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「どういたしましたの、ユーリちゃん? なんだか元気が無いようですわ」


エストの私室。そのソファーに陣取り、黙りこくって延々と考え事をしていたユーリは、不意に背後から抱き上げられた。

耳に心地良い声音と柔らかな布地の感触。さり気なく甘い香りを漂わせる、彼女の主人の想い人、エストがユーリを撫でる手付きは今日も優しい。


昨日、ブラウの後をつけて行き、ある仮説が浮かび上がったばかりのユーリは、どうやってゴンサレスの尻尾を掴もうか……もしくは疑惑を晴らそうか、ひたすらに頭を悩ませていた。

部屋をつまみ出されてから、出来る限りゴンサレスの部屋付近にて彼の動向を窺ってはみたが、勤務時間交代で部屋に帰ってきた使用人の皆様方に、ユーリが撫で回されるだけに終わってしまった。


あのホセとかいう馬丁さん、お仕事を終えると速攻で公衆浴場に向かってから部屋に帰っているだなんて、やはりイリス嬢を意識して……いやいや、今はそういうラブ脳になってる場合じゃなく!


使用人棟の廊下をうろついていたユーリを、やっぱり物珍しそうに撫でてから階段を上っていった知った顔の内情について、そっち方面の推理に向かいかけた頭の中を、無理やり方向修正する。

『もしかしてゴンサレスが鼠さんかも疑惑』を主人に報告したところ、カルロスからのお返事は微妙な反応であった。


“状況から疑わしくは思えるが、仮にそうだとすると疑問点が多すぎる”


標的を見誤り、手遅れになる事を懸念するカルロスは慎重にそう答え、ユーリに『ゴンサレスに張り付け』とは命じようとしない。

確かに、彼が鼠さんなのだとすれば、ルティ姿のブラウやミチェルとの関わりが今一つ分からない。何より、聞き耳を立てる事はあっさり許したくせに、わざわざ彼女をミチェルから引き離すように部屋から追い出した、その意味も目的もよく分からない。

分からない事だらけだ。


そんな現状においてユーリがこうしてエストの私室に引き籠もっているのは、本日彼女を訪ねてくる人物の噂を、メイドさん達のお喋りから小耳に挟んだからだ。

今日、エストが出掛けずに屋敷にてお茶を共にする相手。

それは、将来的にはエストを側妃に迎える事を前向きに望んでいるという、ここ、バーデュロイ国唯一の王子にして王太子、レオカディオ王太子殿下。


「やはり、カルロスやシャルが恋しいのかしら」


内心、しっかり敵のツラを拝んでやろうとヤル気満々で鼻息も荒く戦いへの決意を固めるユーリ。相手が王子様だろうが次期国王様だろうが、エストを渡す事は出来ない。

エストはユーリを腕に抱いたまま、窓辺に歩み寄った。

本日、王都のお天気は生憎の雨模様。

見下ろせば、サァァァァと、降り注ぐ雨音だけが奏でるかすかな音色の他は、まるで花々でさえ眠りについたかのように静けさを保つ中庭。

薄暗い部屋の片隅に静かに控えているのは、エスト付きのメイドの中でも最も物静かな年嵩のメイド、ラウラ。

彼女は主人の意を汲み、先んじて用向きをこなす優秀なメイドであるが、主人であるエストと雑談に興じるような趣味は無いらしい。


「にゃ~」


あまりにも静か過ぎる室内の空気に堪えかね、多分可愛いんじゃないかと思われる鳴き声を上げながら、ユーリはエストの胸元に擦り寄った。

誰もネコ姿の彼女の言葉を理解出来ない、沈黙だけが停滞するこの部屋の中では『ユーリさん、何かわいこぶりっこしているんですか』と、ツッコミを入れてくれる人さえ居ない。


「わたくしもよ」


特に何らかの意味を込めて声を発した訳ではないのだが、エストは小さな声でそう呟き、ユーリの背中に頬を寄せる。

と、ラウラが何かに気が付いたようにドアを開けてお隣の応接間に姿を消し、しばらく経ってから再び戻ってきた。


「お嬢様、グラシアノ様がお越しになられました」

「お兄様が? こちらへお通ししてちょうだい」

「……かしこまりました」


ラウラの言葉に顔を上げたエストは、コクリと頷いてそう命じ、ラウラはしばし沈黙してから、了承して踵を返した。

エストの私室でも、こちらの部屋は彼女の寝室であり、たとえ兄妹といえども未婚のレディが男性を招き入れるのは、メイドとして躊躇われたのだろう。


そういえば私、エストお嬢様のご兄弟はぐらぐら様しかよくは存じ上げませんが、エストお嬢様とぐらぐら様ってそもそも、仲が良いんでしょうか。険悪ではなさそうですけど。


一人っ子であるユーリは、兄妹の距離感というものが今一つ分からない。

ドアを開かれ、部屋に通されたグラを出迎えたエストは、ユーリを腕に抱いたまま軽くお辞儀。出迎えの為に兄へと足を向けたエストに、グラは片手を軽く上げて制し足早に窓辺へと歩み寄った。


