第3話
溺れる夢を見た。息ができなくて、這い上がる事ができなくて、どんどん沈んでいく夢。泳げるはずなのに、体が石のように重くて動かない。叫んでも声は空気の泡と一緒に消えていく。頭上に微かに見える光に手を伸ばしても、誰も助けてくれない。怖くて、死にたくなくて、でも何もできない。
どうして?頭の中はその疑問でいっぱいで、誰も答えてくれない。私が何をしたの?どうしてこんな思いをするの?泡と一緒に言葉は消えていく。
もしかしたら、今ここで自分は死んでこの苦しさを繰り返すのだろうか。気づかない内に罪を犯し、永遠にこの苦しみを受けなければいけないのだろうか。溺れ続けて、消える事もないまま冷たい水の中で溺れ続ける。それは、とても怖い事だ。
どうして?冷たいのは、独りなのは、とても怖いのに。
目を覚ますと、窓から光が差し込んでいた。
部屋の方を見ると、すぐ目の前に黒いパーカーを着た背中が見えた。
「えっ」と声を出すと、パーカーを着た者は振り向いた。傷跡だらけの顔をした兄の義樹だった。
「よしき、お兄さん?」
「おはよう、いち。そんな丁寧な呼び方じゃなくていいよ。せめて、お兄さんの『お』はいらないよ」
「どうして、ここに?」
「うなされているのが聞こえたから、様子を見てたのさ」
市子はずっと寝顔を見られていたのかと思うと恥ずかしくなった。思わず布団で顔を半分隠す。義樹は悪気などないように微笑んでいた。
義樹は立ち上がると、部屋を出ていこうとした。
「朝ごはん、もうすぐできると思うよ。シャワーでもしてから食べるかい?今がいい?」
「・・・シャワー、してからでもいい?」
「いいよ。じゃあ、じんにそう言っておくよ。あ、お風呂は居間の奥の左ね。向こうの家にあった服とかはそこのダンボールにあるよ。じゃあ、後でね」
義樹はそう言って部屋から出て行った。体にしては足音は軽く聞こえ、遠ざかっていった。
市子は体を起こし、部屋の隅に置かれた数個のダンボールを見た。そして、今着ている服を見た。思えば、連れて行かれた時の服のままだった。市子は黒いワンピースのようなネグリジェを着ていた。
部屋の隅に置かれたダンボールを開けて服を取り出した。薄い水色のシャツに、濃い青色のロングスカートを手に取り部屋を出る。お風呂場に続く廊下を歩いていた際に居間の方を見ると、既に朝食が準備されていた。よく見えていなかったが、味噌汁と白いご飯の匂いがしてお腹が鳴りそうだった。
お風呂場は綺麗に掃除されていて、浴槽は深めで肩まで浸かれそうな深さはあった。置かれていたシャンプーなどを少なめに使いながら髪を洗い、石鹸で体を洗った後にシャワーで流した。温かい湯を浴びてちゃんと目が覚めると、もう母と過ごしたあの家ではない事を思い出した。妹の優恵は、もう帰ってこない。ここには一昨日まで知らなかった実の兄達が住んでいる家であり、極道だった母の実家。
昨日よりも落ち着いた頭で思い出し、優恵と離れる最後の声さえもはっきりと思い出して罪悪感が込み上げてきた。母の言葉とはいえ、怖くて助けられなかった。それだけではない。
表情を作れない市子を、優恵は無感情な冷たい顔をしていたと見られただろう。優恵はきっと、自分を恨んでいる。妹なのに。
シャワーの水を浴びながら、市子は自分を抱きしめるように蹲った。水と共に、涙は流れ落ちていった。
ドライヤーがないので置かれていたバスタオルで念入りに吹いてから居間に入ると、既に仁が座っていた。最初に会った時と同じ場所にいる。市子は何処に座ったらいいかわからず、昨日と同じ場所に座った。
「寝れたか?」
座ると同時に尋ねられ、市子は小さく驚いたが素直に頷いた。
「そうか」
そう言って手に持っている新聞を読み始めた。居心地の悪さを感じつつも、市子はテーブルの上の朝食を見た。白いごはんにわかめと豆腐のお味噌汁、目玉焼きというシンプルなものだがとても美味しそうに見えた。
義樹が居間に入ってきて仁の隣に一人分隙間を開けた所に座った。さすがに食べる時はフードを外しており、茶色が混じった黒髪が見える。彼は先に「いただきます」と一声言ってから食べ始めた。
仁も新聞を置き、箸を持った。市子もそれに続くようにして小さく「いただきます」と言って食べ始める。
市子がお味噌汁の一口目を食べる光景を、長男の義樹が観察するように見ていた。
「どう?」
「・・・美味しい」
感想を聞くと、義樹は嬉しそうな笑みを浮かべた。見た目は少し不気味だけど、優しい人だと少しずつその笑みを見て思うようになってきた。
仁も何か作ったのかと疑問に思ったが、彼は市子を見る事は一度もなく誰よりも早く朝食を済ませた。話しかけるタイミングもなかった。ほんの少しの居心地の悪さが、後の会話のしづらさに繋がってしまうような気がして、不安になった。家族だけど、まだ壁があるように。
二番目に朝食を食べ終えた義樹は食器を片付けながら市子に話しかけた。
「店は夜に開けるんだ。時間が空いたらおいで。怖くなったら、いつでも上に行っていいから」
