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彼女の護身用武器とされた水鉄砲を所持しておらず、何も持たない子ネコの姿で敵と遭遇したユーリが、唯一発揮出来る技。それはズバリ、人間の姿に戻る事。逆に言えばそれだけしか出来ない。

主が単に姿を変化させるだけではあるが、一瞬にして効果を現すその技とて使いようによっては敵にダメージを与えられる。


さてそれではクエスチョン。

重さ40kgを越える物体が突如として落下、真下にいた人間の頭部に直撃するとその人はどうなるでしょう?

アンサー。

バランスを崩して転びます。

打ち所が悪いと即死します。


子ネコ姿のユーリを操っているカルロスは、両足を揃えた状態で馬車の屋根から飛び出し……真下のホセが気配に気が付いて振り仰いだ時にはもう、ユーリを人間の姿に変化させていた。

落下距離こそ短く速度も緩いが、ユーリの裸足の裏を二本とも顔面でドガッ! と激しく受け止める羽目になったホセは、頭部に追加された重量までは支えきれずに背後から倒れ込み、地面に後頭部を打ち付けた。

そして、同僚から『鈍臭い』と評判のユーリ本人とは違い、カルロスは標的が倒れようとも両足をホセの顔面に押し当てたまま、危なげなく華麗に着地。


素晴らしいです主、体操競技で10.0並みの正確さです!


単なる脳内に住み着く見物人状態のユーリは、彼女の戦術をソツなくこなしてみせる主人へと、思わず内心やんややんやと喝采を浴びせた。

そしてカルロスはそれにはひとまず得意げな感情だけをしもべに返し、操っているユーリの身体については即座に片足を地面について平衡を取り戻した。だが尚も、もう片方の裸足の裏でぐりっぐりと容赦なくホセの頭を踏み潰している。


「このクソ野郎、汚え手で俺のエストに触んじゃねえよ、ボケが」


ユーリの喉から出る精一杯低い声音で吐き捨てるが、カルロスは分かっているのだろうか。今現在操っている真っ裸なユーリの身体では、迫力もなければ威圧感もない事を。

カルロスの相変わらずなイエローカード的発言に、ユーリは主賛美から一転して心の中で頭を抱えた。

心の中で掲げていた10.0の札を、こっそりと逆さまに握り直す。優雅さの欠片も無い言動を評価するとすれば0.01。

幸い、ホセは後頭部強打の衝撃で意識が飛んでいるようで、ピクリとも動かない。


「やはり、お前は……」


そして距離を取らされていたグラとセリアは、黒ネコが黒髪の少女に変化した辺りで驚愕から足が止まってしまっていたらしく、今更ながら恐る恐るといった体で近寄ってきたようで、足音が近付いてきた。


足下のホセに固定されていた視界が持ち上げられ、厳しい表情を浮かべてザッザッと足音も高く歩み寄るグラと、口をあんぐり開けて目を見開き固まったままでいるセリアが目に映った。

そしてカルロスと目が合ったグラは、視線が交差する事を避けるように、彼が操っているユーリの全身にサッと視線を走らせ……何故か、顔面どころか首筋まで赤く染めて勢い良くバッと顔を背けた。


“何だぁ?

てっきり詰問されるかと思えば、グラシアノ様の様子がおかしいぞ”


まあ、あの方が変なのは今に始まった事じゃありませんし。


主従揃って、黒ネコから人間への変身にたいする不信感や疑惑を声高に攻め立てられる、もしくは驚愕から混乱させると覚悟していただけに、グラの態度に首を傾げてしまう。


もしかしてぐらぐら様って、シャルさんの変身シーンとか見た事あったりします?


“意図的には見せた事ねぇが、知ってる可能性は高ぇな。

エストだけじゃなく、閣下やレディ・フィデリアの前で披露した事もあるし”


カルロスの黒ネコがクォンである、と敢えて知らせた訳ではないが、彼が動物を人間の姿に変えて家政を任せている事を、グラが知っていたとしてもおかしくはない。かの公子様の幼少期に、エストと遊んでいるシャルのイヌバージョンを見掛けた可能性も高い。


つまり、ぐらぐら様が思わず顔を赤くしたのは、私が裸だからですね、きっと!


“……は? あ、うぉあっ!?”


