第6話
大粒の雨が朝から降っていた。庭の地面を叩きつけるようにぱらぱらと降り、居間からその様子を眺めていた。時折、空に稲妻が走り雷鳴が響いた。
朝から兄達の姿はなく、居間のテーブルに「出かけてくる。昼過ぎには必ず戻る」と書かれたメモとラップに包まれた朝食が置かれていた。
市子は朝食を食べ終えて店の方で食器を洗った。雨と雷鳴の音を聞きながら、ざわつくような気持ちの理由を探っていた。何度考えても、わからなかった。
ふと、居間の方で「にゃあ」と聞こえた。市子は黒姫だと思い、濡れた手をタオルで拭いて居間の襖を開けた。
足元に温かい猫の体温を感じ、小さな頭を撫でた。同時に、聞き覚えのある声が庭の方から聞こえた。
「市子」
はっとして庭を見ると、黒い蝙蝠傘をさした包帯の男がいた。
市子が驚いて言葉を失っていると、焔はにこりと微笑んだ。
「幸恵さんに線香あげに来たんだ。図々しいのは承知だけど、せめて線香ぐらいは・・・」
「・・・少しだけなら・・・」
危険な人物だとわかっているが、焔に対して恐怖心は不思議と浮かばなかった。それがまだ恐ろしさを知らないだけかもしれなかったが、少しの間接した焔は悪意も敵意もないように見えた。一人と一匹だけの家に他人を入れる事に抵抗はあったが、亡き母の為にこの雨の中訪れてきた彼に追い出すのは躊躇する。
玄関を開けると、焔は玄関脇に傘を置くとゆっくりと家に上がってきた。まっすぐ和室に向かい、焔は静かに線香をあげて手を合わせていた。包帯に覆われた顔から見える目は閉じられていて、亡き母に何かを心の中で語りかけているようにも見えた。
よく見ると、雨のせいで焔の肩が濡れているのに気づいた。市子は洗面所からタオルを持って焔に差し出した。
「これ・・・使ってください」
「ん?ああ・・・すまない」
焔はタオルを受け取り、濡れた肩などを軽く拭いた。市子は焔から少し離れた場所に座り、彼の様子を見ていた。
ふと、焔は市子の顔を見ずに話しかけてきた。
「市子、この家を出たくないか?」
「?」
「普通の生活に戻りたくないか?」
市子は焔の顔を見た。
「どうして?」
焔は仏壇の上の方に飾られている母の遺影を見た。そして、苦笑気味にうっすらと笑った。
「俺は昔、君のお母さんと逃げようと思った事がある。できなかったけどね。でも、君はまだ普通の女の子として過ごせる。その手助けをしたい」
市子はよくわからず、何も言えなかった。
いつの間にか、焔はこちらを見ていた。その瞳が、優しくも悲しい色を帯びているようにも見えた。
「・・・どこへ行くの?」
「遠くの方、かな。お母さんだって、本当は自分の娘を自分と同じようになるなんて、願っていないと思うし・・・君は、まだ綺麗だし」
外見的な意味で言っているというわけではないと感じた。焔はこの家から、環境から逃がそうとしている。母にできなかった事を、成し遂げようと。
元の生活に戻れるならば戻りたい。しかし、何もかも元に戻って、変わることなく、何も知らずに生きる事ができる事はもうできない。自分の中の母の血が、その血を分けた今まで知らなかった兄達が、過去へ戻る事を止めている。それが平和とは決して言えない環境へ置かれる呪縛のようなものではあったが、同時に救いでもあった。
家族も記憶も顔さえも失った市子を受け入れてくれた唯一の家族に会えた事、今まで知らなかった母の事を知れた事。まだ一人ではない事が救いで、もしも焔の言葉通りにこの家から出てしまったらそれこそ「一人」になる。受け入れてくれた兄達を、裏切ってしまうのが怖かった。
焔は優しい人なのは言葉でも、表情でもわかる。けれど、その優しさが残酷にさえ思う。
「・・・ごめんなさい。此処にいたいの」
焔は表情を動かさずに尋ねた。
「どうして?」
「せっかく兄さん達に会えたのに、また一人になるのは嫌だから・・・」
焔の瞳が僅かに細められた。包帯を巻いた手に力が込められ、拳を作った。
「俺が、一緒にいるとしても?」
市子は焔と視線を合わせた。彼は真剣だった。
昔、母に同じ言葉を言った時もこんな表情だったのだろうか。もしも怪我がなかったら、はっきりとその表情を見る事ができただろう。包帯の奥に隠された彼自身の気持ちが、暗い裏の世界には似合わなかったが、彼なりに辛い思いをしているからこそ市子のような何も知らない無力な者を置いておきたくないのだろう。
けれど市子は受け入れる事にした。全てを。自分自身を。
そう伝えるように、市子は頷いた。
「そうか・・・お母さんと似たことを言うんだな」
「お母さんも?」
「ああ。俺は・・・どうも理解されにくいのか。でも、諦めも悪い。いつか、君を連れ出したいよ」
包帯の男が微笑んだ。それを見て、この人は母の事が好きだったんだなと思った。
市子は笑う事はできなかったが、ほんの少しだけ口の角を上げて笑うふりをした。ひきつるような感覚がして、やっぱり人形みたいで嫌だと思った。焔はそれを気にする様子はなかった。
「もうそろそろ、仁達も帰ってきそうだから帰るよ」
「・・・うん」
「また店にも寄るよ。ここの料理は懐かしくてね」
「・・・ぜひ」
「市子、嫌だと思ったら無理をしてはいけないよ。どんな時もね」
焔は静かに部屋を出て行った。玄関まで送ろうと思ったが、黒姫が膝の上に乗ってしまって動けなかった。
外の雨を見ると、少しだけ勢いを失っていた。
ふと、焔にタオルを返してもらうのを忘れた。兄に何か言われるかもしれないが、気にしない事にした。きっと帰り道も濡れてしまうだろうから。
市子は黒姫の背中を撫でながら、静かに言った。
「ねぇ、黒姫・・・お母さんはきっと、皆に愛されていたのね・・・いいなぁ」
黒姫はゴロゴロと喉を鳴らすだけで、何も言わなかった。