですから」
こんな風に怠惰にソファでゴロゴロしたり、妹と悪態をつきあったり、雑談したり、ちょっとしたエピソードを聞いたり、結局僕の名前についてははぐらかしたりで、雨の日は過ぎていく。
けれども今日という日が終わったところで、天気の週間予報は一面傘マークであり、雨は当分止みそうにない。
なんとなく気勢が削がれてしまって、家の外に出る気も失せる。そんな天気のことなんか、僕は全然好きではないのだけれど。
「さあ、兄さん。この地上を潤す雨への感謝の意として、わたしの喉を潤す飲み物を持ってきて」
「お前は関係ないだろうが、優雨」
雨はまだ、降り続いている。