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調査に時間をかけ過ぎ、再び『迷子のユーリちゃん捜索隊』が結成されてしまうのは、非常に心苦しい展開である。故にユーリは、例え満足のいく成果があげられずとも、一定以上の時間が過ぎればエストの部屋に戻ろうと考えてはいる。

だがしかし……


「シーッ! お願いだから大人しくしてて、ユーリちゃん」

「……みぃ(はあ)」


どうして今現在、目的地であるパヴォド伯爵閣下の執務室から遠ざかり、イリス嬢の腕の中に抱きかかえられつつ、小雨がポツポツと降るお屋敷の裏庭に潜んでいなくてはならないのだろうか。


『閣下の執務室は多分こっちかな?』という勘を働かせて本館の廊下をウロウロしていたユーリは、探索途中で遭遇したイリス嬢に縋りつくようにギュッと抱き上げられ、そのまま使用人用の通路を通って裏庭にまで連れ出された。

エストの元に預けられてからこっち、何となく把握したメイドさん達の勤務スケジュールによると、確かイリス嬢は今夜は夜番でエストが出席する夜会に付き添った後に、寝室の隣室に朝まで控える予定だった筈だ。

今頃は休眠中だとばかり思われた彼女は、厩舎を睨み据えながら「うぅ~」と呻いている。


「……どうしよ。いや、今言うしかっ!?」


小さくぶつぶつと呟くイリス嬢は、しっとりとした雨露を纏う茂みで衣服が濡れるのも構わず、ユーリを抱きしめしゃがみ込んだまま、何かに悩んでいた。


そんな彼女の懊悩をヨソに、厩舎からは人が出てきた。雨粒の舞う曇天を見上げ、足早に駆け去ろうとする青年は……


「ああっ、ホセさん行っちゃう!?

ユーリちゃん、後でおやつあげるから、あの人の方に行って、お願い」


イリス嬢は茂みから立ち上がり、厩舎から駆けていくホセの背中をビシッと指差す。

カクッと小首を傾げてイリス嬢を見上げると、彼女は今にも泣き出しそうな悲壮な表情でユーリとホセを交互に見やる。

それより何よりユーリの目を引いたのは、イリスがホセを指し示す彼女の手首には細いチェーンのブレスレットがはまっていて……揺れるその地味なチャームは、やけに見覚えがある薄く小さな金属片。


「にゃー!?(何であなたがそれ持ってるのですかイリス嬢ー!?)」

「わわわ、シーッ」


イリスはブレスレットがはまっている方の手で、ユーリの口を軽く塞ぐ。テレポートを可能とするマジックアイテム、と思しき薄っぺらい鈍色のそれは、ただ彼女の手首で微かに揺れるのみ。

どういう経緯でなのかはさっぱり不明だが、ミチェルが作ってゴンサレスに昨日手渡した大量のテレポートアイテム(推定)のうち一つは、今日にはイリス嬢所有となっていたらしい。


ユーリが静かになったのを見て取り、イリスは焦った表情でホセの背中にバッと顔を向けた。

イリス嬢の目的はよく分からないが、小雨とはいえこんな天気の中を子ネコが駆け出すと思っているのだろうか。


「み~……(仕方がないなあ……)」


食品室で働いていないイリス嬢が、甘いお菓子を入手するのはやや難しい筈だ。お菓子に釣られた訳ではない……断じて違うが、この雨の中、若い娘さんをこのままここに放り出して行くのも気が引ける。

ユーリはイリス嬢の腕から飛び下りると、小走りなホセの足目掛けて全速力で駆け出した。


「にゃにゃ~!」


秘技・可愛く鳴きながら近付き、靴にスリスリと擦り寄って愛くるしい眼差しで見上げながら小首傾げ攻撃!

ネコ好きにしか効きませんが、ネコ愛好者でこれが通用しない者はいない、高等技だそうです。


因みに伝授者は無論、ユーリのご主人様である。この手の秘技をしもべに授けては悶えていた、愛すべきご主人様が「完璧だ!」と太鼓判を押したこの技に、ホセは……


「え、また黒ネコ?」


実に面倒くさそうに溜め息混じりに呟きつつ、ユーリの首根っこをつまみ上げた。どこぞの女装変態野郎並みに効果が期待出来そうなぐらいネコが好きではないらしいが、ひとまず一応は足止めに成功した。

しかし、今日のホセは少し様子がおかしい。昨日の彼は、ここまでユーリにぞんざいな扱いをするほど、ネコが嫌いなようには見えなかった。

むしろ、そこそこ小動物好きな印象だったのだが、昨日の今日で何があったのか。雨が降っている最中に纏わりつかれたせいだろうか?


