雨音の森
彼に会いに行こう。
不意にそう思い立って歩き出したのが三十分前の事。私はそっと目を閉じた。
葉に雨滴が当たる音。水が流れる音。土が雨を吸い込む音。
上を向くとポタリ、ポタリと頬に雫が落ちてきた。ツーッと頬の上を滑り、首筋を滑り、服を濡らす。
頭がおかしい人みたいだ。
そんなことを思い小さく笑う。
彼に会いに行くなんてことを考えて、行き先も無いまま雨の中歩き出して、気づいたらこの森の中で雨に濡れている。
彼は会いに行ける人じゃない、会いに来る人だと知っていながら。
それでも、会いに行かずにはいられなかった。
梅雨が始まったから。
「風邪をひくよ」
鈴が鳴ったような錯覚。優美で清廉で、静かな彼の気配。その気配に安堵する。
「去年も同じ言葉からだったね」
「そうだった?」
「そうよ」
クスリと笑う。
彼は何も変わらない。
「よかった…。今年は会えないかと思ってた」
「どうして?」
ギュッとかたく目を瞑る。
「高校生に、なったから…」
今年も目は開けない。彼が現れた瞬間、分かってしまった。
気配が…彼が、見えなくなってきている…。
いつかはこんな日が来るだろうことは、もちろん分かっていた。きっと彼は子供の前にしか姿を現さない。気配を見せない。清らかさを好む人だから…。
「怖かったの…」
私にはまだ分からない。何処までが子供と言えて、何処から大人になってしまうのか。だだ一つ、分かっている事は、
高校生は境界なのだろう、ということ。
「大丈夫だよ。会いに来なくても、こっちから会いに行ったのに」
優しい言葉にフルフルと首を振る。肩の高さで切り揃えた髪から雨滴が飛ぶ気配。
「来ずには、いられなかったから…」
彼は小さく微笑んだ。
ねえ、いつまで逢える?いつまで逢いに来てくれる?
そんな言葉を口にする前に飲み込む。これじゃただの甘えだ。
でも、考えずにはいられなかった。
私は、いつまで彼を見ることが出来るのだろうか…
「淋しいの?玲」
うん。淋しい。
「雨が降っているから?」
うん。雨が静かに降っているから。
「晴れたら、淋しくない?」
ううん。晴れてもきっと淋しいよ。
「玲、何故涙を流しているの?」
「気のせいだよ」
ただ、淋しいだけ。怖いだけ。
何が?
何がだろう。
たぶん、きっと、
大人になることが、だと思う。
改めて考えてみると、この淋しさも怖さもどうしようもないものだ。笑えて来るほどに。それは世の中の理なのだから。
時が経って、子供は大人になっていく。まるで季節が変わっていくように、気がついたら周りの景色が変わっている。誰にも留めることが出来ない流れ。
そうしたら、この淋しさはどうすればいいのだろう…。
ふとそんなことを思って、さらに淋しくなってしまった。彼はここにいる。まだちゃんと見える。それなのに、感じるこの淋しさはどうしたら消えるのだろう。
前髪からポタリと雨滴が地上へと落ちた。頬の上を雫が流れ、鼻の先から地上へと落ちた。
葉に雨滴が当たる音。水が流れる音。土が雨を、雫を吸い込む音。
彼の気配。冷たいようで温かくて、包み込むような。清らかで静かで淋しくなる位透明な、気配…。
「雨が、上がる」
全ての音を吸い込む静かな雨音が、彼の世界が…消えていく。
「行かないで!」
とっさに叫んだ声が静かな森へ響いていった。
「…行かないで…」
「玲…?」
ギュッと唇を引き結ぶ。
引き留めることが、出来たらいいのに…。
走っていって彼をつかまえることが出来たら…いいのに…。
「…分かってる。分かってるよ?」
かすれた声で小さく呟く。
雨があがらなければいい。
けれど彼は一所にとどまる人ではないし、とどめていい人でもない。どうしたって彼は行ってしまう。
そっと宙へ伸ばしかけた手を、ギュッと閉じる。
「玲、目を開けてご覧」
「えっ?」
「開けてご覧」
静かに、小さく笑っているような声で彼が言う。
「嫌っ」
「ほら。虹だ…」
彼の言葉にそっと、恐る恐る目を開く。
紅、橙、黄、翠、碧、藍、紫…
雨のプリズムを透過した光が私の街に架かっている。
「玲は運がいい」
その声にハッとして振り向くと、
彼がいた。
「ね?想像通りだったでしょう?」
浅葱色の水干を着た青年が、サラサラと小雨の降る森の中、静かに立っていた。ガラス玉のように澄んだ切れ長の目が私の姿を捉えている。
「うそ…」
彼はにこりと笑った。
雨音…覚えておくといい…
彼…この日はじめて知った雨音という名の彼は、自分の名を小さく告げるとまるで虹が消えるときのように、消えた。
彼の世界全てを連れて。
雨のあがった帰り道。水溜まりに映る青空で世界が空色に染まる中、静かに彼の名を呟いた。