第2話
車は約一時間ぐらい走り、見た事ない住宅街を抜け、人通りの少ない道路の脇に止まった。
男がドアを開けて車から降りるように促され、市子はゆっくりと車から降りた。目の前に古い大きな家があった。来たことないはずなのに、何処か懐かしい家だった。後ろを見ると車の後ろは高い塀になっており、その上は雑木林のようだった。少し遠くの方には神社の入口が見えた。
「あの・・・ここは?」
「龍ヶ崎の家。正確には、お前の母親の実家。まだ開いていないようだから、裏から行くぞ」
スキンヘッドの男が歩き出すのを見て、市子はついて行くしかなかった。逃げてもどうせ帰れる保証はない。それに、兄弟というものがどんな人達なのかという好奇心も多少あった。
車から出て最初に見えた引き戸が玄関かと思ったのだが、どうやら違うらしい。家を囲うように椿の生垣があり、玄関から右手にある曲がり角を曲がる。二、三メートル離れた場所にもう一つ玄関があった。本来の家の玄関のようだ。
男は玄関を静かに開けると、中に入った。市子は躊躇して足を止めかけたが、男が見ているので足を止めずに中に入った。
古い木のような、埃のような匂いがした。市子が現在住んでいる築十年以上の家の風景とほとんど変わらなかった。
玄関を入って廊下を少し歩いて右に居間があった。男は麩を開けて「失礼します」と言ってから入った。市子は入口の前で立ち止まった。
広い部屋の真ん中に焦げ茶色のテーブルがあり、その前にある座布団に白いワイシャツにスーツのズボンを着た男が座っていた。市子の存在に気づくと、睨むように視線を向けた。市子は先ほどの優恵のようにびくりと体を震わせた。
「入れ。そこに立ってても話ができないだろ」
市子はおどおどしながら部屋に入り、男とテーブルを挟んで向かい側の座布団に静かに腰を下ろした。
男はスキンヘッドと同じように市子の顔を眺めると、胸のポケットから煙草の箱を取り出し一本口に咥えた。
「正直、実感ないだろ。俺達が兄妹なんて」
「えっ・・・お兄さん?」
男は煙草にライターで火を点けた。ほのかな赤い色と白い煙が見える。
「そうだ。俺は次男の仁で、今店の準備でいないのが長男の義樹。この家には俺たち二人しかいないが、今日からお前もここに住む」
「どうして?」
「お前がおふくろの子だからだよ。つまりは極道の子。そして後継者だからだ。おふくろは組のボスみたいなもんだった」
頭が混乱する。母は一度もそんな事を言っていない。
「一番安全なのは、この家ぐらいだ」
「でも」
「お前が今住んでいる家には、もう誰もいない。つまり、お前は一人だ。俺だって気が進まないが、死ぬよりマシだろ?」
市子は何も言えなかった。実の兄に、そんな事言われると思わなかった。自分がどういう意味で命を狙われるのか、母がヤクザと何が関係しているのか、何もかもがわからない。
何も言えないままでいると、兄の仁は白い煙を吐き出した。少し煙たくなるが、我慢した。
あの家で一人で暮らす事は、できない話ではない。しかし、狙われるという見えない恐怖が市子を震わせた。守ってくれるなら、安全だというなら此処にいるしかない。
「・・・此処で、お兄さん達と暮らしたらいいの?」
「決めるのはお前だ。好きにしろ」
「・・・此処にいてもいい?」
「ああ」
「じゃあ、お願いします」
市子は軽く頭を下げた。仁は何も言わなかった。暗黙の了承だった。
やがて一本の煙草を吸い終えると、仁は立ち上がってスキンヘッドの男を帰らせた。市子が仁の様子を見ていると、彼は廊下に出て市子に手招きした。
「お前にも手伝ってもらう。おふくろの店だ」
「お母さんの・・・?」
