メモ帳パニック~同僚の女の子が急に僕っ子になったワケ~
「あのーすみません」
不意に声をかけられて俺はびくりと肩を震わせた。書類仕事の最中だった。
あーちくしょう。口から弱弱しい悪態が漏れる。不意打ちはよしてくれって。心臓止まるかと思ったよもう。
「おはようございます前島さん。前島さん?」
聞こえなかった振りで稼いだほんの数秒。動揺を鎮めた俺は、抵抗する体を無理やりねじ伏せてなんとか振り向いた。
「ああごめんおはよう、結城さん。何か用?」
とはいえ苦労して向き直ったそこに何がいるって程でもない。同僚の女の子がいるだけだ。不自然に空いた間に小首をかしげて形のいい眉を寄せている。
「……今、無視しました?」
「してないよ、全然全く。いや本当に」
彼女はもうしばらく考える様子を見せてから、自分の中で何かしらの決着点を見つけたようだった。どういう納得の仕方だったかが問題だが知る方法はないし知る勇気もない。怖い。
ともあれ彼女は綺麗に整えた爪の先で書類を示した。
「えっと、ここのところなんですけど」
仕事の話に切り替わって俺はほっと息をついた。嫌な汗で背中が湿っていた。
簡単な確認に答えながら、俺は時折彼女の顔を盗み見る。端正な顔立ちをしているが見とれているわけではない。どちらかといえば警戒で、俺は心底彼女を恐れていた。
と、彼女が急に視線を上げたので目があった。うわやっちまった。怪訝そうな顔で彼女は口を開いた。
「……僕の顔に何かついてます?」
「っ……!?」
さらに大きい衝撃に俺は今度こそ心臓が止まるのを感じた。
◆◆◆
俺が彼女をここまで怖がるのには理由がある。
あれは数日前の夜のことで、その時俺は椅子から滑り落ちているところだった。
「ない! メモ帳が……ない!」
何かといえば小説のネタ帳のことだ。俺はそれを失くしたことに気づいたのだった。
もちろん俺はどえらい文豪ではない。しがないネット小説書きで、だからネタを盗まれることはこれっぽっちも危惧していなかった。
問題は別にあった。性癖の暴露だ。
メモ帳には俺の頭の中がつまびらかにされているといっても過言ではない。真面目に書いたなら普通に危ないしお遊びでメモしましたと弁明してもそれはそれでキモい、そんな内容がまあそのズラリと……
思い当たる紛失場所は職場しかなかった。
慌ててオフィスに飛び込みあちらこちらひっくり返して回ろうとして――その前に自分のデスクの上にメモ帳を見つけた。
ほっとした。が、その後すさまじい戦慄が体に走った。メモ帳はデスクのド真ん中に置かれていたからだ。
ほぼ断言できることだが。机の真ん中にあるものを忘れる馬鹿はいない。もちろん例外もいる。でもおそらく俺は例外じゃない。
ならば誰かがそこに置いたのだ。そしてある可能性が浮上する。見られた。中身を。
震える手でメモ帳をめくった。現れたのはでかでかと書かれた小説のタイトル。それから次のページにはそれに付随するアイディアの断片。
『ヒロインは僕っ子』
◆◆◆
確認が終わって自席に戻る彼女の背中を眺める。肩までの髪が窓からの光を受けて清潔そうに光っていた。名前は結城加奈子。一応後輩にあたるが仕事は俺よりできる。彼女を一言で表せば『そつがない』。可愛らしい外見でするりとなんでもこなしてしまう。ずるい奴だと常々思う。いやそれは今は関係ないか。
そんな彼女の一人称はあの日以前は間違いなく『わたし』だった。
彼女がメモ帳を俺の机に戻したのだろうか。そして、もしかして、その、中身を見たのだろうか。
「前島さん」
「うわ!?」
滑り落ちた床から見上げると結城がきょとんと見下ろしてきていた。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫大丈夫。平気。めっちゃ元気」
「僕にはそうは見えませんけど。……あれ? 本当に大丈夫ですか?」
再び地面に崩れ落ちた俺を、彼女はよいしょとひっぱりあげてくれた。
◆◆◆
ある時。
「おーい前島、電話頼む!」
「あ、わたし出ます」
彼女の言葉に俺は思わずそちらを向いた。あれ、今わたしって言ってなかったか?