「グラシアノお兄様、今日はお出掛けにはなりませんの?」

「私の事より、お前の方が今の時期は大事だろう。母上に付き添って頂かなくても良いのか?」

「人目を気にせず気軽に語り合いたいと、レオカディオ殿下たってのご希望ですので」

「殿下か……」


グラはラウラが退室していったドアをチラリと見やってから、雨音に包まれ薄くボンヤリと世界の輪郭を曖昧に鈍らせる窓辺に立った。窓枠に軽く腰を下ろし、そうしてようやく同じぐらいの視点となる、傍らに静かに佇む妹を見つめた。


「エスト。私はね、お前に幸せになってもらいたいよ」

「お兄様?」


黒ネコはあまり好きではなさそうであったのに、グラはユーリを抱いたままのエストにふわりと両腕を伸ばして、抱き寄せた。数歩たたらを踏むようにして兄の腕の中に収まり、エストはグラの肩に頬を寄せた。

それは構わないのだが、グラがエストをギュッと抱き締めてくれると、抱えられているユーリが兄妹の胸の間で圧迫され、実に狭苦しい。マジで息苦しい。

だが、ここで抗議の声を上げてエストの腕からだけでなく、グラに部屋からまで追い出されては、敵のツラを拝めなくなる。非常に辛いが、忍耐の時だ。


「私が父上の後継ぎでは頼りないと、そう思われているのは知っている」

「そんな事はありませんわ。グラシアノお兄様は、立派に期待以上の働きをしておいでです」

「ありがとう。そう出来ているとすれば、それはお前のお陰だエスト。

昔はよく、どうしてお前が跡取り息子に産まれなかったのかと、羨ましくも思ったものだが」


グッと、更に強くエストを抱き寄せたのか、益々ユーリは抱擁を交わす両者の間で潰され、とにかく忙しない呼吸を確実に行う事だけに懸命になる。


「今はお前が妹で良かったと、そんな気持ちで胸がいっぱいだ」


ユーリは迫り来る圧迫感で、胸というか肺腑がいっぱいだ。


「ふふ、お兄様ったら。まるでわたくしが、今すぐお嫁にいってしまうような言い種」

「それに近いものがあるじゃないか。

同伴者もなく、2人きりでレオカディオ殿下と対面しようなど……」

「あの方はただ、年上のわたくしに憧れておいでなだけ。

姉のように、母のように、ありもしない幻想をわたくしに重ねて見ておいでなの。王族という枷に捕らわれたあの方が、ただの『レオカディオ』でいられると錯覚なさっているのよ」

「殿下のそんな我が儘に、お前が付き合う義理などないだろう」

「いいえ。殿下はわたくしの前であろうと、片時も王族の枷から脱け出せれない。ならばわたくしは、あの方にお仕えする臣下であらねばなりませんわ。

たとえわたくし自身に爵位や役職が無かろうと、この身は王の盾であり矛。殿下が見据える未来の礎に……」


唐突に、エストの台詞が途切れた。

薄暗い室内にはただ、カルロスが贈ったエストの為の甘い果実の香りと、雨の匂いが微かに混じり合って漂う。

しばしの沈黙の後、兄妹の抱擁による圧迫感が緩やかに取り払われ、ユーリはようやく満足に呼吸が出来るようになって、やれやれと上を見上げた。

予想していたよりもずっと仲良しだったらしいグラとエストは、互いの顔を至近距離から見つめ合い、何となく寂しげな表情を浮かべている。


「私はお前を心から愛しているよ、エスト。

お前が本心から望まぬ男の下へ嫁ぐなど、たとえ父上が許しても私が許さない。

エスト、お前は幸せにならなくては駄目だ。その為ならば私は、なんだって出来るよ」

「……お兄様」


グラは左手を伸ばし、鮮やかに波打つエストの金髪を軽くかきあげて彼女の耳にかけさせると、露わになった額にそっと唇を寄せた。


「わたくしはね、お兄様。今、雨宿りをしているの」

「うん?」

「雨足が強くても、泥だらけの道を駆ける事はわたくしにだって出来るわ。

けれど、そうする事でドレスが汚れて洗濯に困ってしまう人、わたくしが熱を出したら心配する人、道を見失って迷い込んだわたくしを探し出さなくてはならなくなる人がいる事を、わたくしは知っているの。だから、雨の中には出ていかない」