「ほ、ホセさんっ」

「イリス!?」


背後からパシャパシャと小さな水音が聞こえてきて、ホセはユーリを無造作に捕獲したまま、ギョッとした表情を浮かべて振り向く。背後の茂みから飛び出し駆け寄ってきたイリス嬢は、声をひっくり返してややどもりながらホセに呼び掛け、ぎこちなく微笑んだ。


「君はこんな雨の中、またネコを探し回ってたのか!?」

「あ、あの、うん」

「とにかく、こっちに」


ホセが眉を吊り上げて叩き付けるように問うと、勢いに圧されたのかイリスは殆ど反射的に頷いて肯定的な態度を取る。

ユーリはまたしても口実にされてしまった訳が、恋する乙女たる者、戦いに使えるモノは何でも使って然るべきではないかと思う。雨天ランニングはもう勘弁だが。

だいぶ弱まったとはいえ、小雨はイリスの引っ詰め髪やお仕着せを濡らし、ベッタリと身体に張り付かせ容赦なく体温を奪っていく。彼女の唇は心なしか青褪め、小さく震えて。

そんな彼女の姿にホセは空いている方の手でイリスの手首を掴むと、有無を言わせずに出てきたばかりの厩舎に再び飛び込んだ。


ブルル、と嘶く馬達からは、つい昨日の朝に感じた怯えが見られない。どうやら一晩経ち、色んな人々に撫でられたり雨に濡れたりしたお陰で、シャルの気配の残り香のようなものはもうユーリの身体から薄れて消えてしまっているようだ。


「ちょっと待ってて」


馬達が入れられている馬房の前を通り過ぎ、藁が積み上げられている一角、その通路前にユーリを放り出してイリス嬢を所在無く立たせたまま、ホセは奥の物置からタオルやら毛布を引っ張り出してきた。

ホセは大判のタオルをイリスにフワリと被せ、振り返らぬままユーリがちんまりとお座りしている辺りに適当に手拭いを放って寄越した。

一瞥さえ惜しんだくせに、見事にユーリの顔面に命中して視界を遮る布切れを前足で払い落とし、腹いせに踏みつけてやりつつ、彼らの様子を観察する。

今日の彼らは、何かおかしい。


「まったく。こんな天気の日にまでイリスをネコ探しに行かせるだなんて、お嬢様もやっぱりお貴族様ってことか」


肩に掛けたタオルで自らを拭うよりも、真っ先にイリスの額や頬にほつれた髪の毛を張り付かせる水滴を大判のタオルで拭い、ホセは嘆息混じりに呟く。

勝手にエストの性格を傲慢お嬢様だと決め付けてきた彼に、ユーリが憮然としてホセのブーツに爪を立ててやる前に、イリスが慌てふためきながら「違うのっ」と否定した。


「その、お嬢様に命令されて雨の中ユーリちゃんを探し回ってた訳じゃないの!

ユーリちゃんは偶然、出くわしただけで、その……」

「じゃあ、いったいイリスは何をしてたの?

仕事をサボりたいが為に、風邪をひきたくて雨に打たれに表に出たとでも?」


ポタポタと雫を滴らせる、自らの濡れた髪の毛を片手で無造作にかき上げて後ろに撫でつけ、ホセはそのすっきりと鼻筋の通った顔立ちを露わにさせつつ、眉を軽くしかめる。

イリスはタオルを眼前でかき合わせてホセを見上げながらも、やや気まずげに視線を泳がせ蚊の鳴くような囁き声で答えた。


「……あなたに、どうしてもすぐに会いたくなって……」


タオルの隙間から覗くイリスの頬は、端から見ても分かり易いほど紅潮していた。彼女の頭に手を置いて、髪の毛をタオルで拭いてやっていたホセは驚いたように動きを止め、イリスに釣られるように目元を赤らめる。