「うん・・・」
「・・・どうかしたかい?」
義樹が手を止めて市子を見た。市子は心の奥で引っかかっているものを、兄に打ち明ける勇気がまだなかった。ただ首を横に振った。
市子のその行動に、義樹は首を傾げた。
「何か、わからない事があるのかい?」
「その・・・少しだけ」
それは、自分自身の存在そのものの疑問でもあった。目の前にいる兄に打ち明け、答え次第ではどうしたらいいか混乱してしまうだろう。聞きたいような、逃げ出したいような、自分でもわからない気持ちだった。
「言ってごらん?」
義樹の優しい声に、市子は首を横に振った。怖さの方が大きかった。
それでも義樹は不快な顔一つせずに微笑んで言った。
「じゃあ、話せるようになったらいつでも言うといい。なんなら、じんでもいい。もう家族なんだから、遠慮とかそんなのないよ」
そう言って義樹は食器を持って部屋を出て行った。市子はテーブルの上のあと一口分の目玉焼きの欠片を見つめていた。
自分は、この家に来て良かったのだろうか。義樹も仁も、妹である自分の存在を受け入れているのだろうか。自分さえも受け入れるのに時間がかかっているのに。自分の悪い癖でもある息苦しくなるほどの被害妄想が少しずつ根を伸ばそうとしていた。
市子は考えるのを無理やり止めるように、最後の一口を食べてから食器を片付けた。コップに入った水は部屋に持っていく。
台所で仁が食器を洗っていたが、一度も顔を見る事ができなかった。仁の強い視線を感じつつも、目を合わせる事ができなかった。
逃げるように部屋に戻り、床に座り込んだ。不安に押しつぶされそうになっても、慰めてくれた家族はもういない。
息苦しさが徐々に増し、ポケットの中に入れてあった薬を口に入れ水で飲み込んだ。本当は飲みたくなかったが、飲まないと苦しいのが続いてしまうのだった。
しばらくその場に座っていると、床が軋む音と足音が聞こえてきた。部屋のドアの前で止まると、ノックされた。
「俺だ」
次男の仁だった。開けようとはしなかった。
「どうしたの?じん兄さん」
「そのまま聞いてろ。八時に常連が来る。この家に慣れるためにも手伝え」
「うん」
「それから・・・」
市子はドアの方を見た。仁の声が、重く感じた。
「お前が俺達をどう思うかはお前の勝手だ」
それだけ言うと、仁はその場から離れていった。市子は音が聞こえなくなるまでドアを見つめていた。
仁の言葉は優しくも厳しくもなかったが、市子の心を見透かしたような言葉だった。あの時、やはり異変に気づかれてしまっていたのだ。それでも、話を聞くことも尋ねる事もせず
ただ自分の感想を言っただけ。それだけでも、少しだけ兄との壁が薄くなったような気はした。それでも、壁はそこにまだあった。その壁が、どこか心を寂しくさせた。
市子はベッドに座り直し、窓の外を見た。雑木林と住宅街が見える。市子が住んでいた家から見える風景とそこまで変わらない、普通の景色。
しばらく何の変哲もないその風景を見ていたが、ふと、机に置いてあった携帯が鳴った。手に取って画面を見ると、幼馴染の坂井涼介からのメールだった。
「りょーちゃん・・・」
市子は思わずそう呟き、メールを開いた。いつもの短い文章が、画面に表示された。
『お前、今どこにいるんだ?家に誰もいないみたいだし大丈夫か?』
市子は驚き、少し慌てて文章を打ち始めた。
坂井涼介は小学校からの幼馴染で、市子が障害を持つ前から一緒に遊んでいた。家が近いという理由が大きかったのもあるし、人見知りな市子に友達は涼介ぐらいしかいなかった理由もあって付き合いは長かった。ただし、恋人というわけではない。ただの幼馴染としての関係だった。
『ごめんなさい。今、母の実家にいるの。しばらく戻れないけど大丈夫。心配かけてごめんね』
一通り打ち終えて送信する。送信されたマークが出ると、市子は携帯を閉じた。
自分の身に起きた出来事で混乱し、涼介の事を忘れてしまっていた。家にまで来てくれたとは思わなかった。申し訳なさを感じると同時に、涼介に会いたい気持ちもあった。表情が作れなくても、彼は市子の声の雰囲気などで理解してくれた。昔からの付き合いがあるからこそ、頼りになる所が大きかった。
しかし、今会ってもほとんど意味がないし兄達に迷惑をかけてしまうのは簡単に想像できた。市子はなるべく心配をかけさせないようにしようと決めた。
メールを送信してしばらくすると、眠気のようなだるさが襲ってきた。薬の副作用だった。まだ夜の八時まで時間はあった。
時計をセットし、ベッドに横になる。店の手伝いをする不安を感じつつも、市子は目を閉じて眠りについた。
薬を飲むといつもこの症状が出てしまうからあまり薬を飲みたくなかった。しかし、飲まなければ悪夢を見たり被害妄想がひどくなったりする。だから結局は飲むことになる。
それがいつから始まったのか、覚えていない。幼い頃の記憶は霧がかかっているように思い出せない。父が亡くなった時から、市子の頭の中はどこか欠けているようだった。