元々、この戦術を選択すれば居合わせた人の前に真っ裸を晒す事になると承知していたユーリは、自らの羞恥心を無理やり誤魔化してやり過ごしているが、エストの危機に頭の中が沸騰なされていたご主人様は……たった今ようやく、現在のしもべがあられもない姿で不心得者を踏みっ踏みしている現状に、理解が及んだらしい。


「うおあっ!? やべっ!?」


カルロスは素っ頓狂な奇声を上げ、両腕で出来る限り隠そうとするが、所詮は今更であり、また無駄な行為である。そしてグラは朱に染まった顔で、どうしたら良いのか分からないと言いたげに立ち止まったまま、チラチラとこちらに視線を寄越してくる。

異性の裸身にそこまで強い恥じらいを覚えるなど、とうに成人した男性の反応だとはとても思えない。むしろ、うら若き乙女のような態度だが、気のせいだろうか。


カルロスはグラの前から身を隠すべく、慌てて馬車の方に後ずさった。

と、後方から衣擦れの音が耳に飛び込んでくる。反射的に振り返ったカルロスは、車内から姿を現したエストに現在の状況などそっちのけで迷わず飛び付いた。

令嬢はゆっくりと瞬き、静かな表情でそんなカルロスを見返してくる。


「エスト、エスト無事か!?

ちくしょう、首から血ぃ出てるわ手首には痕まで!

っの野郎……!」


一瞬、地面に伸びたままの御者を睨み付け、カルロスはエストの怪我を間近で確認するなり様々な懸念を押しのけて、最優先順位がエストの手当てに速攻で塗り変わったらしい。車内に転がったままのセリアの鞄の中身を漁り、慣れた手付きで布やら消毒用のお酒を取り出す。セリアはお酒をいったい幾つ常備しているのだろう。


「ああっ、お、お嬢様のお手当ならわたしが……!」


ようやく我に返ったらしきセリアが駆け寄ってくるも、エストは自らのメイドを微笑んでやんわりと制した。

そして、慎重に包帯を巻くカルロスに向けて唇を開く。


「ふふっ、本当にいつまで経ってもカルロスは心配性ね」

「当たり前だ。だいたいエストは、昔っからお転婆で怪我に無頓着すぎる。あんな野郎の前で気丈に振る舞うのも結構だが、少しはしおらしくしてればこんな無闇に傷付けられずに済んだかもしれん。

仮にも嫁入り前のレディが、傷痕なんか残っ……!」


昔取ったなんとやらで、お守り役の頃と変わらぬお説教を懇々とかましかけていたカルロスは、不意に言葉を切った。

大人しく手当てを受けていたエストは、どこか嬉しそうな表情で両手を伸ばし、抱き付いてくる。


「大丈夫ですわ。きっとあなたが助けにきてくれると信じていましたもの」


幼少期ならばともかく。近年稀なほど間近で想い人の微笑を浴びせられたカルロスは、しもべの身には計り知れない何かを抱いたらしい。

命令にも言葉にもならないごちゃごちゃとした感情だけを、ユーリに開示し……ご主人様は唐突に本来のご自身の身体へと戻っていかれた。突如として身体の支配権を明け渡されたユーリは、


「あたたたたっ!?」


偉大なるご主人様という防波堤が無くなり、ブロックされていた痛覚が蘇ってきて悲鳴を上げた。

あのお方は、自らが操り絶えず痛みを訴えてきているしもべの刺し傷よりも、想い人の擦過傷の方が気掛かりであったらしい。


「大変! カルロスったら、ユーリちゃんの怪我を治していっていなかったの!?

セリア、早くユーリちゃんの怪我の手当てを!」

「は、はい! え、あれ!?」


傷口を押さえてうずくまるユーリの姿に、エストは遅まきながら彼女の状態を把握したらしい。

きびきびと指示を出し、忠実なメイドは自らの疑問はひとまず追いやったのか、ビシッと背筋を伸ばして職務を遂行し始めた。


「……エストお嬢様……」


本当に、エストは目を離すとすぐに怪我を負うのか、それともこれまでの人生経験のなせる技か、セリアからテキパキと応急処置を施されながら。ユーリは痛みを堪えてエストを見上げた。

彼女を安心させるように、令嬢はユーリの頭をかき抱く。


「やっとこちらの姿のあなたに会えたわね、ユーリちゃん」


ああ、主……我々はこのお方に、色々と隠してるつもりで何だか筒抜けというか、お見通しだったようなのですが。


“……”