廊下を歩き、一番奥まで行って左手のドアを開けると、すぐそこは台所だった。最低限の器具が揃った、タイル張りの台所。微かに味噌の香りがして、コンロの方を見ると大きな男の背中が見えた。黒いパーカーでフードまで被っている。兄の仁よりも大きなその姿に、市子は驚いた。見上げなければいけない程に大きな人だった。
真ん中に出入りができるスペースがあり、そこから先はバーなどで見るカウンターになっていた。四角系のカウンター席は小さめで、店自体もそこまで広くない。どこか懐かしさを感じる古い空間がそこにあった。
「おふくろはここで食堂を営んでてな。おふくろの親、その前の世代からやってたらしい。おふくろが死ぬ一ヶ月前ぐらいまでいた」
「・・・知らなかった」
市子の知らない母の姿。母は働いていないはずだったのに、時折どこかに出掛けていたのは覚えている。市子はその間は学校に行っていたりしていた。家に帰れば母が先に帰っているかちょうど玄関の所で一緒になるかだった。その時間は、此処にいる時間だったのかもしれない。
すると、コンロの所に立っていた大きな男が市子の方を向いた。
「ああ、来てたんだ。気づかなかったよ」
低めのどこか穏やかな声だった。市子が男の顔を見ると、息を飲んだ。男の顔には痛々しい傷跡が数箇所あり、顔の真ん中辺りに包帯を巻いていた。市子を見ているその顔は笑みを浮かべているが、何処か不気味だった。
市子の様子に気づいた男は優しげな声で言った。
「怖がらなくていいよって言いたいけど、無理ないか。俺が義樹だよ、よろしくね」
「よしき、お兄さん・・・?」
全然似ていないと真っ先に思った。だが、よく見ると目の辺りとかが父の面影があるような気がした。けれど、二人が自分の兄だと受け入れるのは難しかった。この家で、この兄達と暮らして大丈夫なのだろうか。母はどうして教えてくれなかったのだろう。色々な疑問が頭の中に浮かんでくる。
もしくは、教えてもらっていたはずなのに思い出せていないだけかもしれない。子供の頃の記憶が霧がかかったように思い出せない時があるから。忘れてしまっているだけかもしれない。
仁が何か言い始め、市子ははっとして顔を上げた。
「手伝いだが、料理を作った経験は?」
「す、少しだけ・・・でも、一人で作った経験はないの」
「そうか。じゃあ、ちょっとずつ慣れるしかねぇな。それまでは料理を運んだり酒を提供するだけだ。いいな?」
「はい・・・」
「あと、客とはできるだけ深く関わるな。常連だとしても、裏の世界で生きてる人間に変わりはない」
市子は優恵の事を思い出した。最初に感じた怖さを思い出し、自分の手をぎゅっと握る。
仁はいつの間にか二本目の煙草を咥えていた。しかし、火は点けない。横にいた義樹が優しげな声で市子に言った。
「今日はもう休んだ方がいいよ。二階の奥の部屋がいちの部屋だよ。向こうの家にある私物はじんが何とかするから、今はお休み」
「それがいい。明日から、慣れていけばいい」
市子は黙って頷いた。まだ受け入れられない、混乱している部分が大きかったが受け入れる事しか市子にはできなかった。
店に繋がるドアから廊下に戻り、そのすぐ横に上に繋がる階段があった。ギシギシと軋む階段を上がると、すぐ左に一つ部屋があり、右には二つドアが見えた。奥の部屋のドアを開けると、最低限の家具が揃い綺麗に掃除されている部屋があった。入るとすぐに畳の匂いがした。
窓辺にベッドが置いてあり、市子はそこに静かに入った。薄暗い部屋の中、下の方で物を動かす音が聞こえた。兄達が店の準備をしているのだろう。
このまま寝てしまうのが何故か怖かった。初めて会った兄達が暮らす家、母の実家ともいえるこの家は、普通の家ではない。極道の家なのだ。何が起きても不思議ではないはずだ。
不安の中、市子は目を閉じて眠るように努力した。目を閉じていれば、薬のおかげで眠る事ができるはずだから。