第8話
市子は家の窓を開け、店の血の匂いを消す為に空気の入れ換えをした。市子は店と家を繋ぐ扉を開けてその段差に腰かけていた。仁は店の片づけを徹底的に行い、飛蛇とサングラスの男は食事を続けていた。
義樹が鍋にお湯を入れてお茶を作ろうとした。
「あ、義樹。お茶よりこっちのお湯割り飲ました方がいいかもよ」
飛蛇が黄色い液体の入った瓶を持って義樹に見せる。市子が気になっていた、花が入ったお酒だった。
義樹は瓶を受け取ると、蓋を開けて匂いを嗅いだ。さっと顔を離す。
「これ、アルコール高くないかい?」
「薄めに作れば問題ないって。あと、レモンも加えるといいよ」
「わかったよ」
義樹は納得すると、大さじ2杯ぐらいをお湯に混ぜた。マグカップにそれを注いで、冷蔵庫からレモンを取り出して一切れ分だけ汁を入れて軽く混ぜる。
「熱いから気を付けて」
受け取ると、ふわりと花の香りがした。どこかで覚えのある香りだ。優しくて甘い。
少し冷ましてから一口飲んでみると、薄めだが甘い味がした。アルコールの味はあまりせず、飲みやすい。ほっとした気分になり、花の香りが血の臭いを消してくれるようだった。
市子は飛蛇の方に顔を向けて話しかけた。
「・・・美味しい」
飛蛇はニコニコしながら言った。
「金木犀のお酒だよ。横浜の友人に貰った」
すると、サングラスの男が言った。
「甘すぎるだろ、それ。食前酒じゃねぇのか」
「ソーダ割りとかなら濃い料理に合うんだよ。あんたも飲む?」
「いらねぇよ」
市子はサングラスの男が何者なのかまだわからなかった。彼は数時間前に暴れた男を前にしても動じず、何事もないかのように食事をしていた。飛蛇の事を知っているようで、飛蛇も彼を知っているようだった。
市子はサングラスの男に話しかけた。
「あの・・・お母さんの、お知り合いですか・・・?」
サングラスの男は顔を上げた。
「まぁな。でも組じゃない。どっちかと言えば、『情報屋』って所だ。こことも、何度か世話になってるよ。あんたにも世話になりそうだ」
「・・・・はい」
ここ、とは店の事なのか母の組というものの事なのか、あえて気にしない事にした。この家も店も、全部含めて「此処」だとしたら母の場所に出入りし世話になっている者も多いだろう。
市子は温かい優しい味のする液体を飲んだ。こんな普通じゃない店に長時間いられる常人なんていないだろう。ならば、自分も常人ではないのだと市子は思った。この体に流れる血も普通ではない。何もかもが普通ではないのだ。最初から。
薄い黄色の液体を見つめ、市子は母を思い出した。
そんな彼女を飛蛇は観察するように眺め、ぽつりと話し始めた。
「ある意味、その顔はこの世界ではいいかもしれないね」
市子は飛蛇を見た。
「顔ってのは感情を表すパーツだ。恐怖や不安は最も見えやすい。だから相手に気づかれたら、場合によっては首が飛ぶかもしれない。でもね、無表情ってのは武器にもなる。感情を読み取ることができないからね」
「・・・でも、嫌われやすいわ」
「そう言うって事は、辛い経験でもしたのかね。確かに、『常人』には嫌われやすいかも。でも、『俺らみたいな人間』には羨ましいぐらいさ」
市子は片手で自分の顔に触れてみた。冷たくも感じる、自分の顔を。
「私は・・・この顔、好きじゃない」
「そっか。でも、俺も似た感じだよ」
「?」
「いつも笑ってるでしょ?俺」
飛蛇が自分の顔を指差した。綺麗な顔には笑みが張り付いている。いつも笑っている彼が、笑みを消した所は今のところ見た事がない。ナイフで男を切り裂いた時も。
「病気、なの?」
「そんな感じかな。笑みを浮かべてれば、ほとんど何考えているかわからないでしょう?この店に来る人は、何かを隠している」
市子は一瞬、その中に自分も含まれているのだろうと思った。この場にいる全員が、何かを隠している。誰にも言えない秘密を、背中に隠してでもこの店に誰かが来る。それは、この店が惹きつけているのか、母なのか。
サングラスの男が、気を紛らわせるようにグラスの中身を飲む。義樹や仁も、聞いてはいるが何も言わなかった。
「平凡な日常の裏ではね、血が流れ、悲鳴が飛び交う日だってある。長い間、その日常に関わって変わっていく。つまらないが平和な日常に戻りたがる者や、もっと深く行きたがる者。色々な気持ちを抱えて、親父の背中を守る者がいる。普通の生活ではなくなったと後悔しても、足を洗わない限りできない。何か大事なものを持っていて正気を保っていられるならいい方だよ」
仁は床の片づけを終え、椅子を元の位置に戻して飛蛇をうんざりしたような目で見た。飛蛇は笑みを浮かべている。いつも通りの。それが今さらになって不気味に見えて、市子はグラスを流し台に置いた。
飛蛇の方を見て「お酒、ありがとう」と小さく呟いた。
「どういたしまして」
市子はもう一言付け加えた。
「飛蛇さんは・・・」
彼の笑みを見ていて、市子は思った。
「悲しい笑みをしているのね」
飛蛇の口元が、驚いたように小さく開いた。市子ははっとして口に手を当て、慌てて自分の部屋に戻った。頭がズキズキと痛む。全員の視線を背中に感じた。思った事を口にしてしまっただけなのに、いけない事をしたような気がした。
自分の部屋に戻り、市子はベッドに潜った。身を縮め、痛みの波が押し寄せる頭を押さえた。
誰もが秘密を背中に隠している。自分も背中ではないが、胸の中に隠している。そして、隠しているものを忘れている部分もある。
秘密は、もたらされる。誰かが、そう言っていた。