にゃんこ探偵ユーリ~敢為たる調査~
私の名はユーリ。
魔法使いカルロス様の、第二のしもべとしてクォン契約を結んだ者だ。既に知っての通り、普段は黒い毛並みの子ネコの姿に擬態している。
そんな私は今……
「ブヒヒ~ン!?」
「ブルルルッ!」
「ヒヒーンッ!」
「ど、どうしたんだお前達!?
落ち着け、どうどう」
厩舎のお馬さん達を脅かして悦に入っている。
……と、言うのは冗談で。
ええ。シャルさんが念入りに施して下さった、例の『お守り』なんですがね。
どうやらあれが、一晩経ってからも充分効果を発揮しているようで、私がパヴォド伯爵家のお屋敷の片隅にある厩舎に足を踏み入れるなり、お馬さん達が大騒ぎし始めまして。
「水か飼い葉に何か混じっていたのか!?」
「蹄鉄は確認したのか!?」
「そこ、不用意に近寄るな! 蹴り上げられるぞ!」
まさか、厩舎に軽い足取りでテコテコと近寄ってきた子ネコが原因だとは、馬丁さん達も全く思いもしないのだろう。騒然とした空気にいたたまれず、ユーリはコソコソと厩舎を後にした。
うう……故郷では見る機会が少ない本物のお馬さんを、じっくりと間近で見てみたかっただけなのですが。
馬のいななきが聞こえなくなるまで離れ、ユーリはガックリと肩を落とした。シャルはいつもこんな思いをしているのか、大変だな……と、同僚の日常を垣間見る思いである。
パヴォド伯爵家に、鼠特定の為に滞在する事となったユーリであるが、調査は早速暗礁に乗り上げていた。
そもそも『素知らぬ顔で潜り込んでいる間諜』とやらはどうやって、普通の使用人とは異なるぞと見分けるべしというのだろう。やはり、パヴォド伯爵は遂行不可能な難題をカルロスにふっかけて、嫌味ったらしく願いを断ったのだろうか。
厩舎から離れた裏庭の木陰で立ち止まり、ユーリは溜め息を漏らす。
ピチチチ……と、軽やかに囀る小鳥でさえ今のユーリを避けるように、バサバサと目の前を飛び立ち嫌味な程に晴れ渡った頭上の蒼穹に弧を描く。
以前、セリアと……ついでにブラウの野郎も……一緒にお茶を飲んだその木陰は、手透きの使用人達の密かな憩いの場にもなっているらしく、今日もそこには誰かが涼んでいた。
彼は、こっそり小鳥に餌でもやっていたのだろうか。片手にパンの欠片を握ったまま、突如として飛び立った鳥を訝しむように頭上を見上げる。
汚れた服や、靴底にこびり付いた飼い葉混じりの泥からして、彼も馬丁さんだろうか。何となくその横顔にはユーリも見覚えがある。確か、所領からここ王都の道のりをゆく馬車に伯爵家ご一家を乗せ、若いながらも安定した手綱さばきで御者として勤めをこなしていた人だ。
膝の上に何かの本を広げていて、傍らには勉強用なのか携帯用のインク壷と羽ペンが置かれていた。ユーリがジッと見つめていると、彼はふと観察される気配を感じたのか頭上からこちらに顔を向けた。
「……なんだ、ネコかあ」
そして彼女の姿を確認するなり、拍子抜けしたように呟きパンの欠片をしまい込むと、手元の本に目を向ける。
何を読んでいるのだろうかと、ユーリが好奇心から近寄って表紙を覗き込んでみようと一歩踏み出したところで、背後から軽やかな声で彼女の名を呼ぶのが聞こえてきた。
「ユーリちゃん、ユーリちゃん、どこ行ったの~?
