10
それはまるで、透明な膜を隔ててぼんやりと眺めている世界の出来事のようだった。
黒い子ネコの前足が眼前に差し出され、プニプニした可愛らしいピンク色の肉球が一瞬にして人間の手のひらに変化する。視界の端に映った足元から何かの容器をひっ掴み、瞳に映し出される世界は上下左右へと移動し、座席に腰掛けたままのグラの前で固定された。
これは、あくまでもユーリの身体である筈なのに。
彼女の意識はどこかぼんやりと定まらぬまま、身体だけがユーリの意志とは無関係に動いている。つい先ほどまで感じていた激痛は今はなく、ただ流れていく状況をままならぬ夢の中のように眺めている事しか出来ない。
ユーリは胸中で、ああ……と嘆息した。
カルロスを主人とし、己の全てを捧げる契約を交わした時から、分かっていた筈だ。この身はあくまでもカルロスの所有物であり、全てを自由に出来る権利をユーリは自ら彼に売り渡したのだと。
脳内に強制的にテレパシーを送りつけ、心の内を読み取り、記憶を複製して五感に同調する。
そんな事が可能なのだから、当然カルロスはユーリの身体を乗っ取って代わりに動かす事だって雑作もない筈だ。
……ただ、今まではそうする理由も必要性もなかったから、やらなかっただけで。
カルロスはユーリの身体で立ち上がったのだろう。視点が移動すると同時に、ユーリが眺めている世界が左右に揺れた。彼女の唇から勝手に「くっ……」という低い呻き声が漏れ出る。
ホセに刃物で刺されたのは、腹部の辺り。けれど今、ユーリはなんの痛痒も感じていない。
てっきり、カルロスはしもべの痛覚を遮断した上でユーリの身体を操っているのかと思っていたのに。
あ、主、痛み止めには脳の痛覚神経をブロックして……
「んなゴチャゴチャ言われても、初挑戦で分かるか!」
ユーリが膜からの世界越しに呼び掛けると、ご主人様はユーリの口で怒鳴った。
どうやら、今までは必要に駆られなかったのでマニュアルやらセオリーといった心得がなく、カルロス的にもいっぱいいっぱいであるらしい。
そうなるとユーリとしては、彼の本来の身体の方はどうなっているのかが気掛かりだ。流石のご主人様でも、全く別個の人体を二つ、一度に意のままに動かせられる超人とは思えない。
ユーリは……というかユーリの身体を動かしているカルロスは、軽く頭を振ってフラつく姿勢を立て直し、グラの肩をガッと掴んだ。
「んのクソガキが……いい加減とっとと目ぇ覚ましやがれボケがぁ!」
ユーリの口で、カルロス様は主家の後継者たるお坊ちゃまに暴言を吐きかけつつ、容赦なくグラの頬を拳で殴りつけた。
あ、あ、主ーっ!?
いくら緊急事態、かつ怪我をおした上での短時間での対処法であり、グラの失態に苛立ちを覚えているとは言っても……カルロスにとって、グラはあくまでも仕えるべき高貴な相手の筈だ。カルロスの取り繕わぬ隠された本心では実は、グラは『クソガキ』だったらしい。まあ、エストの幼少期から面倒を見ていたという事は、グラの幼少期とも接する機会が多く、その時から抱いていた人物像なのだろう。
幸いというかなんというか、本来の成人男性の身体ではなく、非力な上に体力もかなり落ちている今のユーリの身体でのパンチなので、頑丈そうなグラには目覚まし以上のさしたるダメージはなさそうだ。
ようやく正気を取り戻したのか、呆然と頬に手をやるグラを放置し、カルロスはクルリと背後を振り返って、手にした容器を今度はセリアの口に容赦なく突っ込んだ。
彼女自身が持ち歩いていた気付け用のお酒を強引に口に含まされ、激しく咳き込むセリア。
……主……前々から分かってはいましたが、あなた様は……
「お、お前は……」
「……放しなさい!」
ユーリの胸中での呟きを遮って、状況が把握できてきたらしきグラが何かを呟きかけるのだが、馬車の外から聞こえてきたエストの切羽詰まった叫び声に、グラとセリアは同時に馬車のドアに飛び付いた。実に分かりやすい優先順位である。
スッと、視点が急激に下方へと移動する。どうやらカルロスが再び外殻膜を操り、ユーリの身体を子ネコ姿へと変化させたようだ。
「ホセ、貴様、我が妹に何をしている!
