第7話
次の日も雨だった。憂鬱な雨のせいなのか、それとも薬の副作用なのか、体が重い。
仏壇がある和室に座り込み、庭を見ていた。
店の方では、仁が誰かと電話をしているのが聞こえた。義樹も一緒にいるようだ。今は向こうに行く気が起きない。
市子は母と父の写真を見た。何かを思い出したような気がして、市子は母の写真立てを手に取った。これと同じものが、家にあった気がする。まばらな記憶を思い出して、写真を出し入れする部分を見た。
うろ覚えの記憶の中で、母の声がした。
『いち、これはここに隠しておくから、いざとなったら開けなさい』
指で止め具を外し、蓋を開ける。中には小さな鍵が入っていた。写真立ての枠が大きかったのも納得した。鍵はどこの鍵かわからない。思い出せないだけかもしれない。
鍵をポケットにしまい、写真を元に戻した。
足音が聞こえ、仁が部屋に入ってきた。
「どうした」
「・・・なんでもない」
「具合でも悪いのか?」
「ちょっと、だるいだけ・・・」
「そうか。これから客が来る。だが聞いたことない客だから、気をつけろ」
「どうして?」
「なんでもだ。来い」
仁について行ってカウンターをキッチンから覗くと、飛蛇と他に2人の客が見えた。飛蛇の席から1つ外した席に座っている男は着崩したスーツ姿に短く切り揃えた髪、茶色のサングラスをかけた三十代ぐらいの男だった。彼の前には熱燗とほっけの塩焼きが置かれていた。
カウンターを挟んで向かい側の席に座っている男は、これまで会った客とは全然違う雰囲気を持つ男がいた。都会のどこにでもいるチンピラのような感じだった。顔色が悪くて変に痩せ細っている。服もボロボロで全体的に暗いイメージがある。なによりも不気味なのは目だった。誰から見ても、異常だと思うものだった。
市子が覗いているのに気付いた飛蛇が手を振って話しかけた。
「やぁ、市子ちゃん。元気?」
市子は一瞬驚いたが、小さくおじぎをした。すると、真向かいの席の男が市子を見て笑みを浮かべた。市子は気づいていなかったが、仁と義樹は気づいていた。
仁はドアを開けて近くにある電話の子機を手に取ると、何処かに電話し始めた。義樹は作り置きしていた鶏と大根の煮物を小鉢に入れて日本酒を入れたグラスと共に男に出した。
「どうも」
男はそう言うと、酒とお通しを口にした。よほど飢えていたのか、その飲み方も食べ方も少し乱暴に見える。
市子は空になったグラスに気づいて注ごうとした。グラスを手に取った瞬間、男が腕を掴んだ。
「よお、お嬢ちゃん。ここで働いているの?」
「・・は、はい」
「お嬢ちゃん可愛いから、イイ薬俺とやらない?」
「い、いえ・・・離してください」
「なんだよ、ちょっとぐらい笑ってくれてもいいじゃねぇか」
男は突き放すように手を離した。市子はグラスを持ってキッチンに戻った。男に掴まれた腕がじんじんするような奇妙な感覚が残った。
飛蛇が冷たい目で男の方を見た。男と一瞬目が合うと、男の方が逸らした。飛蛇は何も言わずにグラスの中にある黄色い液体を飲んだ。グラスの横には瓶が置いてあり、黄色っぽい液体と小さな花が一緒に入っていた。花が入ったお酒だった。
市子はそのお酒が少し気になっていたが、グラスにお酒を注いで男の方に持って行った。男が舐めるような視線で市子を見る。今度は掴まれなかった。
すぐにキッチンに戻ろうと背中に向けた時だった。
「おい、無視するんじゃねぇよ、クソ女」
男の怒りを滲ませた声が背中に投げられ、びくっと体を震わせた。
だが同時に、その声よりも大きな音が店に響いた。全員その音のする方を見た。
包丁をまな板に突き立てた義樹だった。彼はフーフーと息を荒げ、そして笑った。フードのせいで顔はよく見えないが、仁も飛蛇もわかっているという風に驚きもしなかった。
義樹は包丁を引き抜いてまな板の上に置くと、言った。
「はははっ、ごめんよ。なんでもない」
すると仁が受話器を置いてカウンターの方に出てきた。
「おい。あんたさっき組の者だって言ったよな。どこの組だっけ」