出てらっしゃい」
少女の呼び声に、ユーリは渋々顔だけ振り返って「にゃおん」と返事を返した。
使用人居住棟、その厨房の勝手口のドアが開いて、メイドのお仕着せを纏った少女が飛び出してくる。
結い上げた髪の毛はところどころほつれて零れ、夏の日差しに輝く濃い栗色。そばかすの浮かんだ顔立ちはいつも生き生きとした、まだあどけなく可愛らしい少女メイド。
彼女の名はイリス、エスト付きのかしましいメイドさんである。
「こんなところに居たのね、ユーリちゃん!」
やれやれ、と、ユーリは肩を竦め、逃がしてなるものかとばかりに両手を伸ばして彼女を抱き上げてくるイリスの腕の中に大人しく収まった。
ユーリはまだ調査の真っ最中である。たとえ、その内容がまだ『手掛かりの手掛かりを探す』段階で無作為に邸内をうろついているだけだろうと、地道に仕事に励んでいる。
それを、すぐに迷子になる目が離せない子扱いされるのは不本意であるが、エストやレディ・フィデリアはたいそう心配してしまうので、ユーリもそうそう長い事『行方不明』にはなっていられない。
そもそも、イリスの本来の仕事にはユーリの捜索など含まれていないのだから、こうして彼女が『迷いネコ探し』に乗り出している時点で、彼女らメイドに余計な仕事を増やしてしまっている訳で。
うーん……やっぱり、皆寝静まった夜に、コッソリ探るべきなのでしょうか?
「その子、迷子だったの?」
「というか……すぐお嬢様のお部屋から逃げちゃうの。人懐っこい子なんだけど、冒険心に溢れてるらしくて」
「お嬢様のネコ?
……ああ、そう言えば、抱いて馬車に乗ってるのを見たような。いや、あれは森の家で……?」
「ね、ね、ホセさん、何読んでるの?」
ホセ、と呼ばれた馬丁さんらしき青年は、何かを思い出すように傾げていた顔をイリスに向けた。薄い緑色の瞳がやんわりと和らぐ。
どうやら、イリスとホセはそこそこ親しい知人らしい。
イリス嬢よ、仕事は良いのか? と、内心でツッコんでいるユーリを腕に抱いたまま、彼女はホセの手にした書物を覗き込んだ。
「読める?」
「えーっと……え、えいせ……掃除……?」
「ねえイリス。連盟の読み書き講習会って、まともに指導してはくれないの?」
ホセの何気ない問いに、ユーリは思わず遠い目をした。
魔術師連盟の奉仕義務とやらには、本当に様々な仕事が含まれているらしい。スポンサーであるパヴォド伯爵閣下の愛娘たるエストお嬢様付きメイドともなれば、教養も身に着けるよう言われるのだろう。
「そんな事ないよ?
まあ、やる気が薄い子にはなおざりだけど、セリアなんて共通語や国語だけじゃなくて、講師の人に勧められて外国の言葉も習ったらしいし」
「つまり、イリスのやる気の問題なんだね?」
「うっ……? 日常会話ぐらいなら読み書き出来るから、困らない!」
「君はお嬢様付きのメイドだろうに。
多分、もっと読みにくい飾り文字で非日常的美辞麗句を書き連ねた手紙が、これからわんさか届くよ?」
「そういうのは、セリアに読んでもらうから良いわ。あたしの仕事は、お嬢様の身の回りのお世話だもん」
ホセが読んでいた本は……どうやら、馬の飼育に関する書物らしい。衛生面を考え、厩舎の中を掃除するなどといった、ごく基礎的な点が記載されたページが開いて見せられている。
そう言えばヘラクレスは、三十年も掃除してない家畜小屋を一日で綺麗にしろとか、無理難題を言われて完遂したんでしたっけ。
私も、無理やり屁理屈かつ強引力技で、何とかこの難題を乗り切れませんかねぇ……