今すぐその手を放せ!」
「はあ……今度は2人揃ってお目覚めですか?
まったく、あの香、本当は効果が薄いのか?」
「お兄様!」
「お嬢様に何てことを!」
グラとセリアが飛び出した馬車の外では、ホセがエストを背後からがっちりと拘束しつつ、彼女の首筋の辺りで例の刃物をちらつかせてみせた。
グラとセリアはエストを人質に取られてしまう格好になり、ほんの十数歩分の距離を縮める事が出来ずにホセを睨み付けている。因みにセリアは他にも何かを叫んでいるのだが、アルコールのせいなのか興奮し過ぎているせいか、明瞭に聞き取れない。
どうやら、ホセは抵抗するエストを強引に木陰の方に連れ込もうとしていたが、馬車からグラとセリアが想定以上の早さで飛び出してきたせいで、刃物で牽制しているらしい。
“グラシアノ様の腕なら、男1人を取り押さえるなんざ、ワケもねえが……”
エストお嬢様の首にこれ見よがしに当てている、あのダガーが邪魔ですね。
エストやグラとセリア、ホセ、彼らが互いに気を取られている間に、こっそりと馬車から下りて車輪の影から状況を見守りつつ、相変わらず子ネコなユーリを操っているカルロスが焦りを抑えつつ問うてくる。
“シャルをこの場に急行させてるから、時間さえ稼げればなんとかなる筈だ”
痛みを堪えているのだろう。苦しげなカルロスの呟きに、ユーリは慎重に答えた。
ただ、ホセさんが単独犯である可能性は限りなく低いです。
魔物の危険な香を、一介の御者が簡単に入手出来るものでしょうか?
――まったく……あんたらクォンは、どこまでも計画の遂行を邪魔してくれるな。
苦痛という、思索を邪魔する感覚が取り除かれたユーリは、ホセの発言をなるべく思い出してみる。
彼の呆れ果てた呟きは、明らかにこれまで何らかの組織的犯行を行おうとしていたが、ユーリを含む複数のクォン……順当に考えると、該当者はシャルな訳だが……に、邪魔されたらしい。
――……いや、この場合は魔法使いカルロスが、か?
魔法使いに対しての、嫌悪感が滲むその言葉。
ユーリの脳裏に翻ったのは、真っ黒な粉から彼女を庇うように翻る銀色の輝き。
まさか……ホセさんが、あの時の黒ずくめ?
短絡的に過ぎる。そう考えようにも、どんどん思い出されていくユーリの記憶のピース。
――……お前! まだ浅ましくカルロスに魂を捧げずにいたのか!
――僕は彼を苛めているのではありません。本分を説いているのです。
エストとアティリオ、そしてゴンサレスが乗る馬車を操っていた御者は、ホセだった。初めてアティリオと出会った時、彼は大声で誰にはばかる事なくのたまっていた。あれは森の家での事。
そう、そしてあの後、ホセは、シャルと話していた。シャルがカルロスに呼び出される前の、短い時間。彼らはそこで何を話していたのか?
――家の周囲のは、それプラス住人以外の侵入拒否と……
――俺、ここ何年も鍵なんて掛けてねえわ。
一度内側へと招き入れられてしまえば、あの森の家は殆ど無防備だ。
住人達の目が離れ、自由を得たホセは、あの日あの時、あの家で。何を見聞きし、何をしていたのか?