「それでも、雨で増水した濁流に呑まれて彼が溺れそうになっていたら」


うわー、ぐらぐら様、ピンポイントに私の嫌な記憶を呼び覚まして下さいますね……あれ、マジで怖い体験なのですが。


この兄妹の会話は今一つ意味が分からんと、半ば投げやりに聞き流していたユーリは、グラのたとえ話に微妙に遠い眼差しを一旦窓の向こうへと向けてから、改めてエストを見上げた。


「その時は泳ぐのに向かないドレスを脱ぎ捨てて、わたくしは川に飛び込みますわ」


にこっと笑顔で即答するご令嬢。

エストは水泳が得意なのだろうか。あまり想像がつかないのだが。

妹の返答に、グラは小さく溜め息を一つ。


「……そんな時は私が救出に向かうから、お前は無闇に飛び込まないように」

「頼りにしておりますわ、グラシアノお兄様」


エストは兄の胸板を軽く押して腕の中から解放されると、晴れやかに笑った。

そして、窓枠に区切り取られた灰色に煙る街並みを見やる。


「雨は、いずれ止む。

その時には思う場所まで駈けて行けるよう、足を休めている事だ」

「ええ」


同じように並んで窓の向こうを見透かし、ふ、と小さく笑みを零すグラは何を思っているのだろう。

ただ雨が奏でる静かなメロディーに耳を傾ける兄妹。

やがてコンコン、と部屋のドアから小さくノックの音が響いた。

エストが入室を促すと、無表情を保ったラウラが現れ、用件を告げた。


「お嬢様、ただ今宮殿から使者が参りました。

本日殿下の予定に急遽変更があり、訪問は延期されるとのことです」


ラウラから差し出された手紙と一輪の花。エストはそれを受け取ろうと手を伸ばすので、ユーリは仕方なく床に降り立って……しばし悩んでから、グラが腰掛けたままの窓枠に飛び乗った。邪険に振り払われるとまでは思っていなかったが、傍らにお座りするユーリの頭を何気なく撫でてくるグラは、とてつもなく予想外だ。


そんなユーリの内心はさておき、エストは手紙の封を開き、パラリと便箋を広げる。

薄い上質の紙を使ってあっても、裏側からでは手紙の内容は読めない。気になる。


「殿下は本当にお忙しくしていらっしゃるのね。

でもこれは……お兄様、王太后様のお誕生日祝典の警備体制把握だなんて、これはグラシアノお兄様の所属する隊が受け持っていらっしゃったはずでは……?」

「それはそうだが、私自身は招待客であって警備には参加しないからな」


便箋で口元を隠しつつ小さく笑うエストから不自然に視線を逸らし、グラはユーリの頭をがしがしと乱暴に撫でながらそう嘯いた。


「お仕事に穴を空けてしまうのは、感心しませんわ」

「今日はたまたま休みだっただけで、明日は出仕だ。誰にも文句は言わせん」


うん。よくは分かりませんが、もしかするとぐらぐら様がお仕事をボイコットしたお陰で巡り巡ってしわ寄せにレオカディオ様という王子様のお仕事が増えて、彼はここに来れなくなったと?

いやあ、まさかね。『剣振るってる方が性に合う』とか仰るぐらぐら様が、そんな悪辣な奸計を張り巡らす訳が……いや、この方は仮にもあの閣下の息子だけれども。

ふふ……あのサンドイッチ地獄を頑張って耐え抜き、さあ噂の王子様を拝もうとヤル気に満ちていたというのに。まさかの先方キャンセルとな。


結局レオカディオ殿下ってどんな方なのだろうかという疑問と、グラは重度のシスコンでエストと2人きりだと、とても饒舌に喋る人だったらしいという事実を再確認した時間であった。