その悩みはともかくとして、このホセという人はよっぽど勤勉な人なのか、彼も読み書きの勉強中なのかなぁ……と、考えているユーリをヨソに、どうやらイリスはようやく仕事に戻る決意を固めたらしい。
「またね、ホセさん」
「習い事もしっかりやるんだよ」
ホセに軽くお辞儀をして身を翻したイリスは、駆け足で裏庭を横切り……一度クルリと振り返って、知人の様子を確かめる。ユーリが居なくなった事で安心したのか舞い戻ってきた小鳥を指先に止め、ホセは立ち去るイリスの背中を見つめていたらしい。
目が合った2人は、もう一度別れの挨拶をするように軽く手を振る。
そして母屋に向かって今度こそ駆け出したイリスは、ユーリを眼前に持ち上げてはにかんだ。
「ふふっ、ホセさんとお話ししちゃった。今日は良い日ね!」
メイドのイリス嬢は馬丁のホセさんに仄かに憧れ中、と……ああ、鼠さんとは無関係そうな屋敷内の人間関係情報ばかりが浮き彫りになっていきます。
ユーリがイリスに連れて行かれた先は、母屋の中でも日当たりの良く明るい室内、エストの私室に隣接した応接間だった。
イリスが入室するなり、掛けていたソファから立ち上がったレディ・フィデリアは、ユーリを見つけ出してきたイリスに丁寧にお礼を言い、ユーリを抱き取った。
「まあまあユーリちゃん、またお散歩に行っていたのね。
でも、まだ小さなあなたが1人でお散歩に行くのは少し早いわ。お母様と一緒にいましょうね」
ええっと、レディ・フィデリア。ツッコミ所が多すぎて、私はまずどこからツッコむべきなのか……うん、きっとアルバレス侯爵の居城で迷子になったと、装ったのが尾を引いているのでしょうけども。
相変わらずおっとりとした喋り方をする垂れ目の貴婦人は、ユーリの背を撫でながら再びソファに腰を下ろした。
現在このエストの応接間において、彼女のドレスを新調するべく、王都でも腕利きの服飾店から人を招いたレディ・フィデリア。
室内では常より多くの人々が忙しく立ち働いており、部屋の主であるエストはというと、室内中央で服を着せられたり布をあてがわれたりと、大騒ぎの中心に佇んでいた。
因みに、一番騒がしいのはお針子さんではなくエストのメイドであるセリアだ。彼女はどうやら、ドレスのデザイナーと喧々囂々と意見を戦わせているらしい。
「今年の流行に合わせると、やはり型はこのように……」
「流行に合わせる? いいえ、そんな生ぬるい事を!
よろしいですか、エストお嬢様こそが最高の美、バーデュロイ随一の華!
即ち、エストお嬢様こそが伝説、お嬢様が身に着けていらっしゃる物こそか、このバーデュロイにおける今年の夏の流行となるのです!」
「セリア、わたくしは重過ぎず身体を締め付け過ぎず、動きやすいデザインのドレスなら、流行になんて拘りませんわ」
「妥協はいけませんお嬢様、美への道は長く険しいのです!」
「美しさも二の次で……は、いけないのね。ええ」
……彼女にとって、敬愛するお嬢様を美しく飾り立てる事は人生命題に等しいのかもしれない。
大貴族の姫君に相応しく、社交シーズンに合わせて城を出立した際には、エストの為に大量のドレスを持ち出してきたセリアである。
だが社交の場において、裕福な貴族の矜持にかけて、貴婦人というものは一度袖を通したドレスは二度と着ていかない、というのが常識……らしい。
非常に勿体無い話だが、貴族は対面を非常に重んじる階級の人々なので、貴婦人たるエストもまた、低く見られない為に毎日のようにドレスを新調する必要がある、ので、今日のこの騒ぎなのだ。
バーデュロイにおいて、社交シーズンは経済を活発化すると言うが、こうした貴族達の浪費が、間違い無く服飾関係の職種に就く人々の懐を大いに潤しているに違いない。