無事に自らの身体に戻ったらしきカルロスから、ちょっぴり混乱しているらしき感覚が飛んできた。

ひとまず。

身体はユーリでも、今この身体を動かしているのは間違いなくカルロスであると、何の迷いなく即座に直感して確信出来るほど、エストはブチ切れた彼の言動に精通しているだなんて。

こうなってくると、エストとカルロスの幼少期の生活模様が別の意味で俄然、気になってくるユーリである。

だが今は、それを問おうにも、痛みは意識を混濁させ、瞼が重く持ち上がらなくなってくる。

主人とユーリでは、根本的に痛覚耐性が異なるのだろうか。


主。怪我を負った私の貧弱な身体で、豪快に暴れ過ぎ……です……


「もう大丈夫よ、ユーリちゃん」


“……あー。今はひとまず寝とけ”


エストの優しい言葉と主人の許可に、小さく頷き。

ユーリは素直に両目を閉じたのだった。



ふわふわとたゆたっていた意識は、ぼんやりと輪郭を持ち始めた。

お茶の間のちゃぶ台の上にお習字の道具を広げ、ユーリはそこへ正座して筆を持っていた。

真ん中に折り目が付いていて書きにくい半紙には、大きく『森崎悠里』の文字。


……ああ、そっか。私、自分の名前を練習中だったっけ。


ユー……悠里はとても字が下手で、クラスメートに『字が読めない』と散々からかわれたのが悔しくて、せめて人様に判別してもらえる腕前になろうと、夜にはこうして筆を持っていたのだった。


見渡した茶の間には、母の姿が無い。水音が聞こえてくるので、入浴中だろう。

そして真正面に配置されたテレビは電源がつけられており、バラエティー番組にチャンネルが合わさっている。ブラウン管の向こうでは、先ほどまで流れていたVTRについて、司会者と出演者がが軽快なトークを交わして会場を沸かせていた。


「……つまり、多くの名字に『田』や『川』『山』がついているのは、日本の原風景だからですね」


日本人の名字の多くは、自分が住んでいた場所に因んでそう名乗る事にしたケースだとこの番組はいう。

悠里はふと、手元を見下ろす。彼女の名前にある『森』の字も、ありがちな田舎の田園風景を囲む自然を思わせる言葉だった。


筆を置き、悠里は座布団の上で行儀悪く足を崩した姿勢から、上半身だけで押し入れの襖に向き直った。確認の為にチラリとバスルームの方に視線を走らせると、母は鼻歌を歌いながらシャワーを浴びているようだった。今日の選曲は演歌だろうか。

もうしばらくは出て来ないだろうと当たりをつけ、悠里は音もなく立ち上がると襖の前に歩み寄った。引き手に手を掛け、スッと引っ張る。


目当ての缶は、すぐに見つかった。もとより、この押し入れの中の物は少ない。

いつの頃からか、母が時折、悠里の目を盗むようにして見ていたこの缶。いったい何を隠しているのかと、好奇心から開けたのはもっと幼い頃の事。

カタカタと音を立てて蓋を開けると、中には何故か半分に裂かれた写真と、和歌のカードが収められているだけ。

悠里は自分と思しき赤ん坊を抱く、若かりし頃の母が映る写真をひっくり返した。


『寸 深郷 悠里

  佳 路琉 9/20』


そこに記された、謎の言葉たち。

9/20はこの写真を撮った日付だろうか。それとも別の意味があるのか。

悠里は指先で、自分の名前の左隣に書かれた言葉を軽くなぞった。


「……ふかさと? しんごう?」


フルネームを書く時、名前の左隣は名字であるはずで、だがそこにあるのは彼女が慣れ親しんだ名字とは似ても似つかぬ、読み方すら分からぬ漢字。

眺めていても解けない謎に諦めて溜め息を吐き、母が風呂から上がってくる前に写真を缶に戻し、押し入れの中に元通り安置した。

いつの間にか、シャワーの音は止んでいる。


何事も無かったかのように再びちゃぶ台と硯の前に戻った悠里であったが、内心では様々な考えが渦巻いていた。

もしもあれが、自分の本当の名前……ありていに言えば、父親の名字なのだとしたら。

二行目に書かれていた『佳』、仮に裂かれた写真の片割れの向こう側と合わせると、母の名である『千佳』の文字があるとすれば。


……私のお父さんの名前って、もしかして『路琉』っていうのかな?