「ただ、今年の来賓は南国や西国からもいらっしゃるからな……ゴンサレスの言う通り、いずれ、他国の王女殿下をご正妃にお選びになられる殿下も、知っておくべき事だろう」


レオカディオ殿下からのお詫びのお花、可憐な薄桃色の花びらが幾重にも重なる艶やかなそれを、手ずから一輪挿しに生けるエストの背中を眺めやり、グラはポツリと零す。

殿下の来訪予定に横槍を入れるなど、腹芸が下手そうなグラらしくないと訝しく思っていたが、怪しいゴンサレス氏もこの件に一枚噛んでいるらしい。


ううん……あの人、いったい何を考えているんだろう。


どうやらこのままここに居ても、噂の王子様の顔は見られないらしい。

ユーリは意を決して、まだ撫でてくるグラの手から逃れ、窓枠から飛び下りるとドアへとテケテケと向かう。肉球でバシバシとそれを叩き、「なう~」と意思表示をしてみる。


「あら、お散歩に行きたいのかしら」


一輪挿しをチェストの上にコトリと置き、エストはドアを薄く開いてユーリの背を撫で下ろした。


「ユーリちゃん、あまり遅くならないうちに、お部屋に帰って来てちょうだいね?」

「みぃ~(は~い)」

「行ってらっしゃい」


微笑みながら見送るエストの姿に、続きの間で待機していたラウラは無言でスッと廊下に繋がるドアを開け、ユーリの進路を促す。本当に、よく出来たメイドさんだ。

チラリと背後を振り返ると、目が合ったエストはふわりと微笑み、小さく手を振ってくる。


「エスト」

「はい、お兄様」


私室の奥で寛いでいるグラから声を掛けられて、エストはおっとりと姿勢を正した。

穏やかに笑うエストの姿が、パタムという小さな物音と共に、閉じられてゆくドアの向こうに消えた。


あんな風に笑いながら語らう時間を、主とも過ごして頂けるよう、頑張りたいものです。

今日はこれから……ひとまず、ゴンサレス氏の様子を探ってみますか。


パヴォド伯爵邸の本館、その豪奢な廊下に立ったユーリは、周囲を見渡して『うむ』と大きく頷いた。


で。肝心のゴンサレス氏は、普段はいったいこの広いお屋敷のどこに居るんでしょう?


このままじっとしていても始まらない。ぽてぽてと、一階の玄関ホールに向けて歩き出した。

今までのゴンサレス氏との遭遇事項を思い返してみる。

初めて見掛けた時には、エストのお供をしていた。そして夕方に帰宅の挨拶の時にも彼女の部屋に居た。

二回目に見掛けた際には、グラに何やら情報提供をしていた。いざとなれば出征する決意を明かす長男の姿が、気のせいか嬉しそうだった。


三回目は……預けられていたユーリを迎えに来たカルロス、シャルと屋敷を出る所を見られていた。ネコ姿ではなく人間の姿だったが、恐らくこの時点で既に同一存在だと見破られていたと考える方が無難だ。

そう、そしてゴンサレス氏からは何故か睨まれた。誰が睨まれていたのか、それとも単に虫の居所が悪かっただけなのかは不明。


それで、先日は閣下が呼んでいるから来いって、裏庭にまで主を呼びに来てせき立てて行って……昨日は、多分自室で何か書き物をしていた。

うん。ゴンサレスさん、あなた本当に、要するにどこでどんな仕事してるんですか!


玄関ホールまであと少し、な廊下でピタッと足を止め、ユーリは内心で標的の神出鬼没さに叫び声を上げた。


主! 今日は私、ゴンサレスさんの一日を密着したいと思うのですが、あの人、基本どこに居るものなんですか!?


階下の玄関が広々と見渡せる二階エントランス、その螺旋状に配置された階段の赤絨毯の上で、おもむろに主人に向けてテレパシーを送ると、しばしの沈黙の後にお返事が返ってきた。


“結局、ユーリはゴンサレスさんを見張りたいのか? 仮にあの人が鼠だったりしたら、パヴォド伯爵領は今頃とんでもない事になってそうなもんだが……

んー、一言で言うとゴンサレスさんは屋敷の管理責任者だ。必要とあらばあちこちに出向くし、一番出没する可能性が高いのは”


高いのは?


“閣下の斜め後ろ”


サラリと告げられたカルロスからのお答えに、ユーリは危うく螺旋階段を転げ落ちるところであった。


“基本、あの人は閣下の側近くに仕えてる事が多いらからな”


ええと、つまり閣下の秘書みたいなものなのでしょうか?


“それを、より滅私奉公にした感じか?”