「ねえ、ユーリちゃん。
毎日違うドレスを用意するだなんて、とても非効率的だと思いませんこと?」
「にゃ~(思います、レディ・フィデリア)」
「不思議な事にね、自分が着て行ったドレスのデザインは覚えていないのに、よその夫人のドレスはよく覚えていますのよ」
「に、にぃ(それはまた、局地的な記憶力ですね)」
娘達の賑やかな様子を、おほほほほ……と楽しげに眺めつつ、レディ・フィデリアはユーリを膝の上に乗せて、秘密を打ち明けるかのようにそっと囁く。
「ですからきっと、手直しをしようとしているあのドレスの事も、皆様は思い出して下さいますわ。
例え今風に作り直しても、生地も糸も、同じ物を大切に使って貰っておりますもの。
あのドレスはもう三年も、一度も袖を通さないまま新しい型に手直ししているけれど……今年こそ、エストちゃんの晴れ姿として飾れたら素敵だわ」
レディ・フィデリアはその時の愛娘の美しく着飾った姿を脳裏に思い描いているのか、うっとりとした表情でほう、と溜め息を漏らした。
どうやら今エストが着ているドレスは、仮縫いが終わって合わせている段階らしい。
なるほど、生地はまるで宝石のようにキラキラと美しく光を弾く輝きと、いかにも滑らかで手触りの良さそうな高級感に溢れている。落ち着いた色合いの白いドレスは、エストの真珠のような透明感ある肌をより美しく映えさせ、彼女によく似合う。
あんなに綺麗なドレスなのに、何年も仕立て直すだけでエストお嬢様はお召しにならなかったのですか。あのドレスを着て行くに相応しい場面が無かったのですかね?
白いドレスに関しては一応の決着を見たのか、エストは次なるドレスの試着に入るらしい。ユーリは慌てて両目を閉じた。
「ユーリちゃん、眠たいのならお休みなさいな」
目を伏せたのは決して、疲れて眠くなった訳ではないのだが、しかしながら背中を撫でてくれるレディ・フィデリアの手つきがとても心地良く、ユーリの意識は次第にウトウトと微睡みの縁に落ちてゆく。
今日は朝、早起きしましたし……ちょっとばかり休憩しましょうか……
暑すぎず、寒くもなく。
丁度過ごしやすい気温と、チクチクと突き刺さってこない、寝心地の良いベッド。
極楽気分で微睡んでいたユーリは、ふと、誰かの話し声を耳に捉えた。
「……て。だから、ね?」
「……でも、本当に大丈夫?」
一瞬、ユーリの本能が危険警告を飛ばしてきた。寝ぼけた頭では、何が何だかよく分からないが、今、確かに何かが危ないと、ユーリの眠りを妨げたのだ。
まだフラつく頭を持ち上げ、寝ぼけ眼で自らの状況を確認しようと周囲を見回し。
「あらあら、早く決断なさらないから、ユーリちゃんが起きてしまったようですわ」
ユーリが寝そべっていたのはベッドではなく柔らかい布地の上で、それはいったい何だろうかと思えば、どうやらレディ・フィデリアではなく、今度はエストのお膝の上でのうたた寝状態に移行していたらしい。頭上からお嬢様の穏やかな声が降ってくる。
「あああ……
いえ、でも人懐っこいユーリちゃんなら! ほらルティ、今よ」
「そ、そうね!」
脇からセリアの声がして、彼女が聞き捨てならない人物の名を呼んだ。そしてやはり、それに応える某人物の裏声……
ユーリは大急ぎで四肢を伸ばして立ち上がり、その勢いで接近してくる人物を睨み上げた。
こちらに向かって腕を伸ばしてきていた、今日も今日とてルティ姿のブラウは、ユーリの素早い反応に虚を突かれたかのように、ビクリと腕を震わせて動きを止める。
おのれ、また来たのかモノクル野郎!
オマケに今日は、女装してエストお嬢様により近付こうって魂胆か!?