――エスト、これはユーリだ。俺のもう一匹の使い魔。
あの部屋での会話は、諜報活動になど慣れぬユーリでさえ、開いた窓の外から簡単に盗み聞き出来てしまう。
ホセはどうやって、ユーリがカルロスのクォンである事を知ったのか。また、魔法使いではなさそうな彼が、『ユーリを殺したらカルロスがパワーアップする』事を知っており、忌々しげにしているのは何故か?
いつからではなく。恐らくパヴォド伯爵家に勤め始めた最初から彼は、徹頭徹尾、『隣国の鼠』であったのではないのか。
最重要視されるスパイの条件。それは、いかに周囲に上手く溶け込み地味に見咎められずに過ごせるか。決して、敵に気取られずに……
「たとえエストを人質に取っていようと、エストは所詮は何の権力も持たぬ非力で世間知らずな貴族の娘に過ぎん。
いったい何が目的だ?」
グラはホセの様子を慎重に窺いつつ、仁王立ち体勢でフンッと鼻息も荒く吐き捨てた。本心ではエストの為なら火の中水の中、な心持ちであろうに、腹芸が苦手な割になかなか頑張ってホセの真意を探り当てようとしている。
そして、怒りで興奮して意味の為さぬ叫びを上げているセリアは、全身をぶるぶる震わせつつ、我を忘れて突進したそうにしているのを懸命に堪えているらしい。
「確かに、今のお嬢さんは辺境伯の単なるいち令嬢に過ぎませんけどね」
単身敵地に住み着き平気な顔をして何年間も暮らせるスパイなのだとしたら、一見平凡な容姿のホセは、実は相当腕が立つのだろう。
エストの両腕を彼女の背後で捻り上げて、もう片方の手でユーリを刺した刃物を令嬢の喉元に突き付けたまま、ホセは油断なく周囲を警戒しているようだ。
「ですが、パヴォド伯爵家に生まれついたのが運の尽きでしょう。
ちと厄介なんですよ、パヴォド伯爵家と中央の関係が固いと、ね」
そしてじりじりと、エストを強引かつ無言で脅しながら、僅かづつ移動している。当初は茂みの方……さらにそこを抜けた先には王城の背後の滝から流れ落ちる川がある筈だが、そちらに向かおうとしていた彼は……刃物をちらつかせてエストの白い喉を仰け反らせて脅しかける事によって、グラとセリアに一定の距離を取らせつつ、半円を描くようにゆっくり、ゆっくり移動してゆく。
「やはり、貴様は……!」
「ええ。お察しの通り、ぼくは黒砂ですよ。
本来ならこんな強引なやり口なんか無しで、ずうっと穏便に永住する覚悟でいたんですけどね……パヴォド伯爵はそうさせてはくれなかった」
グラの歯軋り混じりの叫びに、ホセは鷹揚に頷き……いっそ、慈愛さえ感じさせる微笑みを浮かべた。
今や彼らの立ち位置は、馬車の影に隠れて様子を窺っているユーリ&カルロスから見て、丁度左右両サイドに対峙していた。
ホセさん……もしかして、余計な荷物が自分から下りてくれたこの馬車を奪取して、エストお嬢様を攫って逃げるつもりなのでしょうか?
“エストが人質に取られている以上、グラシアノ様には防ぎきれんかもしれん。
だとすると、馬車の中に隠れていた方が良いか?”
「察しているのかいないのか、長いこと不気味に放置しておいて、まさか、ぼくを最も苛立たせる手段で決意させるとはね。あの策略家は手のひらの上で弄んだ挙げ句、相手に一番深い傷を負わせるのがお好みのようだから、ぼくもやり返させてもらいますよ」
元々、ホセが用があるのはエストだけのようだ。
伯爵家にダメージを与えるならば、後継ぎであるグラシアノが前後不覚になっている先ほどの状態で暗殺した方が確実な気もするが……パヴォド伯爵は日々、グラに『お前の代わりはいくらでも居るんだぞ』とか言外に脅かしているような方だ。
恐らく、伯爵本人でなければグラなんて暗殺対象にすらならないと、ホセや彼の仲間は判断したのだろう。
いえ、主……馬車を操る為には、御者台に乗り込む必要がありますよね。エストお嬢様から刃物をどかす、その時がチャンスじゃないですか。
何とか、気がつかれずに上れませんか?