「前島さん宛てです、お願いします」
「あ、ああ」
戸惑いながら電話を取って、もしかしてと思う。もしかして全部俺の気のせいだったんじゃないか? 彼女、僕なんて一度も言ってなかったんだよ。
「じゃあ僕お昼行ってきますね」
電話口に変な息を吹き込んでしまった。
またある時。
「前島さんって小説読みますか?」
缶コーヒーでむせた。
「え、何? 小説?」
「ええ、小説」
頭の中に危険信号がともる。
「ま、まあたまには読むかなあ」
「僕はそこそこ読みますよ」
話の流れ的に詳しく訊ねるのが礼儀だろうけれど、正直あまり訊きたくなかった。あ、そういえば『僕』にも少しずつ慣れてきてるな俺。
「……どんなのを?」
「この前芥川賞取った芸人さんのとか本屋大賞取ったなんとかいうのとか」
「タイトル覚えてないの?」
「面白かったことだけは覚えてます」
「だけじゃダメでしょ」
思わず笑ってしまうと彼女も笑った。こわばりっぱなしだった気分も少しほぐれた気がした。ここで油断したのが良くなかったけど。
「でももっと面白い小説があるんです」
「へえ、どんな?」
「ネット上の小説なんですけどね」
めしゃ。とは。俺の右手がスチール缶を握りつぶした音だ。
まずいやばいどうしようどこまで知られて殺らなければ殺られ先制攻撃先の先を――
すさまじい勢いで思考だけが流れた。でも体は全く動かない。
「ねえ加奈子ー、ちょっとこれおねがーい」
「はーい」
彼女が離れていったのにも、俺は全く気付いていなかった。
◆◆◆
もたねえ。あまり長くもしないうちに俺はそう気づいた。これしんどすぎる。
秘密を握られてしまっている。それはほぼ確定で、でももしかしたら違うのかもしれない。そんな宙ぶらりんの状態を延々続けなければならないなんて、いやほんと無理だって。
もちろん秘密を知られて暴露されるのもきついなんてもんじゃないが、これでは生殺し状態だ。
すべてをはっきりさせて終わらせるには一つしか方法がない。そのことにはとうに気づいていた。
「結城さん!」
自販機コーナーの一角にいた彼女に俺は早足で近づいた。他に誰もいないことも確認しつつ。
「前島さん?」
彼女はおしるこのボタンに触れたままきょとんとこちらに顔を向けた。
俺は一度深呼吸してから身体に活を入れた。
「あの、実はですね結城さん。あなた」
俺のメモ帳の中身を見ましたか?
そう続けようとして口が止まった。なぜってそりゃ……
「あなた、あの、あの……う」
むなしく言葉が宙に消える。
そりゃそうだ。あなた俺のメモ帳の中身を見ましたか、俺の頭ン中覗きましたか、ぎっとんぎっとんでぬっちゃぬっちゃな俺の性癖空間を味わいましたかなんて訊けるわけがない!
もし訊いてしまって『やっぱり前島さんだったんですか。いつもあんなキモいこと考えてるんですか?』なんて言われた日にゃ。
言われることを想像してなかったわけじゃない。だが言われて傷つくその瞬間のその痛みの大きさまでは、今の今まで想像していなかった。
「……おしるこおいしいよね」
「ええ」
ごとん。彼女は取り出し口からおしるこを取ると不思議そうな顔をした。
「それを言いに来たんですか?」
「えっと、いや、訊きたいことがあったんだけど」
「はい」
「もう大丈夫になりました……」
「はあ」
俺の馬鹿。意気地なし。
「じゃあ僕は行きますね」
彼女は悪戯っぽく笑って歩いて行った。
俺はため息をついて壁に寄りかかった。もうだめだ。
「あれ、なにそれ。メモ帳?」
女の声が聞こえてきたのはそんな時だった。
「うんそう。さっき拾ったんだけどね、変なことが書いてあるんだ。『ヒロインは僕っ子』とか」
は?
