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jazz and you

作者: 里丑

書き出しが肝心だ。

はじめの一行。一段落。なかなか手がつかない。

そこを誤まったがために、

文字になる前、あんなにも美しかった物語が、

仕上がったときにはとんだ駄作だった。

そんなことは日常だ。


さて、このラブストーリーは見事、傑作へとこぎつけるだろうか?

それはこの二時間弱にかかっているのだ。

主演は二名。彼、そして彼女。ふたりはこれから運命のコンサートホールにとらわれる。彼はそのかぎられた時間で、ひと綴りの物語を編まねばならない。始まる前にもうぷるぷると震えている。グラスのお冷ばかりがすさまじく減ってゆく。

一方の彼女はといえば、そっけなく舞台を眺めてばかりいる。彼女のなすべき役割は、今後の彼の振る舞いに懸かっているのだ。さりげなく髪を直す。こちらもやはり落ち着かないようだ。ふたりの新人俳優は、そろって不器用である。

他、エキストラ多数。彼らは新調したてのスーツをてかてかとさせながら忙しく歩きまわる。固まった主演たちをよそに、他愛のない会話をかわす。そのにわかに誘惑と策略を含んだ言葉たちによって、場内はじめっぽくにぎわっている。徐々に料理が運ばれてくる。整然たる丸テーブルたちと、銀食器の群れ。ワインの匂い。ホールはほんのりと酔い始める。


まもなく開演である。あの赤黒い舞台幕がいまに開き、ジャズバンドが演奏し、そしてふたたび閉じるまでに、彼は愛を告げねばならない。

台詞は決まっている。「好きなんだ。」飾らず、シンプルに。そもそもその三枚目俳優には、気取った言い回しを使いこなす技量などないのだ。この三秒に満たない言葉さえ、昨晩、一睡もせずに考えた。こんな面映ゆい役柄は、もうこれきりにしたい。


とはいえ、いきなりそれを口にはできない。ドラマには脚本があり、料理にはコースがあるように。いきなりメインディッシュでは芸がない。

今に照明が落ちる。そうなればまず、彼女の耳元でささやくだろう。言葉はなんでもいい。ただできるだけ多く、熱く息のかかるよう留意する。これは彼女へ捧げる、初めての愛撫に値するのだ。

ステージが燦然と輝き、お目当てのジャズバンドがあらわれると、彼はささやきをやめ、できるかぎりその踊り狂うピアノの、ひんやりとした音色に耳を傾けるだろう。そして静かに身を寄せると、ときおり服と服が心地よくこすれる。ふたりは音とリズムを通じて、互いの熱を交換しあう。

曲の合間には、ぽつぽつと言葉を交わす。しかし深入りはしない。ほてった身体を感じあいながら、パンの生地を寝かせるように、時期を待つ。彼女が彼に触れたいと願う、その瞬間を。

そうしていよいよ、最後の曲、そのクライマックス、ピアノやベースの度重なるフェイクに拍手の渦が起こったとき、公演が終わるその寸前、そっと彼女の手に触れよう。うまくゆけば、彼女はふんわりと握り返してくれるだろう。ステージに目を向けたまま、表情の現れてしまうのをぐっとこらえながら。

そして、歓声と、アンコールの喝采の中に紛れて、聞こえるか聞こえないか、ぎりぎりの声で、ようやく告げよう。考えに考えた、さりげない言葉を。彼女は聞こえているくせに、うれしそうに聞き返す。そしたら、もう照れずにもう一度言ってあげよう。彼女は気付かれない程度に、彼に身をもたれる。しっかりと気付いてやって、小さく肩を抱いてやる。アンコールの演奏は、その日一番の素晴らしさだろう。


さあ、いよいよ幕が開く。一瞬、彼女の測るような視線にぶつかる。潤みを帯びて、いつもより鋭いその瞳。

照明が落ちる。彼は唾を飲んでから、ゆっくりと彼女の耳に口を寄せる。

書き出しが肝心だ。




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