主人の言わんとするところは恐らく『ゴンサレス氏は多忙な人』なのだろう。

彼の職務は屋敷の管理という事は、この屋敷でパーティーを開く事にでもなれば、それこそ朝から晩まで飛び回っていそうだ。来賓が訪れるだけでも、関係者との打ち合わせや……


ああ、うん。

殿下のお忍び来訪予定も、ゴンサレス氏には早くから話が通っていた可能性が高い訳ですね。


事前に周囲へ働きかけて、訪問予定を潰す事も可能だったのだろうか。だが、いったい何の為に?

クルリと階段の前でターンし、ユーリはテケテケと長い廊下を歩き出した。この小さな身体では、屋敷内を移動するだけでも一苦労だ。


“……殿下の来訪予定?”


ああ、はい。今日、エストお嬢様にお会いしたかったみたいですけど、レオカディオ殿下の方でお仕事の都合がつかなくなって、来訪キャンセルされました。

王子様に会ってみたかったのに、少し残念です。


“……そうか”


ユーリのあっけらかんとした報告に、主人からのお返事は、何と答えれば良いのか迷っているような曖昧さだった。エストと殿下が親しくなって欲しくない、会って欲しくないと、カルロスがそんな利己的な心情を漏らしたとしても、ユーリは主人に呆れたり落胆したりしないというのに。


レディ・フィデリアに連れて行かれた事があるので、伯爵閣下の寝室の場所は知っているが、肝心の執務室の場所までは知らない。本館の造りからして伯爵閣下の執務室は多分こっちだろう、と、ユーリが当たりをつけただいたいの場所に向かって地道に歩く。

窓の外は本降りから小雨に変わってきており、そのうち上がるだろう。


相変わらず、何でもかんでも明け透けに語ってはくれない主人がテレパス回線を切らない内にと、ユーリは話題を変更する事にした。


それで主、そちらはどうですか? 何か変わった事とかありました?


“変わった事、ねえ……

そうだな。この件で時間が掛かりそうだから、こっちは今朝から家に荷物を取りに戻ってる。

特に、シャルの狩ってきたワシシの肉な。いくら地下室で冷やして保管してあるっつっても、夏場だし、傷むからな。明日そっちへ、お裾分けにでもしに行こうかと……変な笑い方するなシャル!”


どうやらカルロスは現在、シャルと一旦森の家に戻っているらしい。

恐らくこの雨で、出立の足止めを食っているのだろう。


ああ、噂の地下室。そう言えば私、結局地下室に行った事がない……どころか、入り口の場所さえ知らないです。


ワシシの解体や保管作業には、確かカルロスは関わっていなかった筈だ。そして、シャルは調香部屋の香料保管室には足を踏み入る事が出来ない。

だから少なくとも、入り口はあの香料棚が立ち並ぶ変な臭い漂う部屋にのみ存在する、という事は無いと思われるのだが、よくよく考えると具体的な場所の説明を受けていない。


“ん? ユーリ、地下室を見てみたいのか?

生皮を剥ぎ取った魔物の生肉やら何やらが、天井からカーテンよろしくズラーッとぶら下げられた、冷気と死臭が漂う漆黒の世界を?”


イヤですよ怖いですよ! 何でそんな言い方するんですか、主!?


うっかり頭の中でホラーちっくな地下世界を想像してしまい、ユーリはブルブルと震え上がった。


“ハハハハ。まあそんな訳で、別にお前には用無しだろ。

香料棚はユーリ、地下室はシャルで分担しとけば”


はあ……それで結局地下室の入り口って、ドコにあるんでしょう?


“裏庭の風呂場の裏手。表玄関から見て、右手から回ると井戸や勝手口、左手に向かうと地下室に下りる階段の入り口がある”


ざっと簡単に説明してくれたが、わざわざ建物の外から回り込むのならば、間違って迷い込む心配も少なそうだ。

と、そう考えたユーリは、記憶の片隅で何かが引っ掛りを覚えた。


“ん、どうしたシャル。

……地下室に保管しておいた筈の、とっておきが今日見たら無い? オマケに、いつ無くなったのかも分からん?

俺は知らんぞ。こまめに帳面につけておかんから、地下室に何仕舞ったか忘れて行方不明になるんだろうが……”


どうやら、カルロスは向こうでシャルに呼ばれてしまったらしい。

途中からシャルとの会話にカルロスの思考が流れていき、そのままフェードアウトしていくようにテレパス回線がふっつりと途切れてしまった。


多忙さでなら、うちの主も負けていないような。

それにしても……私、何かを忘れているような気がします。

何かを、見落としているような……?


何だろうと、見上げる窓ガラスに当たる霧雨のような水滴は、ただ下方へ向けて滑り落ちてゆく。



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