「ホセ。お前は、わたくしを殺すつもり?」
「いいえ、そんなまさか。
ぼくはそんな温い手段は取りませんとも、エストお嬢さん」
白くまろやかな喉に突き付けられた刃物に恐怖を感じていないはずは無いのに、エストは毅然とした声音で静かに問うた。それにホセは、こんな状況ではこちらの神経を逆撫でするような丁寧な口調で穏やかに答える。
「死んでしまっては、その騒ぎはひと夏一過性の話題を攫うに過ぎません。
ですが……生きていて下されば、あなたは一生、パヴォド伯爵家の汚点となる」
痛みを懸命に堪えているカルロスが、密やかに、かつ慎重に車輪をよじ登っていく間にも、じりじりと、彼らは僅かに移動してゆく。
「わたしのお嬢様は、汚点になどなり得ません!」
「あなたは本当に、お嬢さんバカだなセリアさん。
この場合重要なのは、本人の資質や性質なんかじゃない。社交界っていう、水物の世界を泳ぐ人達の好むゴシップ、風評さ」
たまり兼ねたセリアの叫びに、呆れた声で断ずるホセ。
彼らの会話を尻目に、カルロスはハアハアと、苦しげな荒い呼吸と霞む視界の中、ユーリの子ネコの身体を一心に操って何とか御者台に到着した。ここから屋根の上に登り上がるにはと、ぐるりと周囲を見渡し、吊されているランプに目を留めた。
「王子様の側妃筆頭候補、かつアルバレス侯爵家から縁談がきているエストお嬢さんが、清廉どころか男好きの淫乱だなんて噂が流れたら、パヴォド伯爵家に不満を抱いている家はさぞかし大喜びで飛び付くだろうね?」
くくくっと、愉しげに彼は笑う。
「貴族のご令嬢が、粗野な男に攫われ一晩を過ごした……この事実さえ流布されれば、後は勝手にもっともらしく噂は独り歩きしてくれるでしょう?
そんなふしだらな令嬢なんて貰う訳にはいかないと、王室や侯爵家との縁談が潰れて、エストお嬢さんが伯爵家の別荘で飼い殺しになるも良し、伯爵自身の手で処分されるも良し」
「どちらにしても、中央の王家とパヴォド伯爵家の信頼関係にヒビが入る、足並みを乱すのが目的か……!」
彼らの視線が互いに固定されている隙に、一瞬だけユーリの身体を人間に戻したカルロスは、ランプが吊り下げられている上部の金属部分を掴んでガッ! と握った次の瞬間には子ネコの身体にまた変化してぶら下がり、両前足を絡めて身を支え、馬車の車体を後ろ足で蹴りつけ勢いを得ると、吊り下げる金属部分を鉄棒のように一気にぐるんと回って全身を持ち上げた。
そのまま一気に、細くて足場とするには不安定な金属部分に腰掛けた体勢から後ろ足を持ち上げ、全力で馬車の屋根の上に強引に登り上がったのだった。
いくら身軽な子ネコの身体とはいえ……、あ、主、なんと見事な曲芸。
“バカにしてんのかユーリ。
この俺を誰だと思ってる?”
カルロスはそのまま屋根の上にベッタリと張り付き、対峙している地上の人々に気が付かれぬよう、匍匐前進の要領で見晴らしの良い屋根の端に移動した。
まるで、生まれた時からこの身体であったかのように自在に操ってみせるご主人様の華麗な行動力に、ユーリは心底驚嘆しているのだが、カルロスはエストの事が心配でそれどころではないようだ。ある意味、火事場の馬鹿力のようなものが働いたのかもしれない。
「そんな馬鹿馬鹿しい作戦が実現可能だと、本気で考えているのか貴様?
