15.再会
外は快晴。
朝に比べれば、瀧の気持ちはこの空のように心地よいぐらい晴れ渡っていた。
やはり思いもかけず中沢君からメールをしたからだろう。
まだ十分に高い太陽を仰ぎ見ると、約束の時間までにまだかなりある事は容易に察知できる。
それでも瀧は中沢君とのメールを中断させて家をでた。
それにいくつか複雑な想いがあったことは本人も気付かなかっただろう。
それは無意識に行った事。
本能とも感覚ともいうべき行為。
だからすっきりとした心地でいられるのだ。
そこに瀧の表層の心理は何もないのだから。
瀧は何も深く考えることはないのだから。
それを瀧が知るのはまだ先の事だ。
――まだ全然早いな――
電車の中から外の景色を見ながら、瀧は約束の時間までの事を考えていた。
早く行っても慎埜は部活があるからまず来ないだろう。
だからこそ瀧は早めに行こうと決めていたのだ。
先日の全敗記録を伸ばさない為にも……。
まぁ、大半が瀧の負けず嫌いが原因だが。
しかし、思いもかけずそこには先客がいた。
「宮崎…?久しぶりだな」
黒に近い茶色い髪は、暑くて水を被ったのか汗で濡れたのかはわからないが、水分を含んだことによって殆ど黒に見えた。
「…笠井先輩…」
私は私を見ているその人の名前を呼んだ。
笠井葵先輩は一つ年上の先輩で、中学の時の男バスのキャプテンだった人だ。
瀧や慎埜の中学では男バス女バスとも仲がよかったので、バスケを教えてもらったことも一度ではない。
勿論名前を覚えていてもおかしくはないが、瀧はこの笠井先輩が苦手だった。
「高校ではバスケやってないって聞いてたけど?」
瀧に向けて歩いて来ている笠井先輩は瀧の目を見ながらおどけるように言った。
「バスケ部に所属してないだけです」
「ふ〜ん。じゃ今日は?」
「シ…―、神林に付き合えと言われたので」
『慎埜』と名前で呼ぼうとしたのを急いで言い換える。
「――付き合うって?」
「そのままの意味です」
なんで聞き返されたのか瀧にはわからなかった。
でも笠井先輩の顔はさっきと変わっていなかったが、その目が細められていた。
「付き合ってるんだ?」
強調して言われた言葉に、その言葉に含まれる微妙なニュアンスの違いに気付く。
「ちがっ…!バスケの練習に付き合えと言われたんです!!」
「そ。ならいいや」
鋭く細くなった目が次の瞬間には元に戻っている。
瀧が笠井先輩を苦手なその理由――。
「そういえばさ、髪伸ばしてるんだ?よく似合ってるよ」
顔が一気に赤くなるのを感じた。
瀧が笠井先輩を苦手なその理由――。
それは笠井先輩だけが男バスの中で唯一瀧を女として見ていたからだ。
中学の頃の瀧は髪はベリーショートで身長も高く、話す口調も男っぽくて、同性からも男と間違われるほど男っぽかった。
今でこそ言えるが、制服のスカートを着ている瀧を見て、男が女装するなと注意を受けたことすらあるのだ。
そんな瀧を女扱いしたのは笠井先輩ぐらいだった。
しかもそんな瀧に告白なんてものをしたのも過去、笠井先輩だけだった。
「付き合ってる奴いるの?」
低い声。
探るような鋭利さを含んだその声に虚偽は通用しいと思わせる。
それなのにどこか甘い響きの声。
「……いません」
先輩の顔を見ていられなかった。
こういう状況には慣れていないので、どう反応したらいいのか全くわからない。
「俺なんてどう?」
冗談のように言われた言葉。
でもはぐらかすことの出来る雰囲気ではない。
もちろん笑い飛ばせる雰囲気でもなかった。
俯いた瀧の足先に先輩の靴があった。
手を伸ばせば触れられるほど近くに先輩はいる。
「俺じゃイヤ?」
「……」
「…それとも…、俺じゃダメ?」
瀧は何も言えなかった。
一見するとどちらも同じ意味に取れる。
しかしその言葉に込められたニュアンスの違いに気付いてしまう。
外人ならわからない。
ずっと日本語を使ってたからこそわかる違い。
嫌か。
駄目か。
「宮崎…?」
すぐそこに先輩の整った顔があった。
下から瀧を見上げている。
一般的に背の高い部類に入る瀧よりも、先輩は頭一個分は高い。
そんな先輩が下から覗き込んでいた。
髪が濡れて額に張り付いているが、汚らしい感じはしない。
逆に清々しい感じすら抱かせる。
黒い両の瞳の中に自分の姿が映っていた。
三年前、初めて私を好きになってくれた人。
三年前、初めて私が振った人。
あの時も慎埜が好きだった。
もうその時既に慎埜が好きだった。
誰にも言ったことはないけれど。
「瀧…?」
先輩が再度自分の名前を呼んだ。
甘いと表現されるようなそんな声で、泣き出したくなってしまいそうな優しい顔で。
「…スイ…マセン……」
それ以外には何も言えなかった。
笠井先輩ではダメだから。
例え大切にしてくれたとしても、それを望むのは慎埜だけだから。
流れ出そうな涙を必死になって抑える。
酷い事をしているのは私なのだから――。
私が泣くのは卑怯だと思った。
思いがけず、ふわっと何かに包み込まれた。
それが笠井先輩の腕だとわかるのに丸々数分を要した。
「なんでかなぁ〜」
瀧を軽く抱きしめたまま、笠井先輩は空を仰いだ。
「かなりモテるのになぁ〜」
先輩の手が摩るように瀧の背中を上下した。
まるで『泣いてもいいよ』というように。
優しく摩り続ける。
「なんで振り向いてほしい奴にはわからないかなぁ」
堪え切れずき瀧は声を出さずに泣き出した。
それに気付いたように、先輩の手はもっと優しくなった。
「俺を好きになっちゃえば苦しむことはないのに…」
「……」
何も言えなかった。
その通りだと思ったからだ。
先輩を好きになればこんなに苦しく悩んだりはしなかっただろう。
「馬鹿だよなぁ」
「先輩も…。こんな奴やめればいいのに…。先輩なら――」
「しょうがないだろ?忘れられないんだから」
私の言葉を先輩は遮った。
「そんなに思い通りにはならないよ」
それは多分私と先輩どちらにも向けられた言葉。
嘲笑を込めた本心の言葉。
その後は瀧が泣き止むまで何も言わなかった。
そして瀧が泣き止み先輩が瀧を開放した後、思い付いたように言った
「…まだ諦められないんだ」
優しい目に全てを忘れてしまいたくなる。
「まだ待つから。宮崎が…瀧が振り返ればいつでも受け入れるから」
優しい言葉。
でも頼っちゃいけない事を十分にわかっている。
たからこそはっきりということが出来た。
「ダメです。諦めて…、忘れてください」
「…嫌だね。それは俺の自由なんだから」
からかうように、それでもどこか吹っ切れたようにそう返すと、瀧に背を向けた。
瀧はわかってくれたと思った。
その上で先輩が決めたなら、瀧には何もいう権利はなかった。
だからこそ笠井先輩の姿が見えなくなるまで、ずっとその場に佇んで、去っていく先輩を見送っていた。