「く、『蔵西組』だよ。それがなんだってんだ?」
「お前、蔵西に借金してるって?さっき聞いた。返済日過ぎてるって探してた若い奴が、今入院してるってよ」
「あ?」
「『誰か』が刺したって聞いたぜ。逃げ足が速いのは褒めてやるよ。だが、借金抱えててそれはねぇだろ」
その場の空気が、重く冷たくなっていった。
突然、男が震えだし、叫びだした。何を叫んだのが聞き取れず、勢いよく立ち上がると暴れだした。椅子を蹴り上げ、威嚇するように大声を上げる。まるで狂犬病にかかった獣ようだ。
市子は後ずさってキッチンの方に隠れた。仁達は微動だにせず、男の様子を見ているだけだった。
男は涎垂らしながら懐からナイフを取り出した。銀色に光るサバイバルナイフが仁に向けられる。
「近づくんじゃねぇぞ!お、俺は本気だからな!」
仁は気にもしていなかのように煙草に火を点けた。
飛蛇が席を立ちあがり、にっとした笑いを浮かべながら言った。
「なぁ、英雄くん。組の頭刺したってのはすごいけど、なに逆切れしてんだい?金借りているのは君だろうに馬鹿だねぇ」
飛蛇はゆっくりとした足取りで男に近づいて行った。
「う、うるせぇ!だ、大体テメェらヤクザなんて犯罪者じゃねぇか!何上から目線してんだよ、なめんなよ!」
ナイフを振り回す男に、飛蛇は呆れたような笑みを浮かべた。その距離は近い。
男が震えながら飛蛇にナイフを向ける。
「その犯罪者から金借りて調子乗ってる馬鹿はどいつだよ」
次の瞬間、飛蛇は一瞬の隙をついてナイフを持っている方の腕を掴むと反対に捩じった。痛みでナイフを落としたのを見て、飛蛇はナイフが地面に落ちる寸前に手に持ち、思い切り切りつけた。
「ぎゃっ!」
短い悲鳴が聞こえた。市子はその一瞬を見た。男の顔が真っ赤に染まり、額から斜めに傷ができていた。顔を押さえて悲鳴を上げる男に、誰も慌てる者はいなかった。市子もその場から動けなかった。
悲鳴を上げてうずくまる男の襟を掴み、飛蛇は言った。
「なぁ、俺はあんまり食事の席で血を流したくねぇんだよ。店を汚すような事もしたくなかったのに、お前さんがこんなものを持っているから汚れちまったよ。お前の借金にプラスしてこの店の弁償代と掃除代入れておくね。だから契約書にサインする為にうちの事務所行こうか」
「い、いやだああああっ!!ちくしょう!!ぶっ殺してやる!!」
男はもがいて飛蛇に攻撃しようとした。しかし、飛蛇は笑みを浮かべながら男を殴ると戸を開けて店の外に出ようとした。店の前には既に一台の車が停まっていた。運転席と後部座席から数人の男が出てくると、飛蛇から男を受け取って乱暴に車に入れた。
飛蛇は血まみれのナイフを男に渡すと、何かを話して店に戻ってきた。倒れた椅子や割れた皿などを片付け、黙って見ていた人達に向かって肩をすくめた。
「ああいうのが年に一回は来るよね、この店」
「まぁ・・・普通の場所にあるしな」
仁が言うと、飛蛇は自分の席に座ってグラスの中の液体を飲んだ。その手がまだ血に染まっているのを見て、市子はおしぼりを手に取って飛蛇に差し出した。
「あの・・・あの人、大丈夫なんですか?」
「ん?当然の事でしょ。君は優しいね」
飛蛇は手をおしぼりで拭くと、いつもの笑みを浮かべた。
サングラスの男がようやく飛蛇に向かって声をかけた。
「『吉原組』の飛蛇か・・・蔵西のじいさんと吉原が盃交わしたって言うのなら、今のは蔵西のじいさんの代わりか?」
「まぁね。蔵西と吉原が仲良くなったんなら、これぐらいはしないとね」
市子にはよくわからない言葉が聞こえ、市子は戸惑うしかなかった。
同時に、彼らはやはり血や傷つける事に抵抗も何もない人達だと理解した。この空間だけが、別世界のようだった。
金属に似た匂いに気分が悪くなりそうで、市子は部屋の方に行こうとした。
義樹が通り過ぎた市子に向かって言った。
「ごめんよ、いち。こんなことになると思わなかったよ」
「・・・・うん」
何も言えなかった。それが嘘だということも、なんとなくわかった。
この世界では、血が流れる事が当たり前なんだと。