……おや。てっきり、イリス嬢の片想いかと思っていたのですが、これはホセさんも満更ではなさそうな反応。

雨の中に表に出て来た事が不愉快そうで苛立っていたのは、イリス嬢が風邪をひいたりしては大変だ、彼女の事が心配だと。なかなか分かり易い人ですね、ホセさん。


すっかり若い2人の成り行きを見守る野次馬と化しつつ、ユーリは大人しく地面の上に落ちた布切れの上に寝転がり、邪魔にならぬようジーッと様子を窺った。

プライバシーに関わる場面なだけに、この厩舎から出て行くべきだとは思うのだが、外は雨だ。面倒臭くて出て行きたくない。

それに彼らにとってもきっと、ユーリなど馬房のお馬さん達と似たようなアニマル的立場で、背景の一部と化しているに違いない。


「あ、会いたく……って、な、何かあった?」


ホセはイリス嬢の髪の毛を拭く動作を再開しつつ、内心では微妙に平静さを欠いたのか声がひっくり返っている。


「うん。

あのね……あの、あ、あたし達が出会ってからもう二年以上経つね、ホセさん!」


イリスは自らのタオルから手を放し、パッと笑顔を浮かべながらホセを見上げ、彼が肩に掛けたタオルを掴んで「ホセさんも拭かなきゃダメじゃない」と、濡れて張り付いたシャツの上からゴシゴシとタオルを押し付ける。


「勤め始めた時には、イリスは何も出来ないお嬢ちゃまだったのに、今じゃすっかり逞しくなったね」

「……ホセさん、それ、誉め言葉じゃない」

「そう? それじゃあ訂正。『ハッとするほど綺麗になった』」


からかうような口振りから一転して、低く真剣な声音で耳元にそう囁かれて、イリスはビクッと身を強ばらせて目を見開いた。


「か、からかわないで」

「生憎と、冗談でこんな事を言い出す質じゃない」


ホセはスッと両手でイリスの頬を包み、彼女の顔を至近距離から見下ろし。


「君はもう15だ、イリス。出会った頃の小さな子供じゃないんだから、こんな風に男と2人きりになるべきじゃないな」

「ホ、ホセさんが強引にあたしをここに連れて来たんじゃない」

「そうだよ。君に下心があるんだから当然だろう?」


あっけらかんと言い放たれた台詞に、イリスは驚きのあまり言葉を失ったのかパクパクと唇を動かすも、何も答える事が出来ないようだ。

ホセは目を細め、一時的に言語機能が停止してしまった彼女の唇を指先でなぞる。


「君もぼくと同じ気持ちでいてくれると、それはぼくの勘違いじゃないよね……?」

「だ、ダメ!」


イリスは顔を真っ赤に染めてぶんぶんと首を振り、両手でホセの肩を全力で押しやって距離を取った。彼の手が、タオルから離れて戸惑ったように宙をさ迷う。


「ホ、ホセさん……あたし、あたし……あなたに、振られに来たの」

「……ぼくは、君と」


互いの間、僅かに一歩半の距離で。イリスは俯いて地面を見下ろし、ホセの言葉を遮るように、


「縁談が決まったの。

閣下が推薦して下さった方は、あたしには勿体無いぐらいの家柄で……伯爵家にあたしを送り込んだ父は、期待した以上の良縁に舞い上がってる」


噛み締めるような呟きと共に、ほたほたと地面に落ちてゆく透明な雫。

ホセはイリスの頭に再び手を伸ばしかけて、大股で足を踏み出して距離を詰め、グイッとイリスの背に腕を回して抱き締めた。

弾かれたように顔を上げ、突き放そうと振り上げた彼女の手首を掴んで押し留め、ホセはイリスの唇を塞いだ。

イリスの眦から新たな水滴が溢れて、頬を滑り落ちてゆく。


「『幸せに』なんて、ぼくには言えない」

「ホセさ……」

「もう、会わない方が良いね。きっと次は、君を攫ってしまいたくなるから」

「さよ、ならっ」


ホセの胸板を突き飛ばすようにしてイリスは抱擁から逃れ、プチッという微かな音と共に最後まで捕らわれていた手首を取り戻し、彼女はスカートの裾を翻しながら駆け出す。水気を含んで重たくなった筈のタオルだけが、勢いについていけずにイリスの頭の上から浮き上がって……雨音と馬達の嘶きが満ちるそこに、抜け殻のように儚くパサリと落ちる。