たとえ誘拐を成功させたとしても、父上が全力で情報を隠蔽するに決まっている」
「さあ、それはどうでしょう。
そう、例えば? 今夜お嬢さん本人や、この伯爵家の家紋が刻まれた馬車は劇場で多くの人間に見られた。一夜明け、その馬車が街のど真ん中で半壊状態で横倒しになっていて、車内には着ているドレスがズタボロのお嬢さんが、1人気絶して取り残されていたら……いかな伯爵であろうとも、この王都に住む全ての人々の口を閉ざせます?」
今やホセは殆ど馬車の傍らにまで移動しており、彼は得意げにナイフを握った手を揺らしたようだ。
「さてそこでグラシアノ様、セリアさん?
これ、な~んだ?」
ホセは丁度、ユーリとカルロスに背中を向けた場所に立っている為、彼が何を見せたのかはホセ本人の頭が邪魔で全く見えない。
セリアはホセの手元を見ても、怒りに満ちた顔に訝しげな眼差しを向けただけだったが、それを見せられた瞬間、グラは明らかに顔色を変えた。
「なっ……!?
何故、貴様がそれを持っている!?」
「さあて、どうしてでしょう?
でもこれで、理解力の低いお坊ちゃんにも分かって頂けたようですね。ぼくはその気になれば、今すぐお嬢さんを連れて逃げ出せれるんですよ?」
ホセの宣言に、グラは口惜しげに歯噛みしている。
ユーリにはさっぱり状況が見えないが、ホセには何らかの奥の手があり、いざという時にはそれを使って逃走を図れる算段がついているらしい。
しかし分からないのは、どうしてホセはその奥の手を今すぐ使ってしまわないのか、だ。
そして、仮に彼があの日ユーリを攫った黒ずくめの片方なのだとしたら……姿を見せない皺がある年配の相方の方は、いったい今どこで何をしているのか。
と、不意にセリアが金切り声の悲鳴を上げた。
「あ、ああっ、お嬢様の喉から、ち、血がっ!?」
「わたくしは大丈夫だから、落ち着きなさいセリア」
「はいはい、これ以上お嬢さんを傷付けたくなければ、もっと離れて下さいねー」
馬車に近付いた事で、ホセはこれから次の段階に入るのだろう。グラの行動を警戒してか、威嚇代わりにエストの喉元に刃先をあてがい薄皮を切ったらしい。より距離を取らせ、安全に逃走を図る気か。
だが、ホセ曰わく痺れ薬が塗られている刃物でエストは傷付けられても、何故彼女は普通に喋って動けているのだろう。
“お前の身体も動いてるだろうが。遅効性の痺れ薬だとすると、効果が長くて厄介かもしれん”
先ほどから、ユーリの視界は絶えず霞んで揺れ動いているのは、カルロスが怪我を押して無理やり動き回っているからだけではなく。もしかすると、そろそろ毒の効果が現れてきたのだろうか。
主、いけますか?
“愚問だ。ここで出来ないなんてほざく奴は、エストに触れる資格なんざねえ”
「黒砂の分際で、結局は魔法に頼るのか!」
「知らないんですか、お坊ちゃん? 浄化派はあくまで『この世界からエルフ族を排除する』目標を掲げているのであって、魔法そのものを否定している訳ではないんですよ?」
小馬鹿にしきった口調でホセはそう吐き捨て。グラとセリアには十分な距離を取らせたと判断したのか、開きっぱなしであった馬車のドアの向こうへと、エストの背中を突き飛ばそうと、片手に突き付けていた刃物を離し……
主!
“っ!”
その瞬間、じっと身を伏せ耐え忍んでいた黒ネコは屋根から飛び出した。
狙うは丁度真下に立つ、未だこちらの存在に気が付いていないホセ。
グラとセリアも、殆ど同時に駆け出してきている。人質から刃物が一時でも離れれば、ホセを排除しようとする彼らの動きは想定済みだったのだろう。
エストを馬車内に強引に押し込めて、そのまま勢いよく御者台に飛び乗るつもりなのか。
だが、彼は気が付いていない。
既に頭上から、強襲準備が整っている事に。
“俺のエストから離れろ!”
潰れてしまえ!