ユーリが一方的にライバル視している問題のブラウは、「フシャーッ!!」という威嚇の鳴き声と毛を逆立て警戒心むき出しの姿に、硬直している。
そんな友人を庇おうとしてか、セリアはユーリの視界からブラウを隠すようにさり気なく入り込んだ。
「どうなさいましたの、ユーリちゃん?
何も怖い事などありませんわ」
自らの膝の上で不機嫌にブラウに向かって威嚇するユーリの頭や背中を宥めるように撫で、エストが困惑したように話し掛けてくる。
いったいいつの間に、エストのドレス新調打ち合わせは終わったのだろう。レディ・フィデリアや服飾店にお勤めの人々の姿は既に無く、エストの応接間に居るのは部屋の主人である彼女と、エストのお付きのメイドであるセリアとイリス、そして何しにやって来たのか不明なブラウだけだ。
テラスの出入り口に立っていたイリスは、エストやブラウの意識がユーリに向かっている間にも、黙々と配膳用のワゴンから軽食やらカップやらを配置し、テーブルの上にお茶会の用意を素早く整え、セリアに合図を出した。
「お嬢様」
「ええ。さあルティ様、お茶をご一緒いたしましょう?」
エストは腰掛けていたソファの上にユーリを下ろし、ブラウを促してテラスに出されているティーテーブルに着いた。
相変わらずブラウは板についた女装っぷりで、淑女としての振る舞いには微塵のブレも無い……かと思いきや、彼はひたすらユーリの方に一心に視線を向けており、気もそぞろな様子である。
その目つきは明らかに、いつぞや向けられた不愉快そうな蔑む眼差しと寸分違わぬ例のアレなのだが。
んだぁ? やる気か、オラ?
ユーリも応戦するべく、テラスのイスに腰を下ろしているブラウに向かって、ガン飛ばしと威嚇攻撃の手を緩めない。
「……本当に。ユーリちゃんはとても人懐っこい子ですのに、ルティ様のお話の通りなのですわね」
「ええ。カル先輩のように、原因がハッキリしているのなら、改善の余地もあるのですが……」
エストが目を丸くしつつ、今ひとつ話の見えない言葉をブラウに掛け、彼は溜め息混じりにユーリから視線を逸らし、やや肩を落としながらティーカップを傾けた。
何だろう、こちらにも関係する話題なのだろうか? と、ユーリもソファから降り立ち、トテトテとティーテーブルに近寄ると、再び向けられるブラウの嫌な笑みと眼差し。警戒態勢のまま、彼を大きく迂回するような経路を辿って、ユーリはエストの傍らに控えていたセリアの足元にお座りした。
セリアの靴を軽くポムポムと叩き、「なぅ~」と抱っこをねだると、意志が通じたのか彼女に抱き上げられた。
「……セリア、もしかして何かコツでもあるのかしら?」
「え? ううん、特には何も……ユーリちゃんは、会ったその日からこんな風よ?」
ブラウは友人の答えを聞き、ティーテーブルに突っ伏した。
「何故……?
いったい、あたしの何がいけないと言うのーっ!?」
ユーリの目にはこれも新手の策略だろうかと、警戒心がもたげてくる寸劇でしかないのだが、そのあまりにも憐れみを誘う姿に、同席していたエストはイスから立ち上がり、ブラウの傍らに屈み込むと、彼の肩にそっとその手を置いた。
エストもまた、ルティと名乗る連盟の女性魔術師が実は男で、あのナジュドラーダのブラウリオ公子だ、という事実に気が付いていないのだろうか。彼女もルティ姿のブラウの事は、淑女として対応しているように見受けられる。
「ルティ様、嘆かれるのはいささか早計だと思われますわ。
まだあなたとユーリちゃんは、知り合う事さえ始めてはいないではありませんか。自己紹介もしない、見ず知らずの方からじっと見詰められては、ユーリちゃんが怯えてしまうのも無理はないのではないかしら?」
「エステファニア様……
そう、そうですわよね! あたしとしたことが、気が逸るあまりに冷静さを欠いておりました。
まずは自己紹介、これですね!」
エストの穏やかで温かい励ましの言葉に心を打たれたのか、ブラウは伏せていた顔を上げ、潤んだ眼差しでこっくりと頷く。
どうでも良いが、セリアの傍らで同じように控えているイリスがボソッと漏らした、
「自己紹介したかしてないかが、そんなに重要なのかなぁ……むしろあの目つきが問題だと思うんだ」
という一言が気になる。
彼らはいったい何を話し合っているというのだろう。
セリアの腕の中でカクッと小首を傾げるユーリの正面に、おもむろに立ちはだかったブラウ。例の人を苛立たせる蔑むような表情に応戦して威嚇を返すも、奴は何かを決心したのかグイッと顔を近付けてくる。
「は、初めまして、ユーリちゃん。あたしはルティよ、仲良くしてね」
「シャーッ!」
ブラウは腰を屈めてユーリにズイッと顔を近付け、握手でも求めるかのように片手を差し出してきたので、遠慮なく爪で引っ掻いた。
「う、うう……人懐っこいって、噂の子なのに……」
「諦めないで、ルティ!