「……っ!」


ホセは一瞬前までイリスの手首を掴んでいた手をきつく握り締め、勢い良く藁に振り下ろした。


こちらの世界……少なくともバーデュロイでは、地位や身分や資産があればあるほど、恋愛結婚よりも親や一族が決めた相手と結婚するケースが多い。

恐らく、イリス嬢へは縁談が整った事は決定事項として通達されたのだろう。


ホセさんって、こう言ってはなんですが『滅茶苦茶お金持ち!』には見えませんしねぇ……


ユーリの胸に、そんな失礼な思いが過ぎった。

それを察知したのかどうかは定かではないが、ホセがゆっくりと振り返り……ユーリを睨み付けた。


「イリスを巻き込んで、お前らはこれで満足なのか。

精々せせら笑えばいい」


ギリッと歯軋りをしながら、彼は絞り出すように低く怨嗟を紡ぐ。思いがけない冷たい眼差しと声に、ユーリは気圧されてじりっと一歩後退った。


「高みの見物なら、もう用は済んだだろう! とっとと出ていけ!」


不機嫌さ全開で怒鳴りつけられ、ユーリは「ピャッ!?」と悲鳴を上げて慌てふためきながら、一目散に厩舎からの逃走を図った。

懸命に裏庭を走って使用人棟のそばまで辿り着き、後ろを確認するが誰も居ない。

幸いというのか、失恋に落ち込むホセ青年は憂さ晴らしに小動物を追い掛け回す性悪な趣味はないらしい。


それにしても、ホセに怒鳴られてユーリは殆ど反射的に厩舎を飛び出してしまったが……彼が叫んだ台詞には、何か引っ掛かりを覚える。

違和感を覚えたまま、小雨模様の裏庭を使用人棟に向かってひた走り……窓の向こうの廊下を、セリアに肩を抱かれながら横切るイリスの姿がチラリと見えた。イリスは俯きがちに両手で顔を覆っていて、セリアが話し掛けるも首を振ってばかり。


イリス嬢……泣いてましたけど、大丈夫なんでしょうか。


お勝手口の前で盛んに鳴き声を上げて中に入れてもらい、居合わせた使用人の皆様方から手拭いで拭われまくったユーリは、イリスの姿を探しに使用人棟の廊下を駆け抜ける。

セリアとイリスが通過していった廊下に立つと、僅かだが磨き抜かれたフローリングの床には水滴が点々と落ちている。この館は隅々まで掃除が行き届いており、子ネコ姿で床との距離が近かったこれまでも、彼女は快適に過ごす事が出来た。

それにもかかわらず、今ユーリの目の前に足跡よろしく移動した痕跡があるのならばきっと、セリアに連れられて行ったイリス嬢は濡れた靴は履き替えたが、着替えまでは勝手口ではままならず、長いスカートの裾からポタポタと雫が零れて落ちたのだろう。


ユーリは目を皿のようにして廊下を濡らす水滴の跡を追い、とある部屋の前にまで到着した。イリスかセリアの私室だろうか。

ドアの前でしばしにゃーにゃーと鳴いて訴えかけてみると、期待通りにそれは開かれて、廊下でちょこなんとお座りしているユーリを見下ろしてセリアが目を丸くした。


「えっ、ユーリちゃんどうしてここに? またお散歩してたのかしら」


お勝手口で大分拭ってはもらったが、まだやや湿り気を帯びたままのユーリの身体を抱き上げて、セリアは室内へと戻った。

その部屋は狭く、チェストとベッドが置いてあるだけで他に家具らしい家具は無いのに、それだけでやや手狭な感覚を覚える。しかし、壁紙は柔らかなクリーム色に小花柄が散った可愛らしい雰囲気で、窓に掛けられたレースが細かい手の込んだカーテンや、ピンク色を基調とした様々な柄物の生地で縫われたパッチワークのベッドカバーなど、心地良く過ごせるように工夫を凝らした部屋だ。


そんなベッドの上に膝を立てて座り、頭からシーツを被ったイリスが膝頭に顔を伏せるようにして俯いていた。

セリアは彼女の傍らに横座りし、ベッド脇にユーリを下ろすと、同僚の頭をシーツの上から撫でる。


「……何でかなぁ……ずっとずっと、あたしの一方的な片想いだと、思ってたのに……」

「イリス……」


俯いたまま、ポツリとイリスは零す。泣き濡れた、掠れた声で。


「ホセさんはずっと、あたしの事なんか子供扱いで……諦めなきゃって、頑張って決めたばっかりなのに。気持ち、隠すの上手すぎだよ」


イリスは頬を濡らしながらシーツを跳ねのけ、傍らのセリアに抱き付いた。


「どうしてこうなっちゃうの!