相変わらず日本人の名字について、あーだこーだと話を弾ませているテレビをぼんやりと眺めつつ、悠里は内心でひとりごちた。

と、バスルームのドアが開閉される音がして、母が髪の毛をタオルで拭いながらのしのしと茶の間に現れた。


「悠里、お茶出して。何か冷たいやつ」

「うん」


悠里がテレビを見ていようがまったく頓着せず、ブォーと豪快な音を立てて母はドライヤーで髪の毛を乾かし始める。

冷蔵庫から取り出した麦茶をカップに注ぎ、悠里はちゃぶ台の上にコトリと置いた。


「何何、今日も習字? 熱心ねえ」


殆ど生乾きにしか見えないのだが、母はほどほどに髪を乾かしてドライヤーを放ると、悠里が運んできたカップの中身を一気に流し込み、ちゃぶ台の上の半紙を覗き込んだ。

何枚にも渡って書き散らされた言葉は、自らの名前ばかりだ。

悠里は母の注意を逸らすべく、テレビを指し示した。


「お母さん、今ね、テレビで日本人の名字の由来とかやってるんだよ」

「……録画予約は?」

「バッチリ」


為になるのかならないのか、今ひとつ不明なバラエティー番組を好んで熱心に見る母は、娘の機転に満足げに頷く。


「うちの名字は、極端に多くも少なくもないから、取り上げられてないけど。

ご先祖様は森が多い山道に住んでたって事?」

「ふっふっふ……実はね悠里。

我が家の名字は、元々は『守崎』だったって聞いた事があるのよ。亡くなった私の曾お爺ちゃんからね」


母が自らの親類について語る時は、大抵故人ばかりである。悠里は親戚だという人物と会った事も無いし、現在生きている親類の名前や存在を聞かされた事さえ無い。

母が何を言いたいのか分からず、悠里はかくんと首を傾げた。


「かつて防人……古代に北九州の防備に当たった兵士の事なんだけど、祖先はその職務に就いて日本を守ってた人達らしいのよね」

「『サキモリ』がひっくり返って『モリサキ』?

何か嘘臭い……

ねえお母さん。私の名前にも何か意味があるの?」


悠里の何気ない問いに、母は待ってましたと言わんばかりに身を乗り出してきた。


「お母さんと悠里の名前はね、お揃いなのよ?」

「え、どこらへんが?」


いつか娘に語ろうとでも思っていたのか、意気込んで始まった解説に、思わず悠里は速攻でツッコミを入れていた。


「全然違う? 嘘じゃないわよ。だってね、悠里の『悠』っていう漢字は、名前として付けるのなら『ちか』とも読めるんだから。

ね? お母さんの名前、『千佳』とお揃い」


どうだ、とばかりに無駄に胸を張る母に、悠里は何となく二の句が継げなくなった。

母娘でお揃いの名前。確かに可愛らしいかもしれないが、果たして何人の人間がそうと気が付くのだろう。


……ねえお母さん。『悠』がお母さんの名前とお揃いなら、『里』はお父さんの名前とお揃いなの?


その疑問を、舌の上に乗せる事なく悠里は口を噤む。

自分が父親について、母に尋ねなくなってから何年が過ぎただろうか。

顔も名前も知らない『お父さん』。彼の事について母に質問すると、悲しそうな顔を浮かべられて。

幼心に、訊いてはいけない事項なのだと戒めて、ずっと気にならないフリを続けてきた。

近所の口さがないおば様方が、ひそひそと噂する『アイジン』という言葉の意味を知ってからは尚の事。


いつか、もっと自分が大きくなったら。

母はきっと話してくれるだろう……悠里はそうやって、幾度も幾度も疑問を飲み込んで先送りにしてきたのだ。


母の笑顔が、懐かしい我が家の茶の間の風景が、次第に白い靄が掛かったようにぼやけてゆく。

ああ、と悠里は……ユーリは嘆息した。


あの日、あの時。すぐに行動に移していなかったのだから。

今でなくても良いと先延ばしにしていた『いつか』など、永遠にやってくる事は無いのだ。



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