きっとユーリちゃんも心を開いてくれるわ!」
「そうですわ。優しく慈愛を込めて微笑みかけ、話し掛けますの。
ユーリちゃんの好物をあげてみる、というのはどうかしら?」
「ユーリちゃんの好物って何ですか?」
ブラウを左右から励まし合う主従の姿に、セリアの腕の中から飛び降りたユーリは首を傾げた。
いったいあの女装男の狙いはいったい何なのだ。先ほどからのやり取りではまるで、『ルティは子ネコと仲良くしたい』大作戦の決行中のようではないか。
お座りしたまま傍らのイリスを見上げると、彼女は慎ましく身体の前で利き手を下にして手を重ね、お声が掛かるまで控えてます姿勢をキープしている。
「だからアレ、絶対ルティ様のネコを目にした時の表情と、発する気配の問題よね……」
えええぇぇ……マジであの気取ったモノクル野郎、ネコ好きなんですかぁ?
ウッソだ~。好きなモノを目にした時に、あんな気分悪いカオする人がいてたまりますか、イリス嬢や。
従兄弟はイヌ好きであるし、きっとブラウもどちらかというとイヌ好きだろう……と、呑気に構えるユーリの眼前に、またしてもブラウがにじり寄ってくる。しかも、恐ろしい事に床に這いつくばって、だ。
有り得ない。あの、自分大好きナルシストが。醜いモノは見たくもない、美しいモノなら認めてやろう的台詞を平気でかます気取り屋が。
「びにゃっ!?」
「ふ、ふふ……ほぉら、ユーリちゃんの大好きなクッキーですよぉぉ」
じり……と後退ると、凄んでいるんだか笑っているんだか、今一つ分からない強張った表情を貼り付けたブラウも、指先にクッキーの欠片を摘まんでユーリに向かって差し出すようにしつつ、同じように膝を進める。つかず離れず、その距離は広がりもしなければ狭まりもしない。
マズイ。
何がなんだかどうしてこうなったのかはよく分からないが、逃げだそうと後ろを向いた瞬間にきっとヤツに猛禽のような獰猛さで捕らえられ、地獄の如き苦しみが待ち受けている。引きつった表情を浮かべたブラウの顔など見ていたくもないが、僅かでも視線を逸らしたら、互いの出方を窺うこの膠着状態の均衡が崩れ落ちてしまう、そんな気がする。
頭の中では激しい警鐘を打ち鳴らしている。だが、この状況はどうすれば逃げ出せるというのか。
逃走の気配を察知したのか、ブラウは機を制するように口を開く。
「怖くないでちゅよー、ユーリちゃん。どうちたんでちゅかー?」
「ぎにゃーっ!?(むしろお前がどうしたぁぁぁぁっ!?)」
意味の分からない緊張感に耐えきれなくなったユーリの叫びと、ネコパンチ連打がブラウの顔面に直撃した。