どうしてぇ!?」

「イリス……厳しい事を言うわ。それは、あなたの不明よ」


しがみついてきた少女をぎゅっと抱き締めながら、セリアはしばらくイリスの悲痛な叫びを聞いていたが、意を決したように唇を噛み締めてから、目を閉じたまま低く囁く。彼女の言葉に、イリスはビクリと背中を震わせる。


「わたしがパヴォド伯爵家にお勤めを始めたのは、家族の糊口を凌ぐ為。だけどイリスは、あなたのお父上が行儀見習いに来させたのは、いったい何の為?」

「……ご領主様ご一家に、父の伝手以上のより良い縁談を纏めてもらう為……」

「そうよ。だからあなたは、他の誰かに心を奪われてはいけなかった。

もし、どうしてもホセさんへの想いが断ち切れないのなら、もっと早くに行動を起こして、自分で閣下やレディ・フィデリア、お父上に働きかけ認められなくてはならなかったのよ」


イリスはセリアの肩に頬を乗せたまま、ポロポロと涙を零す。


「何もせずただ安穏と過ごしていたって、主張しなくては受け入れられたりはしないわ。

自分の手で、掴み取らなくちゃ」

「あたし、バカだから機会をフイにしちゃった……

父が大喜びで受けた縁談から逃げたりしたら、閣下の顔に泥を塗っちゃう」

「そんな事になったらイリスのお父上は……ううん、イリスの親類は皆、パヴォド伯爵領だけじゃなくパヴォド伯爵家寄りの貴族が治める土地に暮らせなくなるわね」


当然のように嘆息するセリアに、ユーリはベッドの上で丸まったまま耳をピクリと動かした。

身分社会の歴然とした権力の差は、未だに実感として思考が追い付かないが……ご領主様が推薦し家長が了承し纏めてくれた結婚から逃げるという事は、当人同士だけでなく周囲の人間にも多大な迷惑をかけるのだろう。


「イリス、今夜の勤めは休みなさい」

「セリア?」

「そんな顔と心情で、エストお嬢様の前に出る事は許容できないわ」


セリアは最後に強くイリスを抱き締めて、彼女の背中をポンポンと軽く叩くと、ユーリを抱き上げて立ち上がった。そして同僚に背中を向けたまま、


「わたし達がお仕えするエストお嬢様に、私事で余計なご心配をかけるなんてもっての外よ。

お嬢様には上手く言っておくから、一晩で気持ちの整理をなさい」

「……」


ベッドの上からは、戸惑ったような沈黙だけが返ってくる。


「わたし達の役割は、エストお嬢様が心穏やかにお過ごし頂けるよう、細心する事。

勤め上げるその日まで、あなたはパヴォド伯爵令嬢エステファニア様の専属メイドでしょう。自分の仕事に誇りを持ちなさい」

「……頑張る。あたしは、閣下やエストお嬢様の信頼に応えたい」


まだ、鼻を啜る音はしているが、イリスは震える声でそう答えた。

セリアは振り向かないまま頷いて、その部屋を後にした。

そのまま早歩きでカツカツと廊下を進み……突如壁に向かってしゃがみ込んだ。


「う~っ、どうしよう、イリス泣いてたよぅ!」


小声で叫ぶという器用な真似をしつつ、壁に頭をガンゴンとぶつけるセリア。


「み、みーっ!?(ちょっ、何やってるんですかセリアさん!?)」

「もっとイリスの心を軽くしてあげる言葉を言えなかったのか、わたしっ」

「み~(ぐぇぇぇぇ~)」


慌ててたしたしとセリアの肩を叩いて止めに入ると、全力で抱き締められたのだった。


ちょっ……私、ゴンサレスさんを探りに……いや、他にまた何かを忘れて、る……


逃れようにもガッチリと容赦なく締め付けられ、ユーリは意識が朦朧としていくのを感じながら、ぐてっと脱力した。



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