女の声は二人分。来た廊下から聞こえてくる。
「他にもなんかいろいろ書いてあるよー『光る風と書いてキボウ』『呪いの聖剣は左目の紋章から出てくる』とかまあそんな感じの」
「なんだろ。ゲームか何か?」
心臓が早鐘のように鳴っている。そのフレーズたちには聞き覚えがあった。というか自分で書いた覚えがあった。そうだ、俺のメモ帳だ。
慌ててポケットを探るが見つからない。
「あ! やだあ、巨乳がどうとかとも書いてあるよこれ!」
「え、なにそれやらしいメモぉ?」
がくんと膝が抜けた。絶望ってこんな味がするんだな。もうやばいとすら頭に浮かばない。
その女性社員たちは向こうからゆっくりと姿を現した。そして呆然としている俺を見つけてもしや、という顔をした。多分あまりに不審な様子だったからピンとくるものがあったんだろう。
「ちょっとそこのあなた。もしかしてだけどさ」
これ。あなたの。メモ帳かしら。
ああすごい。聞いてないのに先が分かる。時間がゆっくりゆっくり進んでる……
「僕のメモ帳!」
「はぇ……?」
突然上がった声に、俺の喉から間抜けな音が漏れた。
結城加奈子は、廊下の向こうから大股で歩いてくるところだった。
「それ、僕のメモ帳です!」
場が凍った。
「え……あなたの……?」
「正確には僕の甥っ子! 今度一緒にゲームするためにいろいろ覚えてって渡されました!」
「『僕』……?」
「ノーコメント!」
ぴっ、とメモ帳を奪い返して。彼女は廊下の先に消えていった。
俺は何をどう思えばいいかもわからないままその後ろ姿を見送った。
一応、助かった、のか?
◆◆◆
「ごめんなさい。前島さんのメモ帳は確かに見ました」
九時を過ぎた夜のオフィス。俺たちはおしるこを手に向かい合っていた。缶はまだ温かかったけれど、しばらく前に建物の暖房が切れていたのでもうそろそろ寒さがきている。
「そっか、やっぱり」
冷えてきた指先で持つメモ帳をぼんやり見下ろしながら俺はつぶやく。
「急に自分のことを僕なんて言い始めたのも?」
「ええ、あのメモ帳がきっかけです」
彼女はおしるこを一口飲んでから続けた。
「あの日は僕が最後にオフィスを出ました。その時に見つけたんです。床に落ちてて。名前とかは書いてなかったから失礼と思いながらも何の気なしに中身を見ました。そしたら仕事のことも書いてあったので持ち主は分かって。だから机の上に返しておいたんですけど、でもそれは重要じゃなくて。もっと強く目を引いたのは」
俺の妄想の数々ということらしい。
「題名のようなメモ書きもあったのでもしかしてと思ってネット検索しました。そしてとあるネット小説を見つけました。自分のことを僕と呼ぶ女の子が主人公の、オフィスを舞台にした物語です」
「うん」
それは俺が書いている小説だった。仕事はできないけれど元気だけは人一倍ある女の子が、その明るさで周囲も元気にしていく話だ。ベタな物語だし人気はないけれど俺の一番のお気に入りだった。
「僕もあんな風になれたらなって思って」
結局のところ、彼女が自分のことを僕と言い始めたのは嫌がらせではなかった。
「……でもそれで真似するのは安直じゃないかな」
「しかも形から。変ですかね?」
「いや……そうでもないかな。俺にも覚えがあるし」
不思議な気分だった。自分が書いた話の主人公みたいになりたいだなんて、普通言われる機会はない。
「引かなかった?」
「え?」
「あんな気持ち悪い妄想メモ帳見てさ、こう、うわって感じにならなかった?」
「結構」
あ、そりゃそうか。わかってたけどちょっと心がえぐれた。
「でもああいうメモ帳が素敵な小説の元になっているのが分かって面白かったです」
「素敵な?」
「はい。最高の小説ですよ」
そう言って彼女は笑った。どこか寂しい夜のオフィスに、笑顔の小さな花が咲いた。俺は思わずまじまじと見つめて、慌てておしるこをあおった。紅潮した顔が彼女から見えないように。そんなもんだから味は全く分からなかった。
「では前島さん。小説の続き待ってますね」
「あ、あの!」
立ち上がる彼女を慌てて引き留める。
「俺の前でだけ僕って言ってたのはなんで?」
「なんでだと思います?」
彼女は悪戯っぽく笑った。俺はすかさず続けた。
「今度一緒に食事に行こう」
「はい。ぜひ」
彼女は軽やかな足取りでオフィスから出ていった。
俺はもう一度缶をあおった。今度は甘みがはっきりと感じられた。
◆◆◆
そして今、俺はPCに向かっている。小説を書くためだ。
といっても彼女には悪いけれどあの小説の続きではなかった。書くのは新しい着想による新しい話だ。メモ帳を忘れた日から同僚の女の子が自分のことを僕と言い始めるちょっとした事件のあらまし。
「よし、タイトルはこんなもんだろ」
その小説を俺はこう名付けた。
『同僚の女の子が――